*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。This service will be held in person and via ZOOM.
**ビデオは礼拝後、次土曜日までに公開されます。音源は礼拝後、永続的に公開されます。
(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)
礼拝式順(長老任職式を含む) 10:45〜12:00
前 奏
神の招き
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
教会福音讃美歌 11番 「つきぬ喜びを注がれる主よ」
開会の祈り
罪の告白の招き イザヤ書55章6-7節
罪の告白の祈り
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証 詩篇32篇1-2節
会衆 アーメン。
平和のあいさつ
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
教会福音讃美歌 279番 「われらを導く御霊の神よ」
長老任職式 司式 クレイグ・コーバン牧師
誓 約 青木宏太兄弟
私たちの主イエス・キリストは、ご自身の教会を治めるために、これを牧師と長老の手にゆだねられました。この長老の職は、主の権威に基づくものであり、使徒パウロは、教会ごとに長老たちを選ぶことを命じました(使徒14:13)。長老は、教会のかしらである大牧者、イエス・キリストの御名において、その群れを治める重責を負っています。深くこの職の光栄に留意して、忠実に励むようつとめなければなりません。
今、あなたは、この職に任ぜられるにあたり、
1. 旧新約聖書が神のことばであり、信仰と生活の唯一の誤りない基準であると信じますか。 (信じます)
2. 私たちの教会の信仰基準を、聖書の真理を体系的に示すものとして受け入れますか。 (受け入れます)
3. 日本長老教会憲法に基づいて長老の職務を全うすることを誓約しますか。 (誓約します)
4. いかなる場合にも、福音の真理および教会の純潔と一致と平和のためにつとめ、祈ることを約束しますか。 (約束します)
5. 今、按手によってこの職に任ぜられることを、教会のかしらである大牧者、イエス・キリストの召命によると確信しますか。 (確信します)
6. その召命を重んじ、牧師とともに教会を治め、教会訓練を行い、教会会議を構成することを約束しますか。 (約束します)
7. 群れの指導者として、その信仰生活において、みずからの群れの模範となるのみならず、群れの霊的成長と健全さのため、祈り、奉仕、学習、宣教、集会に率先して励むことを約束しますか。 (約束します)
信徒の誓約 この教会の信徒
1. この青木宏太兄弟は、今、長老として主より、あなたがたに遣わされました。あなたがたは、この兄弟をその務めにふさわしく、尊敬し、励まし、主にあってこの兄弟に従うことを約束しますか。 (約束します)
2. あなたがたは、まごころから喜びと敬意をもって、この兄弟を群れの指導者として受け入れることを誓約しますか。 (誓約じます)
みことばの宣教
聖書朗読 ルカの福音書 7章36−50節
聖書の話 「良い知らせ、悪い知らせ」 クレイグ・コーバン牧師
教会福音讃美歌 315番 「なぜこの私に」
聖晩餐式
[制定のことば] コリント人への手紙 第一11章23-29節
[式 辞][祈 り][分 餐]
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金
報 告
頌栄(教会福音讃美歌)272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 クレイグ・コーバン牧師
後 奏 讃美歌567番[V] 「アーメン・アーメン・アーメン」
説教(聖書の話) 「良い知らせ、悪い知らせ」
序 福音は、良い知らせです。実は、福音ということばは、良い知らせという意味です。アニメのエヴァンゲリオンというシリーズの名前は、新約聖書で 「福音」 と訳されたギリシャ語のことばから取られています。このことばも、良い知らせという意味です。
ある牧師は、福音というものを次のようにまとめました。「元気を出せ!あなたは、自分が思ったより悪い罪人です。しかし、あなたは、自分が望んだより深く愛されています。」
これは、良い知らせに見えますか。前半は、良い知らせに見えませんね。私たちが罪人であるという事実は、福音の悪い知らせです。しかし、後半は、とても良い知らせです。私たちが罪人なのに、神様は、私たちを愛してくださっています。これは、福音の良い知らせです。そして、福音の悪い知らせによって、福音の良い知らせは、さらに喜ばしいものとなります。
人物 今日の箇所で、2人の人物はイエス様に会います。それは、パリサイ人と罪深い女の人です。その一人は、福音を把握していますが、もう一人は、福音を把握していません。イエス様は、短いたとえ話を語ります。このたとえ話で、イエス様は、私たちが福音を把握しているかどうかということが私たちの心にも、私たちの行動にも影響を与えるということを教えました。この2人には、それぞれの影響が見えます。
今日の箇所に初めて出て来る人物は、シモンというパリサイ人です。新約聖書をよく読んでいるなら、パリサイ人についてとても否定的な見方を持っているかもしれません。イエス様がよくパリサイ人と論争したからです。でも、イエス様が生きていた時代の人々は、パリサイ人たちを大いに尊敬していました。パリサイ人たちは、神様が聖書で与えた律法をとても重んじていました。この律法をほんの少しも破らないようにとても努力しました。とても敬虔なパリサイ人たちはいました。ニコデモは、その一人です。
シモンは、食事をするために、イエス様を自分の家に招きました。シモンがなぜ、イエス様を家に招いたか、私たちはわかりません。これ程有名なお客さんが自分の家に来たということで、他の人に良い印象を与えたいと思ったかもしれません。イエス様へも尊敬を示そうという目的ではなかったということは、明らかです。なぜなら、お客さんに対して尊敬を示すための習慣を行ないませんでした。ほこりまみれの道で汚くなったイエス様の足を洗いませんでした。挨拶の口付けでイエス様を迎えませんでした。イエス様の頭に、オリーブ油を塗りませんでした。こういう尊敬を示さないことで、イエス様を辱めようとしていたのかもしれません。あるいは、イエス様を非難して、イエス様の印象を悪くしようとしていたのかもしれません。
今日の箇所に出て来る2人目の人物は、女の人です。この女の人の名前は分かりません。しかし、今日の箇所に、この女の人が 「罪深い女」(37節) だったと書いてあります。もちろん、聖書は、私たちがみんな神様に対して罪を犯してしまうということをはっきり教えています。私達は、みんな罪人です。しかし、この女の人は、自分の町で、罪深い生活を送っているという評判がありました。多くの聖書注解者は、彼女が遊女だったと推測しています。でも、はっきりとはわかっていません。
この女の人も、シモンの家に来ました。招かれたお客さんではありませんでした。その時代に、招かれていない人も、食事会に出席することができました。食事をすることはできませんでしたが、周りに座って、見たり、会話を聞いたりすることはできました。ある意味で、こういう招かれていないお客さんが、家の主人が有名なお客さんをもてなしていることを認めることは、その主人にとって名誉なことでした。
しかし、この女の人は、周りに座るだけではありませんでした。彼女は、「香油の入った石膏の壺を持って来た。そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った」(37-38節)。
この女の人は、目的を持って、この食事会に来ました。イエス様がそこにおられるということを知って、イエス様に香油を塗ることで、イエス様に対する尊敬を示したいと思いました。この女の人は、明らかに、イエス様を知っていました。イエス様の教えを聞いたでしょう。福音を聞いたでしょう。つまり、罪の赦しがあるということ。この女の人は、福音の前半を理解しました。自分が悪い罪人だということがわかりました。彼女にとって、福音の後半は、とても喜ばしいものです。彼女が罪人なのに、神様は、彼女を愛してくださっています。彼女の罪を赦してくださいます。
この女の人は、自分の涙でイエス様の足をぬらすつもりではなかったかもしれません。イエス様に香油を塗ろうと思っていたかもしれません。しかし、彼女の感情は、福音の良い知らせによって圧倒されました。自分の罪が赦された感謝で、彼女の涙が溢れました。
シモンは、この女の人が自分の家に来たことを喜ばなかったでしょう。そして、来てからの行動を喜んでいないことは明らかです。「イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、『この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから』 と心の中で思っていた」(39節)。
たとえ話 イエス様は、シモンが考えていることを知って、シモンに短いたとえ話を語りました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ」(41節)。1デナリは、農業で働く人や労働者が1日で得る給与でした。「彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか」(42節)。シモンは、正しく答えました。「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」(43節)。
イエス様は、このたとえ話をとおして、何を教えようとしていたのでしょうか。これは、イエス様のたとえ話を読むとき、考えるべき大切なことの一つです。赦されることと愛がつながっているということを教えていました。自分が赦されているということを知るなら、自分に与えられた赦しを感謝するなら、私たちを赦してくれた人に対する愛がもたらされます。
これは、確かに、この女の人に起こっていたことです。イエス様は、彼女の罪を赦してくださいました。そして、彼女は、イエス様を愛していました。イエス様に香油を塗ることで、その愛を表したいと思っていました。
シモンが考えていたことは、間違っていました。イエス様は、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っていました。それを知っていただけではなく、彼女を受け入れてくださいました。もしこの女の人がこの教会に来たら、私たちは、彼女を受け入れますか。私たちは、イエス・キリストの教会です。この教会に来るだれをも受け入れるべきです。社会の中で重んじられていない、評価がそんなに高くない人であっても。完璧ではない人であっても。私たちは、イエス様と同じように、こういう人々を受け入れるべきです。
イエス様は、シモンに、こう言いました。「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから」(47節)。イエス様がこのことばで意味したことを誤解する恐れがあります。女の人がイエス様を愛したから、彼女の罪が赦されたとは言っていません。それは、イエス様が語ったたとええ話と全く反対の意味です。イエス様がたとえ話で教えたのは、赦された人が多く愛するということです。そして、女の人についても、この同じことを言っていました。女の人は、食事会に来る前に、すでに自分の罪を悔い改めて、赦されました。彼女の罪が赦されたのは、彼女が福音を聞いて、それを信じた時です。女の人が食事会に来たのは、自分の罪が赦されたからです。イエス様に感謝するため。イエス様に香油を塗ることによって、イエス様に尊敬を示すため。イエス様への愛を表すため。その愛は、自分の罪が赦されたことから出た実でした。彼女の罪が赦された証拠でした。イエス様は、女の人に、「あなたの信仰があなたを救ったのです」(50節) と言われました。女の人が救われたのは、イエス様を信頼すると自分の罪が赦されるというイエス様の約束を信じたからです。
このたとえ話に対して、イエス様は、どういう応答を望んでいたのでしょうか。「赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(47節) と言いました。これは、シモンについて言ったことばです。シモンは、赦されることの少ない者でした。なぜ?シモンが犯した罪が少ないからではありません。シモンが赦されることの少ない者だったのは、福音の前半を把握していなかったからです。つまり、あなたは、自分が思ったより悪い罪人ですということ。シモンは、自分の罪がどれ程悪いかを認めてはいませんでした。罪を表面的にしか考えなかったかもしれません。律法を守ったかどうか。自分の心の態度について考えなかったかもしれません。自分の行いの後ろにある動機について考えなかったかもしれません。そして、福音の前半を把握していなかったから、福音の後半は、シモンにとって、そんなに尊いものではありませんでした。つまり、あなたは、自分が望んだより深く愛されていますということ。神様の愛をいらないと、赦しを必要とはしないと思っていたかもしれません。ですから、あまり深く神様を愛していませんでした。
イエス様が望んでいたのは、シモンが自分の罪を認めて、イエス様から赦しを求めることでした。シモンが自分の愛のなさを認めて、悔い改める必要があることがわかるように望んでおられました。
福音と実 あなたは、自分が望んだより深く愛されています。これが福音なのです。あなたが罪人なのに−自分が思ったより悪い罪人なのに−神様は、あなたのために死んでくださるためにイエス様を遣わす程あなたを愛しています。
聖書は、御民に対する愛についてのことばで溢れています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。 だから、わたしは人をあなたの代わりにし、 国民をあなたのいのちの代わりにする」(イザヤ書43:4)。次の驚くべきことばを聞いてください。「『あなたの神、主は、あなたのただ中にあって 救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、 その愛によってあなたに安らぎを与え、 高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる』 と」(ゼパニヤ書3:17)。神様は、あなたのことを思い出す時、喜び歌います。信じられますか。
神様は、ご自分の愛が、夫が妻を愛する愛のようなものだと言っています。「わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。 義とさばきと、恵みとあわれみをもって、 あなたと契りを結ぶ。 真実をもって、あなたと契りを結ぶ。 このとき、あなたは主を知る」(ホセア書2:19-20)。
そして、神様は、ご自分の愛が、親が子どもを愛する愛のようなものだと言っています。「父がその子をあわれむように 主はご自分を恐れる者をあわれまれる」(詩篇103:13)。これが福音なのです。神様は、とても深くあなたを愛してくださっています。あなたの罪が赦されるように、イエス様を遣わしてくださいました。
福音を把握する人がいます。自分が罪人であることがわかっています。自分に、赦される必要があるということがわかっています。彼らにとって、神様の愛は、尊いものです。彼らは、神様が遣わしてくださった救い主イエス様を抱きます。今日の箇所に出て来る女の人のような人です。
しかし、福音を把握しない人もいます。神様に対する自分の罪を認めていません。神様の愛や神様が与えてくださる赦しを必要とはしないと思っています。シモンのような人です。
福音に対する私たちの応答によって、いろいろな実が私たちの心に結ばれます。福音を把握している人の心には、良い実が結ばれます。自分がいただいた赦しを深く感謝します。私たちを赦してくださったイエス様を深く愛します。その感謝と愛のゆえに、私たちは、喜んで、神様のために犠牲を払います。香油の入った石膏の壺は、高い物でした。でも、それは、この女の人にとって、かまわないことでした。犠牲が高くても、彼女は、イエス様に対する自分の愛を表したいと思っていました。感謝と愛のゆえに、私たちは、イエス様に対する尊敬やイエス様の栄光を表したいです。女の人がしたことはやり過ぎだと思った人も確かにいました。でも、他の人がどう思っているかは、彼女にとって、かまわないことでした。イエス様に対する尊敬を示したいと思っていました。そして、感謝と愛のゆえに、私たちは、イエス様に喜ばれるように生きたいです。イエス様ご自身は、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ伝14:15) と言われました。今日の箇所に出て来る女の人は、確かに、神様の愛に応じて、自分の罪深い生活から離れたでしょう。
あなたは、イエス様を愛していますか。イエス様が与えてくださる赦しを感謝していますか。そうなら、あなたは、イエス様のために、どういう犠牲を喜んで払いますか。イエス様に対する尊敬を示して、イエス様の栄光を表すために、どういうことを喜んでしますか。他の人がどう思っても。イエス様への愛を示すために、あなたがするべきこと、あるいは、あなたがするべきではないことがありますか。福音は、あなたの心に、こういう実を結んでいますか。
一方、福音を把握していない人の心には、別の種類の実ができます。それが、シモンに見られます。シモンは、自分がその女の人よりもすぐれていると思いました。彼女をさばいて、非難しました。そして、イエス様をもさばいて、イエス様をも非難しました。福音の悪い知らせは、非常に大切です。あなたは、自分が思ったより悪い罪人です。私たちの心の罪深さを把握すると、私たちの心は、柔らかくなります。自分が他の人よりもすぐれているとは思いません。他の人を非難しません。むしろ、私たちは、福音の良い知らせに対して、感謝で溢れます。あなたは、自分が望んだより深く愛されています。福音は、真実なのです。神様は、あなたを愛してくださっているのです。神様は、イエス様にあって、あなたに赦しを与えてくださいます。福音は、力強いのです。私たちの心を柔らかくします。福音の両方の部分を信じてください。悪い知らせも信じてください。良い知らせも信じてください。福音は、あなたを解放してくれます。ですから、元気を出しましょう!