2021年9月26日礼拝 音声有 説教「イエス様の逮捕とユダの自殺」

*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。

<礼拝式順>

前   奏

招きの言葉                エペソ人への手紙 6章10-12節

さ ん び                    「我が心の目を開いてください Open the Eyes of My Heart」

さ ん び                    「詩篇23」

開会の祈り

主の祈り

聖   歌                   430番 「けがれとはじとの」

聖書朗読                   マタイの福音書 26章47−27章10節

聖書の話             「イエス様の逮捕とユダの自殺」                  廣橋嘉信牧師

聖   歌                   433番 「弟子となしたまえ」

献   金

報   告

とりなしの祈り                                                                             廣橋嘉信牧師

頌栄 (聖歌)                  383番 「ちち・こ・みたまの」

祝   祷                                                                                   廣橋嘉信牧師

後   奏                  教会福音讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

マタイの福音書26章47〜27章10節 「イエス様の逮捕とユダの自殺」 廣橋嘉信牧師

序)主がオリーブ山のゲッセマネの園で、十字架への心備えを完了し、その杯を飲み干すために心から神に従う決断をされたとき、主を裏切る者ユダがやって来ました。イエス様は、「今はあなたがたの時です、暗やみの力です」と言われました。しかし、その姿勢の中には敗北者でなく、勝利者イエスの姿を見ることができるのです。

Ⅰ  マタイ26:47〜68  「イエス様の逮捕」
1 暗闇の中を、イエス逮捕に向かった最高議会の人々、すなわち、祭司長、宮の守衛長、長老たち、群衆たちは、あらかじめ手筈を整えたとおりの、ユダによる裏切りの手順にしたがって間違えることなく、主イエスの前に到達しました。「十二人の〈弟子の〉一人のユダ」が先頭に立っていた。この書き方には深い悲しみと、憤りがこもっているのです。ユダは最後の晩餐の席から途中で退席し、自分の計画を実行に移しました。最高議会の人々は剣や棒を、持って来ました。ヨハネによると一隊の兵士たちも来たのです。裏切りの合図は「口づけ」でした。「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」とユダは示し合わせていました。
現場に着き、ユダはイエスを認めると、挨拶の接吻(せっぷん)をしようとしました。「先生、こんばんは」打ち合わせのとおりです。ユダの口づけは、単なる挨拶以上の、幾度も、幾度もしたというほどの表現で書かれています。ギリシャ語では愛する者が愛する者にする接吻、幾たびも、幾たびもする接吻を意味します。この人だ、間違えるなよ、といった意味のこもったことでありました。ルカの福音書では、イエス様は「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」と言われたとあります(22:48)。イエスは人に出し抜かれるようお方ではありません。一切をご存知で十字架に向かわれたのです。ユダの意図は暴かれました。
主イエスに敵対する者や、裏切る者たちが、鄭重(ていちょう)熱烈な接吻に類する、何らかの「偽装工作」により行動に出るという、恐ろしい警告がここに記されているのです。主はそのような者に、その犯そうとしている恐ろしい罪をはっきりと指摘して悟らせ、止めさせようとされました。ユダの懸命な演技も、真実な主の前には、むなしい茶番劇です。主はユダの永遠の運命の為に配慮し、案じておられました。私たちがする主イエスヘの愛の信仰告白はいかがでしょうか。

2 「イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。」(マタイ26:51)ルカの福音書ではことの成りゆきを見て、弟子たちが「主よ、剣で切りつけましょうか」と言って、その中の一人が、実際に大祭司のしもべに撃ちかかって、右の耳を切り落としたと書かれています(ルカ22:49)。血気にはやって、主の返事を聞くいとまもなく切りかかりました。ペテロであったと他の福音書にあります。主はこれをすぐに制されました。「やめなさい。そこまでにしなさい。」(ルカ22:51)。剣をおさめよ。それ以上エスカレートすることを禁じられ、同時に、切られたしもべをすぐに治してやりました。公務執行妨害、と傷害致死罪などの理由でペテロが逮捕され、また、主イエスがそれを止めなかったと言い掛かりを付けて、反乱の頭であると犯罪人扱いされることを、主は拒否されました。自分の罪のために十字架にかけられる危険性が、ペテロの血気にはやった行動はもたらすところでした。イエスは無罪のままに裁判にかけられ、十字架にかからなければなりませんでした。
また、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」ということばが成就するためでした(ヨハネ18:9)。
主は初めから無抵抗、無罪のままで逮捕される積りであったのです。それは、人の罪ゆえにであって、私たちの罪のための十字架であることをはっきりする必要があったのです。

Ⅱ 「今はあなたがたの時、暗やみの力です。」
マタイ26:55〜56 また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。
イエスのことばは、逮捕の不当性を告発するものでした。犯罪人のように逮捕されようとしていましたが、実際は白昼堂々と逮捕できず、毎日宮で一緒にいる間は手も出せなかった。そしてまるで彼が犯罪人であるかのように夜に、暗闇に乗じて、お金で釣った裏切り者を用いてやってきた。宮で連日論争してきたのに、逮捕できるような過失、罪を発見することができなかった。まさに今夜の逮捕は、暗闇の力である。いかにも、イエスが強盗であるかのように装わないと逮捕できなかった。さらに、それによって、バラバよりも強暴なイエスを演出して、エルサレムの人々や、ローマの官憲にアピールするための悪意が満ちていました。
主は「しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です」(ルカ22:53)と言われたとルカの福音書に書かれています。この暗黒の権力、サタンの権威にしばらく任せ、ご自分が逮捕されるのを良しとされた。このような時は、弟子たちの信仰が切り崩され、暗闇の支配に弟子たちが引きずり込まれかねない危険な時です。ペテロは大祭司のしもべに切かかるよりも、自分の信仰に切りかかり、主イエスから自分を引き離そうとする悪の力に対して戦うべきだったのです。
これらの背後に、救い主の働きの一切について聖書の預言実現が絡んでいました。神の救いの計画の成就と、神のご経倫の中での、暗黒の権威のしばしの時をはっきりと示しておられる。これらの終わりには、暗黒の力は、徹底的に滅ぼされ、神の栄光のみが輝くに至る歴史経過をたどるのです。
私たちの今、というときは、暗やみの力に支配された時でしょうか、それとも、イエス様のようにすべてを見越した、神の時に立っているでしょうか。

26:56節 そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。
弟子たちは、これらの出来事に耐えられなくなりました。イエスと同じように自分たちも逮捕されるのを恐れて逃げ去ったのです。あの豪語していたペテロも勇気をくじかれて一目散に逃げました。マルコの福音書には、若ものが逃げたことが記されています。彼はマルコ自身のことではないかというのが通説です。他の福音書には記されていないのです。とするとマルコの福音書の著者マルコは、主の逮捕に関する事件を目撃していたことになります。この恥ずかしいエピソードをわざわざ本文に書き込んだのは、主を信じてからも彼の生涯で忸怩(じくじ)たる事柄であったのでしょう。

Ⅲ 27:1〜10 「ユダの自殺」
1 ユダの自殺記事は、マタイの福音書にだけ書かれているのです。ユダの故意の背教について、その結末をマタイは描くことで、心理的圧力のもとで一時的脱落をしたペテロとの違いを際立たせています。3節の「後悔し」(通常はこのような訳はしない)は「遺憾に思う」「心を変える」という意味です。救いを示唆しないで、単に「悪かった」と思うことを表現している「語」が使われています。ユダは後悔しているけれども、罪の重荷をおろすことはできない。彼の後悔は自分が裏切った主イエス様に向けて、ご免なさいと言って、なされたのではない。祭司長たちから「自分で始末することだ」と言われている。しかし同時に血の代価の返還とその使用は、「祭司長たちと民の長老たち」を巻き込みもし、このようにしてマタイ23章29〜39節で既に説明されたように、血を流した罪をさらに増し加えるのです。銀貨は神殿に投げ込まれた。「神殿」は正確には「聖所」で祭司だけしか入れないところです。ユダはそこに侵入して、銀貨を投げた。祭司たちは投げ込まれた血の代価である銀貨を拾い上げることを余儀なくされた。そのことでユダの罪に巻き込まれた。旧約聖書のゼカリヤ書11章13節 「主は私に言われた。『それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。』そこで私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた」、マタイの説明で引用されている旧約の預言は、言葉の上での表面的な一致以上に、ここでは預言的内容の一致があると言われています。「首をつった」という表現は、新約聖書の他の箇所には無い。旧約聖書では、ギリシャ語70人訳聖書で、ダビデを裏切った友人アヒトフェルの自殺を描くのに用いられています。マタイはダビデの子イエスを裏切ったユダのためにこのことばを意図的に用いたとも考えられます。
2 パウロはユダのことを考えていた可能性があります。次のように書いているからです。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(第二コリント7:10)私たちは「いのちに至る悔い改め」をウェストミンスター信仰告白15章で表明しています。
第15章 命に至る悔改めについて
1 命に至る悔改めとは、福音的恵みであって(1)、その教理はキリストヘの信仰の教理と同様に、すべての福音の教役者によって説教されるべきである(2)。
2 これによって罪人は、自分の罪を神のきよい性質と正しい律法に反するものとして、その危険さばかりでなく、そのけがらわしさやいとわしさをも見また感じ、そして後悔している者へのキリストにある神のあわれみを悟って、自分の罪を悲しみ憎んで全くそれを捨てて神に立ち帰り(1)、神の戒めのすべての道において神と共に歩むように目ざし努力するのである(2)。3 罪のための償いまたは罪のゆるしの原因は、キリストにある神の自由な恵みの行為であるから(1)、悔改めが、何かそのようなものであるかのように信頼されてはならないが(2)、それはすべての罪人にとって必要なものであって、だれも悔い改めないならば、ゆるしを期待することはできない(3)。
4 永久刑罰に価しないほど小さな罪がないように(1)、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない(2)。
5 人は、一般的な悔改めで満足すべきでなくて、自分の個々の罪を個別的に悔い改めるように努力することが、各人の義務である(1)。
6 各人は、自分の罪のゆるしを祈りつつ、神に対しそれを私的に告白すべきであり(1)、その上その罪を捨てることによってあわれみを得る(2)。だから自分の兄弟やキリストの教会をつまずかせた者は、自分の罪を私的または公的に告白し、またそれを悲しむことにより、被害者に対して自分の悔改めを進んで表明すべきである(3)。これによって被害者は、彼と和解し、愛において彼を受けるべきである(4)。

結び)主のみ、ゲッセマネでの祈りの勝利に立って、終始変わらず毅然として進んでおられます。祈りよって勝利した者のみ、神のわざをおし進めることができるのです。日々の信仰生活のために、導きと力を求めて、神の時をわきまえる者となりましょう。
エペソ6:10-20 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

 

聖書箇所:新改訳2017版(©2017新日本聖書刊行会)