2021年12月12日 バイリンガル礼拝 Bilingual worship 音声有 説教「自分たちの相続地から与えた They Gave . . . out of Their Inheritance」

*会堂礼拝およびZOOMのライブ配信での礼拝です。This service will be held in person and shared via ZOOM.

(今回、動画はございません。ご了承ください。)

(For those interested in how to hear the simultaneous sermon interpretation into English this week, please contact us.) This service, we will test out a few of multiple possible Japanese/English bilingual service forms.

 

礼拝式順 Order of Worship 10:45〜12:00

 

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ルカの福音書 Luke 12:32-34
さ ん び Response to Call 「インマヌエル麗しい御名」 Japanese only
さ ん び Praise “On Jordan’s Stormy Banks” 英語のみ
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
教会福音讃美歌 Hymn of Preparation 353番 「あなたこそわが望み」“Be Thou My Vision”

聖書朗読 Scripture Reading ヨシュア記 Joshua 21(21:1-3, 41-45)
聖書の話 Message 「自分たちの相続地から与えた They Gave . . . out of Their Inheritance」 マーク・ボカネグラ牧師 Pastor Mark Bocanegra
教会福音讃美歌 Hymn of Response 122番 「主イエスの死なれた」 “When I Survey the Wondrous Cross”

献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Intercessory Prayer マーク・ボカネグラ牧師 Pastor Mark Bocanegra
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」Doxology (Closing Praise)  Japanese only
祝   祷 Benediction (Blessing)   マーク・ボカネグラ牧師 Pastor Mark Bocanegra
後   奏 Postlude / Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン

 

説教(聖書の話)  「自分たちの相続地から与えた」

 

福音書の中で、イエス様が最も敵視した「偶像」あるいは「罪」は何だと思いますか?いろいろな答えがあると思いますが、絶対にTOP3に入るのは「お金」です。なぜなら、お金は私たちの信仰を妨げる効果的な武器とも言えるからです。

「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)

「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マタイ19:24)

お金は私たちの霊的な目を曇らせる効果があり、私たちが意識していなくても、お金は私たちの心を徐々に支配していきます。ですから、私たちの心がお金の「茨」にふさがれ、支配されているかを確かめるように、イエス様はこのように私たちを励ましてくださいました。

「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人(ぬすびと)が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。 あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」 (ルカ 12:32–34)

皆さんは、この箇所を読んで何が一番心に残りましたか?「お金」に関するものに対していつも不安を覚える私は、「自分の財産を売って施しをしなさい」という命令しか心に残りません。なぜなら、それは自分の財産を手放すことを恐れているからだと思います。しかし、イエス様が「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです」と、先に約束してくださったのに、どうして、私の心には、「恐れ」と「喪失感」が残るのでしょうか?それは、無意識のうちに「私の宝」が「御国」ではなく、この世のものになっているからかもしれません。

 

本日の箇所から、私たちの心と「お金」との関係について学びます。神の民として、私たちの最も高価な宝は、神様の恵みによって頂いた「イエス様との関係」です。しかし、お金の「茨」によって、私たちはその事実を忘れてしまい、イエス様ご自身にある私たちの喜びを妨げています。ですから、私たちの最も高価な宝を、より深く味わうために、そして、私たちの心を霊的に「刷新」するために、神様は私たちに、御国のためにお金を惜しむことなく分かち合うことを命令されています。このポイントを理解するために、本日の箇所の流れを見ながら、覚えていただきたい三つのポイントを分かち合いたいと思います。

 

本日の箇所の流れを見ていきましょう。私たちは、ヨシュア記の最後の4章に入りました。ヨシュア記の話は、神様が450年前に約束された土地を、どのように神の民に与えられたかという話です。1-12章の話は、どれほど神の民が不従順であっても、信仰が弱くても、力が弱くても、神様がご自身の恵みのみによって、敵を倒して民を救い出され、約束の地を民に一方的に与えてくださったという話です。そして、13-21章は、その約束の地を、神の民がどのように割り当てられたかという話です。それから、本日の21章は、神の民のすべての部族に相続地が割り当てられたことが書かれています。神の民以外の人々にとっては、とても難しくてつまらなく、自分たちには関係のない話のように思えるかもしれませんが、神の民にとっては、450年も待ち望んでいた相続地が実際に与えられ、自分たちの銀行口座に膨大な金額が振り込まれ、マイホーム、新車、今後の生活費、子供たちの学費、心地いい引退生活をすべて確保できるような非常に喜ばしい話なのです。皆さんだったら、どのような気持ちになるでしょうか?

 

相続地が全ての部族に割り当てられた後、神の民の興奮と嬉しさの中で、レビ族は、神の民のリーダーたちーヨシュア、大祭司エルアザル、11部族の族長たちーのところへ行き、「は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました」(ヨシュア21:2)とリーダーたちに言いました。私たちにとって、レビ族はわきまえのない、よくばりな部族のように思えるかもしれませんが、むしろ、その逆で、その言葉は膨大な土地、財産、お金が与えられた神の民に、彼らが誘惑に陥る前に、神様の命令を思い出させています。その命令を言い換えるなら、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)と言えるでしょう。レビ族の発言の意味をもう少し説明したいと思います。

 

まずレビ族とはどういう人たちなのでしょうか?レビ族は、神様が選ばれた部族で、神の民の代表として、神様の幕屋や神殿を守り、整え、神様と神の民の関係を「管理」する部族でした。例えば、①神様の律法を管理し、神の民に教えること、②神の民の生贄を準備し、神様へ丁重に献げること、③神様の御臨在が離れないように、神様の幕屋・神殿をきよめ、整えること、④汚れた人やものが神様の幕屋や神殿に入らないように警備すること、などがレビ族の主な仕事でした。もしレビ族がこの役割を果たすことができなかったら、神様は、神の民の汚れ、神の民の罪によって、民から離れてしまうことになります。そして、神の民として神様との関係を失うことは、全財産を失うことよりも、悲惨なことでした。なぜなら、神の民がエジプトの奴隷制度から解放された理由、荒野を抜け出しカナン人に打ち勝てた理由、約束の地を相続できたなどの理由は、神様が神の民とともにおられ、民が不従順であっても神様が民を愛し、赦し、祝福し続けられたからなのです。

 

そして、レビ族は、神様の御前において神の民を「代表」するような存在で、他の部族よりも神様との親密な関係を持つことができたのです。このような特権が与えられたため、神様にこう告げられました。

民数記18:20 主はまたアロンに言われた。「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。」

ですから、レビ族の存在によって、神の民が思い出させられるのは、「この身も心も尽き果てるでしょう。 しかし 神は私の心の岩 とこしえに 私が受ける割り当ての地」(詩篇73:26)ということです。つまり、神の民の最も高価な恵みは、「乳と蜜で溢れる約束の地」ではなく、その約束の地、神様と親密な関係を持ち、神様とともに歩み、神様から無条件に愛と祝福と守りを頂くことなのです。

 

では、レビ族がこのような特別な責任と特権を持っていたのであれば、なぜレビ族は神の民のリーダーたちに「住む町と家畜の放牧地を私たちに与えなさい!」と言っているのでしょうか。大まかに言いますと、理由は三つあります。一つ目は、神様ご自身が 神の民の心の「中心」となるように、神様が民にレビ族に土地を与えることを命令されたからです。自分たちの割り当て地を一部レビ人に分け与えることは、神様が「モーセを通して命じられました」(21:3)。それには、割り当て地だけではなく、自分たちの収入の十分の一、自分たちの収穫の初穂、自分たちの家畜と家族の「初子」、そして、様々な物を生贄として神様にささげる掟がいくつもありました。もちろん、全知全能の神様は、私たちのお金を必要とはされません。神様が命令された理由は、神の民が神様を忘れないようにするためでした。

申命記8:11–18 気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。 あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、 あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、 あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように… あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。 あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。

ですから、神の民が自分たちの財産を神様にささげることは、「ああ、自分たちが持っているすべてのものは、神様のものであり、神様から頂いたものだった」と思い出すことでもあり、神様をほめたたえる機会だったとも言えます。ですから、神様から頂いた恵みのゆえに、感謝をもって躊躇せずに、主を心に据えながら「イスラエルの子らはの命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた」(ヨシュア21:3)ということがわかるのです。

 

レビ族に土地を分け与えた二つ目の理由は、他の部族と同じように、レビ族も生活するための土地、家畜、お金も必要だということです。「あなたは一生、あなたの土地でレビ人をないがしろにしないように気をつけなさい」(申命記12:19)と神様が命令されたのは、レビ人が神様と神の民に仕えているために、自分たちの収入のために働くことができないからです。ですから、レビ族以外の11部族がレビ族を支えなければ、彼らも神様に仕えることができません。申命記には、自分たちの収入と財産を1割以上神様にささげた上に、経済的に困っている兄弟姉妹にも惜しげもなく、自分たちの収入を分け与えなさいという命令がいくつもあります。そして、困っている人々の中には、やもめや孤児や寄留者、また、レビ族も含まれていたのです(参照:申命記14:27-29、26:12)。レビ族は、神の民の献金で生活していても、約束の地を所有する権利は与えられていなかったので、基本的な生活をするための住む町と家畜の放牧地が必要でした。神様はレビ族を支えるために土地を与えることを命令されたのです。

 

レビ族に土地を分け与えた三つ目の理由は、今後の神の民の霊的な歩みのためでした。もし神の民がレビ族を支えなかったら、どうなると思いますか?レビ族は自分自身を養うために、神様が定められた仕事ではなく、自分勝手に歩み、幕屋や神殿を整えることをやめたでしょう(例:士師記19:1-21)。また、レビ族は自分たちの取り分が多くなるように、神様が望まれる仕方ではなく、神様が忌み嫌われる方法で生贄を捧げたでしょう(例:1サムエル2:12-21)。自分たちの生活を維持するために、神のみことばではなく、民やリーダーたちが聞きたいことを語ったでしょう(例:2歴代誌19章)。そして、旧約聖書全体の歴史を見ると、神の民が経済的にレビ族を支えなかった時代は、神の民が律法の存在を忘れ、偶像崇拝に陥り、自分たちの子どもたちも信仰を忘れ、神様が最終的に神の民から離れ、裁かれる時代になりました。つまり、レビ族を支えることは、自分たちと次世代の信仰に投資することでもありましたし、自分たちと神様の関係を大切にすることでもあったのです。

 

ですから、くじが引かれ、レビ族が住む町が定められた時に、神の民は抵抗なしに、惜しげもなく、レビ族に自分たちの相続地から与えたのです。そして、それによって、「イスラエルの子らの所有地の中」から、レビ人に「四十八の町とその放牧地」(ヨシュア21:41)として与え、約束の地の各地にレビ人が住むことになりました。そして、神の民はレビ人の存在、奉仕、と歩み方を見ることによって、自分たちの最高の割り当ては自分たちの財産ではなく、自分たちの神様であることを覚えることができました。

 

そして、ヨシュア記21:43-45で、450年前の創世記12章から始まった神様の約束がここですべて成就されます。450年の間、神様の約束を期待して、神の民はたくさんのことを犠牲にしてきました。アブラハム、イサク、ヤコブの一族、エジプトから抜け出して解放された奴隷たち、荒野に40年間住んで、ヨルダン川を渡って、巨人のカナン人と戦った神の民は、神の国へ向かって、450年も寄留し、自分たちの財産、安定、経済力、影響力を手放すことを選んだのです。御国のため、神の民のために、惜しげもなくたくさんのものをささげてきました。しかし、ヨシュア21章で自分たちの労苦と犠牲が主にあって無駄でないことを確信できたのです。

は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。 主は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。はすべての敵を彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。(ヨシュア21:43–45)

この3節は、聖書の創世記からヨシュア記の終わりについて書かれています。聖書の「第一巻」あるいは「序章」は終わりますが、神の民の歩みはまだ続きます。そして、今まで神様は約束通りに、「一つもたがわず、すべて実現くださった」ので、次の450年、次の1000年も、神様が「一つもたがわず、すべて実現される」ことが期待できます。

 

ここでこの箇所を振り変えながら、皆さんに覚えていただきたいことが三つあります。一つ目は、「あなたの割り当ては、イエス様が与えられているこの世での幸せではありません。イエス様が与えられる割り当ては、天国でもありません。私たちの割り当ては、イエス様ご自身です」ということです。

 

私たちを「ほっと」させるものは何でしょうか?私たちを笑顔にするものは何でしょうか?時間とお金と自分たちの力を犠牲にして、私たちが追い求める「心地よさ」、「平安」、「慰め」は何でしょうか?正直にこの質問に心の中で答えてください。どちらのほうが「ほっと」しますか?イエス様が一人一人に10億円を現金で配るか、イエス様ご自身の霊を皆さんの心に注がれることか。そして、反対のことを質問します。どちらを失ったら、「不安」になりますか?お金が得られる「安定した、心配のない、心地いい」生活か、自分たちの心に宿っている聖霊様か。少し意地悪な質問だと思う方がおられるかもしれませんが、マタイ6:24を言い換えると、イエス様がはっきりとこうおっしゃっています。「 だれも【ふたつの喜び】に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。」救いから来る平安を経験し、教会のコミュニティに祝福され、比較的に安定した生活に恵まれていると、私たちは無意識に、イエス様ご自身が私たちの究極の「宝」であることを忘れてしまうことはないでしょうか?

 

そして、私たちがこの世の「富」に揺さぶられる中で、私たちが驚くべき「良い知らせ」があります。私たちがイエス様を忘れてしまうことがあるのに、イエス様は、天の御国と御力とご栄光をご自分の「宝」にされたのではなく、罪深い「私たち」をご自分の「割り当て」にしてくださいました。それ故に、私たちの主イエス・キリストは「富んでおられたのに」、私たちのために十字架の上で「貧しくなられ」ました。それは、私たちが、「キリストの貧しさによって富む者となるためです」(2コリント8:9)。つまり、すべてを犠牲にされるほど、イエス様は私たちを大切にされ、私たちを「富む」民にしてくださったのです。10億円や10億円が得られるような「心地よい」生活は、そのように私たちを愛し、大切にし、守ることができるでしょうか?ですから、お金ではなく、私たちのためにすべてを犠牲にしてくださる主人ーイエス様ーが私たちの究極の「割り当て」なのです。

 

二つ目に覚えていただきたいことは、「イエス様は、喜んであなたがたに御国を与えてくださったので、尽きることのない天の宝を積むために、自分の財産を売って施しをしなさい」ということです。正直に言いますが、「自分の財産を売って施しをしなさい」のような箇所を教会の講壇から聞くとき、私は二つの誘惑に陥ります。自分の財産を手放すことをためらったり、牧師さんが会衆にプレッシャーを与えているのではないかと、考えてしまうことがあります。本日の箇所の学びから、そのような誘惑に陥らないように、私たちの心に三つの質問をしたいと思います。

 

①「私たちの財産が、みことばの種をふさいで、天の喜びを味わわせず、心の土台を揺るがすような『茨』であるのに、なぜ私たちはその「茨」を取り除きたくないのでしょうか?」私たちは、自分の財産を売ることによって、私たちの割り当てである「イエス様」をますます味わうことになり、天の宝を今からも味わうことができるのです!

②「経済的な難しさを経験していない日本の牧師家族はあまりいないと思いますが、多くの牧師たちは、自分たちの利益のためではなく、犠牲的に御国と教会の益のために喜んで仕えています。なぜなら、私たちと同じように、自分たちの『割り当て』もイエス様であることを信じているからです。しかし、神の民の献金に頼っていることは変わりません。ですから、神様が献身者を支えなさい(1テモテ5:18)、経済的に困っている兄弟姉妹を愛しなさい(2コリント8:14-15)と命令されており、神様が私たちに惜しげもなくいろんな恵みを与えてくださっているのなら、私たちが躊躇する理由はあるでしょうか?

 

③「もし自分が惜しげもなく御国の前進のために献金するなら、献身者たちはさらに自由に忠実に奉仕ができ、会衆の心に蒔かれるみことばの宣言がさらに良いものになり、自分の信仰、家族の信仰、そして、教会の信仰がますます主にあって励まされ、教会の次世代に、周りの人々に、「天の割り当て」の甘味をさらに味わわせることができるなら、私たちは御国に最低限にささげるべきでしょうか?または、最大限にささげるべきでしょうか?

 

私たちはささげるとき、失う方に目がいってしまい、尽きることのない天の宝を積むために(ルカ12:33)捧げているということをよく忘れがちです。しかし、イエス様がおっしゃったように、「天の御国は畑に隠された宝のようなもの」なので、もしその宝を見つけたら、「喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買」うことはなおさらのことではないでしょうか?(マタイ13:44)

 

三つ目に覚えていただきたいことは、「小さな群れよ、恐れることはありません。一つもたがわず、すべて実現した神様を思い出しなさい」ということです。お金を投資することはリスクがあり、自分の財産に限りがあればあるほど、どのような投資でも恐れる点はたくさんあります。しかし、一つもたがわず、すべて実現された神様が、御国の前進のために私たちの犠牲、献金、労苦、義の行い、「投資」を祝福され、すべてを保証してくださいます。神様がいつ、どのようにこの約束を成就されるかは全くわかりません。しかし、神の民に約束の地を与え、罪の赦し、からだの蘇り、永遠のいのち、すべての天の祝福を「一つもたがわず、すべて実現」させた神様がその約束を結ばれました。そして、御父が、ご自分の御子を十字架にかけられるほどに、イエス様が神様の永遠の裁きを受けられるほどに、私たちの犠牲、私たちの労苦、私たちの投資を祝福することを望んでおられるのです。ですから、私たちは「種を蒔く」ことによって、恵み深い神様に「種を備え、増やし、実を増し加える」機会を与えているということに気づいていますか?(参照:2コリント9:6-8)

 

それゆえに、「小さな群れよ、恐れることはありません」(ルカ12:32)とイエス様がおっしゃいました。貧困と共に生きていた初代教会のマケドニアの諸教会はこの約束を信じ、惜しげもなく献金したのです。パウロは、このように報告しました。

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、 聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました(2 コリント 8:1–5)

マケドニア教会より「小さな」、貧しい群れはいません。しかし、この箇所から、彼らが御国のために惜しみなく分け与えたことによって何かを失ったと思えますか?全くそう感じません。彼らが大胆に、惜しげなく「種を蒔いた」ことによって、苦しみの中にあっても、大きな「収穫」を得たことがわかります。どうしてそう言えるのでしょうか?なぜなら、御国と教会のために最も犠牲を払ったクリスチャン(パウロ)がこのように言っているからです。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらは ちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。(ピリピ 3:7–9)

私たちも自分の「割り当て」であるイエス・キリストを自分のものにし、すべてのものを手放すことができるように、お祈りします。