2021年10月3日礼拝 音声有 説教「バラバか、キリストか」

*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。

<礼拝式順>

前   奏
招きの言葉 イザヤ書 53章1−3節
さ ん び 「主は我が力 God Is the Strength of My Heart」
さ ん び 「You Are My King」
開会の祈り
主の祈り
聖   歌 703番 「うれいと罪より」
聖書朗読 マタイの福音書 26章57−68節、27章11−26節
聖書の話      「バラバか、キリストか」 廣橋嘉信牧師
聖   歌 692番 「見よや十字架」
献   金
報   告
とりなしの祈り 廣橋嘉信牧師
頌栄 (聖歌) 383番 「ちち・こ・みたまの」
祝   祷 廣橋嘉信牧師
後   奏  教会福音讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

マタイの福音書26章57節~27章26節 「バラバか、キリストか」

廣橋嘉信牧師

序)イエス様は十字架刑までに裁判を6回も受けました。ユダヤ教による裁判は3回で、前大祭司アンナスの家(ヨハネ18:12、24)・現大祭司カヤパとサンヒドリン(サンヘドリン)議員たちの前で(マルコ14:53-56)・夜明け直後の公式法廷(ルカ22:66-71)でした。ローマ帝国の権力による裁判も3回ありました。それらは総督ピラト(マタイ27:1-6)・ガリラヤの国主ヘロデ・アンテパス(マタイ27:7-12)・総督ピラト(マタイ27:13-25)の前のです。

Ⅰ イエス様の受けた裁判
1 裁く側の生き方
26:57節 イエス様を裁いたユダヤ人の法廷は、サンヒドリンといいました。ユダヤの国会であると同時に、最高裁判所でした。構成人員は有力長老、律法学者、パリサイ人、サドカイ人たち71人でした。ユダヤの政治上、宗教上の広範囲に渡り権力を行使していました。ただローマ皇帝の支配下にあったため、彼らは死刑を宣告する権限はありませんでした。
彼らは自分たちの宗教の敵として、イエス様を死刑にするべく訴えるために、ローマの法律で裁いてもらおうとしたのです。彼らはすでに決定している事柄に基づいてそれを実行に移すための口実を見つけようとしました。そのためにはあらゆる手段を用います。初めに結論がありました。このやり方は不法でした(5962節)。そのために主イエス様に不利な証拠を、次々と偽証によって集めました。その結果は不成功に終わりました。偽証は、主イエス様が沈黙しているだけで次々と敗れました。彼らは全く罪がない者を無視することによって、ことをなし遂げたのです。事実や真理を無視する罪がありました。
64節 大祭司の質問にイエス様は大胆に自己証言をしました。大祭司は罪に定める理由を発見しました。神様を冒涜した罪です。これは大祭司が話の持って行き方で自分の思う方へ誘導尋問したのです。死刑に値する罪として、ユダヤ人には神を冒涜することだけで十分でした。裁判は異常でした。弁護人もいなく、夜に行われ、告訴人は証拠において一致できませんでした。死刑の宣告は裁判の翌日にしなければならないルールだったのに、彼らユダヤ人たちはその場でしました。まことに主イエス・キリスト様は不法の者の手によって裁かれたのです。

2 裁かれる側のイエス様
① 主イエス様の立場 不法に対しては沈黙あるのみでした。自己弁明をしていません。不当な批判については黙殺しています。イザヤ53:7「彼は痛めつけられ、苦しんだ。 だが、口を開かない。 屠り場に引かれて行く羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、 彼は口を開かない。」
② その上で必要な時には真理に対してはっきりした証言をしました。64節。主は答えます。「あなたが言ったとおりです。」自分は「ほむべき方の子」・神の子であり、キリスト・メシヤである(マルコ14:61)。さらに「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(マタイ26:64)。
イエスが用いた「人の子」という称号の背後には、ダニエル書7:13の人の子の概念があることが明らかであり、また同時に苦難と復活に関する言及の背後には、イザヤ書における「苦難のしもべ」の思想があることも明らかである。イエスは「人の子」という称号の中に王としての権威を持ったダビデ的メシヤの概念と、審判者としてのダニエル的人の子の概念と、イザヤ的苦難のしもべの概念を盛り込むことによって、当時のメシヤ観には見られない独自のメシヤ観を提示したと言うことができる。(新聖書辞典)
これは裁いている者にとって、イエスが神の子・キリストであることが「嘘」ならば、冒涜罪になるけれども、「本当」であるならば、彼らが、神様を冒涜したことになるのです。最も恐ろしい神の裁きにあうというところに、彼らは追いやられたのです。彼らの運命は、裁きの座に着かれたイエス・キリストを迎えるという恐ろしい警告をここで受けたのです。
イエス様は、ご自分の性質と働きに関する限りは沈黙しませんでした。確信を持ってお答えになりました。裁く者たちを神様の前に立たせたのです。
③ 67節 神様のために人々から暴力をふるわれ、憎まれることも避けないで、忍従された主の姿をみます。主はこの唾(つばき)、拳(こぶし)を受けることにより、メシヤとしての証を立てられました(イザヤ50:5-6、53:7)。ここに主が救い主であることが沈黙と告白と忍従において、はっきり全聖書と行いから証言された。

Ⅱ 総督ピラトの裁判
主イエス様の十字架刑を宣言したローマ総督ポンテオ・ピラトは、その間違った裁判のゆえに世界的に知られています。聖書の記述以外に、ユダヤの歴史家ヨセファス、ローマの著述家タキトウスの文書に簡単に名前が出てくるだけです。ピラトの軍司令部があったカイザリヤで、1961年彼の名前が記された石版が発見されました。彼はローマの中産階級の出身で、紀元26年にユダヤの総督に任命されました。軍事、経済面で権力を有し、大祭司の任命権を持っており、神殿の財政を管理しました。著作家たちの言及によれば、ピラトは就任直後から、ユダヤ人たちを怒らせるようなことを平気で次々と起こし、その度に反乱と群衆の一斉蜂起にあっています。福音書は彼がイエス様の裁判に関わって不正な判決を群衆のためにしたことを強調して書いています。彼の最後は、サマリヤ人とゲリジム山に関する騒動を治め損なったことをきっかけにローマ皇帝の前に報告をしなければならなくなって、ローマに帰国の途中自殺したと言われています。統治の失敗とその責任を皇帝に問われることは死を意味したのを彼は知っていたのです。
イエス様を裁いたユダヤ人の法廷サンヒドリンは、死刑に値する罪として、神を冒涜することだけで十分でした。しかしピラトに死刑の宣告を出してもらうには、反逆罪が一番必要でした。ルカ23章2節 そしてイエスを訴え始めて、こう言った。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」ピラトへの訴えの内容は悪意とすり替えに満ちたものでした。「国民を惑わしている」主イエス・キリストがローマの治安を妨害し、国民を煽動していると言うのです。第二点は「カエサルに税金を納めることを禁じ〈ている〉」、第三点は「自分は王だと言っている」というのでした。王の称号の横領。
これらがすべてすり替えであることは、実は訴えた彼らが一番よく知っていました。主イエス・キリスト抹殺のために彼らが作りだした理由でした。
ピラトは彼らの心をよく見抜いていました。訴えが偽りであることは、何よりも治安の専門家としての経験からみても、すぐにわかりました。税金に関しては主イエス・キリストは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」(マタイ22:21)といわれたことは彼らも知っていたのです。
ピラトは、第三点だけを取り上げました。「あなたはユダヤ人の王なのか。」これも自分の前のみすぼらしい大工あがりの男を見て、「あなたがユダヤ人の王なのか?」とあきれ気味に尋ねたのです。イエスは「あなたがそう言っています」と答えました。
この問答の続きは、イエス様が「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハネ18:36)と答えられたとわかります。マタイは単純に書いています。
ピラトの関心事は、自分の治めている政治的な領域を、ユダヤ人の王として反逆しようとしているかどうかでした。主イエス・キリストの答えを聞くと訴えられている程には危険性がないということは明らかでした。主イエス・キリストの王位と、カエサル(カイザル)の王位は次元が違うのです。キリストの王国は霊的なものです。心に主イエス・キリストを主として仰ぐ者たちが王国の一員です。それはカエサルが地上の帝国を治める権限を一向に妨げるものではありません。その上、地上の王権は、天の神様が立てられて許しておられるのです。このような意味で主イエス・キリストが王になろうとしているのではないことは明白です。
マタイ福音書はこれらのやりとりを省いて、「あなたがそう言っています」とだけ書いています。ピラトにとって、ユダヤの当局者によって、簡単に逮捕されるような王様は、ものの数ではありませんでした。第一ユダヤ人たちが王様と認めていないのですから。何の危険性もありません。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」(27:23)「無害である。取り締まるような人物ではない」と答えました。治安の専門家の目で無罪なのです。
イエス・キリストは、そのような者たちに対して、沈黙を守られた。聖なるものを犬に投げ与えてはいけない。そのような余計な時間はない。神の国を心から振り向いて求め、捜し、尋ねる者には時を惜しまず語り伝え、その力を証明される。

Ⅲピラトと民衆の対決 27:15〜26
ピラトは、その祭りには、人々の願う囚人を一人だけ赦免するのを例としていた。ピラトはイエスを有罪にしたくなかった。罪がないのだから当たり前であった。ローマの栄光である公正と正義にもとる(ゆがむ)ことになる。彼はイエス無罪を主張しました。そして釈放の提案もいたしました。それはローマの法律に照らして、紛れもない極悪人バラバと比較させて釈放しようとしたのでした。じかしそれは裏目に出たのです。指導者たちがバラバを赦すようにと民衆を扇動したからでした。それでも、妥協案として、イエスを有罪扱いして、むちで打った上で、釈放しようとまでいいました。
しかし、彼はついに民衆の声に負けました。ユダヤ人の恫喝(どうかつ・おどし)に屈しました。ここにユダヤ人たちの罪が浮き彫りにされています。彼らは人殺しバラバを釈放しろ、イエスを十字架にと要求しました。無罪のイエスを殺しました。平和の君よりも殺人犯を選んだのです。愛の代わりに、憎しみと暴力を選んだのです。

今日も、同じように、十字架のイエスに向かって叫ぶ人々が大勢います。その選択は間違っているばかりでなく、自分たちが選んだように、憎しみと暴力と罪の騒ぎがその人たちを取り囲んでいるのです。
イスラエルには十字架刑はなかったのです。せいぜい石打ち刑でした。いのちの君を十字架にと叫んだ罪は大きいのです。
ピラトが民衆の声に負けた理由は、彼が民の暴動を恐れたからでした。しかも、この暴動の気配は、ピラトをカエサルヘの反逆罪で訴えかねない勢いをもっていたのです。ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」(ヨハネ19:12)ピラトは自分の首が危ないと感じたのでした。
政治的な支配者は、この人に罪なし、と決定しながら、ユダの民衆の声に負けて、無罪のイエスを十字架につけることにしたのです。その原因は「ねたみ」であったとピラトは見抜いていました。
以来、主イエス・キリスト様の福音が伝えられて、神様の恵みの力が勝利して行くところでは、必ずと言っていいほど、背後にどす黒い「ねたみ」が渦巻いて、福音を伝える者たちを襲い続けました。「使徒の働き」は幾度も敵対する者たちに沸き起っている「ねたみ」について書き記しています(使徒5:17・17:5)。テサロニケ、ペレヤ、アテネ、コリント、エペソ、ことごとく「ねたみ」の嵐は吹き荒れていました。そしてますます主の福音は勝利を収め続け、多くの人々を救いに入れ続けています。現代までもそれは継続しており、救い出された者たちの変化に対する「ねたみ」は大きく、ますます敵愾心(てきがいしん)と迫害の息を彼らは弾ませ続けているのです。しかし、神様の国は永遠に固く立ち、世界に広がり続けています。

結び)一見して不法の民の声が勝利したとみえます。この事件について、聖書はその背後で、天の神の声が勝利を収めたことを証言しています。
イザヤ書53章のメシア預言の文字通りの成就がイエス・キリストの身に起こりました。十字架につけよと叫んだ人々、そして、この私たちの罪にために、身代わりとなったのです。
「あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(使徒の働き3:14-15)人々がこのようにイエスを取り扱ったことに、救われるべき私たちの罪の姿があります。そして、神の救いの道が示されているのです。
私たちが受けた福音は、その溢れる恵みの力を発揮して、敵対する者たちにねたみを引き起こすほどに強力で、確実で、地上で信じて葬られた死人をも、主とともによみがえらせるのです。私たちは栄光から栄光に変えられ続けるのです。永遠に、私たちはキリストを選び続けます。

 

聖書箇所:新改訳2017版(©2017新日本聖書刊行会)より