2021年11月28日礼拝 音声有 説教「あなたはどこへ逃げていますか?」

*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。This service will be held in person and via ZOOM.

**ビデオは礼拝後、次土曜日までに公開されます。音源は礼拝後、永続的に公開されます。

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

 

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉
さ ん び 「喜びの声上げて」
さ ん び 「今こそキリストの愛に応えて」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 359番 「私の望みは主イェスだけにある」
聖書朗読 ヨシュア記 20章1〜9節
聖書の話  「あなたはどこへ逃げていますか?」  マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 130番 「ひとりの御子さえ」
献   金
報   告
とりなしの祈り        マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 教会福音賛美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷          マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアメン」

 

説教(聖書の話) 「あなたはどこへ逃げていますか?」

 

皆さんは、「逃走中」という番組をご存知ですか?スーツを着て、サングラスを掛けたプロランナーからタレントさんが逃げるという番組です。そして、逃げ切れたら賞金がもらえるという非常にシンプルな番組で、今も人気があるかどうか分かりませんが、2010年頃にはやっていました。前の教会で教会学校のキッズイベントとして「逃走中」のキッズイベントをやって、教会の、足の速いお父さんたちと、アメリカから来た身長180-190センチの宣教師が少し怖い顔をして、サングラスをかけて子どもたちを追いかけまわすゲームをしました。一人か二人の幼稚園生を泣かせてしまいましたが、子どもたちには大好評でした。そのゲームをよく見ていると、逃げるときのコツがすぐ分かります。子どもは足が速くても、すぐ疲れてしまうので、うまくランナーをかわしたとしても、最終的には力が尽きてすぐ捕まってしまいます。しかし、足が遅くても、ランナーが入れない「セーフゾーン」に逃げれば、助かるのです。

 

私たちが何か悪いことをしたときに、「逃走中」のランナーに見つかってしまったときのように、すぐに逃げようとします。例えば、何かしてはいけないことをしたら、親に怒られないように、先生か上司に怒られないように、夫か妻に怒られないように、周りの人や社会に除外されないように、あるいは、警察に捕まらないように、私たちは逃げようとするのです。そして、逃げ方には色々な方法があります。一番分かりやすいのは、罰を与える人から走り去ることですね。大人だったら相手を無視したり、何もなかったかのように振る舞うことがありますが、私の子どもたちは、悪いことしたとき、すぐに私から逃げ走って、ソファの裏か違う部屋に隠れます。もう一つの逃げ方は、責任転嫁です。つまり、自分の罰を他の人に当てることによって、自分が罰から逃れるということです。もう一つの逃げ方は、自分がした悪いことの証拠を隠滅することです。自分が悪いことをした履歴を削除すれば、他の人をごまかして、自分は「いい人」だと言い張ることができます。もう一つの逃げ方は、「取り引き」をすることです。自分の罰をなくしたり、軽くしたりするために、色々と交渉するかもしれません。皆さんはどのような逃げ方が得意でしょうか?

 

しかし、私たちは、いろいろなことをして必死で逃げているうちに、逃げることに無我夢中になり、自分が「どこへ」逃げているのかを忘れてしまうようなことはありませんか?例えば、私の子供が悪いことをしたら、慌ててソファの裏へ逃げます。しかし、普通に考えれば、ソファの裏だったら、すぐに見つかってしまいますよね?私たちは悪いことをしてしまった時、「どこへ」逃げるでしょうか?そこに逃げたら、私たちが恐れている「罰」から逃げられるのでしょうか?「逃走中」の番組のように、一時的に逃げられたとしても、最後の最後まで逃げ切ることができるでしょうか?

 

本日の箇所では、罪を犯した人が逃げることができる「逃れの町」について学びます。そして、この箇所を通して、神様の正義とはどういうものなのか、神様がどう憐れんでくださるのか、そして、最終的に私たちが神様の御怒りからどう逃れることができるのかについて学びます。本日のポイントは、「あなたの逃れの町はイエス・キリストです」という非常にシンプルなものです。本日の箇所の流れを見ながら、覚えていただきたい三つのポイントについてお話します。

 

本日の箇所をまず見ていきましょう。初めての方もおられるかもしれませんので、簡単に今までのヨシュア記の話をまとめます。ヨシュア記の話は、神様がその450年前に約束された土地を、どのように神の民に与えたかという話です。1-12章の話は、神の民が不従順であっても、信仰が弱くても、力が弱くても、神様が神様の恵みのみによって、敵を倒し、民を救い出し、約束の地を民に一方的に与えてくださった話です。13-21章は、その約束の地を、神の民がどのように割り当てられたかという話です。神の民以外の人々にとっては、とても難しくてつまらない、自分たちには関係のない話かもしれませんが、神の民にとっては、450年も待ち望んでいた、非常に嬉しい話なのです。

 

そして、今日の20章と次回の21章の話は、神様が最後に割り当てられた、レビ族の住む所についてです。神の民にとって、レビ族は特別な部族でした。彼らは神様に直接仕え、神様の家である「神殿」に仕える部族でした。神の「祭司たち」であり「聖なる」部族が、レビ族でした。特別な奉仕が与えられていたので、ヨシュア記には、こう書いてあります。

ヨシュア18:7 「しかし、レビ人はあなたがたの間に割り当て地を持たない。の祭司として仕えることが彼らへのゆずりだからである。」

つまり、レビ人は他の部族のように土地は与えられませんでしたが、他の部族よりも高価な「ゆずり」が与えられました。土地よりも、「神様との親密な関係」が与えられたのです。そして、他の部族が神様に献げものをするとき、教会の牧師のように、その一部がレビ族の給料として割り当てられました。しかし、神様との親密な関係と日常生活のための給料が与えられていても、レビ人にも住むところは必要です。それで、20章と21章には、レビ人に割り当てられた「町」について書かれているのです。

 

レビ人に割り当てられた「町」の中に六つの町が「逃れの町」として指定されていました(民数記35:6)。「逃れの町」はどういう町だったのでしょうか?「逃れの町」というのは、神様の正義、神様の憐れみ、神様の救いについて学べる「町」とも言えます。「逃れの町」の機能を理解する前に、神の民の「司法制度」、つまり、神様の「正義」という背景をまず理解する必要があります。西洋文化では、「正義」を「天秤(てんびん)」でよく表します。「正義」の目的は「バランス」、「公正」、「平等性」を守ることです。例えば、わたしが誰かからお金を盗んだら、「正義の天秤」が偏ってしまいます。ですから、正義のために、私が盗んだお金と、与えた被害に値するお金を返す必要があります。そのお金が償われれば、「正義の天秤」のバランスは元に戻ります。返したお金が少なかったら、「正義」にはなりません。なぜなら、それは加害者の不義を正当化することになるからです。返したお金が必要以上の金額だったら、それも「正義」にはなりません。なぜなら、それは被害者の不正な復讐を正当化することになるからです。聖書では、正義の原則を次のように表しています。

出エジプト21:23-25 重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、 目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。

聖書では、この原則をお金で弁償するという形でよく行っていました。例えば、人が拳で相手の顔を打ったら、被害者は加害者に打ち返す権利はありませんでしたが、加害者は、被害者に与えた害に値する弁償金を払わなければなりませんでした(出エジプト21:18-19)。

 

しかし、殺人という罪になると、奪ったいのちをお金で償うことはできませんでした。なぜなら、人のいのちは「お金」と取り替えることはできません(出エジプト21:12、民数記35:31)。聖書では、人間というのは「神様の似姿」に造られた尊い存在だとしています。当時の文化では、殺人は悪いことと認められていましたが、その罰は、殺した相手の立場によって異なり、地位の高い男性よりも、女性のほうが軽く、また、地位の低い人や奴隷だったら、より罰が軽くなりました。しかし、聖書にはっきりと書かれているのは、未亡人や孤児、寄留者や奴隷など、自分のいのちさえ守ることのできない、力も影響力もない人を殺したとしても、「いのちにはいのちを」という正義なのです。つまり、神様の正義は、すべての人間は、尊い存在であり、全ての人の価値は平等であるという正義なのです。

 

そして、家族の代表となる一番近い親戚には、殺人者を捜し求めて、正義を執行する権利が与えられました(申命記19:11-13)。新改訳聖書では、その親戚を「血の復讐をする者」と訳されていますが、ヘブル語の意味は家族の「贖い主」という意味です。(参照:ルツ4:1に書いてあるボアズのような「買い戻しの権利のある親類」と同等な親戚を指しています。)つまり、なすべき正義を執行する者、家族の名誉を守る者、被害者に対する不義を正す者、「償われるべき血」を回収する者というニュアンスなのです。ですから、「血の復讐する者」は悪者よりも、正義の味方なのです。そして、殺人によって不義に流された血は、神様の約束の地を汚すことになります。「そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥(なだ)められることはない」と書いてあります(民数記35:33)。つまり、「血の復讐をする者」とは、神様の「罰」を執行する、神様のしもべのような者なのです。そして、殺人者の血が流されなければ、神様の御怒りは宥められないということです。ですから、殺人を犯したものは、「逃走中」の番組のように、神様に派遣されたサングラスを掛けた「血の復讐する者」から、一生涯、常に逃げなければならないようなことです。

 

その上、「意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者」でも、人の尊い「いのち」を奪ったことには変わらないので、被害者の「贖い主」である「血の復讐をする者」が神様の正義を執行するために、殺人者に罰を与えることができます。すなわち、意図していたとしても、意図していなくても、「いのちにはいのちで」償わなければならないのです。神様はそれほどに人間のいのちを高価なものとして扱われています。

 

しかし、神様は、「意図せずに誤って」人を殺してしまったような殺人者にも憐れみを与えてくださいます。神様は、約束の地に六つの「逃れの町」を用意してくださいました(ヨシュア20:7-8)。もし「意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者」が自分の町を離れて、「血の復讐をする者」に見つからず、「逃れの町」まで逃げ込むことができ、町の会衆の前で「意図せずに誤って」殺してしまったことが確認できれば、神様の裁きから一時的に逃れることができました。つまり、「逃れの町」は罪人のための「セーフゾーン」のような所です。しかし、逆を言えば、「逃れの町」は非常に広い「牢屋」とも言えます。もし「逃れの町」から出てしまったら、「血の復讐をする者」は意図せずに人を殺してしまった者に「罰」を執行することができます。例えば、第2サムエル記3章27節では、ヨアブが、自分の兄弟を殺したアブネルを「逃れの町」の外に引き寄せて、アブネルを「処刑」しました。つまり、「逃れの町」によって殺人者のいのちは守られますが、神様の「罰」からは解放されません。なぜなら、民数記35:33に書いてあるように、「そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない」からです。

 

罰から解放される、救いの手段は一つしかないのです。それは、当時の大祭司の死です。「その時の大祭司」が死んだら、「殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる」とヨシュア記20章6節に書いてあります。なぜでしょうか?大祭司は、神様と罪深い神の民の間に立つ「仲介者」でした。神様と神の民の間に溝ができた場合、大祭司の役目は儀式を通して、その関係を回復させることでした。そして、具体的には書いてありませんが、ヨシュア20章には、大祭司の血が、殺人者の血の身代わりになり、神様と殺人者の関係を回復する、と示唆されています。ですから、大祭司が罪人の代わりに死ぬことによって、「殺人者」は処刑され、神様の正義が満たされ、神様と罪人が和解されるのです。そして、罪人を2回処刑することは不義になってしまうので、大祭司の死後、罪人は「神様の裁き」を恐れることなく、「血の復讐をする者」からの罰から完全に解放された者として帰ることができるのです。殺人の罪を犯した者が、数年間隠れ続けた後、裁かれることを恐れることなく、自分の町や自分の家に自由に帰ることができるとは、どれほど嬉しいことだったでしょう。

 

これが神様の正義と憐れみと救いを表す「逃れの町」の説明です。「逃れの町」の話を通して、三つのポイントを覚えていただきたいです。一つ目のポイントは、「神様は人間のいのちを守る正義の神様です。その正義の神様は、人の「いのち」に害を与える罪人の血を求められる」ということです。

 

神様の正義の原則は、「いのちにはいのちを、 目には目を、歯には歯を」ということです。先ほど説明したように、これは物理的な「被害」だけではなく、すべてのことに適応できます。罪というのは、行動で、口で、心の中で人に「害」を与えることです。そして、正義の目的は、被害者を守ることです。

 

自分の子供や配偶者、家族に暴力を振るったり、暴言を吐いたりすることは、神の似姿に造られた者を「攻撃」することです。聖書では、自分の親を敬わない、または、親をののしることは、親に重い「害」を与えることになります。なぜなら、それは、子どものために、「いのち」を削るほどの親の犠牲を軽んじることになるからです。職場で、教会で、社会で、誰かの陰口を言うこと、誰かに対して苦みを引きずること、誰かに必要な「愛」と「尊敬」を与えないことは、神の似姿に造られた者の「尊厳」を奪うこととも言えます。全知全能の神様は、一人一人がどのように人に「害」を与えたかをすべてご存知です。見えないところで被害を与えても、被害者に傷が残っていなくても、誰も知らないことであっても、神様はすべてご存知です。そして、「正義の天秤」を元に戻すまで、「血の復讐する者」のように、正義の神様は、「被害者」の味方として、私たちが正しく裁かれるまで罪びとを追いかけられます。つまり、正義の神様は、色々な人たちに「害」を与えて、他の人の「血」を流した私たちの血を求められるのです。神様は私たちの不義を正当化されませんし、私たちの不義による被害者の正義のために、最後の最後まで復讐されるのです。

 

皆さんは、何かを悪いことをしたとき、正義の神様の裁きから免れることができると思いますか?全知全能の神様から逃げ切ることができると思いますか?

 

二つ目のポイントは、「神様の裁きから逃れられる唯一の場所は、神様が定められた究極の『逃れの町』、イエス・キリストである」ということです。

 

ヨシュア記20章の「逃れの町」は神様の憐れみを表す町ですが、意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者だけしか、神様の裁きから逃れることはできません。例えば、悪意をもって人を殺した人、偶像崇拝者、水商売をしている者、盗賊、詐欺師などがヨシュア記20章の「逃れの町」へ逃げて来ても、神様の罰を受けなければなりません。つまり、旧約聖書では、他の罪のためには「裁き」から逃れる方法はありませんでした。どれほど信仰深いリーダーであっても、モーセやアロンでさえ自分たちの罪の罰から逃げることはできませんでした。

 

それでは、私たちは本当に自分たちの「罰」から逃れることができるのでしょうか?たとえ、責任転嫁や、罪の証拠を隠したり、取引ができたとしても、それは単なる「時間稼ぎ」に過ぎません。アダムとエバは、全知全能の神様から自分たちの罪悪感と恥を隠すために、いちじくの葉をつづり合わせて、エデンの園の木の間に身を隠しました。私たちも、アダムとエバのように、色々なことをして必死で逃げているうちに、最終的に自分が「どこへ」逃げているのかを忘れてしまうようなことはないでしょうか?

 

しかし、感謝なことに、イエス様が来られた時から、すべての罪人のために、神様が指定してくださった、完全な赦しを与える究極の「逃れの町」が与えられました。この町は、天国を表す「シオン」と呼ばれています(ヘブル12:22)。シオンの王であるイエス様を信じれば、どれほど罪深くても、神の「長子」、そして「完全な者とされた義人」と呼ばれ(ヘブル12:23)、神様のさばきを恐れることなく、自由に生きることができるのです。なぜなら、イエス様は「逃れの町」の王であり、「逃れの町」の大祭司でもあるからです。イエス様は大祭司として私たちの代わりに、十字架で私たちが受けるべき罰を受けてくださったのです。私達が受けるべき正義の神様の「血の復讐」が、罪のないイエス様にすべて向けられたのです。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)神様ご自身が、あなたや他のクリスチャンたちを「裁かれるべき罪人」として見ておられないのに、なぜ私たちは自分で自分のことを「裁かれるべき罪人」と定めるのでしょうか?すでに「裁かれ罪人」として、裁きから完全に解放されたものとして、歩みましょう。

 

三つ目のポイントは、「もしキリストの体である教会が究極の「逃れの町」であるなら、私たちは逃げる必要もないし、復讐をもって罪人を追いかける必要もない」ということです。

「逃れの町」での生活を想像すると、その光景は非常に面白いと思います。ヨシュア20章の「逃れの町」は神様に聖別された祭司たちの町でもありましたし、同時に、罪人が集まる町でもありました。そして、罪人が「逃れの町」に入ったら、会衆の前で自分がしたことを告白し、祭司たちがその詳細を確認したあとで、その人を受け入れ、住む場所を与え、その人と共に住むことになるのです。ですから、だれがどのような罪を犯したかを知った上で、一緒に共存して、お互いに裁かず、お互いを受け入れ、お互いに支え合う町でもありました。そして、罪人は神様からも町の人たちからも裁かれる恐れもありませんでした。なぜなら、神様は自分を裁かれない、ということを確信できましたし、町の人たちも自分が裁かれるべき存在ではないことを認めていたからです。

 

教会も同じようなところです。お互いの罪を具体的に知らなかったとしても、私たちが教会に加わるために、会衆の前に「自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのない者であることを認めます」と告白しています。ですから、私たちは、自分がイエスキリストを殺すほどの罪を犯していること、そして、皆も同じような罪を犯していることを知っているのです。その上、自分も教会の兄弟姉妹も、イエス様により頼む者はみな赦され、救われ、神様の裁きから解放されているものだと告白したのです。

 

ですから、もしその事実を受け入れているなら、教会にいる限り、私たちは神様を恐れる必要もありませんし、裁きから逃げる必要もありません。キリストにある兄弟姉妹から自分の罪と恥を隠す必要も全くありません。それは、教会という「逃れの町」の大前提が、ひどい「罪人」の「逃げ場」であるからです。イエス様は「自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5:1)ですから、わたしたちは堅く立って、再び「恐れ」のくびきを負わされないように、責任転嫁をせず、自分の罪を隠さず、浅はかな取り引きをせず、堂々と自分たちの弱さを告白し、まっすぐに福音を信じて、教会の兄弟姉妹と共に神様の御前で休みましょう。もう逃げる必要はありません。

 

そして、教会は「逃れの町」であり、罪人のたまり場でもある所なので、色々な問題が起こるのは当然なのですが、復讐をもって罪人を追いかける必要もありません。

ローマ12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。 「復讐はわたしのもの。 わたしが報復する。」

正義の神様はあなたに対する加害を忘れてはおられません。ですから、神様は、キリストにある兄弟姉妹から受けた過去の被害、現在の被害、将来の被害をすべてイエス様の十字架に置かれ、正義をもって、あなたのために復讐を行ってくださったのです。ですから、復讐をもって罪人を追いかける必要もありません。もう十字架の上であなたのために「正義の復讐」が行われたので、神様が「逃れの町」に逃げ込んだすべての罪人を受け入れてくださったように、私たちも受け入れましょう。