*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。
<礼拝式順>
前 奏
招きの言葉 ヨハネの福音書3章16節
さ ん び 「主は我が力 God Is the Strength of My Heart」
さ ん び 「Amazing Love/You Are My King」
開会の祈り
主の祈り
聖 歌 179番 「おおくのかむり」
聖書朗読 マタイの福音書 27章27−56節
聖書の話 「イエスを十字架につけ」 廣橋嘉信牧師
聖 歌 163番 「十字架を主イエスの」
献 金
報 告
とりなしの祈り 廣橋嘉信牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝 祷 廣橋嘉信牧師
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
「イエスを十字架につけ」
序)罪のない主イエス様を十字架につけることを総督ピラトが許しました。ローマ政府の罪の宣告は一定の形式を持っていました。裁判官が「判決は次のようである。この男を十字架にかけよ。」と申し渡し、それから彼は番兵に向かって「兵士よ行け。十字架の用意をせよ。」と命令します。この時、十字架が用意されて、イエスは兵士に渡されました。
Ⅰ 十字架の回りの嘲笑
ローマの兵士にとっては、イエス様は今までもそうであったように十字架にかけられるただ一人の男に過ぎませんでした。彼らの中で、この方の十字架の背後に世界の救いの新時代が始まるのだということを知っていた者はだれもいませんでした。彼らの中にはユダヤ人のような悪意と憎しみもなかったのです。彼らがイエス様に紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、ユダヤ人の王様万歳と叫び、葦の棒で頭を叩いたりしたことは粗暴な冗談だったのです。しかしこの嘲笑は十字架の回りに、やがて起ころうとする多くの嘲笑の始まりで、それは今日まで世界中に続いているのです。罪状書きの「ユダヤ人の王」、主の十字架の左右に左大臣・右大臣として間違いなき強盗をつけたこと、道行く人々は「頭を振りながらイエスをののしった」こと(マタイ27:39)。十字架から降りて自分自身を救えと言ったこと。「他人は救ったが、自分は救えない」(42節)。多くのクリスチャンはイエス様について、また信じている自分たちについて、今も、嘲笑が浴びせられることを経験しています。
主イエス・キリスト様がご自分を救えなかったと彼らは嘲笑します。しかし救えなかったのではなくて、救わなかったのだということを生前のイエス様は証明しています(マタイの福音書20:18〜19、28・イザヤ書53:4〜5)。
Ⅱ 32節 シモン、十字架を負わせられる
ローマの兵士たちは主を処刑場に引いてゆきました。ゴルゴタ、そこはエルサレムの城外にありました。裁判の場所から処刑場まで十字架を初めは本人に負わせ、その前を罪状書に「ユダヤ人の王」と書かれたプラカードが進みました。見せしめのためにです。
イエスさまは、最初は自分で十字架を負わされて処刑場への道を進まれました。しかし、途中でついに力尽きて倒れました。付き添いの百人隊長は、見物人の中からクレネのシモンにその十字架を負うことを命じました。当時のパレスチナはローマの占領下にあり、いかなる市民もローマ政府と軍隊の奉仕に徴用されたら即刻、その任に就かなければなりませんでした。拒否することはできませんでした。その合図は、隊長の剣の刃のみねで肩をポンと打つだけでよかったのです。
クレネは、今のトリポリでアフリカの北岸にありました。そこにはユダヤ人の植民地がありました。シモンはエルサレムで過越の祭りを祝おうと、夢にみて長年、旅費をため、ついに念願かなってやって来たのでした。美しく、嬉しい旅でエルサレムに着いてからも神殿に詣でたりしてウキウキしていたのです。さまざまな予定を組んでいたことでしょう。そこへ降って湧いたような災難でした。罪人の代わりに十字架を負わされ、罪人とともに町の隅々まで共に歩き、処刑場までさらしものとなって行くのです。喜びの天から悲惨の地に落されたようなショックでした。イエス・ユダヤ人の王の十字架を負うことがシモンの十字架となりました。背負った十字架の重さよりも、屈辱の十字架のほうが重かったに違いありません。これだけ大勢いるなかでよりによって何で、自分が負わなければならないのか?です。主イエスのゆえに、人は突然のように負うべき十字架があるのです。他の人でなく、あなたに負ってもらいたいと神が計られた十字架があるのです。だれでもよいのではなく、あなたでなければならない主からの十字架があるのです。天の父の深いお計らいがあるのです。
しかし、その結末はどうだったでしょうか。マルコ福音書は、彼のことを「アレクサンドロとルフォスの父」(新改訳第3版:アレキサンデルとルポスとの父)で、「クレネ人シモン」と説明しています(マルコ15:21)。百人隊長が「お前はどこの生れで、名前は何というのか」と聞いたわけではありません。十字架を負わされた時は何処のだれとも分からなかったのです。もちろん、周りの群衆たちも知りませんでした。しかし、今は全世界で福音が伝えられる所では、クレネのシモンのことを知って、羨ましく思う聖徒たちが大勢いるのです。主の十字架をじきじきに負って、苦しみの一端を担うことができた特権と光栄を思います。
クレネのシモンだけでなく、アレキサンデルとルポスという二人の息子も、マルコ福音書が書かれた頃には、教会の最初時代ローマで、クリスチャンたちに良く知られた存在だったのです。パウロは後になってローマ人への手紙を書いたときに挨拶の中で(ローマ16:13)「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく」といいました。ルフォスという卓越したクリスチャンがローマの教会にいた。神の選ばれた人と呼ばれ、その母は彼とパウロの信仰の母といえる交わりがあった方であった。その母を敬う心がパウロにあった。マルコは福音書を記すときに、ローマ教会にいるルフォスの父親が、このむりやりに十字架を負わせられたクレネのシモンであると、神の導きの不思議を描いたのでした。
茨の冠を頭に巻き付けられて、血を滴らせながら十字架を負って歩いていたユダヤ人の王イエスを、こんな死刑囚のために自分の楽しみが台なしにされたと、シモンは最初うらみに思っていたことでしょう。しかし、彼は道を進むに従って心に驚きを禁じえなかったのではないか。十字架刑にあうような方ではない、その自分を見るまなざし、周りの人々に向けられるまなざし、十字架につけられる様子、その上でのお言葉を耳にして、彼は信仰に導かれたのでないでしょうか。「父よ、彼らをお赦しください。」「完了した。」「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」このように死んでいった死刑囚を今まで見たことがなかった。天地が暗くなった様子も、ただごとではない。
主が死に、葬られたところまで、彼は確かめなければ気持ちがすまなくなったのではないだろうか。どちらにしても、祭りが終るまではエルサレムに留まって、十字架を負って歩んだすべてを思い起していたのではないでしょうか。物見遊山の旅ではもはやなく、彼の心に真剣な信仰への問いかけが生じたと考えてよいのではないでしょうか。
主イエス様はある時おっしゃいました。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:27)。私たちは今、主の後に従って、福音宣教という主が天に帰られた時に残して行かれた使命を果たす十字架を負わされています。その使命をさまざまな所で担い、果たすときの苦難を与えられているのです。シモンは、みごとにこの十字架を負いきり、その時に恥辱が光栄であったことを発見しました。それが彼を変え、家族を変え、神の国の光栄ある弟子たちにと変えたことを知っています。そして聖書にその名が永遠に留める栄誉にも浴しました。
あなたの現在負っている主からの十字架は、どのようなことでしょうか。主が私たちに自分に代わって負ってほしいとおっしゃっていることは、どのようなことでしょうか。みからだである教会のために負っている十字架があり、新しく負わなければならない十字架とは何でしょうか。主よ私にではなく、あの人にと避けることもできるでしょう。しかし、その場合、それに伴う祝福と光栄も、他に人に譲られるのでしょう。主があなたでなければと選ばれた十字架は、だれか他の人ではだめなのではないでしょうか。
どのような課題であっても、恨みと辛みで負うよりは、喜んで負うことにより、あなたはわたしのために水一杯を差し出してくれたと言ってくださる主に応えたいと思います。
この世の人々から見ると、主イエス・キリストのあとに従って、宣教のためにあえて安定を離れて、生涯に十字架を負って歩むシモンやクリスチャンは、何と可哀想な存在、不運な者たちでしょうか。主イエスのいのちによって永遠の恵みをいただいた者たちは、単なる傍観者、やじ馬でありつづけることはできません。あなたが今日、主が代わって負わせられる十字架を避けないようにと祈り、進んで信仰の素晴らしさを感じて負ってくださるようにと願います。
Ⅲ 十字架の暗さ その周辺と十字架上
1 マタイは全地が暗くなったと記します。昼の12時から地上の全面が暗くなって3時にまで及んだ。自然界の暗さです。この暗闇は神様の直接のご介入で生じました。昔、出エジプトの出来事のおり、モーセの言葉に逆らい神に逆らったエジプト人たちの所に「さわれるほど」の暗闇が襲ったが、「イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった」(出エジプト記10:21-23)。神様の怒りと裁きを示すしるしとして暗闇が用いられたのです。それは人々の罪に対する怒りと裁きです。
2 十字架の周りの人々の暗さ
祭司長、律法学者たちユダヤ教の指導者たちのねたみが、主イエス様を十字架につけさせた。このことは裁判官ピラトが見抜いていました。そのピラトも、「罪なし」と言いながらイエスをバラバと交換して十字架につけました。兵士たち、通りかかりの人々、皆異口同音にののしりと悪口を浴びせかけました。共通していたことは「他人を救ったが、自分を救えないイエス」だったのです。これは確かに正しい判断でした。他人を救い、癒し、力あるわざで悪霊を追い出したイエスが、自分を救えない。しかしこの正しい判断でも、実は神様の目からは全く間違っていたのです。キリストはご自身を救わなかったので、いのちの贖いが成し遂げられた。私たちを救うことができたという、素晴らしいお計らいがあるのです。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)
十字架に関して人間が下す判断は、神様の前で間違っていたという事実を忘れてはなりません。人間の理性の完全な判断でも、間違っていることが神様のお計らいの前にはあり得るのです。
十字架の暗さはサタンがついに神の子を死に追いやったという、悪と罪の力の総合であるのです。一時的敗北です。創世記3章15節の預言の成就です。蛇であるサタンが「主イエスのかかとにかみついた」のです。
3 十字架の上の暗さ
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)
十字架の上でイエス様は、父なる神様に見捨てられたことを体験しておられた。それはイエスのたましいの意識のなかで常に彼を満たしていた喜びと平安が去り、彼のたましいに暗闇と孤独と苦悩以外の何ものもなかったということであります。死を前にして父なる神が、味方であられたのに、イエスの敵に回られたということです。慈愛の父ではなく、罪人に怒りと呪いを注ぐ審判者の立場をとられたというのです。
どうしてこうなったのか。私には分からない。イエス様の思考も感情もみな、暗黒のなかにあった。そうならねばならなかったのだから、そうに違いない。でも。なぜ「どうして」というのか。ここにイエスご自身も、我々も解くことができない神秘があります。すべての人の罪が、一人の方の上にのしかかった、ということの悲惨は、とうてい計り知ることができない。
しかしこの言葉は、同時にイエス様ご自身は自分では見捨てられるようなことに値する何物も、見つけることができないということを示します。十字架の上の犯罪人たちは、自分ではこうなったのは当たり前であると自覚があった。「しかしこの方は何も悪いことをしていない。」この暗闇のなかでイエスご自身は罪のない完全さが輝いている。「どうして」といわれたことでそれが証明されている。
このことは主イエスの絶望的な問いかけに対する唯一の答えが「あなたは他の者のために苦しむ」ということであると教える。イザヤ(53:12)は予言した。「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」キリストは自分がなぜ苦しむかを知らなかった。彼はただ一つの事実だけを知っている、それは彼が自分の罪のために苦しむのでなく、他の人の罪ために苦しむということを。使徒パウロも信じる者となってからコリントの教会に説明している。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」Ⅱコリント5:21
知るべきはイエス様の絶望の叫びではなくて、本当は神から捨てられなければならない私たち罪人の絶望と戦慄の叫びを、十字架の上で代わりに叫んでくださったということです。本当は私たちが十字架につけられて叫ぶべきことばだったのです。
結び)十字架からさしくる光
1 主イエス様は、このさけびを投げかけつつ、御父から離れなかった。この暗闇のなかでなお、御父の元にとどまっておられる主を知る。神をのろうこともしなかった。こんなことがあるなら、とか、神を憎むとかいわなかった。神よ、たとえあなたが私を見捨てたとしても、あなたは最善をご存知です。だからわたしはあなたを離れません。あなたなくして生きることができないのです。あなたが御顔を隠されていて、暗闇が覆っていても、私のたましいをお捨てになったこのときも、神よわたしはあなたに叫びます。
私たちの日常に、主イエスが経験されたほどの見捨てられたとの事件があったでしょうか。いろいろあったでしょう。でもこれほどの事はなかったのです。なぜなら主イエスは全人類の罪を全部負われたからです。本当の意味で神が見捨てることに耐えられたのは、救い主イエス様だけなのです。そのことによって、神が私たちを見捨てなかったことを示されました。どれほど深い憐れみと愛でしょうか。あなたは神に近く、備えられた救いの道に導かれて、今歩みを進めています。感謝です。
一部始終を主イエス・キリスト様の十字架の真正面で目撃した百人隊長は、「イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『この方は本当に神の子であった。』」(マルコ15:39)ユダヤ人の王」と言ってあざけっていたローマの兵隊グループの隊長が、「この方は本当に神の子であった」と告白したのです(マタイ27:54)。イエス様の死は、嘲りつばきし、ののしっていた者たちを沈黙させ、ついには神の子であったと告白させるほどに人を恐れさせ、謙虚にさせ、素直にならせるのです。どのようないきさつが、これまでのあなたの人生にあったとしても、まじめにジッと十字架の主イエス・キリスト様をみつめるなら、赦しの祈りに心とかされ、素直に受け止め、平安が静かにあなたのこころに満ちてきて、あなたのいのちは新しく神の子としての誕生をいただけるのです。
ヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。