礼拝式順
前奏
招きの言葉 ヘブル人への手紙 4章8−10節
さ ん び 「我が心の目を開いてください」
さ ん び 「詩篇23」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 313番 「弱き者よ」
聖書朗読 ヨシュア記 13章1−7節 (1−33節)
聖書の話 「未完了。」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 355番 「私の望みは」
献 金
報 告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝 祷 マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
2021年9月12日 ヨシュア記13:1-33「未完了。」 マーク・ボカネグラ牧師
私と恵は最近、医療ドラマにハマっています。このドラマは特に複雑な手術があり、 患者さんにいろいろ難しい質問を問う場面があるのです。例えば、「手術 A をすれば、 いのちが保証されるけど、確実に自分の手足の自由を 20-50%失うことになる。手術 B をすれば、20%の確率で死ぬかもしれないけど、確実に自分の手足の自由が保証され る。費用は同じであれば、どっちの手術をしますか?」のような場面がよくあります。 そして、私とめぐみはどっちの手術を選ぶかという話で結構盛り上がるのです。手術に 限らず、どんな状況でも、様々な不確定要素の中で私たちはいつも判断しなければなり ません。
医療ドラマの例えを使って、皆さんに一つのシナリオを提示したいと思います。30 代前半の私は重い病気にあっかかってしまい、もうすでに末期です。しかし、いつ死ぬ かはわからない状況です。明日死ぬかもしれないし、1-2 年後になるかもしれません。 あなたには二つの選択肢があります。一つは、A 医師の手術です。この先生の腕はいい のですが、限界があります。あなたの MRI をみて、A先生はこう言います。「頑張れ ば、この病気の悪い部分の 95%を取ることができますし、手術のすぐ後から症状が軽 くなります。しかし、不完全な手術です。残った病気を克服できるかどうかはあなたの 努力次第です。もし、あなたがリハビリを頑張らずに、最後の 5%の部分がとれなかっ たら、あなたは確実に死にます。患部の全部は取れないのですが、費用は比較的に安い ですし、すぐにも手術はできます。」これがA先生の提案です。
もう一つは、B 先生の手術です。あなたの MRI を見て、即答で「はい、大丈夫です。 私は 100%この悪い部分をとることもできますし、回復も 100%保証します。それに、 手術後、すぐに日常生活に戻れますし、完全復帰できます。しかし、今すぐ手術するこ とができません。そして費用もかなりかかります。ですから、重い症状を持ったまま我 慢してもらわなければなりませんし、手術を受けるためにあなたの全財産をほぼ費やす ことになります。しかし、あなたの症状が酷くなる前に必ず手術することと、悪い部分 の 100%を取って、あなたが完全復帰できることと、再発の可能性が0%だということ を私は保証します。」B先生はそう提案します。30 代前半のわたしの立場だったら、 どちらの手術を受けるでしょうか?安くてすぐに症状を軽くできるけど、「不完全」な 手術か、高いし、一時的に辛いかもしれないけど、「完全」な手術?皆さんなら、どち らを選びますか?多くの人たちは、「完全」な手術を選ぶのではないでしょうか。なぜ なら、A 先生と B 先生の違いは約 5%しかないのですが、どれほど 100%に近くても、 「不完全」な手術より「完全」な手術から来る安心感は比べられないと思います。
本日の聖書箇所は、救い主としてのヨシュアの限界に特に焦点を当てています。ヨシ ュアがかなりすごいことを成し遂げても、「救い」に関してはまだ「不完全」でした。 つまり、医療ドラマの例えで言うと、ヨシュアの救いは A 先生の手術のようです。「あ なたを 95%救えますが、最後の 5%はあなたの努力次第です。最後の 5%が達成できれば、あなたは救われます。もし、できなかったら、裁かれます。」ということです。多 くの人たちは、それでも満足すると思います。「たった 5%か。それなら、自分でなん とかなりそうだ」と思うかもしれません。しかし、聖書をよく読んでいる人は知ってい ます。5%であれ、1%であれ、0.01%であれ、人の努力によっては、何も保証できま せん。むしろ、何%であろう、人間には確実にできないということが聖書のメッセージ であり、この聖書箇所のポイントでもあります。本日の箇所の流れを見て、覚えていた だきたい三つのポイントを分かち合いたいと思います。
まず、本日の箇所の流れを見ていきましょう。
ヨシュア 1-12 章は「カナンの戦い」という感動的なドラマが書かれている箇所なの ですが、ヨシュア記 13-21 章は、戦いに勝利した後の「取り分」の説明と、「取り分」 をどのように受けるかという話です。ですから、私自身もそうですが、多くのクリスチ ャンにとって、ヨシュア記 13 章は、あまりワクワクしない、むしろ、飛ばしたくなる 話だと思います。しかし、こういうふうに例えることができます。もし何らかの形で 2 億円の賞金が与えられるという話になったら、どちらの話を聞きたいですか?どのよう にあなたに賞金が与えられたかという「ドラマチック」な話か、どのように、そして、 いつその 2 億円があなたの銀行口座に振り込まれて、いつそのお金を使えるかという具 体的な話か、どちらを聞きたいですか?たぶん多くの人は後者のほうだと思います。な ぜなら、どんなにドラマチックな話であっても、賞金が振り込まれなかったら、全く意 味ないからです。ですから、「祝福」を頂いた神の民の立場を想像すると、1-12 章の 話よりも 13-21 章がもっとワクワクする話だということがわかると思います。「カナン の戦い」が終わり(11:23)、「約束の地」が聖書の神様の支配下になりました。40 年 間も荒野でさまよい、7 年間も戦い続けてきた神の民は、神様が約束された「安息」と 「取り分」を自分たちのものにできる日を待ち望んでいました。そして、ヨシュアはそ の「取り分」について、13 章から 21 章にかけて、民に具体的に説明したのです。
13 章 1-7 節は、ある意味、13-21 章のまとめが書いてあるのですがですが、最初の一 節を読むと、予想外の驚きの進展が見られます。
ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。「あなたは年 を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。」
この一節で、勝利とお祝いの空気がガラッと変わりました。つまり、「あなたに賞金 が与えられましたが、賞金が振り込まれるまでに待ってください、まだ満たされていな い条件が残っている」ということです。11 章と 12 章だけを読むと、ヨシュアはカナン のすべてを占領できたという印象を受けます。そして、ヨシュアが戦いに勝ったこと、 また、カナンの地で最も影響力のあったリーダーになったということは変わりません が、すべての国を占領したわけではなかったことが 13:1 に書かれています。
ヨシュアと神の民は、具体的なミッションのためにカナンの地に神様に派遣されまし た。1 年前のことですが、ヨシュア記のシリーズの初めの説教でそのミッションについ て話しました。申命記 30 に書いてあるミッションは、神様が倒された王国の土地をすべて占領し、神様に従わないすべての人を追い出すということでした。そして、その条 件を満たし、神様の命令に強く雄々しく従ったなら、約束の地が与えられるとのことで した。しかし、この 13 章 1 節でわかることは、「カナンの戦い」は終わりましたが、 神様から頂いたミッションはまだ「未完了」であるということです。そして、年を重ね たヨシュアには、このミッションを「完了」させるエネルギーも力もなかったというこ となのです。つまり、ヨシュアは自分の限界に達してしまって、残りのミッションはヨ シュアではなく、神の民の一人一人の努力に委ねることにしたのです。
ヨシュアは年老いて、力の限界に達してしまいましたが、それでも、ヨシュアが成し 遂げたことはすごいことでした。13:2-6 に書いてあるのは、占領すべき残された土地 についてです。
この地図を見ると、残された土地は大きく 3 地域に分けられます。カナンの最も南の地域のペリシテ平野(へいや)、最も北にあるフェニキヤ地域、そしてレバノン山地です。13-21 章をさらに読むと、まだ占領していない細々した地域が中心部にもあることがわかりますが、大まかに言うと、残っているのはこの三つの地域です。しかし、逆に言うと、ヨシュアはそれ以外の地域を全て占領したのです!中心部のエリコからスタートしてゼロから、南のラキシュとヘブロンまで占領し、北のハゾルまで占領してきたのです。もちろん、モーセはヨル
ダン川の東にあるバシャン、ギレアテ、アンモンも全て占領済みでした。
ですから、残された地域は占領された地域と比べたら小さかったです。ですから、ヨシュアは本当に素晴らしいリーダーでしたし、神様のみことば通りに歩んだリーダーでもありました。しかし、ミッションが「未完了」である ことには変わりありません。そして、神様の敵をすべてカナンの地から追い出すことが できなかったら、神の民が異国の神々を慕い、偶像を礼拝してしまうことになる、と神 様はご存知でした。さらに、神様は、もし神の民が他の神々を拝んだら、民を約束の地 から追い出すと約束されていました(申命記 31:16-18)。ですから、まだ占領してい ない地域があり、異国の神々がまだ約束の地に潜んでいたことは神の民にとって致命的 なリスクでもありました。
ヨシュアがミッションを「完了」できないとしても、致命的なリスクがあったとして も、神様は憐れんでくださいます。
13:6-7 「わたしは彼らをイスラエルの子らの前から追い払う。わたしがあな たに命じたとおり、あなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。 今、この地を九部族とマナセの半部族に相続地として割り当てよ。」
つまり、こういうことです。神の民がまだ残りの地を占領していないことは事実です が、条件付きで「約束の地」を与えるというのです。つまり、神の民が全ての土地を占 領し、民を聖書の神様から誘惑する「異国の神々」を追い出すという前提で、民に「約 束の地」という「勝利の取り分」を割り当てるとおっしゃいます。そして、神様は神の 民とともに残りの敵を倒されますが、この条件とこの前提を民が満たさなければ、彼ら は異国の神々の誘惑に陥り、神様は、民との関係を完璧に切り離されるのです。そし て、そうなれば、割り当てられた「取り分」は、神の民から回収され、彼らは裁かれ る、と神様はおっしゃっているのです。つまり、ヨシュアは神の民の代わりに神様の条 件を95%満たしたので「条件付きの救い」を得ることはできますが、ヨシュアが残り の5%を自分で満たすことができないなら、裁かれてしまうということになるのです。
この 13 章 1-6 節の冒頭の説明の後で、イスラエルの 12 部族の「割り当て」が与えら れます。ですから、神の民は、非常に複雑な思いでこの「割り当て」を受けることにな ると思います。神様の恵み深さ、ヨシュアが成し遂げた救い、そして、この素晴らしい「割り当て」に対す る感謝の気持ち。神様を何回も裏切 った罪深い民としては、本来なら、 受けるべき恵みではないのですが、 受け取ることができるという喜びが ありました。しかし、もう一方で、 彼らには「私たちは最後の数パーセ ントを成し遂げられるだろうか?」 という疑問もありましたが、ヨシュ ア記の 1-12 章の流れを見ると、「ま あ、今まで 33 王国も倒してきたのだ から、大丈夫でしょう」というふう に考えたかもしれません。
そして、本日の 7-33 節には、最初 の「割り当て地」の詳細が記(し る)されていて、ルベン部族、ガド 部族、マナセの半部族に「相続地」 が与えられます。この地図を見ると、かなり広い土地ですが、この「相続地」はカナンにある土地ではなく、ヨルダン川 の東、つまり、「荒野時代」に神様から与えられた相続地です。そして、もし神の民の ミッションがすべての異国の神々を追い出すということであれば、13:7-33 の全体を見 ると、このミッションがほぼ「完了された」状態であったと言えます。なぜなら、その 土地には異国の神を礼拝する人々が非常に少なかったからです。そして、カナンで与え られる「相続地」と比べれば、「リスクの低い」土地でした。なぜなら、カナンには異 国の神を礼拝する人々が多かったからです。ヨシュア:“約束の地”へ導く イスラエル12部族への分割 | Bible Learning
しかし、ヨルダン川の東にある相続地は「ノーリスク」な割り当て地ではありません でした。そして、13:12-13 を読むと、かなり衝撃的な事実が書かれています。
ヨシュア13:12 アシュタロテとエデレイで王であった、バシャンのオグの王国 全域。オグはレファイムの生き残りであった。モーセは彼らを討ち、追い払っ た。13:13 しかし、イスラエルの子らは、ゲシュル人とマアカ人を追い払わな かったので、ゲシュルとマアカはイスラエルのただ中に住んだ。今日(こんに ち)もそうである。
ほぼ完璧と思われる 7-33 節の中に、このような致命的な一節が書いてあるのです。 ゲシュル人とマアカ人は、ガリラヤ湖の近くにある、北のマナセ半部族の陣地のほぼ真 ん中に住んでいました。そして、モーセは、マナセ半部族の代わりに、強敵のオグ王を 倒したのですが、まだ、聖書の神様に従わない人々が少し残っていたのです。2.5 部族 の相続分を合せて見ると、本当に小さな%でした。ですから、たやすく追い払うことが できたはずです。しかし、「シュルとマアカはイスラエルのただ中に住んだ。今日もそ うである」という一言で、すべての恵み、すべての救い、すべての神様からの祝福が失 われるというリスクを負うことになってしまいました。
そして、この後の相続地を見ていきますと、実は、残りの 9.5 部族もすべての土地を 占領できなかったということがわかります。神の民は、ヨシュアがやり残したミッショ ンを完了させることができず、「未完了」のまま放置してしまったことがわかります。 そして、ヨシュア記の次の書物である士師記の初めに、どの部族がカナン人を追い払わ なかったのかが、詳しく書かれています。そして、最終的に、神様はこうおっしゃいま す。
士師記 2:1-4「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの父 祖たちに誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたと結んだわたしの 契約を決して破らない。2:2 あなたがたは、この地の住民と契約を結んではな らない。彼らの祭壇を打ち壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわ たしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。 2:3 それでわ たしも言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなた がたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる。』」 2:4 主の使いがこれらのことばをイスラエルの子ら全体に語ったとき、民は声をあげて泣い た。
そして、士師記の流れを見ますと、異国の民が神の民を占領し始めます。これは、13 章の将来の暗い結末でもあります。この暗い結末から、私たちはどのように自分達に適 用することができるでしょうか?覚えていただきたいことが 3 つあります。
まず、覚えていただきたいのは、どれほど素晴らしく、賜物のある人であっても、人 間の「わざ」はいつも「未完了」であるということです。
ヨシュアは信仰深い人で、将軍としても、リーダーとしても非常に優れた人でした。 ヨシュアのリーダーシップによって、寄留者だった神の民がゼロから 31 の王国を倒し たのです。そして、ヨシュアは様々な試練と誘惑に向き合いながらも、強く雄々しく神 様に従ったのですが、ヨシュアは神様から頂いたミッションを「完了」させることはで きませんでした。「完了」させることができる能力、信仰、知識があったとしても、ヨ シュアも人間としての限界に達したのです。つまり、ミッションを「完了」させる前 に、年を取ってしまい、自分の時間と力が尽きてしまったのです。興味深いことに、ヨ シュアのミッションが始まったきっかけも、似たような状況でした。
ヨシュア記 1:1 主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者(じゅうし ゃ)、ヌンの子ヨシュアに告げられた。1:2 「わたしのしもべモーセは死ん だ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラ エルの子らに与えようとしている地に行け。」
つまり、主のしもべモーセがミッションを「完了」させられなかったので、そのミッ ションはヨシュアに委ねられたのですが、結局、ヨシュアも「完了」させることができ なかったので、神の民に委ねられたということです。そして、モーセとヨシュアだけで はなく、聖書の優れた人物たちにも同じパターンがあったと言えるでしょう。アブラハ ムは自分の家族をカナンへ導きたかったのですが、限界となり、そのミッションを息子 のイサクに委ねました。ダビデは神様のために神殿を建てたかったのですが、限界とな ってそのミッションを息子ソロモンに委ねました。そして、エリヤは神の民を悔い改め に導きたかったのですが、限界となって、そのミッションの「完了」をエリシャに委ね たのです。
つまり、どれほど信仰深く優れた人でも神様のミッションを完了させることはできな いのです。そして、先ほど挙げた聖書の人物のだれも、自分を救うことも、神の民の 「救い」を「完了」させることもできませんでした。むしろ、一人一人のミッション、 一人一人の救いを完成させたのは「人間」ではなく、限界のない「神様」だったので す。ですから、聖書は、最も知恵のあることは、自分の限界を深く理解し、すべてを神 様に委ねることだと言っているのです。
詩篇 90:9-12 私たちのすべての日は あなたの激しい怒りの中に消え去 り 私たちは 自分の齢(よわい)を 一息(ひといき)のように終わらせま す。 私たちの齢は七十年。 健やかであっても八十年。 そのほとんどは 労苦とわざわいです。 瞬(またた)く間(ま)に時は過ぎ 私たちは飛び去りま す。 だれが御怒りの力を あなたの激しい怒りの力を知っているでしょう。 ふさわしい恐れを持つほどに。 どうか教えてください。自分の日を数えること を。 そうして私たちに 知恵の心を得させてください。
これは非常にシンプルで当たり前に思えるようなポイントですが、忘れやすいポイン トでもあります。私もそうです。私は、自分は精神的にいつまでも 22 歳だと思ってし まいます。そして、自分で何かを「完了」できるかのように働いていますし、限界がな いかのように前進しています。しかし、「努力すれば、壁を乗り越え、『完了』でき る」というようなこの世のメッセージは、聖書とは正反対です。聖書の「知恵」は、 「自分の日を数えること」、自分の「限界」と無力さを理解することです。
次に覚えていただきたいのは、「どれほど完璧に近い『わざ』でも、『未完了』なも のには何の保証もない」ということです。
前のポイントを聞いて、「私は自分の限界をよく知っているし、自分が置かれている 状況に満足しているから大丈夫」と思う人がいるかもしれません。しかし、ここにもう 一つの誘惑があります。それは、「未完了」であってもすぐに満足してしまうというこ とです。イスラエル人はヨシュアのほぼ「完了」されたわざに満足してしまっていたの です。「残っているのは、ほんの 5%でしょう?大丈夫じゃない?」と自分に言い聞か せたイスラエル人は、安心しながら異国の神々を野放(のばな)しにしていました。し かし、数年後、その 5%が大きな誘惑になって、イスラエルの民は偶像礼拝に陥ってし まい、異国の民が約束の地を占領し、最終的には、神様が神の民を裁かなければならな くなったのです。どれほど完璧に近い「わざ」でも、「未完了」なものに満足していけ ません。そして、神の民が満足してしまった原因は、ある意味、「未完了」なわざの限 界と、自分たちの限界を理解していなかったということです。
私たちはどうでしょうか?私たちはどのようなことに満足しているでしょうか?例え ば、いい高校、大学に受かったら、満足してもいいと思いますか?いいえ、まだ就職活 動が残っています。いい会社に就職したら、満足してもいいと思いますか?いいえ、就 職しても、自分の地位を維持するために、そして、昇進するために、自分の能力を磨く 必要があります。自分の能力を磨いたら、満足してもいいですか?いいえ、自分の家族 を養う必要もあるし、自分の引退についても考える必要もあるし、自分と家族の将来を 計画する必要もあります。自分の計画が立てられたら、満足してもいいですか?いい え、その計画を実行すること、自分の人間関係や家族の将来の幸せ、自分の引退生活や 健康についても考えなければなりません。この全てが整ったら、満足してもいいです か?いいえ、究極の質問が残っています。あなたは天国へ行けるという確信はあります か?本当に天国があなたのために保証されていると思いますか。私たちは、いろいろ自 分で整えることもできるし、一時的に満足することもできるかもしれませんが、気が付 いているかどうかにかかわらず、私たちは自分の限界から来る「不安要素」に囲まれているのです。「大丈夫!何とかなる!」と思い続けても、問題は解決しませんし、「大 丈夫になる」という保証は全くありません。常に不安を覚えながら生きることになりま す。
そのため、皆さんに最後に覚えていただきたいのは、イエス様の「完了」した救いの わざに全て委ねることです。
95%を保証し、最後の 5%を私たちに委ねるヨシュアよりもいい救い主がおられま す。その方はイエス様です。ヨシュアの「完了されていない」救いは、イエス様の「完 了」された救いを指すひな型なのです(参照:ヘブル 4:8)。つまり、もしヨシュアが 説教の冒頭の例えの医師 A であれば、イエス様はすべてを保証する医師 B なのです。つ まり、イエス様は天国へ入る基準に 50%ではなく、90%でもなく、99.9%でもなく、 100%達してくださったのです。ですから、イエス様は十字架の上で「完了した」と言 われたのです。私たちの救いは完了していて、自分がどれほど罪深くても、信仰が弱く ても、悔い改めが薄くても、完全に保証されているのです。そして、ここでどれほど辛 い人生を送っても、この世でいろんな不安要素があっても、唯一保証されていることが 「永遠のいのち」と「天の約束の地」であれば、いろいろ変化していく世界の中で、揺 るがない土台を持つことができます。
天国と地獄を信じない人たちも、もちろんいます。ですから、あるクリスチャンの哲 学者(パスカル三角形のブレーズ・パスカル)はこう提言しました。「もし天国と地獄 を信じないのなら、何%の確率でそれが存在しないと思いますか?100%存在しないと は言えないですよね?じゃあ、80%にしましょうか?それなら、20%の確率で永遠の地 獄か、永遠の天国へ行くことになります。また、もし死後に地獄と天国が待っているの であれば、あなたは天国へ行ける基準を満たしていると思いますか?それが 10%であ ろうと、95%であろうと 100%ではないことに変わりません。「未完了」であれば、 100%天国へは行けません。ですから、もしあなたの推測通り、天国も地獄も存在しな いとしたら、人が死んだら「無」になるだけでしょう。しかし、もし 20%の確率であ なたが間違っていたのなら、あなたは永遠の地獄を経験することになるでしょう。です から、推測通りであれば、プラマイゼロ。推測が外れたら、永遠の地獄。そのようなリ スクを負いたいでしょうか?あるいは、自分の大切な家族の魂にそのリスクを負わせた いと思いますか?」というふうにパスカルは言います。もしあなたが心配されるなら、 ぜひイエス様に全てを委ねることを考えてみてください。そして、イエス様をもう信じ ているならば、あなたの限界から、あなたを救ってくださる方がいること、そして、 100%保証されている「天の約束の地」がすでにあなたに与えられていることに感謝し ましょう。