*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。音声が礼拝後に公開されます。This service will be held in person and via ZOOM.
(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)
礼拝式順
前 奏
招きの言葉 ヨハネの黙示録2章7節
さ ん び 「ただ十字架のイェスにあり・Only A God Like You」
さ ん び 「聖い御霊よ」
開会の祈り
主の祈り
教会福音賛美歌 138番 「救いの主イェスの」
聖書朗読 マタイの福音書27章38−44節、ルカの福音書23章39−44節
聖書の話 「今日パラダイスにいます」 廣橋嘉信牧師
教会福音賛美歌 230番 「確かなもとい ただ主に置き」
献 金
報 告
とりなしの祈り 廣橋嘉信牧師
頌 栄 教会福音賛美歌271番 「父・子・御霊の」
祝 祷 廣橋嘉信牧師
後 奏 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアメン」
説教 マタイの福音書27章38−44節、ルカの福音書23章39−44節
「今日パラダイスにいます」
序文)十字架の記事はどこを読んでも暗いのです。今日の記事の出来事は、マタイ27:45によると12時なのに、全地が暗かったと異常な自然現象を書き留めています。それは3時まで続いた。ですから十字架上で主イエス様と二人の強盗は真っ暗闇の中で語り合っていたのです。
どのような人間にも、人生において、自然現象としてではなく、霊的な暗闇の部分があります。一生懸命積み上げて来ても、この暗闇に会うといっさいがゼロからマイナスになるように思うことがありましょう。自分で努力して手に入れた地位も、名誉も、財産も何の力もないと感じるような暗さです。何をしてもダメだったと自覚する自分がいるのです。彼ら三人は死を目前にして、暗闇の中で何を考え、何を語ったのでしょうか?人はどのように振る舞うのでしょうか?そして自分の番が来たとき、どうすればいいのでしょうか?
1 キリスト様に悪口を言っている二人の強盗
マタイ27章44節「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」平行章句(ルカ23:39)によると強盗の一人がイエスに向かって言っていたことばが書かれていて「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」でした。彼らにとって死につつあること、その暗闇は何も生み出しませんでした。神様を知らず、愛を知らず、多くの者を簡単に苦しめ、殺し、積み上げてきた生涯の果てが十字架刑だったのです。無情、冷酷、無反省の人生の結果が十字架刑だったのです。まもなく息を引き取ろうとしています。そんなせっぱ詰まった時の声が、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という台詞です。お芝居とは違うのです。
多くの人々がこの犯罪人と同様に、十字架上のキリストを見上げて「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と嘲るのです。その嘲りの言葉は「おれたち」に強調があります。この男の関心はこの期に及んでも自分を救うことにありました。彼はキリストに向かって「あなたは犯罪人ではない」と言い、兵隊に「ここから彼を降ろしなさい」というのでなく、「あちらにいる犯罪人を救いなさい」と言うのでもなく、現実的、実際的に考えて、逃げ道はないかと思って、「おれたちを救え」と言ったのです。「キリストではないか」と言っています。「キリスト」の意味を正確に理解しているのですが、信じてはいません。キリストがなさったという奇跡の数々を聞いていたかもしれないのです。ひょっとして、と思う心と、キリスト当人が十字架に架けられているようじゃあ、なあ…。
私たちは同じ立場だったらどうするでしょうか?自分の罪を認めることを拒否して何とか助かる道はないかと考えているのです。自分の工夫で自分を救おうとしました。イエス様に十字架から降りて、次に自分も降ろしてくれというのです。悪口を言いながらそれでも彼なりに筋の通った計算があるのです。
この悔い改めない犯罪人の悲劇は、自分のすぐそばに本当に救うことのできる方がおられたにもかかわらず、霊的には真っ暗闇で、遠く離れたところにいたことです。神の御子が十字架にかかっている現場にいたことが、彼を遠く離したのではないことが、同じ状態にいたもう一人を見ると分かります。イエス様は私たちのすぐそばにおられるのです。それなのに、私たちは遠く離れて立っているのです。その原因は私たちの側にあるのです。
主イエス様は約束しておられます。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)。今朝の礼拝の真ん中に主はおられるのです。クリスチャン夫婦のうちに、主イエス様はおられるのです。
からだは礼拝の場所にいながら、霊的にはイエス様と遠く離れているのは悲しいことです。かの強盗は十字架上でしたがイエス様のすぐ隣にいたのです。しかし自分の罪を直視することなく、悔いることもなく、神に近づくこともなく、イエス様の赦し、愛を拒否しているのです。
2 ルカ23章40―42節 もう一人の強盗は途中で心変わりした
ルカ23章40―42節 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
もう一人の強盗が、途中で悔い改めた者として偽りないことばで語っています。事実をありのままで受け止めています。何事も飾らず、弁解もしません。ぎりぎりのところで自分の生まれ育だった環境に理由を見つけたりしません。自分の弱さ、貧しさ、悪い仲間たち、他の何者にも咎めをかぶせようとしません。そうではなくて、自分自身が、この刑罰に価するのだと認めました。私は神様と人に対して罪を犯したのだと。「自分の背きを隠す者は成功しない。 告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)人生ぎりぎりのところに立たされている人間への、神さまの治療方法は「告白」にあるのです。自分の罪を隠す者はみじめであり、敗北しており、壊滅しています。しかし、主イエス様に告白する者は、あわれみを受け、深い赦しを経験し、解放されます。聖霊が助けてくださいます。自分の真相に気づいた者は悔い改めます。次に祈るのです。
「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」彼は祈りました。簡単な祈りです。しかし大胆です。イエス様、御国においても、私、盗賊で紛れもなく自分のやったことを受け入れて刑に付いている者ですが、思い出してください。素直になって、イエス様は王位に着かれる方である。十字架上で死ぬような方ではない。自分を十字架に付けた者たちのために「彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と、赦しを祈るようなお方がいただろうか。本当にこの方は救い主なのだ。だから、自分を思い出すぐらいはしてくださるだろう。王座に着かれてやがては再びお出でになるときがあるだろう。
歴史的に十字架の出来事の真っ最中に、イエス様を救い主として信じたのは、この男だけだったのです。私たちが信じた時の状況とは全く違う、信じがたい中で信じたのです。私たちは、十字架の後で何が起ったかを知っています。葬りと復活の事実を知っています。多くの人々が信じて救われ、教会が生まれ、2000年以上も続いていることを知っています。神さまの知恵と力とよみがえりのいのちの事実を知っています。そして信じたのです。しかし、彼は違います。
私たちはこれだけ真実な情報を得ていながら信じるために躊躇(ちゅうちょ)しています。くもの巣のような自己弁護と自己欺瞞に囲まれて、罪の絆を断ち切ることができないでいるのです。自分の宗教的無関心や、罪の仲間との絆を切れないでいるのです。心からの悔い改めをしたくないのです。
3 ルカ23:43
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
彼の祈りは「御国の位にお着きになるとき」でした。イエス様のお答えは「今日」です。皆様にとって、「今日」はあるでしょうか。ずーっと未来ですか。あるいは明日ですか? 救いは今日!あるのです。
「パラダイス」そこはイエス様がいるところです。御国のことです。神の御住まいのことです。死後直ちにイエス様がおられるところに、彼も一緒にいるというのです。イエス様がおられるところにともにいることほど確かで安心で平和なことはありません。
主イエス様を信じる者たちが、死後直ちにいるところ、そこは救い主イエス様がおられるところで、パラダイスです。
結び)「勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。」(黙示録2:7)。黙示録 22:1-2いのちの木の説明:
御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
このパラダイスの環境は、その住民の発達に最も適している。いのちの水の川、いのちの木、その他、実を結ぶ木は、エデンに存在していた。アダムとエバが罪を犯す前に住んでいたエデンの園にそれらはあった。罪を犯して、エデンから追い払われた罪人たちに、今や、神はそれらを永遠に回復して、救い主イエス様を仰ぎ見る者に永遠にお与えくださるのです。感謝します。主よ、あなたに信頼します。