2021年8月29日 礼拝 説教「神のいつくしみと人に対する愛」

 

<礼拝式順>

前   奏
招きの言葉 エペソ人への手紙 2章4−10節
さ ん び 「新しい命」
さ ん び 「主イエスの十字架の血で〜He Is Our Peace」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 14番 「とうとき主のみ救いよ」
聖書朗読 テトスへの手紙 3章1−8節
聖書の話      「神のいつくしみと人に対する愛」 百瀬ジョザイア伝道師
教会福音讃美歌 495番 「来る朝ごとに」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

テトスへの手紙3章1〜8節 「神のいつくしみと人に対する愛」 百瀬伝道師

初めに
皆さまには、接しにくい相手はおられますか。恐れ、あるいは苛立ちを覚えながら話し合う相手がいますか。在宅勤務ができるようになって、会わなくて済むことにほっとするような相手がときにいるかもしれませんね。上司や先生、同僚やママ友などに、「苦手な人」はいるかもしれません。
では、そのような人について福音は何を教えると思いますか。クリスチャンは「もちろん、愛すべきだ」と答えられるかもしれません。しかし、私たちは本当に、どの人にとっても福音が力あるものであり神様の愛が世界中に行き渡る、と信じているでしょうか。余裕がないと感じると、他の人を無視したり怒ったりする誘惑が私を襲いますが、皆さまはいかがでしょうか。
テトスへの手紙3章1〜8節は、聖書の福音を美しくまとめていますが、これはすべての人に対して誠実に、愛をもって歩むようにという命令の文脈で書かれています。なぜでしょうか。一緒に見ていきましょう。
最初に1、2節で、関わるすべての人に対してクリスチャンが取るべき態度を見ます。次に、3節で未信者の罪と惨めさを見て、すべての人の問題を確認します。それから、4〜8節で神様の人に対する愛とその適用を見ます。

一、すべての人に 1〜2節
まず1、2節でパウロは、あらゆる人や支配者に対してクリスチャンが取るべき態度を書きます。2章には、特に家庭や教会の中のやや深い関係に対する戒めが教えられていましたが、3章には「すべての人」、すなわち私たちと少しでも接点がある人々とどう向き合うかを書いています。バス停や駅ですれ違う、困っている人かもしれませんし、面倒な手続きをさせる役場の職員かもしれませんし、学校や職場や公園でともに過ごす人かもしれません。私たちが知っているすべての人について、この箇所が適用されます。
1節前半でパウロはテトスに「人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従〔う〕…者となるようにしなさい」と命じます。パウロは社会的、政治的な支配者だけでなく、学校、部活動、職場など、あらゆる活動の権威ある者に服し、従うべきだと教えます。その権威者たちがいつも正しいことを指示するとは限りません。税金を払うのは大変です。理不尽な指示を出す上司は多くいます。しかし、パウロは「理不尽なことには例外適用。服す必要なし」とは言いません。私たちは権威ある人に謙虚で誠実な態度を取るようにとの愛の律法を受けています。
目上の人に服することだけでも難しいですが、神様はそこで命令を終わりになさいません。私たちのすべての関係についても、パウロは私たちに行動と言葉と態度の三つの指針を与えます。これはすべての人との関わり方だと強調します。
第一に1節後半でテトスは「すべての良いわざを進んでする者となるように」と指示を受けます。良いことに気付けばそれをするという誠実さをパウロがクレタ島のクリスチャンに望んでいました。第二に、やはり良いわざは良いことばを伴うものです。ですから、「だれも中傷せず、争わず」に、人をことばを使って愛するようにとパウロが教えます。さらに、第三に「柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者」になることも指示されています。「すべての良いわざ」を、いつでも、誰にでも礼儀正しくまた意図的にするように言われています。「真心」や「気が利く」ことを評価する日本文化では聞き慣れていることかもしれませんが、 パウロは、完全にそれを行いなさい、と神様の完璧な基準を掲げています。
この公の礼拝の時間が終われば、私たちは世に遣わされていろいろな人と話し、働き、遊びます。そこで、私たちは口先で、あるいはスマホに触れる指先で、また頭の中で、批判的に、また荒々しいことばを使って人に接することがありますか。ときには、腹を立てながらペコペコするかもしれません。すべての人を大切に思わない、誠実に向き合わないことについて、神様は私たちの誠実さについて探られます。支配者と周りの人に対する反抗と打算を、指摘されるかもしれません。

二、すべての人の問題 3節
さて、愛しにくい人が思い浮かんできたかもしれませんが、パウロが次に書くことは興味深いです。私たち自身の愛しにくさに光を当てます!前回の2章と同じパターンですが、4節から、これらの戒めに従うことを可能にする「福音」の力が登場します。ただ、悪い知らせを聞いてから良い知らせを聞いてこそ、物語をより深く楽しめるように、3節はすべてのクリスチャンの過去の現実の姿、そしてすべてのノンクリスチャンの現在の現実の姿を描いています。
私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。
偉大な宣教師のパウロも頼もしい同労者のテトスも、「私たち」同様、堕落していたのです。失われていた者でした。キリストに出会う前は、人間は皆そのような者でした。クリスチャンはかつて、「愚かで、不従順で、迷っていた者」でした。ノンクリスチャンは今もこうであるのです。(「不従順」は1章16節で、悪質教師について使われた同じことばです。)神様を拒んで、自分勝手に生きるのは、不従順で迷った、造り主なる神様に対する反逆罪であると覚える必要があります。
次に、私たちは「いろいろな欲望と快楽の奴隷」として生まれました。神様に服従しないからと言って、人間は自由である訳でありません。罪深い欲望に支配されて、生きています。そしてその結果、キリストの内にまだいない人は「悪意とねたみのうちに生活し人から憎まれ、互いに憎み合う者」です。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、考えてみましょう。私たちは、欲しいものを得られるか得られないかによって感情が変わります。感情から、私たちの宝物、私たちの欲望が何であるかが見えてきます。欲しいものを手に入れることを妨げる人を邪魔者と見なし、憎んでしまうのは、欲望に支配されて魅了されてしまった自然な結果です。
あくまでもこの問題は、すべての人と神様との個々の関係に基づいているので、他の人の目には見えないかもしれません。クリスチャンでない人は表面的にとても優しいことがあります。クリスチャンなのに様々な欲望に動かされてしまうこともあり得ます。しかし、基本的に、神様の診断によれば、すべての人は神に敵対する罪人です。そして、自分の欲求を妨害する人に対して敵意を抱いてしまいます。こういう私たちは、神様から愛を受ける資格がないのです。ですから、正義をなさる神様の裁き(地獄という永遠の拒絶)からの救いが必要です。これは、すべての人の問題です。だからこそ、これに続く良い知らせは、私たち一人一人が注意して聞くべき福音です。

三、すべての人をいつくしまれた神様と適用 4〜8節
4〜7節は古代の賛美歌とも思われるほどに、聖書の良い知らせをギュッと詰めた宝石のような箇所です。私たちの罪に対する神様の裁きは絶対的ですが、その裁きからの救いを、父と子と聖霊なる神さまが成し遂げられたと、ここで書かれています。この箇所に、その救いの幾つかの側面が出てきます。その時、理由と根拠、方法、それから目的を見ていきましょう。パウロが宣言します。
しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。
4節は神様がいつ救いを成し遂げられたか(When)を指しています。私たちの救いは、私たちの地上の人生のうちに与えられますが(ウェストミンスター小教理問答問29〜31参照)、それはイエス・キリストが地上に現れ働かれた時に源があります。
5節前半から、神様がなぜ救ってくださったか(Why)が分かります。この箇所は、「私たちが行った義のわざによってではなく」と、救いの根拠は自分たちにはないと強調します。逆に、救いの根拠は、7節で暗示されるイエス・キリストの義です。神様は私たちの行いを予見して「あの人とあの人はわたしの働きかけに誠実に応答するだろう」と、良さそうな人を救おうと決めたのではありません。ただ「ご自分のあわれみによって」救われたのです。私たちは神様の救いを獲得するために何もできませんが、神様が一方的なあわれみを理由に、救ってくださいました。
5節の続きと6節に父なる神様がどのようにして救ってくださったか(How)が書かれています。彼は「聖霊による再生と刷新の洗いをもって」救ってくださいました。「再生」と「刷新」は意味の近い言葉です。どちらも神様が罪の中で死んでいて腐敗していた人の心に霊的ないのちを与え、新しい心にしてくださった出来事(エペソ2:1-5参照)を指します。
3節と重ね合わせると、根本的な心の「不従順」から開放する心の造り替えが必要です。この変化は、私たちが救われる経験の始まりであり、エゼキエル書36章25・26節でも約束されました。「わたし〈主なる神〉がきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」石のように硬い心が神様に対して敏感になり、また、従順になり、心を支配する偶像(欲望)を捨てたいと思えるのは、聖霊様の大きな働きのゆえです。
6節が補足しますが、父なる神様はイエス様を通して聖霊様を「私たちに豊かに注いでくださった」のです。使徒の働き2章、ペンテコステの日にそれが教会全体に起こりました。今も、神様が聖霊をクリスチャンの内に惜しまずに注いでくださいます。これを可能にしたのは、「私たちの救い主イエス・キリスト」です。彼は私たちの罪が洗いきよめられるためにいのちを捨ててくださいました。さらに復活の後、天に昇られて聖霊様を注ぎしてくださった方です(使徒2:32-33)。
7節にあるのは、救いの目的です。私たちの立場を変え、神様との関係を新たにするためでした。もうお気づきかもしれませんが、イエス様は、1、2節の課題を完全に果たされた唯一の人でした。へりくだって、人間としてお生まれになりました。社会で「除け者」として扱われた人と率先して交わり、助けられました。厄介な税金を納め、当時の「支配者たちと権威者たちに服し、従」われました。まさに、「すべての良いわざを進んでする」お方でした。
このキリストはついに、天の父なる神様にも従われ、十字架の上で私たちの救いのためにいのちを捨ててくださいました。彼の完全な誠実さが彼の義として、父に認められました。ですから、罪深い私たちはイエス様に信頼すると、彼の完全な義によって天国に入る特権をいただきました。「恵みによって義と認められ」また子として扱っていただいて、救われました。クリスチャンは神様から、「あなたは御子イエスに信頼しているので、彼の義に基づいて、あなたをすべての人を愛する正しい人として見なします。御子イエスと同様、新しい天と地の栄光に入ることができる、私の愛する子と見なします」との言い渡しを受けています。
パウロは8節で、これまでの「ことばは真実」だと言い、「良いわざに励むことを心がけるようになるため」にテトスがそれをひるむことなく教えるべきであると書きました。8節の最後に、この真実なことばが「人々に有益です」とあります。
これで私たちは本日の箇所の初めに戻りました。パウロは信者が自分の救いの必要性と豊かさを思い出し、「いつくしみと人に対する愛」を示してくださった神様に倣って、すべての人に誠実を尽くし愛を示すことを願っています。これは、変えられた本人と周囲の人に有益です。神の子とされた人はイエス様によって、「地の塩」と「世の光」と呼ばれています。罪の腐敗を防ぎ、霊的な闇の中に光をもたらすために、私たちは神様の救いをいただきました(マタイ5:13-14)。福音の力によってクリスチャンは、権威者や愛しにくい人にでも、益をもたらす者として生かされています。

結び
私たちは今日、すべての人に対して良いわざに励み、良い態度で誠実に接するように教えられています。これは私たちの力では不可能なことです。3節の通り、私たちは元々、どうしようもなかった人間です。しかし、神様の人に対する優しさと愛がイエス・キリストという人をとおして現れました。私たちは神様の愛を獲得することはできません。しかし、イエス・キリストにあって、愛と義がある者として扱っていただいていますし、心を刷新していただいています。イエス様の栄光を共に喜べる相続人として登録されています。これほどの豊かな恵みがあってこそ、心に余裕をもって、他の人に優しさと誠実さを示し始めることができるのではないでしょうか。
私の個人的な経験として、神様によって変えられた人間関係の経験についてお分ちします。私が大阪の事務所で秘書として勤めていたとき、多くの同僚に恐れられる課長がいました。相談するほとんどの人が彼のだめ出しを食らうという評判の持ち主でした。私もやはり同じ経験をしました。それで彼の気に障らないように、どうしようかと、恐れの姿勢で悩むようになりました。しかし、神様に思い起こさせられました。上司の怒りを買うことを避けること中心でなく、肯定的に、彼を愛してあげるのはクリスチャンの私の召しだと。そして、試行錯誤しながら彼に対して誠実になろうとしました。失敗もしましたが、考え方が変わったことによって、恐れがほとんどなくなりました。彼に認められなくても神様によって愛され、すでに義と認めていただいていたから、恐れる必要がないと分かりました。今でも忘れられない経験です。
私たちはテトス3章3〜7節で凝縮された真実なことばに、毎日、戻る必要があります。苦手な相手を含むすべての人に対して礼儀正しく誠実になることができるようにするのは、聖書の真理を私たちに思い起こさせる聖霊様だけです。聖霊様は暴力やねたみ、恐れや利己主義が満ちたこの世の中へ、私たちとともに行ってくださいます。そして、みことばをもって私たちに神様の福音を思い起こさせてくださいます。主を賛美して、神の愛と助けを確信しながら、人に対して誠実と愛を示すわざに励みましょう。