2021年11月21日礼拝 (音声なし) 説教「墓に葬られ」

*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。This service will be held in person and via ZOOM.

**申し訳ありません。今回、ビデオも音声ファイルもございません。

 

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

 

礼拝式順  10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉 イザヤ書 53章9節
さ ん び 「ただ十字架のイェスにあり ・ Only A God Like You」
さ ん び 「たたえよ栄光の神 ・ All Heaven Declares」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌  335番 「はるかにあおぎ見る」
聖書朗読 マタイの福音書 27章57〜66節
聖書の話      「墓に葬られ」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌  149番 「暗い墓の奥深く」
献   金
報   告
とりなしの祈り           廣橋嘉信牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 教会福音賛美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷             廣橋嘉信牧師
後   奏  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアメン」

 

説教(聖書の話) 「墓に葬られ」

序)主イエス様が十字架上で息を引き取られたのは、金曜日午後3時でした。午後6時から次の日になり安息日が始まりました。葬りのために3時間しか時がありませんでした。普通でも葬りは時間的余裕があまりありません。日本の場合は、召された瞬間から24時間経たないと火葬や葬りができません。主イエス様は、どのように葬られたでしょうか?さらには、私たちの場合はどうなるかを今朝は考えてみましょう。

1 主イエスの葬り
イエスが召された時、弟子たちとガリラヤからついて来た婦人弟子たちは、全くどうして良いのか分からない状態でした。だいたい自分たちの愛する者が亡くなると、そのショックで普通はどうして良いのかわからないものです。イエス様のように犯罪人として十字架上に死んだような場合、助けもなく、準備もなく、親しい者たちは誰もどのようにしたらよいか、考えつかなかったのです。そのままに放置するなら、主イエス様の遺体は、強盗たちと同様に辱めを受けて、彼らと一緒にベンヒンノムの谷に投げ込まれたことでしょう。当然、満足に墓に葬られることはなかったのです。
そのような時に、父なる神は、見事に使命を果たし終えた、愛する御子の遺体を注意深く取り扱われました。「彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた」(イザヤ53:9)という預言が成就する方法で驚くべく働かれました。父なる神は一人の人をこの時のために用意しておられたのです。アリマタヤのヨセフが、神の用意された人でした。彼はイエスの死までは全く表面には出て来なかった人でした。その彼が突然に現れて、しかも、この難しい役割を見事に立派に、敬意を込めて成し遂げたのです。実に彼はサンヒドリン(ユダヤの国会議員)の一員でした。正しく、立派で、神の国を待ち望んでいた信仰ある人でした。そして、富める者で、自分のために新しいお墓をすでに用意してあったのでした。
ルカ福音書によると、この人はユダヤ議会の中で、イエス・キリストに対してなされた計画や行動に同意しなかった人でした(ルカ23:51)。イエスを地上から抹殺するという決定に際して賛成の票を投じなかったのです。しかし、ヨセフが積極的にユダヤ議会に反対したとも書いていません。おそらくヨセフは自分が賛成できない彼らの行動を見て、それを阻止できないことを知り、身を引いて沈黙を守ったと考えられます。ヨハネ19章38節には「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした」とあります。マルコ15:43「アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた」と表現したのはそれなりの理由があったのでした。他の弟子たちがそうであったようにヨセフもまた恐怖心に捕らえられていたのです。私たちも、その場にいたらきっと同様に、恐れて隠れたことでしょう。
その彼が、誰もイエスの葬りために働きそうもないときに「勇気を出して」働いたのです。何が、彼の心を変えたのでしょうか。勇気を出させ、ピラトの所に行き、身分を明らかにして、議員であるゆえに、ピラトもまたその願いを聞いてくれたのでしょうが、なぜ、そのようにできたのでしょうか。
それは、イエスの裂かれた体と、ほとばしった血を見、十字架上での祈りことばを遠く離れて聞いたからでしょうか。天地が暗くなった事実に心を揺さぶられたからでしょうか。推測するしかありませんが、イエスの死が彼の心をまことの愛で捕え、大胆なものに変えたのです。多くの人々がイエスの生前の力あるわざ、奇跡、教えを見聞きして信仰に導かれました。しかし、ヨセフはイエスの死ぬ時の様子を見て信仰に目覚め、神に立ち返ったのは確かです。イエスを犯罪人としてではなく、栄誉ある者として葬るために直ちに努力し、自分の持っているものを全部用いて、そのように葬りを成し遂げました。決断して実行し、終るまでに3時間しかなかったのです。
神の民は、主イエス様の死のような、愛する者の死に直面して、初めて信仰に目覚めることがあります。それまでの一応はクリスチャンといった風情から、積極的な信仰者に変身し、主の愛に応え始める者がいます。教会堂に雷が落ちて火事で全焼したとか、牧師が病気や事故で急死したとか、親族が突然召されたとか、普通でない特別な出来事に触れて初めて信仰に目覚めるのです。
神はイエスのいのちにおいてばかりでなく、死においても、このように人々を導き、変えられるのです。単に、イエス様ばかりでなく、その弟子である、私たちも、その生きるにしても、死ぬにしても神に用いられることはこのことによっても分かります。
主イエス様の死と葬りは、彼の完全な沈黙を示していますが、その沈黙において、人のために働かれる神様を、私たちもともに仰ぎましょう。多くのクリスチャンが生前よりも自分の死と葬りにおいて、家族を救いに導き、信仰の覚醒を起させ、多くの未信者に伝道しているという事実は、慰め深いことです。そのように働かれる天の父の心を信じて自分たちの死と葬りを思い、準備をしましょう。

2 注意:「別の意味で勇気を出す人」がいる可能性
ここで少し注意しておきたいことがあります。私たちの死とか、親族の葬りで自分が喪主の場合に、キリスト教式で葬りをしようとするときに、他の親族が、「勇気を出して」、キリスト教式を阻止するために、仏式や神道式、無宗教式を主張する方が出て来たりすることがあります。その場合、はっきりとした態度で、いいえ、キリスト教式で行いますと宣言しましょう。特に葬りをする必要がある逝去された方が、クリスチャンでない場合に、喪主であるあなたに仏式でするようにと強力にいう方が現れます。あなたに葬りの責任がない場合には、他の責任ある人の主張する方式に任せるしかありませんが、あなたに責任がある場合はキリスト教でして良いのです。いずれにしても死者の霊は、生死をつかさどられる天の神の支配下にあるので、地上で何式で葬りをしても案ずる必要がありません。

3 鄭重な葬り
マタイ27章57節。アリマタヤのヨセフは、イエス・キリストのからだを鄭重に葬りました。イエスを葬るために手伝った人々がいました。ヨハネ19章39節にニコデモが没薬とアロエを混ぜ合わせたものおよそ30キログラムを持って来て手伝ったとあります。さらに、あの百人隊長も、イエスの体を十字架から降ろすのを手伝ったと考えられます。また、ガリラヤからついて来た婦人の弟子たちも、亜麻布で体を包むのを手伝ったのではないでしょうか。いつでも、葬りは多くの人々の手伝いが必要です。なにしろ、本人は何もできないのですから。家族だけではできることに心理的な制限が働きます。ある時点で、次から次へと事を進めないといけません。いろいろな手伝いが必要なのです。その意味では、この教会で、召される者が出た場合、葬りのために様々の手伝いを必要としています。
彼らは協力して、真新しい墓まで、イエスのからだを運び、香油を注ぎ、布で巻き、そこに葬りました。それは、今まで地上で受けた一切の恥辱をぬぐってあまりある栄誉ある葬りでした。盛大ではありませんでしたが、少数者による、真心のこもった真実な葬りでした。
ヨセフもニコデモも女たちも、イエス様の生前にできなかったことを取り戻そうとしているかのように見えるほどに労したことでしょう。ヨセフが主イエス様ヘの愛を明らかにして示した時、イエスは死んでおられました。しかし、ヨセフのわざは聖書に書き記され、神の心に留められました。今日も読む者に証しされています。死において主に仕える道もあるのですね。
惜しむらくは、ヨセフがイエス様の生前にその信仰と愛をはっきりと示して、たとえ受け入れられなかったとしても同じ議員仲間のニコデモとともにサンヒドリンで強力に積極的にイエスを弁護しておれば、たとえ聞かれなかったとしても、どんなにか主イエス様にとって励ましとなったことでしょうか。ヨセフの信仰をどんなに高めたことでしょうか。これは欲目かもしれませんが。
自分の愛する人のために、生きているときに贈るべき花を、亡き人の墓の上に置くことのないように心しましょう。たとえ、そのことが神に覚えられることはあっても、いかにも惜しいことではありませんか。その人が生きているときに語るべきことを語らなかったために、後になって心悔むことのないようにしましょう。生きている人への感謝の一言は、死者に対する埋めつくすほどの花にも勝っています。生きている人への謝罪の一言は、限りない悔いの涙よりも遙かによいのです。さらに、生きておられる神への賛美と奉仕と感謝は、あなたが死において表わすよりも、生きている時にこそ、表わすのが良いのです。常日頃から信仰は目覚めていなければなりません。
主は確かに召されました。葬りが、その死の確実であったことを立証しています。主イエスも墓に葬られたということは、私たちの死と葬りにおいても慰めであります。主は死の床に3日間置かれました。ご自分のからだをもって何をすることのできない全く無力な状態に置かれました。すべての人間が死においてそうなります。その中に、神は全能の力を働かせられます。葬られたイエスは、墓から、勝利のよみがえりを復活の体をもってなさったのです。私たちが、葬られる日、キリスト・イエスにある一人一人のからだは、主に結び付いたままで、主の再臨の日のよみがえりを待つのです。それは、主イエスをよみがえらせてくださった父なる神が、その信仰による子どもたちをも同じようにしてくださるからなのです。ここに限りない深い慰めがあります。

結び)イエス様のための敬意を込めた葬りに慰めを覚えます。あなた自身の死と葬りのために、主イエス様にある備えができていますか。信じる者は永遠のいのちを持つと主イエス様はおっしゃいました。よみがえりの日にともにいるといわれました。ご家族への証しはどうでしょうか。終わりを見つめて今日を生きる必要があるのです。