2021年10月24日礼拝式順 音声有 説教「クリスチャンはサボり屋。」

*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。Our service was held in person and via ZOOM.

 

Order of Worship (For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

前   奏
招きの言葉 詩篇 73篇25−28節
さ ん び 「主は我が力 God Is the Strength of My Heart」
さ ん び 「Amazing Love」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 335番 「はるかにあおぎ見る」
聖書朗読 ヨシュア記 18章1−10節 (説教箇所:16-19章)
聖書の話      「クリスチャンはサボり屋。」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 432番 「いつくしみ深き」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

ヨシュア記15−19章 「クリスチャンはサボリ屋。」

 

本日のメッセージの題名は「クリスチャンはサボり屋」という題ですが、皆さんはこの題名に対して抵抗があるでしょうか?多くのクリスチャンは「がんばり屋」なので、私も含め、「サボり屋」と呼ばれるといやな気持になるかもしれませんね。

 

私は、まだクリスチャンじゃなかったときでも、イエス様の教えは好きでしたし、イエス様の奇跡に対しても抵抗はありませんでしたが、イエス様の想像を絶する、衝撃的なたとえは全く受け入れられませんでした。特に、放蕩息子(ルカ15章)、パリサイ人と取税人(ルカ18:9-14)、99匹の羊を置いて、迷子になった一匹の羊を追う羊飼い(マタイ18:12-14)のような、「がんばり屋」を否定し、「サボり屋」を肯定するようなたとえが大嫌いでした。そのような例えの中でも、マタイ20:1-16の例えが一番頭に来ましたね。そのたとえは、ぶどう園の主人の話でした。この主人は9時ごろに市場へ行って、仕事のない人たちに、一日の給料を約束して、彼らを雇いました。そして、12時、15時、17時にも同じようにして、多くの人たちを雇いました。そして、その日の夕方、9時、12時、15時、17時に雇った人たちに、それぞれ同じ給料を与えたのです。そして、もちろん、9時に雇われた人は、このように主人に言いました。

マタイ20章12-15節 「『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』」

主人の言い分を理解したとしても、モヤモヤする気持ちや納得できない気持ち、また、ぶどう園の主人にもっと訴えたいという気持ちが残ると思います。もし自分が9時か12時に雇われた人であれば、そう思うかもしれません。しかし、15時か17時までサボっていた人だったら、何の文句もないと思います。むしろ、主人に感謝すると思います。ですから、自分が「がんばり屋」なのか、「サボり屋」なのかという認識によって、神様に対する姿勢も変わります。

 

クリスチャンは、「人はみな『罪人』だ!」と抵抗なく言いますが、「人はみな『サボり屋』だ!」ということばに対しては、抵抗があるのではないでしょうか。本日の箇所を通して、罪を犯すこと、神様に従わないことは、「怠ける」こと、「サボる」ことと同様であることが分かります。しかし、感謝なことに、「サボり屋」である私たちに神様が恵みを与えてくださり、イエス様が私たちの代わりに働かれて「頑張って」くださったことがキリスト教の本質的な教えなのです。ですから、「サボり屋」である私たちは他人を裁かずに、感謝と喜びをもって神様に仕えます。そのことを学ぶために、本日の箇所の流れを確認しながら、3つのことを覚えていただきたいと思います。

 

本日の箇所の流れを見ていきましょう。先ほど、ヨシュア18:1-10だけを読みましたが、このメッセージで15-19章をすべて見ていきたいと思います。18:1-10はこの5章をまとめる箇所です。

 

神の民はヨシュアから「約束の地」を引き継ぐために「シロ」という町に集まりました。450年前に神様が彼らにカナンという地を約束されたからです。そして、このカナンは、「天国」のひな型とも言える地でした。そこから、私たちは、神の民がどのように約束の地を引き継ぎ、神様がどのように私たちに「永遠のいのち」を与えてくださるのか、また、私たちがその「永遠のいのち」をどうしたら頂くことができるのかが学べると思います。前々回、私たちは神様が「約束の地」を条件付きで民に与えてくださったことを学びました。その条件とは、神様に従わない者を「神の王国」である約束の地から追い出すということでした。しかし、神の民はその条件を満たすことができたでしょうか?それがヨシュア13-21章の根本的な課題でした。

 

そして、その状況下で、ヨシュアが神の民に問いかけた質問は、ヨシュア13-21章を一言にまとめたような一節だと思います。「あなたがたの父祖の神、があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。」(18:3)実は、「いつまで延ばしているのか」のヘブル語(参照:箴言18:9)を直訳すると、「いつまで怠けているのか」という意味になります。要するに、ヨシュアは、「あなた方は約束の地を引き継ぐために、カナンから敵を追い払うミッションが与えられているのになぜ、私の所へ来て仕事をサボっているのか?」と神の民に質問しているのです。ですから、ヨシュア13-19章の内容は、神の民にどのように「相続地」が与えられるかという場面なのですが、同時に神の民の「怠け」方が徐々にひどくなっていく様子が伝わってきます。最初は、少しだけ「怠けている」様子が書かれていますが、次第に悪化していくのが分かります。すべての詳細を見ることはできませんが、なぜ怠けていたかを見ていきたいと思います。(もし聖書をお持ちでしたら、一緒に数節見ていきましょう。)

 

最初に割り当てられた相続地は、13章8節以降に書いてある、ルベン人とガド人とマナセの半族に与えられた土地です。延々と土地の境界線について丁寧に説明されていて、彼らがこの相続地をしっかりと守っていることや、神様の敵の存在が少ないという印象がうかがえます。そして、この箇所の真ん中にこの1節が隠れています。

ヨシュア記13章13節  しかし、イスラエルの子らは、ゲシュル人とマアカ人を追い払わなかったので、ゲシュルとマアカはイスラエルのただ中に住んだ。今日もそうである。

ですから、全体的な印象としては、ルベン人とガド人とマナセの半族は頑張って自分たちの「相続地」を守っていましたが、ほんの少し怠けてしまったということです。それは、完璧なスタートではないですが、比較的にいいスタートだと言えます。

 

次に割り当てられた相続地については、14:6以降に書いてありますが、それは、ユダ族に与えられた土地です。ユダ族に関する聖書のイメージとしては、一番信仰深い部族でもあり、イスラエルの先頭に立つ部族でもあり、イスラエルの将来の「王」がこのユダ族から生まれると予言された部族でした(参照:創世記49:9-12)。ですから、クラス委員長のようなイメージとも言えます。そして、14章を読みますと、まさしくそのイメージと一致します。前回の説教を覚えている方もいらっしゃると思いますが、ユダ族の代表であるカレブが自分の信仰深さを示し、ひるむことなく、たるむことなく、サボることなく、神様から頂いたミッションを全うしました。ユダ族の中でも、カレブは「ザ・優等生」ということです。そして、ユダ族の割り当て地の境界線が丁寧に説明され(15:1-11)、延々と、彼らがどの町を所有しているかが説明されています(15:20-62)。それを読むと、ユダ族は「しっかりした」部族のようなイメージですが、最後の最後にこう書かれています。

ヨシュア記 15:63  エルサレムの住民エブス人を、ユダ族は追い払うことができなかった。エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んだ。今日もそうである。

皆さんもご存知のように、「エルサレム」はユダの首都でもあり、将来のイスラエルの首都でもあります。そして、他の地域では敵を追い払うことができたのに、ユダ族の割り当て地の中心だったエルサレムからは追い払うことが「できなかった」理由は何だったのでしょうか?残念ながら、それははっきりとは書いてありません。ですから、13-15章を読み進むと、徐々に疑問が湧いてきて、なぜイスラエル人が怠けていたのかが気になり始めると思います。ですが16-19章を読むと、その理由が明らかになります。

 

次に割り当てられた相続地は、16:1以降に書いてあります。それは、ヨセフ族(マナセ族とエフライム族)に与えられた土地です。境界線の説明はありますが、かなり曖昧で、聖書に書かれている内容だけでは、はっきりと定められないようです。そして、ヨセフ族が所有している町の名前も、ユダ族のように具体的に説明されておらず、町のリストもありません。つまり、ヨセフ族の割り当て地がどこにあるかは「曖昧」で、しっかりしたユダ族の境界線の正反対の印象が残ります。それだけではなく、ヨセフ族は、ユダ族と違って、神様の敵を「追い払うことができなかった」ではなく、カナン人を「追い払わなかった」(16:10)と書いてあります。また、「カナン人を苦役につかせたが、彼らを追い払うことはなかった」(17:13)と書いてあります。つまり、追い払うことはできたのに、神様から頂いたミッションをサボったということです。なぜなら、サボることによって、カナン人を自分たちの奴隷にして、ヨセフ族は利益を得ることが出来たからです。

 

そして、ヨセフ族が「曖昧」な境界線を持っていた理由もはっきり書いてあります。

ヨシュア記 17章14-18節  ヨセフ族はヨシュアに告げた。「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほど数の多い民になるまで、が私を祝福してくださったのに。」ヨシュアは彼らに言った。「あなたが数の多い民であるのなら、森に上って行きなさい。そこでペリジ人やレファイム人の地を切り開くがよい。エフライムの山地はあなたには狭すぎるのだから。」ヨセフ族は言った。「山地は私たちに十分ではありません。しかし、平地に住んでいるカナン人はみな、ベテ・シェアンとそれに属する村々にいる者も、イズレエルの平野にいる者も、鉄の戦車を持っています。」 ヨシュアはヨセフの家、すなわち、エフライムとマナセに言った。「あなたは数の多い民で大きな力がある。あなたには、くじによる割り当て地が一つだけではいけない。 山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」

要するに、ヨセフ族は、まず、割り当てられた土地に不満を抱いたのです。「これは十分ではない」とヨシュアに不平を言いました。そして、ヨシュアは「いや、十分だ。そこの森に入って行って、ペリジ人やレファイム人を追い払えば、土地は十分ではないか。神様は必ずあなたに勝利を与えるから、安心しなさい」と答えたのです。しかし、ヨセフ族は、戦車と戦うことを怖がり、そして、面倒くさがって、結局、敵を追い払いませんでした。ですから、境界線が「曖昧」な理由や、ヨセフ族が支配している町の具体的なリストがない理由は、神様がくださった仕事を彼らが勝手にサボっていたからなのです。

 

そして、18章では、残った7部族がヨシュアの前に集まった時に、「あなたがたの父祖の神、主があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで怠けているのか。」とヨシュアは7部族を注意します。そして、18-19章を読むと、残った7部族もヨセフ族と同じように「曖昧な」境界線を持っていて、同じように「怠けていた」ことが分かります。最初に割り当てられたのは、ユダ族のように、「しっかりした」ベニヤミン族への地でした。境界線がしっかり仕切られ(18:11-20)、町も具体的にリストされています(18:21-28)。それは彼らが、神様から頂いたミッションをできるだけ全うしようとしたから、具体的な境界線を報告することができたと捉えることができます。しかし、ベニヤミン族のあとの6部族(シメオン族、ゼブルン族、イッサカル族、アシェル族、ナフタリ族、ダン族)の割り当て地の境界線を読むたびに、境界線の「曖昧さ」は悪化します。理由ははっきりとは書いてありませんが、ヨセフ族の箇所を読むと、境界線が「曖昧」な理由は、彼らが神様から頂いたミッションをサボっていた可能性が高いと言えます。そして、7部族の最後のダン族は、最もひどい状態でした。この地図(次頁)を見ると、各族の大体の境界線がわかります。特に見ていただきたいのは、ダン族の割り当て地です。ここはヨシュアが指定した土地ですが、次の箇所を読むと、ダン族が正反対のことをしたということが分かります。

ヨシュア記 19:47  ダン族の地域は彼らから失われたので、ダン族は上って行き、レシェムと戦った。彼らはそこを取り、剣の刃で討つと、これを占領してそこに住み、自分たちの先祖ダンの名にちなんでレシェムをダンと呼んだ。

レシェムがどこにあるかお分かりですか?地図を見ると、ダン族の割り当て地はカナンの南西地方にありましたが、彼らは結局北東にあるレシェムを自分たちの割り当て地として住んだのです。神様から頂いたミッションをサボり、頂いた割り当て地を完全に手放し、自分たちの好きな土地を支配したということです。ですから、13-19章の全体の流れを見ると、神の民の霊的な歩みが徐々に曖昧になって悪化して行くように感じます。そして、最終的に、ヨシュアが恐れていたことが成就されます。旧約聖書を読むと、神の民がサボって、神様のミッションを果たさなかったために、最終的に、神の民は約束の地を失ってしまったことが分かります。

(地図出典:ESV Global Study Bible. https://www.esv.org/resources/esv-global-study-bible/map-06-08/)

 

本日の話を通して、三つのポイントを覚えていただきたいです。私たちはなぜサボってしまうのか?それは、私達が神様の約束と、神様が私たちに割り当ててくださった祝福に満足していないからです。

 

本日の箇所では、神の民はみことばに従いませんでした。聖書的に言うと、「罪を犯した」というふうに言えますが、21世紀にいる私たちにとってあまりピンと来ないかもしれません。しかし、この箇所では、新しい角度から罪を見ることができます。「罪」とは、神様が与えてくださった仕事、営み、命令に対して、「怠ける」こと、または、「サボる」こととも言えます。ですから、クリスチャンがみな「自分は罪人だ」と認めるなら、クリスチャンはみな「サボり屋」だということも認める必要があります。

 

しかし、私たちは神様から膨大な恵みと神様の力強いみことばを頂いているのに、なぜクリスチャンとしていろんな形でサボってしまうのでしょうか?本日の箇所には、五つの種類の「サボり方」があります。

神様が求めておられることが具体的に説明されていても、①何の理由もなく無視して、サボるルベン族。

神様にミッションを全うする力を約束されても、②「私たちはできない」と決めつけてサボったユダ族。

神様に十分に祝福を与えると約束されたのに、カナン人を追い払わずに奴隷にして、③「神様に従わないほうが儲かる」と正当化してサボったエフライム族。

神様が前にカナン人の戦車を何度も倒されたのに、④「怖い。苦しみたくない。戦いたくない。」と言い訳をしてサボったマナセ族。

十分な土地を神様が割り当ててくださったのに、⑤「十分ではない。違うものが欲しかった」と不平を言い、自分たちが欲しかった割り当て地を勝手に奪い取り、サボったダン族。

この五つの理由は私たちのサボる言い訳を明らかにしているのではないかと思います。つまり、私たちは神様の約束と神様が私たちに割り当てた祝福に満足していないので、サボってしまう、罪を犯してしまうのです。自分たちの心を見れば見るほど、私たちはどうしようもない「サボり屋」だということがわかり分かります。ですから、私たちは、ヨシュア記の神の民と同じように、自分たちの勤勉さによって究極の約束の地である天国を獲得することはできません。

 

そして、二つ目に覚えていただきたいのは、イエス様は一回もサボったことがなく、神様から頂いたミッションをサボらずに勤勉に、そして完璧に、私たちの代わりに働いてくださったということです。

 

イエス様がこの世に来られた時の神様から頂いたミッションは、罪を犯さず、十字架の上で、私たちの代わりに天国を獲得することでした。しかし、サタンはイエス様がサボるようにいろんな形で彼を誘惑しました。

 

40日間もイエス様を飢えさせ、「神様がこのようにあなたを苦しませているのに、本当にこのミッションができるのか」とギブアップさせようとしましたが、イエス様は『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と答えられ、サボらずにその試練を全うされました。サタンは人の称賛をイエス様に浴びさせ、「十字架よりも神の民の王になれば、絶対儲かるし、幸せになるよ」と誘惑しましたが、イエス様は人の称賛を無視し、サボらず、御顔をエルサレムの王座ではなく、十字架へ向けられ、毅然として、黙々と進んで行かれました(マタイ4:1-10)。十字架にかけられる前夜に、ゲッセマネの庭でイエス様の汗が血のしずくのように地に落ちた時、サタンは、「怖くないのか?本当にそこまで苦しみたいのか?もうサボりなよ」と誘惑しましたが、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」とイエス様は祈られたのです(マタイ26:39参照)。そして、サタンがイエス様を「非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて」(マタイ4:8)、「神様があなたに与える祝福って本当に十分なの?もし私に今お辞儀をしたら、これをすべてあなたにあげるよ。そのほうが楽でしょ?」とサタンが言ったとき、イエス様は「下がれ、サタン!」とおっしゃいました(マタイ4:9-10)。イエス様が私たちの代わりに、たゆむことなく働かれ、従い続けてくださったので、私たちに天の「約束の地」が与えられたのです。

 

説教の冒頭のぶどう園のたとえをすこし変えるとすれば、ぶどう園の主人がみんなを雇う前に、主人の長男が前日にすべての仕事を終わらせた上で、主人が市場の人たちを雇ったようなことです。そのたとえ話の大切なポイントは、主人の恵みの深さだと思います。

 

ですから、最後に覚えていただきたいのは、サボっていた私たちでも大いに祝福されるので、私たちは人を裁かず、感謝をもって勤勉に主人に仕えていくということです。

 

私たちが「サボる」、「怠ける」、「罪を犯す」理由は、私たちが神様の約束と、神様が私たちに割り当ててくださった祝福に満足していないからと先ほど説明しました。つまり、神様の恵みに満たされ、感謝していないから、わたしたちは、主人である神様に不平を言って、怠けて、サボっている人たちを裁いてしまうのです。

 

しかし、「頑張り屋」のクリスチャンがどれほど「サボり屋」であるか、そして、神様がどれほど恵み深いお方なのか、イエス様がどれほど私たちのために「頑張って」くださったのかを思い出すことによって、私たちの姿勢は変わってきます。サボっている人を裁くよりも、「わたしもサボり屋です!」と同情することができます。また、神様が与えてくださった恵みに不平を言うよりも、「どうしようもないサボり屋をあわれんでくださってありがとうございます」と感謝することができます。そして、神様に対して不満を抱いて怠けるのではなく、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様に対する深い愛と感謝をもって、勤勉に仕えることができます。自分がどれほど「頑張っている」かを見るのではなく、自分たちがどれほどサボっていても、忍耐して、私たちを恵んでくださる神様を仰ぎ見て、忠実にイエス様を愛し、お互に愛し合いましょう。