2021年8月15日 礼拝式順 説教「休むには激戦必須」

 

<礼拝式順>

前   奏
招きの言葉 ヨハネの黙示録 21章3−5節
さ ん び 「新しい命」
さ ん び 「主イエスの十字架の血で〜He Is Our Peace」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 435番 「道なき砂漠を」
聖書朗読 ヨシュア記 11章1−23節
聖書の話      「休むには激戦必須」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 359番 「私の望みは主イエスだけにある」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

ヨシュア11:1-23 「休むには、激戦必須。」

 

休むために、いろいろ準備しなければなりません。まず休むには、お金が必要ですね。ですから、まず、予算を組んで、そのために頑張って、汗を流して働きます。そして、休暇をとるために、やはり前もって計画して、「何月何日から何月何日まで」と、決めなければなりません。そして、以前、会社で働いていたことがあるのですが、働き始めて気づいたのは、休むためには、上司と同僚に交渉する必要があります。自分が休んだとしたら、彼らにとっては大きな負担になりますし、口に出さなくても、彼らの心の中では、私が休む期間をできるだけ短くしてほしいですね。だから、そこも激しい心理戦が必要です。そして、交渉のあと、休暇を取る前の1-2週間は、やはり、かなり過酷な毎日になります。普段の仕事の上に、休暇の分の仕事もやりながら、家族旅行の荷造り、交通手段の手配、旅行中のスケジュールの計画などがあって、その1-2週間は激戦です。しかし、激しく戦う理由は、余裕をもって、平安の中で、スムーズに休みを過ごすためです。それなのに、私が中高生のとき、「パパ、何でビーチに行く必要があるの。家でゴロゴロしたい。」と言ったことがあります。もし自分が父親だったら、テーブルをひっくり返して、「この数ヶ月、君たちの休みのためにどれほど戦ったのか知ってるか?」と言うと思いますね。

 

ヨシュア記の神の民は、カナンという約束の「安息の地」に向かっていました。このカナンの地は究極の「安息の地」のひな形です。旧約と新約の神の民が向かっているのは、天にある「安息の地」であり、神の民は天にある「永遠のいのち」と「平安」を待ち望んでいたのです。しかし、生意気な中高生だったときの私のように、「えー。天国に行きたくないよ。ベイタウンでゴロゴロしたいよ」と思ってしまうようなときは、私たちにもないでしょうか?本日のメッセージを通して、そのような態度をみことばと照らし合わせたいと思います。私たちがそのような態度を持ってしまう理由は、次のことをまだよく理解していないからだと思います。それは、①神様と教会が、私たちの「安息」のためにどれほど労苦してくださったかということ、②私たちが天国の「安息」の完全さを理解していないということです。

 

ですから、本日は、私たちの「平安」と「安息」を最終的に得ることができた「激戦」を思い出してともにイエス様にある自分たちの「永遠のいのち」と「平安」を味わいたいと思います。そのために、この箇所の流れを見て、覚えていただきたい三つのポイントを紹介します。

 

では、まず、この箇所の流れを見ていきましょう。

ヨシュア記という書物は、神様が神の民に「安息の地」であるカナンを与えられる話です。約束されていた「安息」は、大まかに言いますと、三つの層からなっていると言えます。安息の外側の層は、「充実した生活」です。カナンはよく「乳と蜜の流れる地」と描写されていますが、非常に住みやすい、豊かな地域で、生活面で困らないという意味です。ですから、21世紀の私たちで考えると、安定した仕事につくことができ、快適な住まいが買え、交通も便利で、子どもたちにいい教育を受けさせられ、いろいろな「もの」が手に入れられて、いろいろなレクリエーションが体験でき、いい「コネクション」も作れる地域にたとえることができます。「ザ・住みやすい場所」を想像してみてください。ベイタウンのような地域かもしれませんね。しかし、皆さんがご存知のように、そのような「充実した生活」を手に入れたとしても、本当の意味での「休み」・「安息」は得ることができません。

 

そして、「安息」の次の層は「充実した人間関係」を指しています。神様はご自分の律法によって、神の民のリーダーたちを通して、弱肉強食の社会にならないように弱者を守る社会、また、夫婦生活の中で、親子関係の中で、職場の中で、社会の中で「隣人を自分自身のように愛する」社会を建て上げることを約束されました。しかし、充実した「生活」を得ても、充実した「人間関係」を得ても、人間の心は「落ち着きません」。ですから、安息の内側の層、つまり、「安息」の本質的な部分が一番重要になってきます。それは、「神様との親密な交わり」です。肉体的な欲求を求める快楽主義者たちと歩んだ後、キリスト教と出会うまでは、キリスト教以外の宗教と哲学に没頭していた5世紀の有名なクリスチャン(アウグスティヌス)がいました。しかし、様々なことを経験して、このように結論づけました。「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休まりません。」私たちも同じことが言えるでしょう。私たちが聖書の神様にあって休まない限り、私たちは絶対に満たされません。ですから、神様はこの約束の地において「表面的な休み」のために約束されていません。神様は、私たちが心の奥底まで経験できる安息を約束されたのです。神の民はこの「安息の地」にたどり着くために400-500年も苦労しました。

 

そして、神の民はカナンの地にたどり着くことはできましたが、そう簡単に「安息の地」を頂くことはできませんでした。神の民の「安息」を奪い取る頑なな敵がいたからです。カナンの地が約束する「充実した生活」を奪いたかった敵。神様が約束していた「充実した人間関係」よりも、弱肉強食の社会を維持したかった敵。そして、聖書の神様よりも、人間が作り上げた快楽、モラル、宗教、偶像で人を満足させたかった敵。つまり、神様が与えようとされた「安息」を破壊したがっている敵がいたのです。ヨシュア記1-10章は、神の民とその敵との激しい戦いの記録なのです。そして、この11章の戦いは、「最後の戦い」なのです。そして、その戦いは、それまでの戦いの中でも、神の民にとって、最も激しく、最も恐ろしい戦いかもしれません。

 

11:1-5を読みますと、4つの都−−ハツォル、マドル、シムロン、アクシャフ−−の王たちが連盟を組んで、ハツォルに招集されたことが分かります。しかし、それだけではなく、東西南北からいろいろな部族−−アモリ人(東部)、ヒッタイト人(南部)、ペリジ人(南西部)、エブス人(中部)、ヒビ人(北部)−−もハツォルに集まって、この大軍に加わりました。ですから、この敵軍は、4節に書いてあるように「海辺の砂のように大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった」のです。イメージとしては、千葉県以外の他の都道府県にいる1億2400万人もの人たちが自分たちの最強の兵隊と最先端の戦車や武器と共に軍隊を東京都へ派遣するようなことです。そして、東京に集まった大軍がまともな戦車や武器もない100万人の千葉県軍を包囲したのことです。カナンの王たちはハツォルに集まり、イスラエルと戦うためにメロムの水のほとりでともに陣を敷きました(11:5)。そして、想像してみてください。「海辺の砂のように大勢の」カナンの兵隊たちと最先端の武器と戦車が神の民を囲み、逃げ道をすべてふさぎます。敵軍の殺気を感じさせる恐ろしい雄叫(おたけ)びが聞こえてきて、息もできないほどの緊張感が押し寄せます。神様がおられても、勇敢なヨシュアが将軍であっても、これまでにどんな強敵も倒してきたとしても、「これは勝てるはずがないだろう」という疑いの空気が神の民の沈黙からにじみ出ていました。

 

しかし、その瞬間、神様がヨシュアにこう宣言されます。「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく、イスラエルの前で刺し殺された者とするからだ。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼け」(11:6)。何という約束でしょうか。千葉市のアマチュア軍隊に「24時間以内に東京の大軍を全滅させる」という驚きの約束です。しかし、もっと驚くのは、神の民の反応です。「ヨシュアはすべての戦う民とともに、メロムの水のほとりにいる彼らを急襲した」(7節)。今までヨシュア記の中で、このパターンを繰り返し経験してきました。強大な敵か障害物の前でも、神様が勝利を宣言されるなら、どんなに絶望的な状態であっても、神の民は必ず勝つのです。ですから、何回もこれを経験した神の民、この小さなアマチュア軍隊は、神様の約束を聞いて、疑うことも、ひるむこともなくカナンの大軍に「先制攻撃」をし、この突撃によってこの大軍に勝利したのです。

 

そして、敵軍は逃げ出し、四方八方に散り始めました。これは非常に危険なことです。もし敵を壊滅させなければ、敵はまた軍を立て直し、より強力な軍となって逆に倒し返すかもしれません。ですから、すぐに敵軍を追って徹底的に倒さなければ、カナンの戦いが必要以上に長引くことにもなりかねませんし、もし、その反撃に負けたら、神様から頂く「安息」を確保することができないかもしれません。しかし、大きな問題がありました。通常、逃げる敵軍を追うためには何が必要でしょうか?「馬」と「戦車」です。しかし、神の民はもともと「馬」と「戦車」をもたない軍隊でした。そして、神様は、カナン人の「馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼きなさい」(11:6)と命令されていました。つまり、神様はこうおっしゃったのです。「人の知恵、人の力に頼るな。今まで私の力のみで勝利してきたのだから、辛くても、時間がかかっても、最後の最後までわたしの力のみにより頼みなさい」と。

 

そして、ヨシュアは、神の民の「安息」を確保するために、神様の命令通りに、最後の最後まで全力で敵を追撃しました。この箇所には、様々な地名がずらっと書いてありますが、あまりイメージが浮かばないかもしれません。しかし、地図で見ると、神の民が「安息」を確保するためにどれほど苦労したかがよくわかります。戦場はメロムだったのですが、大まかに言いますと、敵軍は二つの方向へ逃げました。西へ逃げた敵軍は大シドンおよびミスレフォト・マイムまで逃げ、東へ逃げた敵はミツパの谷まで逃げました。西の敵軍はかなりの猛ダッシュで、この地図からはみ出すほど本気で逃げました。そして、東の敵軍は山地に逃げ込んだので、戦略的にはかなり戦いづらい状況でした。しかし、神の民は「馬」と「戦車」なしで、自分たちの足と神様の力のみで、敵を一人残さず打ち破りました。

 

それだけではありません。神の民は非常に激しい追撃の後に、カナンの連盟軍を仕切っていたハツォル王国へ向かいました。そして、「馬」と「戦車」なしで、自分たちの足と神様の力のみで、この力強い都を倒したのです。しかし、ハツォルだけではありません。連盟に入っていた都も倒しに行きました。「馬」と「戦車」なしで、自分たちの足と神様の力のみで、一歩一歩、ハツォルの連盟軍の都を一つずつ−−マドル、シムロン、アクシャフ−−へと倒しに行って、北部の戦いは終わりました(11:12)。しかし、敵はまだ何ヶ国も残っていました。その残った王国のひとつはアナキム王国でした。アナキムはカナンの南部地方にあって、カナンの「ゴリアテ」民族でした。彼らは巨人中の巨人たちでした。しかし、神の民は過酷な北部の戦いの後に、「馬」と「戦車」なしで、自分たちの足と神様の力のみで、カナンの「ゴリアテ」民族を打ち倒しました。12章によると、神の民は31の王国を倒し、カナンの北部地方(ヘルモン山)から南部地方(アラバ地方)まで、「安息」を確保するために敵軍の王を追求し、倒していったのです。「馬」と「戦車」なしで、自分たちの足と神様の力のみでこれを果たしました。「長い間にわたってヨシュアはこれらすべての王たちと戦った」(11:18)のです。

 

約7年間も、激しい戦いが続いたのですが、なぜそのような長く激しい戦争が必要だったのでしょうか?神の民が残酷で、暴力的な民だったからではありません。前に説明しましたように、カナン人は聖書の神様に信仰告白すれば、神の民に加わることができ、神様が約束された「安息」をいただくことができたのです。しかし、「ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった」と19節にあるように、神の民に加わることを選んだ王国、選んだ人は一人もいませんでした。エリコ、アイ、南部と北部の戦いで発揮された神様の御力をカナン人が何回見せられても、誰一人、神様と「平和条約」を結ばなかったし、「白旗」を振る気も全くありませんでした。むしろ、さらに頑なになり、弱肉強食の世界を信じる彼らは、聖書の神様を潰して、彼らの財産を奪い取り、神の民を自分たちの奴隷にするつもりだったと思います。最後の最後まで、カナン人は神の民の「安息」を奪いたかったのです。ですから、神の民はカナンの全ての王国と戦う必要があり、すべての王国を倒すまでは「安息」を確保することができなかったのです。ですから、「ヨシュアはすべてがモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ」(11:23)。 ヨシュアが敵を最後の最後まで追撃した結果、「戦争」が止み、神の民は神様が約束してくださった「安息」と「平安」を頂くことができたのです。

 

さて、この箇所から三つのポイントを覚えていただきたいです。まず、「サタンは、あなたの「安息」を奪うために、しつこく、激しく戦っている」ということを忘れていけません。

 

神の民を潰すために、四方八方からカナンの各王国の王たちが兵隊と兵器をハツォル王へ送ったこと、そして、ハツォルの王の大軍が「海辺の砂のように」なったことや、メロムにいた神の民を包囲して彼らの陣営を攻撃したことは遠い昔話ではありません。私たちの立場を表しています。黙示録20:7-8はヨシュア11章を引用しながら、私たちの立場を次のように表現しています。

サタンはその牢から解き放たれ、地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。

この黙示録の箇所を読んで、「これは『最後の日』を表しているから、これは遠い将来のことについて書いてある」と思うかもしれません。しかし、「最後の日」は遠い将来ではありません。「最後の日」は、イエス様の蘇りのあとの時代、つまり、を表しています(参照:使徒2:17、ヘブル1:2、1ヨハネ2:18)。そして、1ヨハネ5:19に書いてあるように、今、この世全体、この世界は「悪い者(サタン)の支配下にあることを、私たちは知っています。」

 

ですから、この黙示録の風景、そして、ヨシュア記11章の風景は、私たちの立場でもあります。ハツォルの王のように、サタンはこの世の者を兵として、四方八方から海辺の砂のように大勢を自分の下に招集し、神の民を取り囲ませ、「聖徒たちの陣営」と「愛された都」である教会を破壊しようとしています。そして、、サタンとこの世界は私たちを包囲して、全力で私たちを攻撃しているのです。

 

私たちは勘違いしてはいけません。サタン、この世界、そして、「死」と「罪」は私たちの味方ではありません。私たちの「安息」を奪うために、私たちを苦しめるために、しつこく、激しく戦っているのです。「マークさん、それは考え過ぎではないですか?」と思っている方もいらっしゃると思います。もし神様が約束される「安息」が、聖書の神様と親密な関係にあるならば、この「世界」を支配しているサタンは「神様との関係を第一に優先してください!」と私たちに勧めると思いますか?そもそもこの世界は、神様が約束されている「安息」を全面的に拒否しているのです。私たちの「罪深い心」が、「自分よりも隣人を愛しなさい!」と私たちに勧めるでしょうか?むしろ、その反対ですよね?私たちの環境である「自然」と「社会」が「みなさんに充実した生活を保障しましょう!」と私たちに約束するでしょうか?むしろ、「社会」では強い者の「充実した生活」のために弱い者が利用され、「自然」の大前提は「すべてのものは『死』によって苦しめられて滅びる」ということです。むしろ、サタン、罪に満ちた世界、死を支配している私たちの環境は私たちの「安息」を奪うために激しく戦っているのです。私たちはそれに気づいているでしょうか?この世は私たちの味方ではありません。「サタンは、あなたの「安息」を奪うために、しつこく、激しく戦っているのです。」

 

次に覚えていただきたいことは、「激しい戦いの『最後の日』というのは、永遠の安息への『最初の日』だ」ということです。

 

敵を一回倒しても、戦いは終わりません。敵が絶滅するまで、平安と安息はありません。ですから、聖書の神様に敵対するカナン人の王が存在する限り、神の民は安心して「安息」を得ることはできませんでした。同じように、「サタン」が存在する限り、「死」が存在する限り、「罪」が存在する限り、私たちも神様が約束されている「安息」を経験することができません。ですから、究極のヨシュアとして、イエス様は、神様が告げられた通りに、私たちの「安息」をことごとく奪い取ろうとする敵と、ひるむこともなく、激しく戦われました。ヨシュア11:20と同じように、神様は隠れている敵を表におびき寄せ、まとめて始末するために、サタンとこの世界の敵対する心をさらに頑なにし、彼らの激しい、強力な攻撃を引き起こされます。そして、サタンの下に四方八方から来た者たち、王たちと王の配下にいる者たち、力のある者も弱い者も、富んでいる者も貧しい者も、小さい者も大きい者も、みな集まり、キリストと教会に戦いを挑みますが(黙示録19:18-19)、究極のヨシュアであるイエス様が、一撃ですべての敵を全滅されます(黙示録20:9-10)。そして、創世記から始まった神様とサタンの天と地の「宇宙戦争」がやっと終わります。それが「最後の日」です。「最後の日」は「裁きの日」というだけではありません。戦争が終わる日なのです。

 

しかし、忘れてならないのは、「最後の日」というのは、永遠の安息の「最後の日」だと言うことです。つまり、激しい戦いがあったからこそ、私たちは休めるのです。「最後の日」から、神の民は、何の戦いも争いもなく、何の恐れも心配もなく、何の苦しみも涙もなく、何の孤独も寂しさもなく「休む」ことができるのです。そのような状態を想像できますか?神様とサタンの激戦が終わった時に、神様はこのような「約束の安息地」を黙示録に描かれました。聖なる天の都の中央に、神であられるイエス様が御座に座っておられます。その理由は、究極のヨシュアであるイエス様はもう戦う必要がないからです。私たちを攻撃するもの、脅すもの、のろうもの、傷つける者も、もう存在しないからです。そして、その御座からこうおっしゃいます。「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである」(黙示録21:3-4)。そして、イエス様が私たちを御座から流れるいのちの水の泉と、御座の後ろの永遠のいのちの木へと導かれ、私たちは、兄弟姉妹と共に神様に癒され、養われ、神様の御前で「充実した生活」、「充実した人間関係」、「神様との親密な関係」をもって、永遠に「休む」のです。

 

ですから、最後に覚えていただきたいことは、「馬と戦車という人の力ではなく、十字架を背負いながら、神様を待ち望んで戦いましょう」というこうです。イエス様は十字架の上ですでに勝利されましたが、全ての敵が絶滅するまで、まだ激しい戦いが残っています。しかし、疲れている教会、何千年も激しく戦っている教会は、イエス様の最後の一撃を待つよりも、自分たちの負担を軽くするために、「馬」と「戦車」のようなこの世の力に頼る誘惑があります。しかし、神様がイスラエル人に「馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼きなさい」(11:6)と命令されたように、神様はこうおっしゃいます。「人の知恵、人の力に頼るな。今まで私の力のみで勝利してきたのだから、辛くても、時間がかかるとしても、最後の最後まで私の力にのみ、より頼みなさい」と。

 

イエス様がどのように勝利されたか、覚えていますか?この世が大事にしている「権力、影響力、経済力」によって勝たれたのでしょうか?この世が大事にしている「知識、知恵、インテリジェンス」によって勝たれたのでしょうか?いいえ、この世にとって愚かで、醜く弱々しい「十字架」によって勝利されたのです。ですから、私たちも同じ手段で、神様を待ち望みながら戦いましょう。サタンは「大きな竜」、「古い蛇」、「悪魔」、「獣」、「全世界を惑わす者」などという名の、私たちを苦しませる力強い存在かもしれませんが、黙示録12:11に書いてある「最後の日」に戦う兄弟姉妹のように、私たちは「馬」と「戦車」ではなく、「子羊の血」と「 自分たちの証しのことば」だけで「死に至るまでも自分のいのちを惜しま(ずに)」戦うのです。そして、弱々しく戦う兄弟姉妹が「竜に打ち勝つ」と神様は約束されています。「神は、知恵ある者を恥じ入(い)らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました」(1コリント1:27)。 ですから、弱くて愚かな手段を恐れずに、私たちも自分たちの十字架を背負いながら、戦っていきましょう。

 

私たちは激しい、恥辱(ちじょく)に満ちた試練を通るかもしれません。私たちはクリスチャンとして苦しい戦いに加わる必要があるかもしれません。しかし、忘れてならないのは、究極のヨシュアとしてイエス様が、私たちの「安息」のために、すでに十字架という激しい、屈辱(くつじょく)に満ちた試練を通って下さいました。究極のヨシュアとしてイエス様は私たちのためにすでに激しく、苦しい戦いを通られ、私たちの敵を打ち破られました。ですから、私たちも下を向きながらぶつぶつ不平を言うのではなく、天を見上げ、「永遠の安息」を待ち望みながら、私たちの十字架を背負って、歩んで行きましょう!

*地図の出典:ESV Study Bible, “The Conquest of Canaan: The Northern Campaign.” https://www.esv.org/resources/esv-global-study-bible/map-06-06/