8月8日の音声ファイルです。
後半にレコーダーを落としてしまい(申し訳ありません)、雑音が入るところがあります。
ご注意ください。
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<礼拝式順>
前 奏
招きの言葉 ヘブル人への手紙2章18節
さ ん び 「新しい命」
さ ん び 「主イエスの十字架の血で〜He Is Our Peace」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 155番 「すべての力とすべての国は」
聖書朗読 マタイの福音書 26章30-35節
聖書の話 「立ち直ったら」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 420番 「主よ、こころみ受くるおり」
献 金
報 告
とりなしの祈り 廣橋嘉信牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝 祷 廣橋嘉信牧師
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
「立ち直ったら」 マタイの福音書26章30-35節 ルカの福音書22章31-32節
序文)主イエス様は、今朝の箇所で、弟子たちがつまずくことの予告をなさいました。弟子たちはこの衝撃的な予告を受け止められませんでした。聖晩餐の時は、イスカリオテのユダが裏切るということが問題だったのですが、ここは「あなたがたはみな」です。主は「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』」(ゼカリヤ13:7)預言を引用された。弟子たちは散り散りバラバラになる。それで終わりとならない。「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」(マタイ26:32)希望の約束があります。
Ⅰ 信仰者につまずきは来る
1 「あなたがたはみな」につまずきは来る。つまずきは裏切りに転じる契機となります。ペテロのこの後の経過を見るとわかります。私たちが信仰においてつまずく可能性は十分あることが、この予告を学ぶとわかります。信仰者といえども、しばしば、ひどい罪に陥り、しばらくの間、そのうちにとどまることがあり、この世にいる限り、失望し、落胆するのです。信仰生活は常に上昇しているばかりではなく、罪に陥り、神の不興を引き起こし、神の聖霊を悲しませ、自分が今まで受けている恵みを失い、慰めもなくなってしまうようなことも経験します。いくら、悔い改めの勧めや、チャンスを与えられても、心をかたくなにしてしまい、良心を傷つけ他の人をつまずかせて、あれがクリスチャンかと神の栄光をけがさせ、ついには、自分に一時的な神の裁きを招いてしまいます。(注:ウェストミンスター信仰告白17章「聖徒の堅忍について」3項)
このような厳しい現実の生活を見て、全力を尽くして戦い続けてゆくために、今朝のみことばは慰めと励ましに満ちています。
2 つまずく根拠は預言されているから。「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』」(ゼカリヤ13:7より)。この預言は、裁きの日に神が民のリーダーを打つと、その民は散り散りバラバラになることを示しています。「わたし」は父なる神、「羊飼い」はイエス・キリストです。「打つ」は未来形で、イエス様の十字架を預言している。「羊の群れは」イエス様の共同体は「散らされる」ので散り散りになる。弟子たちは、十字架刑の後にそれぞれ自分のところに帰りました。「見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません」(ヨハネの福音書 16:32)。すべての事柄に神の摂理的な支配があります。「ウェストミンスター信仰告白5章摂理について」5項「最も賢い正しい恵みある神は、しばしば、ご自身の子らをしばらくの間、いろいろな試みと自らの心の腐敗とに任せておかれる。それは、前に犯した罪に対して彼らを懲らしめるため、あるいは腐敗のかくれた力と心の不誠実さとを悟らせて、謙そんならしめるためであり、彼らの援助のために、より近く絶えず神に寄りすがるように導くため、また将来のあらゆる罪の機会に対して警戒させるため、その他いろいろな正しいきよい目的のためである。」
Ⅱ イエスの弟子たちの中で筆頭と自認していたペテロの答えと、主イエスご自身から警告の予告を受けています。
すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。(マタイ26:33-35)
1 ペテロはイエス様の「あなたがたはみな」という予告に抗議した。「たとえ皆があなたにつまずいても」私は違う。「決してつまずきません。」思い上がりの罪があらわになっています。自己過信、自分だけは違うと言うのです。「決して」否定形の強調形の言葉を使っている。強い強い否定なのです。人間の弱さや限界に気付いていないことは明らかなことば。
これに対して、主は非常に具体的にペテロのつまずきを予告されました。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」「今夜」「鶏が鳴く前に」「三度私を知らないと言います」。ペテロの言葉に対する、完全な否定を主はなさった。ルカの福音書22章31節によれば、「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」このことをイエス様は知っておられたのです。ペテロがかけられたふるいは、後に出てきます。イエスの逮捕と裁判、十字架刑死と弟子たちへの迫害です。ふるいは世の誘惑の形でも来ました。どのようなふるいでも、それが悪魔から出たものであるとき、その力を軽く見ることはできません。信仰者の挫折の陰にサタンの働きがあることは明白です。
2 ただ、この信仰をふるうことは、本来は神の働きです。それによって、神は信仰者を強め、打ち直しをされるのです。神が私たちを試みられるときがあります。神が見捨てたのと違うかというような事柄に直面するのです。そのような火矢を突きつけられたとき、私たちの信仰は大きな痛手を被ります。これは私たちの信仰が不死のものであるかどうかを試す一つの道です。喜びだけが信仰のすべてではありません。主とともに喜ぶことも苦しむことも賜っているとパウロは申しました。ときに主は、ご自身の恐ろしさ、厳しさを示して、私たちの信仰を試されるのです。そして、その中で信じ通すことが唯一の逃れる道となっているのです。
サタンは本来神の働きであることをちょうどヨブに対してしたように、ペテロに対してしようとしました。神の許可を求めました。神は、それを聞き入れられました。ペテロはこのことによって、最終的には彼の内にあった性格的な弱さを徹底的に焼き尽くされ、自我を砕かれて、キリストのうちに円熟した人物となって、復活の主にあって変えられたのです。ですから、本当に主を信じて歩んでいる者は、この世でさまざまな試みにあい、サタンからも、手ひどくふるわれるようなことがあったとしても、それらすべてのことに背後に絶対主権者である神がおられて、一人一人を支え、信仰の試しを行い完成に至らせようとしておられることを忘れてはならないのです。
3 マタイ書26章32節「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
十字架の死と葬りののちに起こる、復活の予告が明白になされている。主はよみがえり、弟子たちの先にたってガリラヤに先導される。つまずいた弟子たちの中からよみがえり主に出会い、再び召命するために、最初の召命を与えられたガリラヤに先にゆかれる。そこで再会できる。弟子団の構築をなさる。このとき、神の名を呼ぶものは本当のクリスチャンです。
Ⅲ ルカ22:32 「立ち直ったら」
1 「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
1 主のとりなしの祈りが、私たちの信仰がなくならない理由です。
とりなしの祈り
a ヨハネの福音書 17:11「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」
b へブル人への手紙 7:24、25 「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」
ペテロも弟子たちも、私たちも、主のとりなしの中に入れられています。
2 「立ち直ったら」
さて、このように、厳しい試みの中でも、信仰がなくならないようにと主が祈られ、立ち直らせようとなさるのは何のためでしょうか。それは自分のためであると同時に、主と教会の働きのためであります。そのことがルカ22章32節「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」からわかります。ペテロはイエスにこのように言われたのです。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ルカ22:34)。その結果、あなたは嘆き悲しむでしょう。しかしそれを体験した、あなたは、同じ苦悶を味わい、同じ弱さと恥の深みに落ちた者を助けることができる。
私たちのイエス様は、「自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブル2:18)と言われています。
それぞれが信仰の途上で経験した一切のことが、益と変えられて、他の兄弟姉妹たちの力となり、励ましとなることが求められています。このたぐいの経験は謙虚さと、主の力強さを分かち合う、すばらしい経験と変えられるのです。忠実に主の道を歩み、罪とサタンと、この世の誘惑と自己の弱さと戦いつつある聖徒にとって、この主の豊かな理解ある祈りと、立ち直りの励ましは、実に慰め深いものであります。
結び) 兄弟たちを力づけるという奉仕は、この場合、信仰の力強い証しというよりは、今も信じつづけさせていただいていることへの感謝として、なされるものでしょう。主のあわれみを知った者は、感謝をもって奉仕し、主の力を味わっている者は信仰の力を持って奉仕して、共に仕える者として立ちつづけましょう。
注:ウエストミンスター信仰告白17章 聖徒の堅忍
3項目 それにもかかわらず、彼らは、サタンとこの世の誘惑、自分のうちに残っている腐敗の優勢さ、また自分を保持する手段を怠ることによって、ひどい罪に陥り(1)、しばらくの間そのうちにとどまることがある(2)。このため彼らは、神の不興をひきおこし(3)、神の聖霊を悲しませ(4)、自分の受けている恵みや慰めをある程度奪われるようになり(5)、心をかたくなにし(6)、良心を傷つけ(7)、他の人々をつまずかせ(8)、また自分に一時的審判をもたらす(9)。
1 マタイ26:70,72,74
2 詩51編(表題)(51:1,2)、14節(51:16)
3 イザヤ64:5,7,9(4,6,8)、サムエル下11:27
4 エペソ4:30
5 詩51:8,10,12(10,12,14)、黙示2:4、雅5:2-4,6
6 イザヤ63:17、マルコ6:52、マルコ16:14
7 詩32:3,4、詩51:8(10)
8 サムエル下12:14
9 詩89:31,32(32,33)、Ⅰコリント11:32