2021年9月19日礼拝 音声有 説教「現代社会が持っている嘆きと希望」

※ 今回の説教は今年の修養会のメッセージ①でございます。修養会テーマは「『自分』とは何なのか:自分たちの『居場所』の探求」です。続きはイベントページでお聴きいただけます。

 

<礼拝式順>

前   奏
招きの言葉 イザヤ書 55章11−13節
さ ん び 「我が心の目を開いてください」
さ ん び 「詩篇23」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 254番 「主イエスの恵みと御栄とを」
聖書朗読 イザヤ書 56章1−8節
聖書の話      「『自分』とは何なのか:自分たちの『居場所』の探求
現代社会が持っている嘆きと希望」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 316番 「御前に立つ時」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

2021年9月19日 イザヤ書56章1−8節  マーク・ボカネグラ牧師

「『自分』とは何なのか:自分たちの『居場所』の探求 現代社会が持っている嘆きと希望」 (修養会メッセージ①) 

 

皆さんがご存知のように、今日と明日に渡って、修養会を行います。そのために三つのメッセージを用意しましたが、今年の修養会のテーマは、「『自分』とは何なのか:自分たちの居場所の探求」です。少し抽象的な題名ですが、かなり具体的な背景から来ています。実は、春ごろに、教会学校の教師会で「クリスチャンとして同性愛者についてどのように考えるべきか」といういい話し合いがあり、その話し合いから教師に限らず、教会として学び、話し合う機会があればいいな、という提案があり、小会で今年の修養会のテーマとして取り上げることにしました。そして、このテーマは、特に、同性愛に限らず、現代社会の流れについて、クリスチャンとしての歩みについての理解を深める機会になると思います。

そして、本題に入る前に、皆さんに前もって伝えたいことがあります。一つは、このテーマは自分にとって抽象的で、理論的なものではなく、身近なものだということです。私がクリスチャンになったのは、カリフォルニアにある、サンフランシスコに近い大学でした。ですから、大学時代、同性愛者と同性愛カップルは、普通に身の回りにいましたし、LGBTQ+の友だちもいました。もちろん、自分と同じように改革主義神学を堅く信じるクリスチャンの友人もいました。その中には同性愛と戦っていた親しい友人も何人かいます。私はアメリカ長老教会の教師ですが、この3-4年を通してアメリカ長老教会はこの問題について考え、議論してきました。ですから、これからする3回のメッセージは抽象的で、理論的なものではなく、身近なもので私自身、何年もの間、じっくりと考えてきたことです。

もう一つのお伝えしておきたいことは、今回のメッセージでは、皆さんにとって、耳障りなことを言う可能性もあるということです。ですから、どうぞ皆さん、覚悟しておいてください!このテーマは世界でも、また、教会でも、ものすごくセンシティブなテーマでありますし、激しい議論もあります。教会においては、大きく言いますと二つの「立場」からの議論があります。「愛」を強調する立場と「きよさ」を強調する立場です。皆さんは、自分たちの性格や生い立ちによって、どちらかを強調したくなるかもしれません。しかし、忘れてはいけないのは、聖書の神様は「愛」の神様でもあり、「聖なる」神様でもあるということです。この二つの要素を引き離すことはできません。ですから、私が聖書の教えについて説明するとき、嫌な気持ちがしたとしても、神様のご性質を常に思い出していただきたいです。

今回の修養会のテーマの流れは①現代社会が持っている嘆きと希望、②聖書のイエス様の答え、③現代社会における教会の歩みです。つまり、現代社会が何を求めているのか、イエス様が現代社会に提供しておられるのは何か、そして、教会は現代社会の中で、どのように社会とともに歩むべきなのか。ということです。今回のメッセージでは、現代社会が持っている嘆きと希望について取り上げたいと思います。

 

I. 教会と現代社会の「問題意識」

「教会」と「現代社会」が「同性愛」ついて話すとき、私もそうですが、相手の質問、置かれている状況、求めていることなどをあまり理解せずに答えようとしてしまいます。そして、お互い激しく議論し、熱心に相手を説得しようとするのですが、ただただ会話のすれ違いになってしまうようなことがよくあります。みなさんは、そのような経験をしたことがありますか?私は何回かあります。最近、私が気づいたのは、会話のすれ違いの原因は、教会と現代社会がお互いに違う「問題意識」と「思想の枠組み」を持っているからではないかということです。

「同性愛」について話すとき、教会の「問題意識」は、主に倫理的なことです。つまり、「同性愛」は許されている「行い」、または「歩み方」なのか、それとも、許されていない「行い」または「歩み方」なのか。それが教会の「問題意識」と「思想の枠組み」だと言えます。ですから、教会は熱心に聖書、哲学、歴史、社会学、科学などによって、「同性愛」という「行い」または「歩み方」が許されるか否かを倫理的に証明しようとするのです。

しかし、気を付けなければならないのは、21世紀の現代社会の「問題意識」は倫理的に「同性愛」をどう考えるかではなく、「同性愛」を受け入れるか受け入れないかなのです。現代社会は、「同性愛」を「行い」または単なる「歩み方」として見ていません。社会は「同性愛」を人の「アイデンティティ」として見ているのです。つまり、社会は「同性愛」を、人がする「行い」として見ているのではなく、その人の自身の本質として見ているのです。

ですから、現代社会とLGBT当事者が、教会に求めているのは、同性愛者の「アイデンティティ」を否定せず、その人を「ありのまま」に認めて、受け入れてほしい、ということなのです。ですから、現代社会が教会に一番求めていることは、結婚の定義を変えることではありません。現代社会が教会に求めているのは、①同性愛者の「アイデンティティ」を受け入れることと②彼らのために「居場所」を作ることなのです。

要するに、「教会」と「現代社会」との議論は、根本的に考えれば、「結婚」や「性的関係」についてではないのです。この議論は自分の「アイデンティティ」が何であり、どのようにあらゆる人たちのために「居場所」を作るかということが議論の本質だと思います。もちろん、教会はそのまま現代社会の「アイデンティティ」や「居場所」の定義を受け入れてはいけませんが、現代社会とLGBT当事者が求めていることをよく聞いて、よく理解する必要があります。同性愛者が究極的に求めていることは、「私たちは今まで教会に否定され、無視されて、さばかれた存在だった。教会は他の罪人を受け入れるけど、私たちをありのままで受け入れてくれない。教会には私たちの居場所がない!」ということです。しかし、その悲鳴に対して、教会は「いや、違う。あなたは「結婚の定義」と聖書を深く誤解している」と冷たく答えることがよくあります。私たちは話す前に、まずよく相手の話を聞いているでしょうか?「 私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。」(ヤコブ1:18-19)

 

II. 現代社会の嘆きと希望

しかし、教会は現代社会の疑問を聞くだけではなく、その疑問を理解する必要もあります。現代社会が考える「アイデンティティ」と求める「居場所」は何でしょうか?それについて答えるために、今までの社会の歴史の流れと思想の変化を理解しながら、現代社会の嘆きは何であるのか、そして、現代社会の希望は何であるのかを見ていきたいと思います。クリスチャンの歴史家カール・トルーマンの分析[1]に基づいて、できるだけ簡潔に説明します。

  1. 現代社会の嘆き:過去の「自分像」の圧制

まず、現代社会の嘆きというのは、過去の「自分像」の圧制に対する嘆きなのです。つまり、過去の「アイデンティティ」の定義では、弱い人、価値を見いだせない人、罪深い人、少数派の人たちには「存在」と「居場所」を与えなかったことです。そして、もちろん同性愛者はその一人です。

フィリップ・リーフとチャールズ・テイラーという社会学者と哲学者が今までの西洋の歴史を分析して、人の「自分像」は四つの段階を通して変化していったと考えました。①古代を表す「政治による自分像」。つまり、自分はどの国、どの階級、どの家系から来たか、どのように「国」に貢献しているかによって、『自分』は何なのかが定められた時代でした。②中世の時代を表す「宗教による自分像」。つまり、自分はどの神様を信じているか、どの宗派に属しているか、どのような宗教活動を行っているか、どのように「宗教」に貢献しているかによって、『自分』は何なのかが定められた時代でした。③17世紀-20世紀を表す「経済による自分像」。つまり、自分はどういう仕事を持っているのか、どのような肩書を持っているか、どれほどお金を持っているのか、どれほど「経済」に貢献しているのかによって、『自分』は何なのかが定められた時代でした。

この三つのステージに共通するものがあります。自分の「アイデンティティ」は自分の「環境」によって定められ、「社会」が与えるものであるということです。つまり、社会は、「政治」、「宗教」、または「経済」という基準に沿って、あなたに「アイデンティティ」を与える思想なのです。そして、「政治」、「宗教」、「経済」あるいは社会に貢献できる人には、社会に「居場所」があるという考え方なのです。社会にとって「価値」のある人は「アイデンティティ」と「居場所」がある人だということです。

その反対に、価値を見いだせない人たち、マイノリティ側にいる人たちは「存在」、「アイデンティティ」、「居場所」がないのです。もちろん、同性愛者はその一人です。これが現代社会の「嘆き」とも言えます。社会が認めない人たちの「存在」を消す傾向に対して嘆いているのです。そして、自分の価値を生み出すために、自分の「アイデンティティ」と「居場所」を確保するために、環境と社会に自らを合せ、「自分」を消して変えていくことが社会が現代社会の「嘆き」なのです。ここで強調したいのは、同性愛者が感じていることは、どんな人であっても共感できるもので、特に日本社会のマイノリティでもある、日本人クリスチャンとして経験していることでもあります。

  1. 現代社会の希望:21世紀の「ありのまま」の自分像

しかし、21世紀の現代社会になると、パラダイムシフトが起こります。四つ目のステージは「精神による自分像」です。今までの「自分像」は「環境」や「社会」によって定められたのですが、現代社会の「精神による自分像」という考え方では、自分のアイデンティティは自分の「環境」や「社会」に影響されないものであると、考え始めました。

つまり、自分のアイデンティティは、政治的立場、宗教、ステータス、お金、年齢、人種、性別に捕らわれないものであると考え始め、物理的に捕らわれない自分の「精神」こそが、自分のアイデンティティの一番本質的な部分だと考えるようになったのです。ある意味、「精神の自分像」を受け入れることによって、「環境」によって自分のアイデンティティが定められる仕組みから解放されるということです。

例えば、私はよく冗談を交じえながらこのように自分を紹介します。「自分の国籍はアメリカで、両親はフィリピン人です。しかし、自分の中身はアメリカ人、フィリピン人、日本人、韓国系アメリカ人で、なぜか全部まじっています」そして、こういう表現もよく聞きますね。「私は60歳なんですけど、精神年齢は25歳です。」「私は男の体に閉じ込められた女性です」「自分のアイデンティティは自分だ」という表現も、現代社会に生きている私たちにとっては、自然に理解できる表現かもしれません。このような発想の土台は、「自分のアイデンティティの一番本質的な部分は自分の「精神」である」ということです。そして、この発想の枠組み自体は悪くありません。歴史的に考えれば、それは聖書から来た考え方でもあると言えます。(参照:ガラテヤ3:26-28)

しかし、「自分像」のパラダイムシフトによって、20世紀後半から21世紀の間、社会の枠組みと価値観が急激に、そして、極端に変わりました。[2]もし人間のアイデンティティの本質的な部分が「精神」であるならば、まず第一に、ありのままの「精神」、「自分らしい歩み方」をできるだけ守ることが優先されるべきだ、と現代社会が考え始めたのです。なぜなら、自分たちの「アイデンティティ」を決めるのは、自分の外にある「政府」、「宗教」、「経済」、「環境」、「身体」、「神」ではなく、自分の「精神」だからです。そして現代社会が政府、会社、学校、メディア、教会に求めているのは、人の「アイデンティティ」や「自分像」を変えることではなく、人の「アイデンティティ」を否定せずに肯定し、どんな人であっても、ありのままでその人を受け入れ、「居場所」を作ることなのです。例えば、「東京レインボープライド」のモットーは、「らしく、たのしく、ほこらしく」なのです。「性的指向および性自認にかかわらず、すべての人が、より自分らしく誇りをもって、前向きに生きていくことができるHappy!な社会の実現をめざしています。」と。[3] ある意味、これが現代社会の「希望」なのです

そして、ここが聖書と現代社会が描く「アイデンティティ」と「居場所」の境界線でもあります。もし教会が「私たち教会は、同性愛者の歩み方に同意はしませんが、同性愛者を受入けれます」と言ったとしても、現代社会はそれを受け入れません。なぜなら、現代社会にとっては、それは「矛盾」として聞こえるからです。同性愛者が「する」ことを否定することは、その人のありのままの「アイデンティティ」を否定し、「居場所」をなくすこと同様なのです。つまり、教会は、人の「アイデンティティ」を考えるとき、人の「精神」と「歩み方」を分けて考えますが、現代社会は分けないのです。その違いについて、次のメッセージで詳しく説明したいと思います。

しかし、「現代社会と聖書の違い」を説明する前に、現代社会の希望の本質について忘れていけません。現代社会は、価値を見いだせないような人々のために、自分の「アイデンティティ」を隠さずに、ありのままで受け入れてもらえる「居場所」を確保したいのです。ある意味、教会は同じゴールを持っていますが、どのように人を受け入れるかは全く異なります。

 

III. 神様の「答え」と教会の「間違った答え」

では、現代社会の「嘆き」と「希望」に対して、神様はどう答えておられるでしょうか?自分の「アイデンティティ」が否定され、「居場所」のないマイノリティに対して、神様はどう答えられるでしょうか?私たちが読んだ箇所には二つのタイプの人が提示されています。「異国の民」と「宦官」(かんがん)です。旧約聖書では「異国の民」は、偶像礼拝を行う、汚れた罪深い民として見られ、通常の礼拝に参加することはできませんでした。ですから、イザヤ56章3節で「主はきっと、私をその民から切り離される」と、異国の民はつぶやきながら、神の民の中には「居場所」がないと思っていたかもしれません。また、宦官というのは、「貴族に仕えていた、去勢された男子」のことです。彼らは、通常の男女関係を持てず、家族も子どもも持てない者として、見下された存在でした。そして、申命記23章1節では、去勢された男子、つまり、通常の男女関係を持てない存在は、通常の礼拝に参加することもできなかったことが書かれています。ですから、イザヤ54章3節に書いてあるように、宦官は神様の御前で「ああ、私は枯れ木だ」と考え、神の民の中には、自分の「居場所」がないと思ったかもしれません。「異国の民」と「宦官」たちは、ありのままの「アイデンティティ」では、神の国には自分たちの「居場所」はないと理解していました。

しかし、神様はどう答えられたでしょうか?神様は宦官にこう答えられます。

なぜなら、がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、 わたしの喜ぶことを選び、 わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、 わたしの家、わたしの城壁の内で、 息子、娘にもまさる記念の名を与え、 絶えることのない永遠の名を与える。」 (イザヤ56:4-5)

つまり、神様は宦官のありのままの「アイデンティティを受け入れる」というよりも「息子、娘にもまさる記念の名を与え、 絶えることのない永遠のアイデンティティ」をお与えになったのです。しかも、それは、子どもたちや家族から受ける「名誉」にもまさるほどの、想像を絶する「名」でした。要するに、神様は、私たちが求めても、自分たちでは手に入れることのできないような、新しい「アイデンティティ」を与えてくださり、その完璧な「アイデンティティ」によって私たちを受け入れてくださるのです。

 

そして、神様は「異国の民」にこう答えます。

「また、に連なって主に仕え、 の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、 みな安息日を守ってこれを汚さず、 わたしの契約を堅く保つなら、 わたしの聖なる山に来させて、 わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。 彼らの全焼のささげ物やいけにえは、 わたしの祭壇の上で受け入れられる。 なぜならわたしの家は、 あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」 (イザヤ56:6–7)

つまり、神様はただ異国の民に神の国に入ることができる特権を与えられるのではなく、彼らを積極的に受け入れてくださり、彼らを「楽しませる」ほどの「居場所」を作ってくださいます。それは、どんな人であっても、どんなマイノリティであっても、神の家には「あなたが存分に楽しむことができる『居場所』がある」ということです。これが現代社会に対するイエス様の答えだと思います。

修養会の二つ目のメッセージで、私たちはどういう「アイデンティティ」を頂いているのかを聖書から学びます。そして、三つ目のメッセージでは、教会がどのようにすべての人(特に同性愛者)のために「居場所」を作るべきかについて具体的に考えます。

しかし、それを学ぶ前に、現代社会の「嘆き」と「希望」に対して、教会(私も含め)が二つの間違った答えをしてしまったことを悔い改める必要があります。まず、私たちは「現代社会の嘆き」を引き起こし、その「嘆き」を無視したことを悔い改めなければなりません。これまで、教会は価値を見いだせない人たち、社会に貢献しない人たち、あるいは、マイノリティにいる人たちに「存在」、「アイデンティティ」、「居場所」を与えない傾向がありました。そして、当時の文化に染まっていた教会は、聖書の教えよりも社会の価値観を優先してしまいました。ですから、聖書の「聖さ」を実施していない人たち、あるいは、通常の「奉仕」ができない人たちを無視してしまうといった教会の傾向がありました。「普通」の人と違うと思われる、人種的マイノリティや、貧しく、社会的地位の低い人たち。「普通」の人と同じように貢献できないと思われる、身体的、精神的な病気や障害を抱えている人たち、小さな子どもたち、または、年をとっている人たち。「普通」の家族の形をもっていない、独身、シングルマザー、未亡人、離婚者、再婚者。「普通」の人と違う傾向、個性、弱さ、試練、あるいは中毒と戦っている人たち。日本の92.5%の「普通」の人と違う「同性愛」を持っている人たち。そのような人たちは、聖書と教会を見て、イザヤ56章3-4節と同じように、「主はきっと、私をその民から切り離される」、「ああ、私は枯れ木だ」と嘆いているかもしれません。そして、教会は「そうだ。あなたは罪人だから、あなたの居場所はない」という雰囲気を出す傾向があります。この傾向を悔い改める必要があります。

 

そして、教会はもう一つの間違った答えをしてしまいます。私たちが「現代社会の希望」をそのまま受け入れてしまうことです21世紀の「自分像」は、ありのままの「精神」、「自分らしい歩み方」をできるだけ尊重し、肯定し、愛することです。そして、現代の文化に染まっている教会は、聖書の教えよりもその価値観を優先してしまいました。教会は神様が忌み嫌われることを肯定し、「神様は罪人の『ありのまま』を愛してくださる」と宣言してしまい、神様が「自分らしい歩み方」を許してくださるから悔い改める必要はないと教えてしまうときがあります。つまり、キリストにある私たちの新しい「アイデンティティ」を強調しすぎて、まだ自分の内に残っている「古い」、罪深い『肉』を「殺さない」ということです。ですから、教会は、同性愛に限らず、神様が忌み嫌われる「性欲」、「欲望」、「心の偶像」を肯定し正当化する傾向を悔い改める必要があります。

 

この二つの間違った答えに対して、神様はこうおっしゃいます。「いや、どちらも違う!わたしはどんな人でも受け入れる。しかし、ありのままの罪人を愛さない。私はあなたの嘆きをよく理解している。だから、あなたの古い「自分」にまさる新しいアイデンティティを与える。もしあなたが異国人ならば、あなたは私の国民(くにたみ)となる。お金がなければ、私の天の遺産を与える。壊れている体か精神があれば、あなたに新しい体と魂を与える。家族や友人がいなければ、私は、あなたを私の子とし、私の友とする。配偶者がいなければ、あなたは私の花嫁になる。罪人であれば、私の恵みによって、あなたを義人にする。あなたが永遠に認められないような存在ならば、すべてのものにもまさる記念の名、 絶えることのない永遠の名を与える」と、そうおっしゃるのです。つまり、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)。キリストを信じれば、どのような罪人であってもあなたが「新しく造られた」人であることは客観的な事実なのです。しかし、私たちは、まだ古いもの、古い「罪人」が残っています。この世にいる限り、私たちの「古い」罪は残ります。ただし、それと同時に、私たちはすでに新しいアイデンティティを頂いている「義人」であり、古い「罪」を殺す、そして、「義」にあって歩む力が与えられているのです。ですから、「新しく造られるように努めなさい」ではなく、「新しく造られた者として歩みなさい」(参照:ローマ6章)と神様はおっしゃるのです。教会として、神様の素晴らしい約束と福音を「ありのまま」に語ることができるように努めていきましょう。

[1] Carl Trueman, The Rise and Triumph of the Modern Self: Cultural Amnesia, Expressive Individualism, and the Road to Sexual Revolution (Crossway 2020).

[2] なぜこのようなパラダイムシフトが起こったのか?もちろん、哲学的な理由はありますが、一番わかりやすいのは、文明が急激に発展したからだと思います。文明が急激に発展したことによって、私達は「環境」に操られるのではなく、むしろ、自分ちゃちが「環境」を操ることができると徐々に考え始め、結果的に自分のアイデンティティの一番本質的な部分は、自分の「環境」ではなく、自分の「精神」であると思うようになったのです。「性的アイデンティティ」も同じ理由で変化したと考えられます。

[3] https://tokyorainbowpride.com/about2021/