2026年9月27日礼拝 説教「イエス様だけで、十分ですか?」

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礼拝式順

前  奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship コロサイ人への手紙1章15-20節
さんび Opening Praise 初めにおられた神のみことば
さんび Praise 今こそキリストの愛に応えて
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第3戒)申命記28章58っ節
黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God テトスへの手紙3章4-7節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌132番「イエスの十字架の深い恵み」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書14章1-14節
聖書の話 Sermon 「イエス様だけで、十分ですか?」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスだけにある」
主の献金の招き Lord’s Call to Give 箴言3章9-10節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ主の民」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。家族で遠くへお出かけするとき、後ろの席で「ねえ、あとどれくらいで着くの?」って聞いたことはあるよね。でも、「お父さん、目的地の詳しい住所とルートを全部教えて!」なんて聞いたことはありますか? ないですよね。なぜなら、お父さんやお母さんが全部わかって連れて行ってくれると信じているからです。でも、少し大きくなると、人はだんだん不安になって疑い始めます。僕も若い頃、マニラの猛烈な渋滞にはまったとき、「お父さん、本当に道わかってるの?」と不安になりました。でも、お父さんはもうすでにナビアプリをチェックして一番良いルートを見つけていました。お父さんがそんな基本的なことを考えないと思ってしまったのです。

 

今日の弟子たちもまさにこれと同じでした。イエス様から「もうすぐお別れだ」と言われたとき、彼らはパニックになって「イエス様、どこに行くの? 詳しい住所と地図を見せて!」と大騒ぎしたのです。でもイエス様は、「地図はいらない。わたしが『道』なのだから、わたしを信じなさい」と答えられました。不安になると、私たちはすぐ「地図」や目に見える解決策や計画を要求し、状況を自分でコントロールしたくなります。しかし、イエス様がくださる本当の安心とは、いのちへの道を開いてくださる「イエス様ご自身」なのです。今日は、絶望の中にいた弟子たちにイエス様が語られた、最も素晴らしい約束を一緒に見ていきましょう。

 

Ⅰ.パニックに陥った弟子たち

ヨハネの福音書14章を本当に理解するためには、まず、あの夜に弟子たちが経験していた、激しい混乱とパニックの中に、私たち自身も入ってみる必要があります。イエス様は、約3年もの間、容赦ない反対に直面してこられました。エルサレムの宗教指導者たちから馬鹿にされ、脅され、命を狙われていたのです。しかし、ほんの数日前に、状況は劇的に変わったように見えました。イエス様が近くのベタニアという村でラザロを死からよみがえらせた後、ものすごい数の群衆が、イエス様を「来るべき王」としてエルサレムで大歓迎したのです。彼らは「ホサナ!」と叫び、イエス様のことを、ローマ帝国の重いくびきを打ち砕いてくれる「救い主」と見ていました。弟子たちも「待ち望んだ希望がついに現実になる!」と信じていたのです。

 

ところがその後、すべてが崩れ始めます。イエス様は突然、「人の子は上げられなければならない」と公の場で宣言されました。それは、間もなくご自身がローマの十字架上で処刑されることを意味していたのです(ヨハネ12:32-33)。群衆は「意味が分からない」と困惑し、弟子たちの心も激しく揺さぶられました。

 

そして、あの「最後の晩餐(過ぎ越しの食事)」の夜がやって来ます。弟子たちが「宇宙の主」だと信じていたお方が、ただの奴隷のようにひざまずき、彼らの泥だらけの汚れた足を洗われたのです。それは、イエス様が十字架上で成し遂げられる、「身代わりのきよめ」を象徴するものでした。しかし、このへりくだりを弟子たちが理解しきる前に、イエス様はさらに爆弾発言をします。「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

 

そして、その直後、イエス様はこう宣言されます。「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」ペテロが「あなたのためなら、いのちも捨てます!」と大胆に誓った時、イエス様は彼に決定的な一撃を与えられました。なんと、弟子たちのリーダーであるペテロが、夜が明ける前にイエス様を三度も「知らない」と否定する、と言われたのです。

 

3年間すべてを犠牲にしてついてきて、ついに勝利が手の届くところまで来たと思っていたのに、彼らの世界はガラガラと音を立てて崩れ去りました。彼らの期待は、完全に打ち砕かれたのです。「イエス様は私たちを見捨てるの?」 「私たちが待ち望んでいたことは失敗に終わったの?」

 

もしかすると、皆さんも同じような「信仰の危機」を経験したことがあるかもしれません。神様の計画が、自分の期待や思い通りに進まなかった瞬間です。歴史上最大の救いのみわざが起こる、わずか12時間前。弟子たちはまさに、その絶望のどん底に立たされたのです。

 

Ⅱ.イエス様が与える本当の慰め(ヨハネ14:1–4)

イエス様は彼らのパニックに向き合われた時、ただのカウンセリングのような慰めはされませんでした。「不安になっても大丈夫だよ」とは言われませんでした。人間として不安を持つこと自体は自然なことです。 しかし、「これから来る台風」を心配するのと、「自分のお父さんが自分を捨ててしまうかもしれない」と心配するのとでは、根本的に違います。前者は危険に対する自然な反応ですが、後者は「その人の人格」に対する疑いです。イエス様はここで根本的な問題をズバリと指摘されています。弟子たちは、神様のご性質とご計画そのものを疑っていたのです。ここで弟子たちが陥っていたパニックは、「神様への信頼が完全に崩れ去ったこと」から来ていました。ですからイエス様は、はっきりとこう命令されます。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)

 

そしてイエス様は、ご自分が去って行かれることの「本当の目的」をこう説明されます。

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネ14:2–4)

イエス様は安心させるようにこう言われます。「見捨てるのではなく、あなたがたの場所を用意するために行くのだ」と。 古代ユダヤ人の結婚の習慣を想像してみてください。婚約をした後、花婿(新郎)は一時的に花嫁から離れ、自分の父親の家に帰って、将来二人が住むための部屋を準備し始めます。彼が花嫁のもとから去るのは、「拒絶」や「お別れ」のサインではありません。将来、二人が一緒に住むために絶対に欠かせない、愛の準備期間なのです。

 

イエス様が「去って行く」というのも、これによく似ています。 イエス様の「場所の準備」とは、まさに福音そのものを描いているのです。イエス様が十字架で死に、復活し、父なる神様の右の座に上って行かれることによって、私たちの罪をきよめ、私たちが神様の御前で永遠に暮らせるように道を開いてくださるのです。しかも、父なる神様の家にある部屋は、高級ホテルのように数が限られていたり、一部の特別な人だけしか入れなかったりするわけではありません。イエス様を信じるすべての人を迎え入れるための、有り余るほどの部屋があるのです。

 

III. コントロールを手放せないトマス

こんなに慰めに満ちた言葉を聞いたにもかかわらず、トマスが口を開きます。彼の心はまだ激しく騒いでいました。

「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14:5)

先ほどの花婿の例えを使うなら、トマスはまるでこう言っている花嫁のようです。「待って、その家って具体的にどこにあるの?詳しい住所を教えてくれるの?電車で行くの、それともバス?何時何分に私を迎えに来てくれるの?」私たちが不安になる時、私たちはよく「もっと情報が欲しい!」と要求しますが、本当は状況をコントロールしたい気持ちがあります。しかし、すべてを思い通りにコントロールしたいという欲求の裏には、たいてい「恐れ」が隠れています。見捨てられるんじゃないかという恐れや、神様が約束を守ってくれないんじゃないかという恐れです。

 

イエス様は、そのようなトマスの不安とコントロール欲求に対して、聖書の中で最も素晴らしい宣言をもって真っ向から向き合われます。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(ヨハネ14:6–7)

イエス様は、問題の焦点を見事に変えられました。 「トマスよ、君に必要なのは地図や細かいスケジュールじゃない。君には『わたし』が必要なんだよ。わたしが父の御前へ行くための道なんだ。わたしが神の約束を証明する真理そのものなんだ。わたしが死に打ち勝つためのいのちなんだ。すべての答えを知っていたり、未来をコントロールしたりすることによって天のお父さんのところに行けるわけじゃない。わたしを信頼することによって行けるんだ。君はわたしのことを知っているのだから、ずっと前からその道を知っていたんだ。わたしを知っているからこそ、神の家に住むことができ、神ご自身を知り、見ることができる。だから、心を騒がせてはいけない。」

 

Ⅳ.ピリポの「クリスチャンっぽい」拒絶

イエス様のこの慰めの言葉を聞きながら、ピリポは、一見するととても敬虔に聞こえるような言葉をポロッと口にします。しかし、それは弟子として最も悲劇的な瞬間の一つでもありました。イエス様が「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」とはっきりと言われた直後に、ピリポはこう答えたのです。

ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)

先ほどの花婿の例えを使うなら、それは花嫁がこう言っているようなものです。「あなたのことを知って、信頼するだけでは十分じゃありません。あなたのお父さんと、あなたが準備してくれている家を、私のこの目で実際に見たいんです。そうしてくれなければ、私は安心できません。」ピリポは「イエス様がいるだけでは十分ではない。」と告白していたのです。イエス様のこのお返事から、その深い悲しみが伝わってきます。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。』3年もの間、あれほど親しく交わりを持ってきたにもかかわらず、ピリポの信仰はイエス様に信頼することよりも、まだ「目で見ること」にしがみついていたのです。

 

しかし、ピリポの未熟さを批判する前に、少し素直になってみましょう。私たちは、ピリポがなぜこんなことを言ってしまったのか、痛いほどよく分かりますよね。愛する家族が残酷な病気に飲み込まれていくのを見る時…失業や経済的な不安という、押し潰されそうな現実に直面する時… 最も信頼していた人たちから見捨てられたり、裏切られたりする時… 自分ではどうしてもコントロールできない罪が、人間関係を何度も破壊してしまう時… 一番苦しい時期に、神様が沈黙しておられるように感じる時… そういう時、私たちはよく「イエス様を信頼するだけでは、どうしても十分じゃない。」と感じてしまいます。そして、こう叫びたくなるのです。「イエス様、あなたが道であり、真理であり、いのちであることは分かっています。でも、今すぐ、父なる神様を見せてください!奇跡を起こして愛する人の命を救ってください、奇跡を起こして私の通帳の残高を直してください、奇跡を起こしてこの痛みを取り去ってください!ただそれさえ与えてくだされば、それで十分ですから!」心がパニックに陥った時、私たちが皆感じることを、ピリポはただ声に出して言っただけなのです。

 

では、もう一つ奇跡を見れば、私たちのこの不安な心も永遠に満たされると、本当に思えますか? もし皆さんが、ヨハネの福音書をここまで一緒に読んできたなら、その答えはもう分かっているはずです。それはまるで、ヘビースモーカーの人が、「タバコをやめなきゃいけないのは分かってるんだけど、今日は本当にしんどかった。心を落ち着かせるために、あと一本だけちょうだい。これを最後に絶対やめるから。」と言っているようなものです。

 

自分の状況をコントロールすることや、神様のしるし(奇跡)に依存してしまうこの人間の姿に対して、イエス様は何と言われたでしょうか。

「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。」 (ヨハネ14:9–10)

言い換えるとこういうことです。もしあなたがイエス様を見つめ——そのあふれる愛、真理に満ちた教え、力強いみわざを見て——それでもなお「父を見せてください」と言うなら、あなたは単に「イエス様では十分ではない」と言っているわけではありません。「父なる神様でも十分ではない」と言っているのです。

 

もっとストレートな言い方をさせてください。今日、教会の内外を問わず、「神様」について語る人はたくさんいます。誰もが、人生の本当の平安、喜び、幸せ、そして満足を求めています。ある意味で、みんな「道であり、真理であり、いのちであるもの」を探し求めているのです。しかし、もし「神様」「聖書」「真理」「恵み」といった素晴らしい言葉を口にしながら、「イエス様」が会話に出てこなかったら、その話の中心に「イエス・キリストご自身」を置いていないなら、その話は聖書と全く関係ない話なのです。それは、目の前におられるイエス様を通り過ぎて、その背後に「自分の都合のいい別の神様」を探しているのと同じだからです。私たちは、神様が与えてくださったイエス様を喜んで受け入れる代わりに、ただ自分の欲しいものを手に入れるために「聖書っぽい言葉」を利用しているだけなのかもしれません。それこそが、私たちの心がいつも不安で騒ぎ、決して本当の満足を得られない「根本的な理由」なのです。

 

Ⅴ.覚えていただきたいこと

だからこそイエス様は、私たちの激しく騒ぎ、パニックに陥った心に本当の平安をもたらすために、3つのことを覚えていてほしいと願っておられます。

①イエス・キリストご自身から目を離すと、私たちはパニックと不安を引き起こす、無力な偶像を礼拝してしまいます。 ピリポを慰めようとして、イエス様はシンプルにこう言われました。「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」(ヨハネ14:11) イエス様は私たちに、自分自身の不安から目を離し、イエス様の本当の姿を信じるようにと招いておられます。カルバンは、この箇所についてこう言っています。「私たちがキリストから目を離した瞬間、私たちはすぐに自分勝手な想像で作った偶像を礼拝し始めてしまう。」カルバンによれば、私たちの問題とは、自分自身の頑固さと恐れのせいで、イエス様のみわざの中に父なる神様を見ることができず、また神様のみわざの中にイエス様を見ることができなくなってしまうことなのです。

言い換えるなら、こういうことです。もし神様が何らかの恵みを与えてくださったのに、それが私たちを「イエス・キリストご自身」へと導かないのであれば。あるいは、イエス様を求めているはずなのに、いつの間にかそれが「別の何か」を求めることにすり替わっているのなら。私たちが得た平安や慰め、喜びは、決して長くは続きません。それは結局のところ、パニックと不安を引き起こすだけの、無力な偶像に過ぎないからです。

②地上で起きた『目に見える奇跡』ではなく、天で完了した『圧倒的な勝利』の中にこそ、揺るぎない平安があるのです。「道であり、真理であり、いのちである」イエス様に深く信頼することが、皮肉なことに、私たちの不安な心が一番求めている力強いみわざをピタリと与えてくれます。「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12) 多くの人はこの言葉を、クリスチャンがイエス様よりもっとすごい奇跡を起こすようになるとか、もっと大きな宣教の成功を収めるようになると解釈しがちですが、それだけだったら、それは的はずれとも言えます。

イエス様がこの地上でされたみわざは、父なる神様と御子ご自身の栄光を宣べ伝えることでした。私たちが今しているみわざも同じです。では、何が私たちのみわざを「さらに大きなもの」にしているのでしょうか。それは、「タイミング」です。 イエス様の十字架、復活、そして昇天がすでに行われたから、神様の栄光より力強く宣べ伝えることができます。イエス様の十字架での死は、私たちを罪とサタンから救い出したことを証明しています。イエス様の復活は、ご自身が死とハデスの鍵を持っておられることを証明しています(黙示録1:18)。そして、父なる神様の右の座に昇られたことは、御子であるイエス様が、父なる神様と全く同じ栄光と権威を持っておられることを証明しているのです(ピリピ2:9-11)。 今日、私たちが福音を宣べ伝える時、天に昇られた前の「水の上を歩けたイエス様」や「死んだ人を生き返らせたイエス様」を紹介しているわけではありません。私たちはそれ以上の圧倒的な栄光を宣べ伝えています。天に昇られたイエス様が完了したみわざの力こそが、目に見えるどんな奇跡よりも、私たちを深く慰めてくれるのです。

③「イ・エ・ス」は願いを叶える魔法の言葉ではなく、私たちを愛し抜いたお方のお名前です。 イエス様は、御子の力や権威、救いというこのような次元の高い神学を、私たちのような罪人の、この地上での切実な必要へと引き下ろしてくださいます。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネ14:13-14) 「イエス様の名によって」祈るというのは、魔法の呪文ではありません。楽な生活を保証してもらうために、祈りの最後に「イ・エ・ス」と付け足すことでもありません。イエス様の「名」とは、イエス様のご人格、そのご性質、そして十字架ですでに完了したみわざそのものを表しています。その名によって求めるということは、私たちのために血を流してくださった、そのお方の愛に完全に寄り頼むということなのです。

 

これこそが、福音の核心です。父なる神様と子なる神様が、私たちのために永遠の場所を用意しようと、あの恐ろしい十字架を通り抜けるほどに私たちを深く愛してくださったのなら、その神様が、今私たちが直面している危機の中で、私たちを見捨てるなどということがあり得るでしょうか。死に打ち勝ったお方が、私たちが受ける病の宣告に対して何もおできにならないと思いますか。宇宙を治めるお方が、私たちの経済的な不安に対応できないと思いますか。弟子たちの足を洗われたお方が、私たちの壊れた人間関係に触れたくないとお考えだと思っているのですか。 私たちはどのようなイエス様に頼っているのでしょうか。

 

だからこそ、イエス様はこう言われたのです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」安心するために、私たちに「未来の地図」や「幸せな人生のマニュアル」は必要ありません。私たちに必要なのは、イエス様ご自身なのです。だからこそ、イエス様は私たちの「道であり、真理であり、いのち」なのです。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church