2021年9月5日 聖晩餐式礼拝 説教「ゲッセマネの苦悩」

※ 9月5日は配信機器の不具合によりYoutube配信が中止となりました。

礼拝はZOOM配信により行われました。

 

<礼拝式順>

前 奏
神の招き
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

教会福音讃美歌   44番 「主をほめよ高らかに」
開会の祈り

罪の告白の招き  イザヤ書55章6-7節
罪の告白の祈り
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証   詩篇32篇1-2節
会衆 アーメン。

平和のあいさつ
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。

教会福音讃美歌   127番 「主イェスは尊き」

みことばの宣教
聖書朗読 マタイの福音書 26章36-46節
聖書の話  「ゲツセマネの苦悩」        廣橋嘉信牧師

教会福音讃美歌  261番 「しみも咎も」

聖晩餐式
[制定のことば] コリント人への手紙 第一11章23-29節
[式 辞][祈 り][分 餐]
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金
報 告
頌栄(教会福音讃美歌)272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷
後 奏 567番 「アーメン・アーメン・アーメン」

 

2021年9月5日  「ゲッセマネの苦悩 」 マタイの福音書26章36-46節

序)主イエス・キリスト様が、十字架の死を目前にされたゲッセマネの園の祈りは苦しみもだえて、苦悩に溢れていました。聖書に記されている祈りの中で一番深く、神秘的な部分です。

人間の知恵を持って十分に解明しつくしえない祈りです。最も賢い神様の智恵を含んでいるのです。然しそれでもなお、この祈りを学ぶ者にとり、主の祈りの姿勢は最も重大な真理の一端を明らかにしていただけると信じます。私たちのための主イエスの犠牲の十字架を深く受け止めようとすれば、この祈りから、先ず、その苦しみを汲み取らなければなりません。

Ⅰ.祈りの背景

この祈りは十字架の死を目前にした祈りです。苦難に直面するために主が祈りの場を守られたのです。主の霊が異常な悲しみに満ちていた時に祈られたということを知るときに、まして私たちが悲しみにうち倒されたときに祈らざるをえません。苦難に耐えるためにこれ以上の良い処方を他に見つけることは出来ません。自分が直面している事を最初に訴えるのは人間相手ではなくて、神様に向かって祈りにおいてです。

「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」という祈りは、主に向けられた誘惑との激しい戦いでもありました。十字架を回避させてくださいという祈りです。誘惑との戦いは、ただ祈りに祈ることで勝つのです。

Ⅱ 祈りの友の必要

死ぬほどの苦しみと、それから逃れたい誘惑との戦いのために主は祈りの友を要請されました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネです。この三人は「わたしといっしょに目を覚ましていなさい」(38節)と要請されたのです。弟子たちは、ともに、目をさまして祈っているようにと言われて、祈っていました。自身のためだけでなく、主イエスの祈りの戦いにも召されていたのです。信仰の友、祈りの友を人は必要としています。ことに苦難に直面し、深く悲しんでいるときはそうです。悲しみ悩んで祈る主と、ともに悲しみ、泣き、祈るものとなるように。

教会の祈祷会や二人以上の者がともに祈る場は、この意味で主イエス様のとりなしや、苦しみや、悲しみ、伝道の戦いに、そして、その民の中に働いておられる導きにともにあずかる場なのです。それは自分が祈れなくなっていても、兄弟姉妹が一緒に祈ってくれるそのような場なのです。そこに一緒に座っているだけでも、豊かに神はそれぞれのうえに働いてくださるのです。苦しみに会うとき、信仰から離たり集いを避けがちですが、それは違うのです。むしろ、そこに集まって、祈ってもらうこと、ともに泣き、ともに嘆き苦しみ、重荷を分けあうことにより、回復が進むのです。立ち上がる近道は、このようにして、誘惑についに打ち勝つことなのです。弟子たちは、ルカ22:45「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」を見ると、悲しみの果てに、眠りこんでしまっていた。彼らは始めから眠るつもりはなかった。しかし悲しみの果てに緊張した神経から疲労がおそってきて、眠ってしまったのです。主イエス様どうされていたか。ルカ22:43-44「すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕とあります。御使いが天から現れて、イエスを力づけたのでした。それによりいのりはとまったのではなくて、イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。祈り続ける力を御使いが助けたのです。

Ⅲ.主イエスの祈りの内容

1 39節「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」この時の祈りは、主の受難物語の中で、最も激情の荒れ狂う場として書かれています。それは十字架上での姿よりももっと激しいものです。恐れ、おののき、悩みはじめ、死ぬほどである。地にひれ伏して「汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22:44)主の十字架への苦痛は特別な探さをともなっていた。弟子たちが分かちあえるような生易しいものではなかった。その原因は「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」といわれた「この杯」にあった。わたしたちの罪の身代わりのために、主イエスが受けてくださろうとしていた、「杯」とは何か。

旧約聖書で「杯」はその人の運命を表し、時に神の怒りと審判を意味してたびたび用いられています。イザヤ書51:17「憤りの杯」。主イエスは正真正銘の人間でした。死に反発し、死を本能的に嫌悪する人間です。この祈りは、この点で人間性の極致をあらわしているのです。彼は罪を犯したことがなく、生ながら聖霊により罪の汚れから守られていた義人です。罪の罰を受けて死ぬことはありえませんでした。しかし、父から受けた救い主としての職責を果たすために、身代わりの死を遂げなければなりませんでした。すべての罪人に対する神の怒りの杯が一挙にキリストに注がれようとしているのです。イエスがわたしたちのために呪われ、罪を知らなかったかたが罪となられた。彼の聖いご性質が、その上にのせられた罪の重荷を直接感じられた。ここに通常でない、異常なキリストの苦しみがあらわれた。

それは死にたいする恐怖というよりは、それがもたらす神の裁き、地獄の実体を知っているものとしての恐怖、苦しみでありました。イエス・キリストは神のみ子として、罪あるものたちが死んでどうなるかを御存じでした。神の怒りと裁きの実体を知っているがゆえの苦悩でした。わたしたちは、この点鈍感です。それで、永遠よりも目の前の瞬間をみて歩んでしまいます。主は永遠の裁きを知っておられ、それからわたしたちを免れさせる為に、苦しんでくださったのでした。主のこの祈りがイエス様が人間ばなれした存在でなく、地に足のついたもので、わたしたちの弱さ、死への恐怖、おののきを知るかたとして、手の届くところに立っておられることを悟らせます。多くのキリスト者がこの祈りを自分の祈りとして祈るときにどんなに支えられたことでしょうか。愛する夫や、妻や、子供がこの世から取り去られようとするとき、不治の病が自分の体を蝕むとき、その他さまざまな苦杯が信仰厚き者に与えられる時、主イエス様も、このように祈られたことは、わたしたちにどれほどの力と慰めとなることでしょうか。

この祈りの最中に、み使が現われて苦悩し祈るイエスを力づけた。このような出来事は、天の助けなくして負いきれるものではない。天からの助けは、杯を取り去るためにではなく、飲み干すための力を主イエスに与えました。わたしたちが同じいのりを祈るとき、みたまは同じ力を与えて、その苦難に耐えさせ、みこころをなさせたまえと祈る力を与えられるのです

2「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」

もしも、この杯を取りさらないことが、天の父の望まれることであるなら、それに従います。全き従順をこめて従います。自分の望みを神の望みに一致させます。これこそが、まことの祈りなのです。神の意志、神の目的、神の永遠のご計画に自分を従わせます。ここに、主が十字架にかかられるにあたっての積極的自発性がはっきりと示されています。強制的に、いやいや杯を飲ませられたのでなく、ほんとうに心から従順に飲めるようにと戦った祈りでもあったのでした。

神があなたにかかわる永遠のご計画を、この地上の分としてはたそうとされる時、わたしたちは同じ祈りの戦いをして、心から主に従えるようにと自分をととのえねばなりません。「あなたが望まれるままに、なさってください」との祈りは完全な信頼を込めてなされるとき、本来の意味のとおりであります。神の愛と、ご計画と、善意と、力とみちびきとを熱望して祈るのです。この受け入れがたいことを自発的に受け入れることが此のいのりの真意なのです。ですから茫然自失して、「あなたが望まれるままに、なさってください」などと祈るのは、望みを放棄することなのです。激しい攻撃に降伏せざるをえない人が、「あなたが望まれるままに、なさってください」と祈るのは、完全な敗北を認めることばとなるのです。荒れた、苛立ちのことばとなるのです。そのような祈りでなく、全幅の信頼をこめて「あなたが望まれるままに、なさってください」と祈るなら、神は、まことに「望まれるままに、なさって」くださるのです。

結び)わたしたちは、この主イエス・キリスト様の御足跡をたどって、祈りに祈って神様に従う人生を進めなければなりません。またこの主イエス・キリスト様こそ死の恐れも苦しみも知り抜かれ、激しい叫びと涙で、裁きの杯を飲まれた方です。人間イエス様はまことと憐れみに豊かであり、同情できる方であり、神様の前に私たちのために執り成しできる永遠の大祭司です。私たちも祈りにおいて主イエス・キリスト様と出会いましょう。