2021年教会修養会 音声有 「『自分』とは何でしょう?自分の『居場所』の探究」

イベントの詳細

  • 日曜日 | 2021年9月19日 〜 月曜日 | 2021年9月20日
  • 10:45 AM
  • 海浜幕張めぐみ教会の会堂

9月19-20日(日・祝)は教会の修養会の日でした。

現代社会の著しい変化の一つは、聖書的アイデンティティーと相反する人間、個人中心的アイデンティティ(LGBT他を含む)創造の流れです。クリスチャンとして現代をどう歩むかを考える時間を持ちました。

・ テーマ 「『自分』とは何でしょう?自分の『居場所』の探究」

3回に分けての説教・メッセージがありました。

・ 講師  マーク・ボカネグラ牧師

・ 場所  会堂(ライブ配信あり)

 

① 19日10:45-12:00 礼拝説教 「『自分』とは何でしょう?自分の『居場所』の探究現代社会が持っている嘆きと希望」

 

② 19日13:30-16:00 メッセージと話し合い (③の原稿は下に掲載されています。)

「聖書はどのようにすべての人を受け入れるか」

聖書箇所:ローマ人への手紙6章5-11節

前回のメッセージで紹介したように、今年の修養会のテーマは「『自分』とは何なのか:自分たちの「居場所」の探求」です。そして、最初のメッセージで取り上げたのは、「現代社会が持っている嘆きと希望」でした。現代社会が求めているのは、同性愛者に限らず、どんな人種であっても、どんな思想であっても、①すべての人の「アイデンティティ」を受け入れ、②すべての人のために「居場所」を作ることです。そして、神様と聖書は同じことを求めておられます。しかし、どのように「すべての人」を受け入れるか、そして、どのように「すべての人」のために「居場所」を作るかは、現代社会とは全く違います。

前回のメッセージを聞いた後で、いろんな疑問や質問を持たれたかと思います。今回と次回のメッセージは、皆さんが持っている疑問や質問に具体的に答えたいと思っています。そして、このメッセージの後でも質疑応答の時間と小グル―プでの分かち合いの時間を持ちたいと思っていますので、もしメッセージ中に疑問か質問があれば、どうぞメモしておいてください。そして、その時に、ぜひ分かち合ってください。

さて、次のメッセージは現代社会と教会がどのように「すべての人を受け入れる」か、を一緒に見ていきたいと思います。このメッセージはこの議論の「土台」になるような内容でもありますし、誤解しやすい内容でもあります。また、非常にセンシティブな内容でもあります。ですから、この複雑な内容をいかに簡潔に、明確に、そして、愛をもって説明したら良いかと非常に悩みました。そして、私が至った結論は、講義か説教のようなメッセージよりも、「対話」のようなメッセージにしたほうがいいかなと思いました。なので、今回のメッセージは、ノンクリスチャンの同性愛者で、同性愛者の相手もいて、LGBTQ+コミュニティーに深く関わっている友人(Aさん)との対話です。大きく言いますと、この対話の中に三つの質問があります。①すべての人間としての「尊厳」はどこから来るのか?②すべての人間の「究極」のアイデンティティとは何なのか?③すべての人間に必要な「アイデンティティ」とは何なのか?そして、この対話を通して、聖書がどのように『自分』を定義しているか、そして、現代社会はどう定義しているかを、理解し感じ取っていただけたらいいなと思います。

 

I.すべての人間としての「尊厳」はどこから?(創造論)

Aさん:「マークに聞きたいんですが、クリスチャンとして聖書には同性愛を否定する話はいろいろあると思いますが、聖書では同性愛者を「一人の人」としてどのように見ているかを知りたいんです。全ての人が平等であり、差別を受けることなく、同じ尊厳、価値、自由、権利を持っているのかを聖書が教えているかどうかを教えてくれませんか?『世界人権宣言』(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html)にはこう書いてあります。

  • 1条: すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、 尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
  • 2条: すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地(もんち)その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、 この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有(きょうゆう)することができる。

これは世界的に受け入れられている「世界人権宣言」ですが、クリスチャンは、同性愛者も「人間」であるのに、聖書をもって「人」としての尊厳、価値、自由と権利を否定しているように聞こえるんですこの事について、マークはどう思いますか?」

 

マーク:それについて答える前に、まず、歴史から見ても教会とクリスチャンたちが、人から「人間」の尊厳、価値、自由、と権利を奪ってしまったことや、人を「差別」してしまったことを認めます。全く否定できません。私は教会とクリスチャンの過去の罪を正当化したくありません。むしろ、悔い改めるべきだと思います。そのことを、まず覚えてほしいと思います。

そして、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、 尊厳と権利とについて平等である」(世界人権宣言1条)という発想は、クリスチャンとして持つべき信念でもあり、むしろ、「人権」という発想は聖書という土台に基づいていると思います。聖書の教えをまとめると、(WSC問10)「神は、人を知識と義と聖において御自身のかたちに従い、全被造物を治める権をもつものとして、男と女に創造された」のです。つまり、すべての人間が自由、尊厳、権利を持っているという理由は、神様が①他の生き物と違って、御自分の形によって男女を特別に造られ、②人間に「知識と義と聖」を行える理性、能力、良心を与えられ、③この世界を有効に治める権威と責任を委ねられたからなのです。そして、この聖書の教えを踏まえると、全ての人間は、神様の似姿であり、自由、尊厳、権利について平等であると、クリスチャンはそのように結論づけます。ですから、「自分」というのは、人種、皮膚の色、性、言語、宗教などに関わらず、「神様の似姿に造られた尊い存在」であると言えるのです。

しかし、Aさんに考えていただきたいのは、聖書を信じないで神様の存在も否定する立場として、「すべての人間は平等であり、尊い存在だ」という根拠はどこにあるのかと言うことです。今までの歴史とあらゆる文化を全体的に見ると―「すべての人間は尊厳と権利について平等である」という発想はかなり新しい発想でもあり、世界史を見ると、世界中の文化の中では、非常に「稀」な考え方であるとも言えます。例えば、古代ギリシャの奴隷制度、ヨーロッパとアメリカの奴隷制度、江戸時代の「士農工商」や「えた・ひにん」の部落問題、ヒンドゥー教の厳しい身分制度、中国や中東の差別問題など。ですから、歴史と今の世界のあらゆる文化を見ると、世界の歴史と多様性は人権の根拠になるのは難しいと思います。そして、科学的に考えれば、「人権」に根拠があるかどうかもわからないし、「人間の生命の尊厳」も物理的に証明もできません。科学をもって、人権は「進化」の過程の中の一つの結果として言えますし、あらゆる基準で統計的に人間の平等性を証明できるかもしれませんが、「世界人権宣言」を全ての人に適応できる根拠、「人間の尊厳」の根拠になれるかどうかは、様々な理由で難しいと考えられます。しかし、私が一番言いたいのは、世界人権宣言の「すべての人間は尊厳と権利について平等である」という考えは、すべての人が受け入れている客観的な事実ではないと言うことです。もし人間の尊厳を守り、人権を客観的な事実として扱う、揺るがない、世界史、科学、社会学、統計よりもいい土台が探しているなら、聖書の「人間の定義」のほうがいいではないか、と私は個人的に考えます。

ケーススタディとしてぜひ考えて見てください。聖書の「人間の定義」の土台から見れば、男性だけではなく、女性も神様の似姿に造られた尊い人間です。そして、社会人として働く「普通の大人」だけではなく、赤ん坊もお年寄りも、身体的または精神的障害を持っている人たち、重い病気を持っている人たち、すべての人にこの世界を治める権威と特権が与えられているのです。全世界で尊敬される先進国の人たちだけではなく、発展途上国、奇妙で独特な文化、圧制されている民族、敵視されている政府から来る人たちも、神様の御前では、理性、能力、良心が与えられている特別で、尊厳と価値のある存在なのです。そして、さらに言いますと、人を傷つけるような難しい性格、または独特な個性を持っている人たち、重い中毒を抱えていたり、あらゆる欲に執着している人たち、いろんな形で家族、友人、職場の関係を壊す人たち、刑務所にいる犯罪者、人種差別をしてしまう人たち、弱者を圧制するような悪者でさえも「神様の似姿に造られた人間」であり、人間としての「尊厳、価値、自由、権利」を奪ってはいけません。他の基準であれば、差別する理由を作ることはできるかもしれませんが、聖書の定義であれば、すごく難しいかなと思います。

ですから、クリスチャンは、「同性愛」は聖書では許されていないと主張すると同時に、「同性愛者」も神様の似姿に造られた尊い存在であり、異性愛者も同性愛者も、尊厳と権利に関しては平等であると主張することはできるのです。

 

  1. すべての人間の「究極」のアイデンティティとは?(罪論)

Aさん:なるほど。もう一点質問したいことがあります。わたしは生まれた時から異性に引かれたことがなく、同性に対してしか心引かれる事がありませんでした。。私は「普通の異性愛者」になりたいと思っても、そうなれませんでした。自分でこの「性的指向」を選んだわけではありません。もし、私が自分の同性のパートナーと手をつないで教会に行ったら、おそらく多くのクリスチャンは私たちをすぐに批判して見下し、私たちを「汚れた」存在として見ると思います。しかし、もし他の罪人が教会に来たら、そのようには接しないと思います。

結婚前に性的関係を持った人、同棲しているカップル、シングルマザーかファザー、不倫によって家族崩壊した人、性的な中毒を持っている人、または、水商売に関わっているような人たちが教会に来たとすれば、クリスチャンはどのように彼らに接するでしょうか?そのような人たちは自ら選んで罪を犯したのにもかかわらず、教会は彼らを、愛をもって受け入れるでしょうし、その罪をあえて指摘しないでしょう。しかし、自分で選んだわけでもなく、また、自分では変える事ができない「性的指向」に沿って歩む人に関しては、教会は「汚れた存在」として見るのです。教会は一貫性をもって罪を見てないと感じます。私は、ただただ自分らしく歩みたいだけなのに、ただただ自分が愛している人を愛したいだけなのに、そんな私たちが、自分で家族を壊してまでも、不倫するような人たち以上に罪深いとは、理解できません。自分が選んでいないものが罪になるのでしょうか?そして、「同性愛」が他の「罪」とどう違うのでしょうか?

 

マーク: これも本当に重要な質問で、人間の「罪深い」部分の本質的な部分を指摘するような質問だと思います。ですから、まず「罪」というのは何なのか?そして、私たちはどのように「罪人」になったのかを理解しないと、答えられないかもしれません。

聖書で言う「罪」というのは単なる「行為」あるいは「アクション」ではありません。「罪」というのは、「自分像」の本質に関わる、変える事のできない「アイデンティティ」でもあるのです。人間は「神の似姿に造られた」アダムの子孫で、尊い「アイデンティティ」をアダムから引き継いだと、聖書には書かれています。しかし、残念なことに、アダムが罪を犯し、堕落したことによって、すべての人間は「罪人」となり、アダムと同じように「永遠の刑罰」に値する「アイデンティティ」も引き継がされました。ローマ5:12「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった。」つまり、人間である「自分」というのは、人種、皮膚の色、性別、言語、宗教、性的指向などに関わらず、生まれた時から「神様の似姿に造られた罪人」なのです。そして、「罪人」としてのアイデンティティから来る、私たちの思い、望み、言葉、行いはすべて汚れていて、「永遠の死」に値する罪なのです。

マルコ 7:20-23  イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色)、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

つまり、Aさんが言った、「『普通の異性愛者』になりたいと思っても、そうなれませんでした」という考えはすべての罪人にあるのです。性欲以外に、同性愛者も含めすべての人は、心の中に、どれほど頑張っても変えられない、様々な汚れた思いが心の中にあります。そして、「義人になりたいと思っても、そうなれない」と言うことは、聖書からみると、クリスチャンも含め、すべての人について言えるのです。要するに、すべての人は生まれた時から罪深い心を持っていると同時に、すべての人は自ら「罪」を選んでいるのです。

ある意味、これが現代社会の「自分像」と、聖書の「自分像」の境界線でもあります。現代社会の「自分像」は、「自分」というのは一番純粋でピュアな、尊い、良い部分とも言えます。ですから、現代社会は人間の「性的指向」は「罪」から来るものではなく、「ピュア」なところから来ていると考えます。しかし、先ほど引用したイエス様のことばから見ると、聖書における「自分像」とは逆の考え方なのです。人間は生まれた時から「自分」の「すべての機能と部分において全的に汚れたものとなった」(ウエストミンスター信仰告白6.2)ということなのです。つまり、異性愛者でも同性愛者でも、私たちの生まれつきの「性格」、「傾向」、「性的指向」から来るすべての「欲」、そして、そこから来る「行い」は、罪によって汚れていると聖書は見るのです。

しかし、聖書の「罪」の定義とは、そもそも何でしょうか?単なるルールを破ることではありません。「罪」というのは、ただただ周りの人に害を与える、あるいは、迷惑をかける、ということではありません。そして、逆を言いますと、聖書が言う「義」というのは、ただただ神様、そして、人を一般的に愛することでもありません。具体的に言いますと、「罪」というのは、最も愛すべき存在を他のものと取り替え、自分の愛に値しないものを愛してしまうと言う「曲がった」愛のことです。つまり、罪は「自分が神か人を愛さない」ということだけではなく、自分の愛の「対象」が不適切あるいはふさわしくないときが「罪」なのです。例えば、「姦淫」あるいは、同性愛も含めたすべての「性的な罪」は、愛すべき「結婚相手」を取り替え、「他人」を愛してしまう「罪」とも言えます。「盗む」という罪は、愛すべき「隣人の益」と取り替え、「お金」を愛してしまう「罪」とも言えます。「殺人」という罪は、愛すべき「人間のいのち」と取り替え、「自分の益」を愛してしまう「罪」とも言えます。そして、心の中にそのような「曲がった愛」が存在する時点で、あなたは罪人なのです。「心の中に怒ったら、あなたは人を殺すことになる。心の中に情欲を抱いたなら、あなたはもう姦淫している」とイエス様がおっしゃったのです。ですから、もしそうであれば、「心の曲がった罪人」がすべての人間の根本的な、変えられないアイデンティティなのです。

ですから、Aさんが言うように、教会、あるいは、クリスチャンは他の罪人、そして、同性愛者を見下したり、裁いたりする権利は全くないのです。なぜなら、クリスチャンも同性愛者も、どちらも「神様を愛さず、モノを神のように愛する曲がった罪人」だからです。一貫性を持たないで人を裁く人たちに対して、聖書は、そのような人たちは「自分は神様のさばきから何等かの形で免れられると考えており、神様の慈しみ深さを軽んじている」と注意しています(ローマ2:1-5)。しかし同時に、すべての人は罪人なのだから、罪を犯してもいいということではありません。神様の御前では、どのような罪でも、どれほど曲がった愛でも、その行為は永久処罰に値するもので、自分は救いようのない者であるということを認めなければなりません。

 

III. すべての人間が求める「アイデンティティ」とは?(救済論・義認論)

Aさん:そうなんですね。まあ、聖書に何が書いてあるかよく知りませんが、全ての人の中に「罪」または「悪」があって、自分の力でそれを取り除くことができないということは認めます。でも、「すべての人は罪人だ!」って言うのはすごく否定的だし、ネガティブだし、聞きたくないし、誰の助けにもならないんじゃないですか。マークは知ってるかもしれないけど、男性の同性愛者は異性愛者の自殺未遂率よりも約6倍高いんです。学校でいじめられ、家族にも受け入られず、仕事場では「変わり者」として扱われ、政府にも認められる事のなかったコミュニティーだから、「もう生きる意味がない」と考えてしまう同性愛者はたくさんいるんですよ。そんな悩みを抱えている人たちが、教会とクリスチャンたちから「すべての人は罪人だ!」って言われたら、どう思いますか?

結婚の定義や、生理的な性別や性的指向の定義の議論を別にして、わたしたちはただ自分らしく誇りをもって、前向きに生きたいだけなんです。常に人として否定され、見下されて認められてこなかったから、ただただ「私という自分」を受け入れてほしいし、「自分」を肯定し、「人」として愛してほしいだけなんです。だから、人のマイナス部分だけを指摘するんじゃなくて、人のありのままの「アイデンティティ」を肯定して、受け入れてくれればいいじゃないですか?イエス様と聖書の神様は「愛」を主張しているのに、何で教会とクリスチャンはいつも否定的なのですか?

 

マーク: 実は、Aさんが求めていること、つまり、「自分が認められること」というのは、教会も、また、すべての人も全く同じことを求めています。

そして、面白いことに、どれほど自分を肯定しても、自分を愛しても、自分を認めても、やはり人間というのは、社会的な存在なので、自分が誰かに認められたいという思いがあります。どれほど現代社会が「自己肯定感を持ちなさい!」と言ったとしても、現代社会が最も求めていることは、「周りの人から認められる」ということなのです。家族、学校でのクラスメートや先生、職場の人たち、または自分が置かれているコミュニティー、ネットで自分のことを見ている他の人たち、そして、社会や政府にも認められたいのです。それは悪いことではありませんし、むしろ、素晴らしいことであり、それこそ神様の似姿に造られた人間として、生まれもった変えることの出来ない「望み」なのです。「自分を認めてくれる居場所」を求めることは人間の本質とも言えるのです。

しかし、「どのように」認められるかと言うことについての考え方は、聖書と現代社会では大きく違います。大きく言いますと、三つの考え方があります。一つ目は、「認められた存在になるために、自分を変えること」です。これは一番自然で、よくある考え方でもあり、理にかなっている考え方でもあります。一流の学校や企業で認められるために、家族や好きな人に認められるために、周りの人や社会に認められるために、神様に認められるために、自分を磨く必要がある、という考え方です。つまり、「神様」や「周りの人」が認めてくれるのにふさわしい存在になるために努力することです。

しかし、この考え方には大きな問題があります。私たちは「神様」や「周りの人」の基準を満たすことはできませんし、本当の意味で、認められることもできません。仮にその基準を一時的に満たすことが出来たとしても、それを維持して常に基準を満たすことはできません。「人気者」になっても、常に「人気者」でいられる人はいませんし、「エース」になっても、いつか誰かに乗り越えられるでしょう。ある場面で「いい人」になれても、すべての場面において常に「義人」になれる人もいません。私たちは聖書的に言うなら、弱くて限界のある罪深い存在なのです。そして、私たちは常に誰かに愛されて認めてもらえるような「自分の居場所」も見つけることができないのです。同性愛者が抱えている葛藤は、そういうことなのかなと思います。自分を変えようとしても、基準を満たすこともできず、頑張っても誰にも認められず、疲れとフラストレーションしか残らない。絶望しか感じれない状況かもしれません。そんな中で、自分が認められない理由を指摘されるのが嫌になってしまったり、少しでも肯定的なことを求めたがると言うのはなおさらなことだと思います。

その結果として、神様や周りの人に認められるために、現代社会が考えたのが二つ目の考え方です。「基準(あるいはルール・秩序)自体をなくして、「ありのままの自分」を相手に認めさせる」ということです。つまり「自分は自分だから、変えられないものは変えない。だから、ありのままの自分を受け入れてほしい」ということが、現代社会の主な流れだと思います。そして、その流れの延長線上にある基準の一つとして、「性」に関する古い基準をなくし、多様な「性的指向」を受け入る新しい考え方」に置き換え、「ありのままの自分」が認められ、愛される居場所を作るという流れです。

しかし、皮肉なことに、決して変わることのない二つの問題があります。ある「基準」をなくそうとするとき、本質的にみると、それは、ただ「古い基準」と「新しい基準」を置き換えるだけの事にしかなりません。以前の基準とは「周りの人」であり、「宗教」であるという目に見えるものだったかもしれませんが、今は、それが「ありのままの自分」という目に見えない基準になったのです。

つまり、「基準」を変えることができても、「基準」自体から逃がれることはできないと言う問題です。そして、もう一つの問題は、例え「基準」を新しいものに置き換える事ができたとしても、「基準」を満たすことができない「自分」という問題は変わらないと言うことです。どんなにポジティブに考えても、どんなに肯定的に考えても、「ありのままの自分の無力さ」と言う現実に戻ることになるのです。この「無力さ」の意味は聖書が言う「人間の罪深さ」の事なのです。

例えば、この社会が、すべての「性的指向」を受け入れられるようになったとしても、「神様」や「周りの人」があなたのすべてを認めて愛してくれると思いますか?それが根本的な解決になるでしょうか?本当に現実を正直に見るなら、「ありのままの自分」にはまだまだ弱い部分、嫌な部分、汚れている部分、罪深い部分が残っていますし、自分を認め、愛してくれる「存在」や「居場所」があるかどうかもわからないことに気づくでしょう。つまり、人間は抜け出せないジレンマの中にいるのです。「自分は基準によっては認めてもらえないから、基準をなくそうと考えるけど、一つの基準をなくそうとしても、また、他の基準(結婚、社会的地位など)によって認められたいと考えてしまう。」という悪循環のようなことです。

そのジレンマに対して、聖書は第三の道を提供しています。そして、それは、どんな社会、文化、宗教、哲学、価値観にもない、「自分が認められる」という方法です。それは、「基準を満たすことができない「古い自分」を、基準を満たした「新しい自分」に置き換えることによって、あなたが神様と周りの人に認められる」という素晴らしい約束なのです。

そのようなことが、どうしたらできるのでしょうか?それは第三者に、あなたの「基準を満たすことも出来ないし、認められることもない」というアイデンティティを自分のものにしてもらい、第三者の「基準を満たし、神様と周りの人に認められている」というアイデンティティをあなたのものにすることなのです。そして、この第三者とは、イエス様のことです。つまり、イエス様があなたの「認められない」古い自分を引き受けてくださり、あなたに「神様に認められた」新しいアイデンティティを与えてくださると言うことなのです。そして、それは結果的に、一つ目の考え方である、自分が認められるために、自分を変える必要もなく、二つ目の考え方である、相手に自分を認めさせるために基準をなくす必要もなく、ただ、イエス様の完璧なアイデンティティによって、自分が受け入れられるということです。

先ほど読んだローマ6:5-11に、それが具体的説明されています。その約束は、要するに、私たちは、自分が「罪人」である限り神様の基準も、「周りの人」の基準も満たすことができないので、私たちは神様と周りの人に認められず、裁かれるべき存在なのですが、イエス様を信じることによって、「古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる」(6:6)というのです。つまり、イエス様が十字架に掛けられた理由は、イエス様が裁かれ、否定されるべき存在だったからではなく、イエス様が裁かれるべきであった私たちの「ありのままの古い自分」をご自分のものにしてくださったからです。ですから、イエス様を信じることによって自分の古いアイデンティティ、つまり、罪人であること、自分では基準を満たすことができないこと、誰にも認められることのない者であるという「自分」がなくなるのです。

そして、それだけではありません。イエス様は完璧な人間です。すべての基準を満たし、罪を犯さなかった人間でした。その完璧なアイデンティティを、イエス様を信じる者に一方的に与えてくださったので、私たちはその新しい「完璧な自分」によって古い自分を置き換えることができるのです。そして、神様も、教会も、そのアイデンティティを通して、クリスチャン一人一人を認め、愛し、受け入れるのです。どんな人種でも、どんな文化でも、どのような罪の傾向があるとしても、どれほど罪深い歴史があったとしても、そして、どれほど無力な人間であっても、その「古い自分」はイエス様の完璧なアイデンティティによって置き換えられるのです。その結果として、教会はイエス様にあって全ての人を受け入れることができるのです。

率直に言いますが、現代社会にはそのような「居場所」はありません。現代社会には、そのように「すべての人」が受け入れられる仕組みや、姿勢などはありません。なぜなら、完璧なアイデンティティを一方的に与えてくださるイエス様のような存在がいないからです。Aさんが聖書の教えを信じるかどうかはわかりませんが、現代社会における発想の限界と、聖書が約束している「居場所」がどれほどユニークなものであるかを覚えていただきたいと思います。

 

③ 20日 9:30-12:00 メッセージと話し合い

「教会はどのようにすべての人のための『居場所』になれるのか」

聖書箇所:エペソ人への手紙4章16節

 

今年の修養会のテーマは「『自分』とは何なのか:自分たちの「居場所」の探求」です。そして、最初のメッセージで取り上げたのは、「現代社会が持っている嘆きと希望」でした。現代社会が求めているのは、同性愛者に限らず、どんな人種であっても、どんな思想であっても、①すべての人の「アイデンティティ」を受け入れ、②すべての人のために「居場所」を作ることです。そして、神様と聖書は同じことを求めておられます。しかし、どのように「すべての人」を受け入れるか、そして、どのように「すべての人」のために「居場所」を作るかは、現代社会とは全く違います。二つ目のメッセージで取り上げたのは、現代社会と聖書がどのように「すべての人」を受け入れるか、そして、それらの違いを見てきました。

復習になりますが、大きく言いますと、三つの違いがあります。その違いの一つ目は、人間の「尊厳」はどこからくるかについてです。聖書によると、人間は「神様の似姿に造られた存在だから」『尊厳』があるということです。ということです。二つ目の違いは、人間の「欲」や「望み」はいいものかどうかということです。聖書によると、全ての人は「心の曲がった罪人」なので、その人間がもつ「欲」や「望み」はどんなものでも汚れたものです。しかし、現代社会の考えでは、人間のありのままの「望み」は最もピュアなものだというのです。そして、三つ目の違いは、人が認められる方法についてです。現代社会では、人を受け入れる基準を置き換えます。全ての人が受け入れられるために、誰も満たすことのできない古い基準を、全ての人が満たせるような基準に置き換えることです。しかし、結局、誰もその新しい基準を満たすことはできません。聖書は、その人が受け入れられるために人のアイデンティティを置き換えますイエス様を信じる「全ての人」が受けいれられる理由は、基準を満たされたイエス様のアイデンティティが、基準を満たしていない古い自分に置き換えられるからです。この三つの違いを通して、現代社会と聖書の違いを説明できると思います。

しかし、例え同性愛者がイエス様を信じ、イエス様のアイデンティティを頂いたとしても、教会は「自分の居場所」になるでしょうか?ここで同性に引かれるクリスチャンの三つのケーススタディを見ながら、教会がどうすれば「すべての人」の居場所になれるかを考えたいと思います。しかし、皆さんは同性に引かれる事はかもしれませんし、そのような兄弟姉妹にあった事がまだないかもしれませんので、今回のメッセージをどう適応すべきかわからないかもしれません。まず、覚えていただきたいのは、2015年に行われた調査によると、日本では13人中1人はLGBTQの人です。ですから、統計的に考えれば、確実に教会でそのような人と会っているとも言えます。そして、前回と同様に今回のメッセージにも一つのテーマがあります。それは「同性に引かれるクリスチャンも、わたしと同じような誘惑と試練と向き合っている」ということです。つまり、私たちの「福音理解」と「実践」が試されるのです。ですから、ぜひ一緒に三つのケーススタディーを見ていきましょう。

 

I. 一信徒としての働き

一つ目のケーススタディーは、一信徒としてどのように「すべての人」のために「居場所」を作るかということです。同性に引かれるクリスチャンが抱える『恐れ』と『不安』に焦点を当てたいと思います。ある教会員があなたを呼び出したとします。そして、1対1になったとき、その人が自分が同性に引かれることをあなたに打ち明けます。同性に引かれているかどうか数年思い悩んだ末に、自分がやはり引かれてしまい、その気持ちがかわらないということに気づき、神様は自分をどう見ておられるのか、変えられない傾向を持ちながらどのように歩んだらいいか、そして、教会は自分のようなものをどのように見るかをいろいろあなたに聞きます。皆さんなら、どのように答えますか?ここで、二つ覚えて頂きたいことがあります。

 

「1回、罪を見たら、10回、十字架を見ましょう。」

このような場合、相手の罪に驚いてしまうことがよくあります。しかし、考えていただきたいのは、十字架です。もし目の前にいるクリスチャンが「自分はイエス様の十字架の赦しが必要なほどに、罪深いものだ」と信仰告白をしているなら、私たちはなぜ驚く必要があるでしょうか。相談に答える前に、まず自分のあるべき姿勢をまず確認しましょう。

もちろん、1コリント6:9に書いてあるように、「男色(なんしょく)をする者」は「御国を相続できない」と書いてありますが、「淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者」も御国を相続できないのです。そして、「不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みをする人。陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮(あなど)り、高ぶり、大言壮語(たいげんそうご)し、悪事(あくじ)を企(たくら)み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲な人」は死罪に価するとローマ1章に書いてあります。つまり、私たちもイエス様を殺すほどの罪を持っているのです。十字架はその友達私たちの罪の重さを表しています。ですから、十字架の下で一貫性をもってお互いを見る必要があります。

しかし、神様はどのように私たちを見ておられるのでしょうか?前回のメッセージの内容と被りますが、神様は、十字架で死なれ、3日後に蘇られたイエス様にあって私達を見ておられます。つまり、「ローマ 6:5  私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」ですから、「ローマ 6:11  同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認め」る必要があります。私たちは毎日罪の力を強く感じていますが、イエス様が十字架の上で、私たちの古い自分を死なせ、私たちを罪から解放してくださった(ローマ6:7)ことに変わりはありません。ですから、1回自分の罪を見たら、10回十字架の事実を見て、その十字架の事実を受け入れましょう。同性愛者であれ、陰口を言う者であれ、どういう罪であっても、クリスチャンは、ただ「罪人」だというのではなく、十字架の上で新しくされた「キリストと結ばれた者」として、自分を認めて、その姿勢で相手と向き合いましょう。

 

次に覚えていただきたいのは、「罪人にはグッドアドバイスではなく、グッドニュース(福音)が必要である」ということです。

もし誰かがあなたに悩みを相談しにきたら、どうしますか?だいたい、①相手の問題を指摘し、②解決方法を提示するでしょう。つまり悩んでいる人に、良いアドバイスをあげようとします。しかし、もしお互いの力を越えるような問題であれば、どれほどいいアドバイスをしたとしても、励ましにも解決にもならないでしょう。福音書はよく重い病気のたとえを使って、私たちの罪深さを表します。ある人が病気の悩みを相談にきたとしても、その病気のこともよく知らない人が、毎日トレーニングを頑張れば、きっとよくなるとアドバイスしても、その病気の癒しにも励ましにもならないと思います。私達は罪人なので、同性愛に限らず、どんな罪でも同じです。グッドアドバイスだけではどうにもなりません。罪を「うまくマネージできれば、何とかなる」というようなレベルではないのです。

ですから、私達は罪を告白すると同時に、「グッドニュース」(福音)を分かち合う必要があります。どのように分かち合えばいいのでしょうか?他の人に罪を告白することや、助けを求めることは、非常に恥ずかしいことでもあり、ものすごく勇気と信仰が必要です。マルコ5:25の「十二年の間、長血(ながち)をわずらっている女の人」、ルカ7:2の異邦人の「百人隊長」、ルカ7:34の「罪深い女」、マルコ10:46の「バルティマイという目の見えない物乞(ものご)い」のような人たちがイエス様に助けを求めた時、イエス様は相手がどんな罪を犯していても、どんな課題を持っていても、相手の信仰を認め、相手の話を聞いてくださいました。そして、そのあとで、イエス様は、悔い改める方法を丁寧にアドバイスしたのではなく、力強く「福音」を語られたのです。

私たちが頂ける福音とは、どういった「良い知らせ」なのでしょうか?大まかに言いますと、三つの良い知らせがあります。まず、イエス様により頼むことによって、イエス様にあって完全に罪が赦され、完璧な義人、神の子として認められるという良い知らせです。これは過去に起こった客観的な事実であり、私たちの変わらないアイデンティティです。次に、イエス様により頼むことによって、①あなたに罪のない、栄光の体が与えられ、②イエス様とともにすべてを相続し、③神様との親密な関係からくる、満ち溢れる喜びが約束されています。一言でいうと、「永遠のいのち」が約束されるという良い知らせです。これは将来に保証される約束ということです。そして、最後に、イエス様により頼むことによって、私たち一人一人に聖霊様が送られ、「将来」の完璧な喜びと永遠の命を味わえるように、この世で私たちをイエス様の似姿へと成長させてくださるという良い知らせです。つまり、将来の「復活」と「永遠のいのち」を、この世で経験できるということなのです。

つまり、同性愛者であれ、異性愛者であれ、イエス様を信じれば、あなたが「義人」として、また「神の子」として認められること、永遠のいのちが将来に与えれること、この世で徐々にクリスチャンとして成長することが約束され、イエス様の十字架と蘇りによって保証されているということです。私達が教会に集まる理由は、この「福音」のためです。教会は「福音を求める罪人」の居場所なのです。ですから、「居場所づくり」のために、どのような罪人であれイエス様の「福音」へと導くことが一信徒しての一番大切な奉仕だと言えます。

 

II. 神の家族としての働き

二つ目のケーススタディは、神の家族として教会がどのように「すべての人」のために「居場所」を作れるかということです。同性に引かれるクリスチャンが抱えている『疲れ』と『孤独』に焦点を当てたいと思います。もし、ある人が「長年自分の「罪の傾向」と戦い続けてきて、本当に成長できているのか、イエス様のように罪を殺し、義を行えているのかがわからない。特に、同性に対して心が引かれていることが変わらない自分は、成長していると言えるのだろうか?聖霊様が本当に自分に宿っておられるのかという疑問もある。また、異性愛者なら、異性の相手を見つけて、家庭を築き、人生のパートナーとして共に歩むという選択肢はあるけど、自分にはそのような選択肢はない。しかも、自分の葛藤は「普通」の人と全く違うので、誰にも分かち合えないから、「ありのままの自分」を知っている友人は誰もいない。一生この孤独感を抱えていくのは嫌だし、キリスト教をやめたら楽になるという気持ちもなくはない。」とあなたに分かち合ってくれたとします。その時、教会として、私たちはどのようにキリストにある兄弟、あるいは、姉妹に寄り添って歩めば良いのでしょうか?覚えていただきたいことが二つあります。

 

「罪の傾向が違っても、私たちの罪との激しい戦いは同じであり、同じ希望と望みを持っている」ということです。同性愛に限らず、私たちの罪の傾向がどれほど異なっているとしても、本質的にクリスチャンは同じ葛藤を持っています。

ローマ 7:18-19  私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。

この御言葉は、どのような罪との葛藤に対しても適応できると思いませんか?自分の伴侶(はんりょ)ではない、同性または異性に対する性欲。神様が私たちに与えてくださった状況に対する怒りや不満。神様と人のための犠牲より、自分の安定や将来を優先しようとする貪欲。隣人よりも自分を優先したい気持ち。神様と過ごすよりもこの世の娯楽を楽しみたい気持ち。そのような「欲」について思いめぐらすと、どのような罪の傾向でも、それは同じくらい根深いもので、同じくらい激しい戦いでもあると言えます。これは、同性に引かれるクリスチャンだけのことではなく、真剣に自分の罪と向き合っているクリスチャンなら、罪と戦っている中で失望してしまったり疲れてしまうときがあります。ですから、同性に引かれるクリスチャンの戦いのほうがより苦しいということは言えないのです。しかし、自分たちの無力さを感じるとき、私たちは神の家族として、同じ希望を持つことができます。

ローマ 7:24  私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。ローマ 7:25  私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。

ですから、兄弟姉妹が自分の罪との戦いから来る「孤独感」を感じていたら、私たちも、同じように兄弟姉妹とともに罪と戦っていること、嘆いていること、そして、同じ希望を持っていることを分かち合うことが、神の家族の最初のステップかもしれません(参照:1ペテロ5:8-9)。

 

「家族が与えられても与えられなくても、あなたにはキリストという花婿がおり、教会という家族がいるのです。」

まず、様々な調査をみると、クリスチャンセラピーやカウンセリングで人の性的指向を変えることはできないという著しい結果も出ています。ですから、教会が強制的にある性的指向を押し付けることはできません。

しかし、同性に引かれるクリスチャンだとしても、異性と結婚できなかったり、子供が与えられたりしないわけではありません。イエス様と聖書を愛し、同性に引かれる傾向のあるクリスチャンが異性と結婚し、子供も与えられたと言う人を、私は何人か知っています。なぜそのようなことが起こりえるのでしょうか?LGBの性的指向を持つ人を統計的に研究したLisa Diamond先生は、二つのことを結論付けました。①性的指向は、DNAだけによって決められた、変わらない「生まれつき」なものではなく、生理的な要因も含め、様々な要因によって定められ、「流動性」のあるものであること、そして、② 統計的にみると同性に引かれる人の中には、両性に引かれる人−−つまり、男女に引かれる人−−の方が多いということです。ですから、同性に引かれたから異性のクリスチャンとの結婚関係は絶対に持てないということではありません。(そして、もうすでに結婚されている方同性に引かれる可能性もありえるということも言えます。)

しかし、実際に、性的指向が変わらず、同性だけに引かれる人はいます。その事実を受け止めなければなりません。そのような兄弟姉妹についてはどうでしょうか?聖書では、もう一つの道が用意されています。それは、イエス様が選ばれ、パウロが選んだ、「独身」という素晴らしい召しのことです。そして、これは同性に引かれる人たちだけの道ではなく、誰にでも選べる素晴らしい召しです。

けれども、「独身」の道に対して抵抗を感じる人もいます。それは「独身の召し」が「孤独な道」のように思えるかもしれないからです。しかし、まず覚えていただきたいのは、「結婚」は、わたしたちの「孤独感」を解決する道ではありません。私たちはなぜ「結婚」に対してそのような期待を持つのでしょうか?社会の中にも教会の中にも、「結婚」を社会的ステータスの表れとし、「家族」を偶像化する傾向があり、「独身」の方に対しては、ある種の偏見を持ちやすくなっています。しかし、これは聖書的ではありません。エレミヤ、ネヘミヤ、バプテスマのヨハネ、マルタとマリア、パウロのような兄弟姉妹は「未熟」な人達だったでしょうか?結婚されていないイエス様は、人間として何か欠けているところがあったでしょうか?イエス様は結婚したほうがよかったのでしょうか。わたしたちは家族を持つことを重要視し過ぎてはいけません。私達は、パウロが注意してくれた言葉を忘れてしまう時がないでしょうか?

第一コリント 7:32-34 あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。

わたしたちは、「結婚」を偶像化しすぎて、結婚が私たちの目を主からそらさせるという現実を真摯に受けとめているでしょうか。

自分の「家庭」を築くことができないのではないかと、悩んでおられるかもしれないクリスチャン(特に、同性に引かれる故に、普通に考えられる家庭を築くことのできないクリスチャン)にとっては、私のことばなど説得力がないかもれませんが、本当に大切なことは、クリスチャンは、神様にあって、独身であってもすでに既婚者であり、もうすでに家族を持っているということです。なぜなら、私たちはすでに花婿であるイエス様と結婚していて、教会という家族が与えられているからです。そして、イエス様との結婚関係と教会との家族関係は、永遠に続きますが、他の関係は過ぎ去るのです。私たちの教会との関係、神様との関係は、その他のどのような関係よりも充実している関係であることを覚える必要がありますし、教会としてそのような意識で歩む必要があります。そして「居場所」を作るために、どのような人であれイエス様にある兄弟姉妹として、一つの家族として愛し合い、頼り合うことが最も大切なことだと言えます。

 

III. 「キリストの体」としての働き

最後のケーススタディは教会が「キリストの体」として、どのように「すべての人」のために「居場所」を作れるかということです。ここでは、同性に引かれるクリスチャンに求められる『犠牲』と『忍耐深さ』に焦点を当てたいと思います。日本の教会にとって少し極端なケースかもしれませんが、私のアメリカの神学校時代に、このような「ケーススタディ」が与えられました。アメリカでは現実的なシナリオです。結婚して、子供がいる同性愛者があなたの教会に通い始めたとします。そして、感謝なことに二人の同性愛者が立派に信仰を告白し、洗礼を受けたいと小会に願い出たとします。先ほどお話したように、信仰を持ったなら彼らもクリスチャンですし、神様が彼らを成長させてくださる事も約束されます。しかし、そこには、彼らの結婚関係について、子供について、また、今まで関っていたLGBTのコミュニティーとの関係についてなど、どのようにしたら良いかという様々な課題が起こります。教会として、私達はどのように共に歩んで行けば良いのでしょうか。

「クリスチャンは自分の十字架を負って、イエス様について行く弟子なのです。しかし、個人として背負うのではなく、キリストの体として共に負います。」

同性愛者に限らず、クリスチャンになることは、この世から見ると、大きな犠牲を伴います。イエス様はこうおっしゃいます。

ルカ14:26-28, 33  「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。…そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」

イスラム国、中国、北朝鮮のような国では、クリスチャンになることは、自分の家族、国、社会的地位、場合によっては、自分の命を捨てるということです。日本でクリスチャンとして歩むにも、様々なことを犠牲にしなければならないことがあるのも、皆さんはご存知です。信仰を告白するだけでクリスチャンになることはできますが、この信仰のために犠牲をする覚悟も必要です。例えば、もし同棲している異性のカップルが信仰告白をすれば、もちろん、その瞬間にクリスチャンになります。そして、洗礼準備クラスで、牧師が、性的罪に関わる第7戒も含め、十戒を一つ一つ丁寧に説明します。そして、いつも牧師はこのように質問します。「あなたは、聖霊の導きに信頼し、キリストのからだなる教会の一員にふさわしく生きることを決心しますか。」そして、同棲しているカップルが「今後、自分たちの関係がどうなるかわかりませんし、自分たちが思うように成長できないかもしれないが、聖書にそって歩みたいし、様々なことを犠牲しなければならないこともあるということも覚悟しています」と答えたら、それで十分なのです。そして、この例えの二人の同性愛者も同じように答えたら、それでも十分です。しかし、二人がすぐに聖書のすべてを理解できること、すぐに罪をすべて手放すこと、すぐに義を行えること、すぐに幸せなクリスチャンになれることを期待してはいけません。他の新しいクリスチャンにそのような激的な変化を期待していないのであれば、この二人の同性愛者に期待してはいけません。クリスチャンの成長は聖霊様の働きなので、成長するスピードと道筋は聖霊様に委ねなければなりません。

そして、この判断は同性愛者にとって、どれほど大きい「犠牲」なのかを教会の皆さんに覚えていただきたいのです。聖書が定義する結婚というのは、一人の男性と一人の女性なのです。ですから、大変苦しい判断ではありますが、二人の結婚をどうするかを考えなければなりません。もし二人が別れると判断したのなら、一人が「シングルファザー」または、「シングルマザー」になり、自分たちが子供をどのよう愛すことを具体的に話さなければなりません。もちろん、自分たちの子供にも説明しなければなりませんし、子供にとっても大きな変化となります。もちろん、この決断によって、職場の上司や同僚、LGBTコミュニティー、親しい友人たちから批難されたり、今までの関係を絶たなければならなくなるかも知れません。そして、それだけではなく、今まで信じてきたことや、してきたこと、話し方や振舞いなど、180度変える必要もあるかもしれません。私が言いたいのは、すべてのクリスチャンのように、同性愛者もキリストのために大きい犠牲をはらうことを忘れていけません。もちろん、二人が「永遠のいのち」を選んだことを理解していると思いますが、自分たちの十字架を背負っていることは変わらないし、それが非常に苦しいことであることも変わりません。

ですから、クリスチャンとして歩むことを決心する日は、大変険しい道の始まりであることを忘れていけません。ですから、キリストにある家族である教会として、同性愛者に限らず、すべての新しいクリスチャンに寄り添って、忍耐をもって励まし、彼らの十字架を共に背負う必要があります。この3節を覚える必要があります。

第一コリント12:25-27  それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

教会は、その二人のクリスチャンと子供とともに泣き、ともに苦しみ、ともに歩みながら、ともに彼らの十字架を背負う必要があります。彼らは、それまでの結婚関係、家族、コミュニティーを失うことになったかも知れませんが、彼らはキリストにある新しい結婚関係、キリストにある新しい家族、キリストにある新しいコミュニティーを得ることができたのです。もちろん、私たちも彼らと共に歩むことによって犠牲を払うような時があるかもしれませんが、私たしたちにも新しい家族、新しい兄弟姉妹が与えられたと言えるのです!

そして、最後に覚えていただきたいことは、「感じられなくても、不完全でも、きれいな成長曲線を描けなくても、徐々に成長していく「キリストの体」は御父の喜びなのです。」

理想論をかたっても、現実的にはクリスチャンの歩み、そして、教会の歩みは完璧ではありません。むしろ、神様の理想からかけ離れたものだと思います。その二人は、古い歩みの全てをすぐには手放すことができないかもしれませんし、私たちが思う以上に時間がかかるかもしれません。教会も二人をキリストの愛によって受け入れることができずに裁いてしまい、物理的にも霊的にも積極的にはサポートできないかもしれません。三歩進んで二歩下がるではなく、もっと複雑に3歩進んで、4歩下がって、2歩進むような歩み方になるかもしれません。私達は自分達の思い通りに、教会の思い通りに、聖書に書いてある通りに、成長できないかもしれません。

しかし、教会としての「体の成長」というのは、なかなか感じることのできない、また目に見えない、ゆっくりした成長であることを忘れてはいけません。毎日の変化だけに焦点を当てると、全く成長していないように感じるかもしれませんが、数年単位で見ると、その変化がはっきり見えるかもしれません。私たちはいつも、自分に、そして、教会に、激的で完璧な変化を期待してしまいます。クリスチャンになってすぐに罪をやめて、すぐに義を行い、すぐにイエス様のように神様と人を愛せるようになりたい。人間のからだはそのように激的に変化するでしょうか?むしろ、そのような変化はからだに害を与える病気ですよね?自分の5歳の子供が、クレヨンで書いてくれたパパの似顔絵に満足できなくても、パパが大いに喜ぶように、私たち自身が、自分達の成長するスピードに対して不満を抱いたとしても、神様は大いに喜んでくださるのです。

そして、私たちクリスチャンは、個人的に成長していくのではなく、キリストの体の一部として成長していくのです。

エペソ 4:16  キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります

もし身体一部が成長しないなら、キリストのからだ全体も成長しないということです。つまり、心臓や体の一部が成長しなければ、他の部分も成長できないように、もし自分が成長しなければ、他の教会員も成長できないということなのです。教会のお一人一人の成長は、あなたの成長にもかかっているのです。そして、その逆も言えます。その二人の同性愛者のように、苦しんでいる兄弟や、罪と戦っている姉妹が成長できないのなら、自分も、教会全体も成長することはできないのです。ですから、私達がお互いの成長に失望することがあったとしても、お互いを切り離すことはできませんし、自分たちの成長のためにも、教会の成長のためにも、お互いが必要なのです。

ですから、私達は神様の笑顔を仰ぎ見つつ、お互いに支え合いながら、愛のうちに成長する必要があります。「居場所」を作るために、どのような罪人であれキリストにある兄弟姉妹として、お互いに体の一部として共に支え合って、ともに成長することが大切なのです。

いかがでしょうか?教会が「すべての人」の居場所になるように、共に、具体的に考えていきましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church