イベントの詳細
- 日曜日 | 2022年9月18日 〜 月曜日 | 2022年9月19日
- 10:45 AM
- 会堂
修養会の日程は9月18・19日の予定です。ぜひご参加ください。お問い合わせどうぞ。
KMGC’s annual retreat is coming up. The theme is “A Church Moving Forward by Grace.” Ask Pastor Mark or Evangelist Josiah for details.
・ テーマ 【恵みによって進展する教会】
・ 講師 廣橋嘉信牧師、マーク・ボカネグラ牧師、クレイグ・ポール宣教師
・ 場所 会堂105号室(予備:104号室)
・ スケジュール
① 18日10:45-12:00 メッセージ① 礼拝説教 廣橋牧師(マーク牧師が代読)Public worship; sermon by Pastor Hirohashi (read by Pastor Mark)
② 18日13:00-14:30 「今後のめぐみ教会について」「幕張チームとは?!」”KMGC Moving Forward” and “Makuhari Team?”
③ 18日14:30-15:30 賛美+メッセージ② 講師:マーク・ボカネグラ牧師 Praise, message 2 (Pastor Mark)
④ 18日15:30-17:00 小グループ Small groups
⑤ 18日17:00-20:00 お弁当で交わり Bento meal fellowship
⑥ 19日 9:30-10:30 賛美+メッセージ③ 講師:クレイグ・ポール宣教師 Praise, message 3 (Missionary Craig P.)
⑦ 19日10:30-11:30 小グループ Small groups
⑧ 19日11:30-12:00 最後の祈りの時間 Final prayer time
メッセージ①:礼拝説教
メッセージ②:「『恵みによって進展する教会』:アンティオキア教会」
マーク・ボカネグラ牧師
聖書箇所:使徒の働き11:15-30、ガラテヤ2:11-3:6、使徒14:24-15:35
海浜幕張めぐみ教会がこのような「変化の時期」を通っている中、「使徒の働き」のどの教会について学ぶべきかと考えた時、廣橋先生と私がすぐに思いついた教会は「アンティオキア教会」でした。それはなぜでしょうか?クリスチャンの世界では、「アンティオキア教会」は、ある意味、理想の教会であり、私たちが目指す教会なのです。この教会は、熱心に異邦人に伝道し、大勢の人々が救われた教会。イエスさまを信じた人が「クリスチャン」とはじめて呼ばれた教会。パウロを捜し、訓練した教会。パウロとバルナバを派遣し、教会を開拓し続けた教会。飢饉があったとき、すぐに援助を兄弟姉妹に送った教会。有名で有力な預言者と教師が集まっていた教会。断食と祈りをもって、恐れず、めげず前進した教会。ですから、アンティオキア教会のような教会を目指そうと考えて、自分たちの教会を「アンティオキア教会」と名付ける教会もあるほどです。しかし、アンティオキア教会にズームインして、フタを開けてみると、非常に面白いことが学べます。実は、アンティオキア教会もはじめは福音を疑った教会でした。アンティオキア教会は、自分たちが信じている福音を忘れ、異邦人を差別していた教会でもありました。それでも、恵によって進展した教会でもあります。まずは、アンティオキア教会から海浜幕張めぐみ教会として学べることは何なのかを確認していきたいと思います。
大きく言いますと、アンティオキア教会には三つのフェーズ(段階)があります。第1フェーズは、「神の恵を妨げようとした教会」です。これは、使徒の働き11:19-26に書いてあるアンティオキア教会の始まりについてです。
まず、この箇所の前の文脈を理解するのは非常に重要です。使徒の働き10章と11章はコルネリウスがクリスチャンになる場面ですが、この出来事がアンティオキア教会の誕生のきっかけになったとも言えますし、異邦人への伝道の基盤になった話でもあります。また、11:6-18節はこの話のまとめですが、簡単にまとめるとこうです。ある日、使徒ペテロが、ある夢を通して、汚れている動物と汚れていない動物を見て、『ペテロよ、さあ、屠って食べなさい』と言う声を聞きました。しかし、ペテロは、『主よ、きよくない動物を食べることはできません!』と言いました。 すると、もう一度天から声が返って来ました。『神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。』 このような対話が三回もありました。その後、聖霊様によって、ペテロは異邦人コルネリウスの家に連れて行かれました。そして、ペテロが福音をその人たちに語り始めると聖霊がペンテコステにユダヤ人クリスチャンに下ったのと同じように、異邦人の上に下ったのです。そして、ペテロはイエス様が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によるバプテスマを授けられる』と言われたことばを思い出しました。 そして、ペテロはこのように結論付けたのです。「ですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」 その話を聞いたユダヤ人クリスチャンは沈黙してしまいました。そして「神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえたのです。
コルネリウスは、旧約聖書を堅く守っていたユダヤ人にとって、最も憎むべき存在(ローマ帝国の百人隊長)、最も汚らわしい存在(平気で豚を食べる割礼されていない異邦人)、最も罪深い存在(元偶像崇拝者)のシンボルでした。そして、ユダヤ人が汚れた食べ物を見て、その臭いをがくと「くさい」、「気持ち悪い」、「吐き気がする」と思ったように、異邦人をそのように見ていました。実は、聖書ではこのような規定はなかったのですが、ユダヤ人たちは、異邦人たちが食事しているところに行ったり、異邦人と深い関わりをもってしまうと、彼らの汚れが自分たちに移ると思っていたようです。現代の私達にも同じようなことがあると思います。ペテロも、ユダヤ人クリスチャンも同様でした。ですから、彼らもイエス様からいただいた福音は「恵の福音」だと信じていましたが、それは、きよいユダヤ人にしか与えられないと思っていたと思います。
しかし、神様は「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」とおっしゃいました。神様も、ユダヤ人が思っていたように「異邦人が汚れた、罪深い存在である」ことをご存知でしたが、聖霊様が異邦人にも下られたのなら、神様ご自身が汚れた異邦人をきよい「聖徒」にしてくださったということなのです。臭くて気持ち悪い罪人が、聖霊様の働きによって香ばしい義人となったのです。ですから、コルネリウスのような存在が自分達と同じように神の民とされるという事は、ユダヤ人にとって驚きの出来事だったのです。しかし、ペテロのコメントも非常に重要なポイントです。「イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになった」つまり、汚れた異邦人がきよめられたということは、ユダヤ人クリスチャン同じように汚れていて、小名上にきよめられたのであるとペテロは言っています。つまり、自分は汚れた異邦人と同じ救いが必要だと認めざるを得ない、とペテロは宣言しているのです。ですから、それを聞いたユダヤ人クリスチャンは沈黙したのです。ペテロの話と、ユダヤ人クリスチャンの沈黙は、「私は異邦人と同じなのか…」と福音の恵み深(ぶか)さを認めざるを得ない状態を表しています。そして、彼らは最終的に「いのちに至る悔い改め」が自分にも、罪深い異邦人にも与えられたことを主に感謝し、主を褒めたたえました。
そのような背景から、アンティオキア教会の話が始まるのですがが、20-23節を読みますと、同じような現象がこの教会でも起こっているのがわかります。迫害によって、ユダヤ人クリスチャンはフェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったのですが、ユダヤ人以外の人達には、だれにもみことばを語りませんでした(19節)。これはすごいですよね。かなり差別的な伝道の仕方だと思います。しかし、キプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアへ行き、イエス様の福音を宣べ伝えると、(ユダヤ人からいうと)ギリシア語を話す異邦人たちが信じてしまったのです(20節)。しかも、大勢の人が信じて主に立ち返ったのです(21節)。それゆえ、ユダヤ人の本拠地でもあり、イエス様の「教会」の本部でもあったエルサレム教会はそれを聞いて驚いたと思います。「えー?!旧約のヘブライ語も読めなくてギリシャ語しか話せない異邦人が…兄弟姉妹?…しかも大勢の割礼されていない異邦人?…これは困ったな。」と残念に思いながらその報告を聞いたと思います。自分たちが描いていた教会の進展はこうではなかった、と心の中で思ったかもしれません。ですから、事実確認のために、アンティオキア教会はバルナバを派遣しました。しかし、バルナバは「神の恵み」を見て、喜びました。そして、キリストにある兄弟姉妹として、バルナバは「心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました」(23節)のです。しかも、面白いことに、バルナバは、迫害されたクリスチャン達が嫌っていた(使徒8:13参照)虐殺者パウロ(サウル)を捜して、アンティオキアへ連れて行ったのです。アンティオキア教会は「福音を信じてしまった罪人の集まり」であり、この教会の弟子たちが初めて、「キリスト者」と呼ばれるようになったのです(26節)。
海浜幕張めぐみ教会がアンティオキア教会のように「神の恵によって進展する教会」になっていくために私たちは大きな覚悟をしなければなりません。自分にとって最もコミュニケーションを取りにくい人たち、最も苦手で嫌な人たち、最も汚れてる罪深い人たち、最も赦せない人たち、最も憎んでいる人たち、最も見下している人たちが、この教会に来て、同じ福音を聞いて、あなたと同じようにイエス様を信じて、あなたと同じ礼拝とセルグループに参加することを覚悟しなければならないということです。しかも、そのような人たちは大勢くるかもしれません。私たちは、ペテロやユダヤ人クリスチャン達と同じようには、心の中でそう願っていないかもしれませんが、自分たちが神様の恵の波を妨げようとしていることを認めざるをえないのです。ですから、私たちは二つの福音の事実を受け入れる必要があります。①私は、私が最も見下している、最も苦手な罪人と、すこし似ているではなく、全く同じように汚れているということ。②私はその人と、全く同じ救いの賜物が必要で、神様がその恵を同じように私たちに与えてくださっているということ。しかし、皮肉なことに、その二つの福音の事実を受け入れる時、私たちは「神の恵」の力強さに気づかされるのです。そして、エルサレム教会、バルナバ、アンティオキア教会のように、心から喜びが沸き起こり、主を褒めたたえられるようになると思います。海浜幕張めぐみ教会として、また、個人的に、その二つの事実を受け入れ、神の恵みは、私達が好まない、また望んでいないような状況へと導かれることもあるのだと覚悟する必要があるのです。
アンティオキア教会の第2のフェーズは、「宣教の中で神の恵みを忘れた教会」です。アンティオキア教会がこの力強い福音を受け入れたとき、非常に大きな働きが生まれました。大勢の人がクリスチャンになりました。アンティオキア教会は、御言葉に導かれ、エルサレムとユダヤに住んでいる兄弟たちに救援物資(ぶっし)を送りました(29節)。アンティオキア教会には、何人もの預言者や教師が起こされ(13節)、主を礼拝し、断食している中でパウロとバルナバを聖別し、異邦人伝道のために彼らを派遣しました。そして、パウロとバルナバの第1次宣教旅行の地図だけを見ても、本当に素晴らしい実りのある働きでした。彼らの働きが簡潔に書かれているのは、14:21-23です。
“二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経(へ)なければならない」と語った。 また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。”
福音を宣べ伝えること。苦難を受けるために、弟子たちを訓練し励ますこと。各教会に長老を選び、祈って、主に働きを委ねること。それらがパウロとバルナバの宣教の働きでした。
しかし、「使徒の働き」には書いてありませんが、ガラテヤ2:11-2:14を読むと、非常に驚くべき展開が書いてあります。詳細は非常に限られているので、この出来事がどの時点で、どのように起こったかははっきり言えませんが、私が最も信頼している注解者(Doug Moo)によると、この出来事は、パウロが第1次伝道旅行の終わり(使徒14:24-28)頃だと予測しています。そして、ガラテヤ2:11-14の出来事をまとめると、このような流れになります。。パウロとバルナバがアンティオキア教会から派遣されて、異邦人伝道の一回目を終えるころには、多くの異邦人がクリスチャンになり、多くの教会が開拓されました。その宣教報告のために、彼らは自分たちの派遣教会であるアンティオキア教会に戻りました。そして、2人が着いたとき、使徒ペテロがアンティオキア教会を訪問していて、異邦人たちと何のためらいもなく、自由に交わりをして、食事を共にしていました。
しかし、そのとき、初代教会の「本部」であるエルサレムから代表者がアンティオキアを訪問に来ました。しかも、その代表者たちと言うのは、大会議長のヤコブと、「割礼派」の神学オタク達でした。彼らは、異邦人宣教の働きを否定してはいませんでしたが、異邦人を見下していたことは明らかでした。ですから、使徒たちのリーダーであるペテロ、アンティオキア教会の開拓者バルナバは、ヤコブと割礼派のリーダーたちを恐れて、異邦人から身を引いたのです。その2人だけではなく、アンティオキア教会のユダヤ人のみんなも同じようにしたのです。アンティオキア教会が異邦人宣教の始まりとなったにもかかわらず、、このようなことになったというのは驚きではありませんか?
そして、非常に興味深いのは、アンティオキア教会とペテロたちは「ことば」や「神学」によって異邦人達を否定したわけではありませんでした。異邦人伝道もしていましたし、異邦人達を兄弟姉妹とも呼んでいたのです。ただ、何も言わないで、距離を取っていただけだと思います。しかし、「異邦人ってね。ちょっとわかんないところあるよね」と遠回しに見下していたかもしれません。言葉によるのではない、周りからのプレッシャーや、暗黙の差別から来る冷たさや孤独感などは、誰しも感じることがあるのではないでしょうか。
しかし、パウロはこれを「偽りの行動」として見なし、皆の前でペテロを注意しました。「ペテロ先輩。あなたは福音の真理に向かってまっすぐに歩んではいません。むしろ、あなたの行動によって福音の真理を曲げています。あなたはユダヤ人でありながら、この前、異邦人や私たちと豚を食べていましたよね?どうして自分が守れないきよめのルールを、異邦人に押し付けるのですか?なぜ、いい人ぶっているのですか。あなたは、異邦人と違って、自分のきよさや自分の行いによって救われたのですか?ペテロ先輩。あなたは、あなたが毎日語っている神様のめぐみを、ご自分の振る舞いで否定しているのが、おわかりですか。」パウロはペテロを注意していましたが、バルナバも、ヤコブも、割礼派、アンティオキア教会のユダヤ人たちみんなにも同じように注意したのだと思います。第1次宣教旅行で開拓されたガラテヤの教会も、ペテロやアンティオキア教会と同じ過ちを犯してしまい、パウロはこのように注意しました。
“これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。 あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。 あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。 あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。”(ガラテヤ3:2-5)
要するに、「恵によって進展する」アンティオキア教会は、ただ大勢の人が救われるという教会ではなく、福音を忘れてしまい、態度や振る舞いによって福音を否定する教会にもなってしまったのです。そして、パウロに公の場で指摘されることが、どれほど恥ずかしく嫌なことであっても、ペテロ、バルナバ、ヤコブ、アンティオキア教会は、喜んで悔い改め、神の恵みに立ち返り、悔い改め続けました。これが恵みによって進展する教会です。
海浜幕張めぐみ教会として、一人のクリスチャンとして、私たちは、あるタイプのクリスチャンに対して、神学的には受け入れているとしても、自分の態度や振る舞いによってそのクリスチャンを見下してはいないでしょうか。そして、自分が見下しているクリスチャンと距離を置いていないでしょうか?英語では「Holy Gossip」(直訳:聖なる陰口)という表現がありますが、「あの人は割礼を受けてないから、あの人のために祈ろう」というような陰口を言ったりしていないでしょうか?「もしこのクリスチャンが〇〇をするなら、交わりをしたい。そうでなければ、距離を置く」という条件付きの接し方を無意識的にしていないでしょうか?または、他のクリスチャンを見下したくないけれども、自分も見下されたくないから、誰かが福音を否定するような振舞を黙認してしまい、自分もそのような振る舞いに流されてしまうようなときがないでしょうか?ペテロとバルナバのように、人の目を恐れて、愛をもって真実を語ることを控えてしまったたことはないでしょうか?しかし、忘れていけないのは、それでも、アンティオキア教会と海浜幕張めぐみ教会は神の恵みによって進展する教会だということです。むしろ、私たちは罪人なので、神の恵みがなければ進展できない教会です!恵によって進展する教会は、福音を否定してしまう自分を公に告白し、神の恵みに立ち返る教会です。教会として進展するために、私たちは指摘されたくなかったり認めたくない罪を告白し、悔い改め続け、前進する覚悟を持つ必要があります。
アンティオキア教会の最後(第3)のフェーズは、「福音にあって和解した教会」です。アンティオキア教会についての最後の箇所は、使徒の働き15:22-35です。先ほど説明したユダヤ人と異邦人のクリスチャンの問題がかなり大きな問題になりました。ですから、初代教会のリーダーたちは、本部であるエルサレムに集まり大会会議を開きました。そして、パウロの注意によって悔い改めたペテロとヤコブは、この大会会議で「福音を否定する振舞は異端である」と宣言します。使徒15:7-11にペテロのスピーチが書いてあります。
“多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」”(Acts 15:7–11 SKY2017)
そして、エルサレムの大会会議で「教会の中での霊的な差別は異端である」ということが決議されたのです。そのあと、この決議が手紙で伝えられたのですが、その宛先はどこだったでしょうか?それは、アンティオキア教会でした。なぜなら、ここが異邦人伝道の拠点でもあり、この問題の初めはアンティオキア教会で起こったからです。そして、その手紙はこのような内容です。
“聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。 すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」” (使徒15:28–29)
この決議は、教会に福音にある純潔と一致を促しています。まず、ユダヤ人と異邦人は同じように恵のみでクリスチャンになったので、恵み以外のものを押し付けることはしないということです。つまり、ユダヤ人の福音を否定する律法主義の傾向を戒めたのです。しかし、教会の純潔と一致のために、異邦人にも注意をしました。福音を信じる者は、恵によって救われていますが、この世と聖別された生き方が求められています。当時は、まだある異邦人クリスチャン達は、淫らな行いを続けていました。ですから、彼らに「すぐに悔い改めなさい。」と注意をしました。また、異邦人は、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものを食べていたことによって、ユダヤ人の良心を傷つけ、ユダヤ人をつまづかせていたそうでした(1コリント8:12,ローマ14:13-23参照) 。異邦人もユダヤ人に対して愛のないことをしていたということです。ですから、エルサレム会議は、イエス様の大命令を軽んじていた異邦人クリスチャンをも戒めたのです。要するに、大会会議は福音にあって、お互いに悔い改めを促し、ユダヤ人と異邦人を和解させたのです。
この決議を聞いたアンティオキア教会は、イヤイヤ、義務的に、苦々しい思いで手紙を受けとったと思いますか?「えー、面倒くさいな…。しょうがないな」と思いながら和解したと思いますか?「さて、一行(いっこう)は送り出されてアンティオキアに下り、教会の会衆を集めて手紙を手渡した。 人々はそれを読んで、その励ましのことばに喜んだ。」 (使徒 15:30–31) ユダヤ人と異邦人があれだけ争ったのに、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが一つの会衆として集まり、一つの会衆としてエルサレム会議の「励ましのことば」を受け入れ、一つの会衆として喜んだのです。
なぜそのようなことができたのでしょうか?彼らはあるビジョンにあって、和解して一つになったのではありません。彼らはあるリーダーによって、和解して一つになったのでもありません。あるコミュニケーションの手法で、和解して一つになったのでもありません。エルサレム会議もアンティオキア教会も、いただいた神の恵みの前に立ち返えることによって、一つになることが出来たのです。「恵によって進展する教会」は、神の恵みを思い起こし、悔い改めながら和解する教会です。
海浜幕張めぐみ教会が進展する中で、争いや葛藤や衝突をなくすことは出来ないと思います。目に見える争いが起こらなくても、冷戦は文字通り、「戦い」です。教会が成長する中では、むしろ争いや衝突が残念ながら増していきます。教会の中で争いが起こった時、私たちに求められるのは何でしょうか和解しないままで前進できる教会はありません。真っ二つにされた体が、全力で前進することができるでしょうか?バンドエイドを張れば何とかなると思いますか?とんでもないです。お互いに悔い改め、お互いに謝り、十字架の前で和解することです。これは夫婦関係においても、家族関係においても、教会員同士の関係においてもです。ですから、海浜幕張めぐみ教会、私たちは「恵によって進展する教会として」、常に、神の恵みに立ち返って、和解し続けることを覚悟をしているでしょうか?
「恵によって進展する教会」になるために、三つのことを覚悟しなければなりません。
1)神の恵みは、私達が好まない、望んでいないような状況へと導かれることもあるのだという覚悟がありますか?
2)指摘されたくなかったり認めたくない罪を告白し、悔い改め続け、前進する覚悟がありますか?
3)常に神の恵みに立ち返って、和解し続ける覚悟がありますか?
ぜひ小グループで話し合ってみてください。
メッセージ③:“PASSING THE BATON” 「バトンタッチ」
クレイグ・ポール宣教師
聖書箇所:Acts 20:16-26 使徒の働き20章16~26節
- THE RACE BEGINS 競走の始まり
- Paul’s Ministry Style パウロのミニストリースタイ
- Presence (v. 18 “I lived among you”) 共同生活
- Service (v. 19 “serving the Lord”) 奉仕
- Teamwork – Elders (v.17) + Co-workers (from many places – v.4-5) 協力
- Character 人格
- Humility 謙遜、
- Boldness 大胆さ
- embracing all people あらゆる人を受け入れること
- guided by the Spirit 御霊に導かれて
- self-sacrificing 自己犠牲
- God-centered 神中心
- Persevering 忍耐
- hard-working & generous 努力と寛大さ
- unconditional love 無条件の愛
- Paul’s Gospel Message パウロの福音的なメッセージ
- The CORE of the Gospel 福音の中心(真髄)
- “testifying… of repentance toward God and of faith in our Lord Jesus Christ” v.21「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきた」
- “the ministry that I received from the Lord Jesus, to testify to the gospel of the grace of God” v.24 「主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全う」
- “proclaiming the kingdom” v.25 「御国を宣べ伝えて」
- The WHOLE Gospel 福音の全部
- Paul did not shrink from… “declaring anything that was profitable” or “the whole counsel of God” v. 20, 27. 「益になることは、…余すところなくあなたがたに伝え」「神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせた」
- Faithful to the great commission – Matthew 28:19-20 “make disciples… baptizing… and “teaching them to observe all that I have commanded you.” 「人々を弟子とし…、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教え」ること(マタイ28:19-20)
- THE NEXT LEG OF THE RACE – A planned transition, with a sudden “goodbye” 競走の次期 計画されていた変遷(移行)と突然の別れ
- The Lord Prepares Paul 主がパウロを整える
- Jerusalem “uncertain” – warned of “imprisonment” and “afflictions” (v.22-23) 「分かりません」が、「鎖と苦しみ」があると言われた(使徒16:22-23)
- Yet, Paul is committed to “finishing my course”, despite great personal cost! (v.24) 「私が自分の走るべき道のりを走り尽く」ことを覚悟した
- The Lord Prepares the Ephesian Church 主がエペソの教会を整える
- Two Warnings: 二つの警告
- “Fierce wolves” from outside will endanger the flock (v.29) 外側からの「狂暴な狼」が群れを脅かす
- False teachers “from among you” will distort truth and cause division (v.30) 「あなたがた自身の中からも」真理を曲げて、分裂を引き起こす偽教師も現れる
- Key Instructions: 中心の教え “Pay careful attention to yourselves and to all the flock in which the Holy Spirit has made you overseers, to care for the church of God, which he obtained with his own blood.” Acts 20:28 「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」
- Leaders must care for themselves: Leaders must pay constant, diligent attention to themselves, watching their own lives and beliefs to be sure they reflect Christ! (see 1 Tim 4:13-16) 指導者たちが自分に気をつける責任。キリストのことを写すべく、絶えず、勤勉に、自分の生き方と信仰に気をつけないといけない(第一テモテ4:13-16参照)
- Leaders must care for the flock: 指導者たちが群に心を配る責任。
- Three words Elder / Pastor / Overseer refer to one spiritual office, and point to the great responsibility to provide godly, pastoral oversight and spiritual care for the church (God’s flock). 「長老」「牧師」「監督」は一つの職務であり、教会(神の群)を導き養う責任を持つ。
- The Church/flock is God’s Church; and that it was bought at great price by Jesus’ infinite sacrifice. 教会が「神の」教会であり、尊い犠牲によって「買い取られた」
- THE FINISH LINE – “The church advancing together by grace!” 決勝線:恵みによって進展する教会
Key Encouragement: “And now I commend you to God and to the word of his grace, which is able to build you up and to give you the inheritance among all those who are sanctified.” Acts 20:32 中心の励まし「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」
What is Paul’s ultimate message as he “passes the baton”? パウロがバトンタッチをする際、何を一番伝えたいと思いますか。
Just follow my example, follow my instructions and your ministry will succeed! 「私の生き方と教えに従えばミニストリーが成功するよ」
Or それとも
Depend on God, His Word and His grace – and he will build you up and carry you to the finish line!「神様、神のみことば、神の恵みにより頼みなさい。神様があなたを建て上げ、決勝線まで抱えてくださる!
9/19 Discussion topics 話し合い
1) We saw today, the church in Ephesus was experiencing “a planned transition with a sudden goodbye”. Please discuss the expressions of grief and hope that you see reflected in this meeting between Paul and the Ephesian elders. How could this example be helpful to us as a church?
エペソ教会が「計画されていた変遷(移行)と突然の別れ」を経験しました。この箇所の出会いでどのような悲しみ方や希望が見られますか。これは私たちの教会にとって、どのように参考になりますか。
2) Although Paul dearly loved the people and churches whom he served, what can we learn from Paul’s humble and willing acceptance of the new path/course that God had suddenly revealed to him?
パウロは人と教会を愛していたが、神様が突然彼に新しい道を示された際、パウロが謙遜で従順に応答しました。そのパウロから私たちは何が学べるでしょうか。
3) Paul reminds the church leaders in Ephesus of the way that he lived and how he served the church for many years. What can we learn and apply by observing Paul and other godly leaders?パウロは、エペソ教会の指導者たちに、長年に渡る生き方と教会に仕えた姿勢を思い起こさせました。パウロなどの敬虔な指導者たちの模範からどのようなことを学び、適用できると思いますか。
4) Key “Takeaway” from our Retreat: As we consider what we have learned during the retreat, is there one specific truth, principle or practice that you want to remember and put into practice by God’s grace?
修養会全体を振り返って、神の恵みによって、特に覚え、実践したい真理(あるいは原則や行動)がありますか。