2021年12月19日礼拝 音声有 説教「すべての人に。」

近くのアパホテル48階での礼拝をもち、ZOOMで様子をライブ配信の予定です。This service will be held in person APA Hotel in our neighborhood and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

 

礼拝式順 10:45〜12:00

前 奏
[待 降]
旧約聖書 イザヤ書9章2節
新約聖書 ルカの福音書3章15節
♪讃美歌 94番 久しく待ちにし(1・2番)[預 言]
旧約聖書 イザヤ書7章14節
旧約聖書 イザヤ書9章6節
♪教会福音讃美歌92番 人みな喜び歌い祝え(1・7番)[告 知]
新約聖書 ルカの福音書1章26節-38節
新約聖書 マタイの福音書1章18節-22節
♪讃美歌 96番 エサイの根より(1・2番)[誕 生]
旧約聖書 イザヤ書60章2-3節
新約聖書 ヨハネの福音書1章9節、5節
♪讃美歌112番もろびとこぞりて(1・3・5番)旧約聖書 ミカ書5章2節
新約聖書 ルカの福音書2章1-7節
♪聖歌 137番 いれまつる家あらず新約聖書 ルカの福音書2章8-14節
♪讃美歌106番 あら野のはてに(1・4番)
新約聖書 マタイの福音書2章1-2節、9-11節
♪讃美歌103番 牧人ひつじを(1・4番)

新約聖書 ピリピ人への手紙2章6-8節
新約聖書 使徒の働き 4章12節
新約聖書 ヨハネの福音書 1章12節

♪讃美歌121番 まぶねのなかに

聖書朗読 ルカの福音書2章25-33節
聖書の話  「すべての人に。」
マーク・ボカネグラ牧師

♪讃美歌111番 神の御子は今宵しも(1・4番)

献 金
♪讃美歌98番 あめにはさかえ(1・3番)

祝 祷        マーク・ボカネグラ牧師
後 奏
報 告

 

説教(聖書の話)  「すべての人に。」

 

今日はクリスマス礼拝ですが、ちょっとした経済学のプチレッスンをしたいと思います。私の大学の専攻は経済学でしたが、経済学で最初に教わることは、経済学の土台である「希少性」という原理です。希少性というのは、人々が求める量に比べて利用可能な量が少ないという状態を表しています。そして、人が求めるものが「不足」していることを「希少性」と表します。そして、「不足」しているものがある場合、人はそのものに「価格」を定め、人々が求めるものが不足していればいるほど、価格は上がります。例えば、今のところ、空気は不足していないので、全ての人に「無料」です。しかし、コロナ禍の最初の数か月、トイレットペーパーが不足し始めた時、アマゾンで売っているトイレットペーパーの価格が急激に上がりましたね。

それでは、「不足している」ものを手に入れられる人たちとはどういう人たちでしょうか?払えるだけのお金を持っている人ですよね?そのような現象は、「希少性」を表していると言えます。不足しているものは、限られた人たちしか手に入れることができませんし、「相場価格」を払える人しか手に入れられない、というとても基本的でだれにでもわかるような原理だと思います。もしそうだとしたら、人に「救い」を与えるものはどうでしょうか?例えば、コロナのワクチン、どのような病気でも治せる最先端の医療技術、人の社会的地位を高められるエリート教育、経済的安定を得ることのできる最善の仕事、喜びや幸せを味わえる生活など。そのような「救い」を与えてくれるものは、「人々が求める量に比べて、利用可能な量が少ない」と言えると思います。このような「救い」は非常に限られているので、手に入れるための「価格」は非常に高いのです。ですから、最も裕福で権力を持っていて、コネクションのある、頭のいい人たちしか手に入れることができないのは、常識的に考えられると思います。例えば、お金、権力、知識、コネクションを持っている国々が先にワクチンを手に入れ、比較的に弱い国は最後になりました。

しかし、クリスマスが表す救いは、人間の常識、「希少性」の原理、社会の基本的な仕組みを完全に取っ払うようなことを言っています。クリスマスが表す神様の救いはごくわずかな人たちではなく、だれでも平等に手に入れられる救いであることというものです。神様の救いは、VIPに先に与えられるのではなく、貧しい人たちや弱く苦しんでいる人たちに与えられるというものです。そして、神様の救いは、イエス様の御前に集まるすべての人たちに、みんなが欲しがるような「栄光」と「救い」を与えるというものです。

クリスチャンはこのような話に慣れすぎて、クリスマスが想像を絶する話であることを忘れがちです。クリスマスの話は、だれにも理解できない話です。全ての人に混乱を与える話です。ヨセフとマリアと同じように、全ての人が驚く話です。本日の箇所の流れをみてから、2つのことを皆さんに覚えていただきたいと思います。

では、本日の箇所を見ていきましょう。クリスマスというのは、イエス様が人としてお産まれになった日ということを指していますが、クリスマスの意味はおもに、新約ではなく、「旧約聖書」に記されています。去年のクリスマス礼拝の説教を覚えている方々は、本日の説教の箇所は去年とほぼ同じであることに気づいたかもしれません。今日は去年のクリスマス説教のパート2とも言えます。去年のクリスマス説教では、シメオンが待ち望んでいた「イスラエルの慰め」(2:25)は何だったのか、神様の「御救い」(2:30)はどういったものなのか、なぜシメオンが「安らかに死ぬことができる」(2:29)と言えたのかを説明しました。そして、その答えが旧約聖書のイザヤ書の66章に書いてありました。要するに、クリスマスは、旧約聖書のイザヤ書の「結末」または「クライマックス」なのです。ですから、クリスマスの意味を理解するには、旧約聖書全体の流れを理解する必要があります。

イザヤ書を簡単にまとめると、イザヤ書は二つの「書物」に分けられます。前半の「災いの本」と後半の「慰めの本」です。「災いの本」では、神の民であるイスラエルが、なぜ様々な災いを経験したのかが説明されています。その理由は、神の民を導く王様と神の民が神様の恵みに感謝せず、自分勝手に歩んでいたからです。神様の教えに従わなかった結果、神の民の社会は、悲惨な弱肉強食の社会になってしまい、民は敵の王国の捕虜になり神様のさばきによって自分の王国と恵みから追い出されてしまいました。そして、神様がイスラエルを裁かれて以来、イスラエルは異宗教の超大国の属国となりました。イザヤ書の後半は神の民にその悲惨な状態から抜け出す「救い」を約束する「慰めの本」です。イザヤが約束する「慰め」あるいは「救い」は、何らかの現象や出来事ではなく、「メシヤ」あるいは「キリスト」という人物でした。この「キリスト」は世界を制覇し、平和をもたらす王様であり、ご自分の民の罪をきよめ、苦しんでいる民の嘆きを喜びに変える慰め主であることをイザヤ書が預言したのです。現実離れした、想像を絶するような約束でしたが、神の民は600年も待ち続けました。もしイエス様が2020年にお生まれになったとしたら、神の民は室町時代から待ち続けてきたということです。多くの神の民は待ちくたびれましたが、シメオンは待ち続けました。そして、イザヤ書が約束していたイエス・「キリスト」がお産まれになったときに、シメオンは「今こそあなたは、おことばどおり、 しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです!」と喜び叫びました。これがクリスマスの意味です。私たちに安らかに死ぬことができる理由を与えてくれる日なのです。それは去年のクリスマス礼拝の話ですが、今年もシメオンの話の続きを見ていきたいと思います。

シメオンが喜んだ理由が具体的に書かれています。

ルカ2:30-32 私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。

たったの3節ですが、もし新改訳2017の聖書をお持ちなら、この箇所の引用箇所を見ると、イザヤ書の様々なところから引用されていることがわかります。32節は少なくとも、イザヤ9:1、42:6、45:25、46:13、49:6、52:10、60:1-3から直接引用されていますが、その一節一節の周りの箇所からも引用しているので、非常に意味深い3節でもあり、長時間煮込んで肉汁がしみ込んだロールキャベツのような3節です。

先ほど説明したように、シメオンが見た神様の「御救い」とは、夢で見た遠い将来のことではなく、マリアが抱えていた赤ん坊のことでした。この赤ん坊が、「キリスト」であり、神の民に「救い」、「慰め」、「平安」を与えてくださる王様だということです。しかし、どのように与えられるのか、だれに与えられるのかは次にくる疑問です。

シメオンが喜んでいる一つ目の理由は、クリスマスの救いは、「万民の前に備えられた救い」ということだからです。「万民の前に備えられた」という表現の意味は、ルカ3:6の「すべての者が神の救いを見る」とイザヤ40:5「このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る」と同じ意味を持っています。要するに、特定の人だけではなく、すべての人に公にされた「神の救い」なのです。(イザヤ書52:7-10はこの意味を表しています。)

つまり、この「神の救い」は、特定な人あるいはVIPにしか知られていない「特別な」救いではありません。これはお金のある者しか買えない「特権」、権力者しか獲得できない「近道」、知者しか得られない「悟り」、力のある者しか奪えない「勝利」ではありません。この世界の通常の考え方は、救いを与える「特権」、「近道」、「悟り」、「勝利」は数少ない者しか得ることができないので、それについての情報はあまり公にされませんし、そのような情報は非常に手に入れづらい、「値段の高い」情報なのです。一流大学に100%受かる方法を知っている塾が、永遠に、無料で、全ての人に教えることがあるでしょうか?とんでもない話です。むしろ、最も高い価格で、限られた人にその情報を売るでしょう、それがビジネスの基本だからです。

しかし、クリスマスが約束する救いは、その正反対です。これは「地の果てのすべての者」が見ることができる「神の救い」、すべての者が聞くことができる「幸いな良い知らせ」なのです。1世紀の中東で起こった出来事が、21世紀の日本で宣べ伝えられ、その会衆を見ると、どんな年齢でも、人種でも、社会的地位でも、同じ「御救い」を見ることができ、同じ「良い知らせ」を聞くことができるのです。しかも、「神の救い」に関するものは、すべて無料で期間限定でもなく、永遠に無料でその情報は提供されているのです。とんでもない話です。

シメオンが喜んでいる二つ目の理由は、神の救いが、何の差別もなくすべての人があずかれる救いだからです。「異邦人」と「御民イスラエル」に「神の救い」が与えられると書いてありますが、イザヤ書の文脈を知ると、それがどれほど驚くべき知らせなのかがわかります。

まず「イスラエル」とは、どのような人々だったのでしょうか?イザヤ書には、イスラエル人は「特別」な民であり、神様に愛されている民だと書いてありますが、イザヤ書を一通り読むと、悪い印象しか残りません。なぜなら、イスラエルは自分たちの神様を裏切り、神様の教えを無視して、自分勝手に歩んでいたからです。イザヤ書では、神様は、ご自分の民をよく「都」という言葉で表されます。そして、イザヤ1:21-23では、次のように神の民を描写しています。

どうして遊女になったのか、忠実な都が。 公正があふれて、義がそこに宿っていたのに。 今は人殺しばかりだ。 おまえの銀は金かすになった。 おまえの良い酒も水で薄められている。 おまえの君主たちは強情者、盗人の仲間。 みな賄賂を愛し、報酬を追い求める。 みなしごを正しくさばかず、 やもめの訴えも彼らには届かない。

ですから、イスラエルは神様を深く裏切った、神様のさばきに価する民なのです。

では、「異邦人」とはどのような人たちでしょうか?これもイザヤ書を一通り読むと、イスラエルと同じように、異邦人が神様のさばきに値する、神様の敵でもあるということがわかります。イザヤ13章から23章では、神様は当時の各超大国に宣戦布告をされ、各王国を裁くと約束されました。なぜなら、「地はその住民の下で汚されて」いて、「 彼らが律法を犯して定めを変え、 永遠の契約を破った」(イザヤ24:5-6)からです。そして、具体的にいいますと、異邦人は、バビロン、エジプト、アッシリア、ペリシテのような国を指していて、神の民と他の王国を残酷に殺し、弱者を圧制し、自分たちの配下に置くような凶暴な国々でした。現代にもそのような政府はあるでしょう。

しかし、「神の御救い」であるイエス・キリストが現れた時、シメオンはこの方は「イスラエル」と「異邦人」の救いであると言いました。つまり、不忠実で遊女のようなイスラエルであっても、凶暴で偶像崇拝していた異邦人であっても、イエス様は、ご自分の下に集まるものを一人も拒まず、区別なく救いをお与えになります。イエス・キリストは、ご自分の都の門を「いつも開かれ、昼も夜も閉じられない」(イザヤ60:11)、「万軍の主は、この山の上で万民のために、 脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、 髄の多い脂身と よくこされたぶどう酒の宴会を開かれる」(イザヤ25:6)のです。パウロのような、大勢のクリスチャンを殺害した人であっても、ルカ7章の名もなく罪深い女のような遊女であっても、ニコデモのような傲慢な律法主義的な人であっても、ペテロのように救い主を3回も見捨てた弟子であっても、イエス様の御名を呼び求める者はみな救われるのです。

シメオンが最後に喜んだ理由は、イエス様がすべての人に「光を照らし、栄光を与える」救い主であるからです。ルカ2:32の「照らす啓示の光」と「栄光」は、イザヤ書の預言からも引用され、同じことを指していると言えます。この「栄光の光」には二つの効果があります。

一つはすべての人をご自分の下へ引き寄せることです(イザヤ60:1-4)。イエス様の「光と栄光」に引き寄せられる人たちは二種類います。一つは、暗闇の中で苦しんでいる人たち、圧制されている人たちが、イエス様に助けを求めるために、光と栄光に向かいます。もう一つは、暗闇の中で不正を行っていた人たち、弱者を圧制していた人たちが、イエス様の光によって正され、へりくだって自分たちの忠誠をイエス様に誓うために、「光と栄光」に向かいます。要するに、イエス様の「光と栄光」の効果の一つは、暗闇の中で苦しんでいる人たちを救い出し(イザヤ42:6-9)、暗闇の中で不正を行っている人たちを正す(イザヤ49:6-7)というものです。

もう一つの効果は、ご自分の民の「苦しみと悲惨」を、「神の栄光」に変えるということです。イザヤ60:14-22はこのポイントを最も印象深く表していると思います。

あなたを苦しめた者たちの子らは、 身をかがめてあなたのところに来る。 あなたを侮った者どもはみな、 あなたの足もとにひれ伏して、 あなたを『主の都、 イスラエルの聖なる方のシオン』と呼ぶ。 あなたは捨てられ、憎まれて、 通り過ぎる人もなかったが、 わたしはあなたを永遠の誇り、 代々の喜びに変える。 あなたは国々の乳を吸い、王たちの乳房を吸う。 あなたは、わたしが、あなたを救う者、 あなたを贖う者、 ヤコブの力強き者であることを知る。 わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、 鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、 石の代わりに鉄を運び入れ、 平和をあなたの管理者とし、 正義をあなたの監督者とする。 あなたの国には暴虐はもう聞かれず、 あなたの領土には暴行と破滅は聞かれない。 あなたは、あなたの城壁を救いと呼び、 あなたの門を賛美と呼ぶ。 太陽はもはや、あなたの昼の光とはならず、 月の明かりもあなたを照らさない。 があなたの永遠の光となり、 あなたの神があなたの輝きとなる。 あなたの太陽はもう沈むことがなく、 あなたの月は陰ることがない。 があなたの永遠の光となり、 あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。 あなたの民はみな正しい者となり、 永遠にその地を所有する。 彼らは栄光を現す、わたしが植えた枝。 わたしの手で造ったもの。 最も小さい者も軍団となり、 最も弱い者も強国となる。 わたしは。 時が来れば、速やかにそれをする。」(イザヤ 60:14–22)

要するに、この世の常識をひっくり返すような救いです。弱者を圧制したこの世のエリートが、強者に押しつぶされた神の民に仕え、神の民は神様とともに栄光と光を一方的に受ける、という「救い」です。イエス様を自分の主として告白するすべてのものには、「イスラエル人」であっても、「異邦人」であっても、この想像を絶する栄光を受けることを持ち望むことができるのです。赤ん坊のイエス様がこの救いをもたらす慰め主であることを聞いたヨセフとマリアは、シメオンの話に非常に驚きました。

今日は、本日の箇所を通して、クリスマスが表す「神様の救い」の驚くべき二つの事実をみなさんに覚えていただきたいと思います。最初の驚きの事実は、「クリスマスが約束する救いは、21世紀の最先端技術や、世界の最も強い超大国の権力、また、最も影響力のある有名人や宗教など この世がもたらすことのできない最強の救いだということです。

例えば、もしある国がコロナを完全に無くす方法––つまり、コロナからの「救い」––を見つけたとしても、その国は、すべての人にその救いを惜しげもなく、差別もなく、分かち合える力があるのでしょうか?その国がどれほど裕福であっても、どれほど権力をもっていても、どれほど寛容な国であっても、すべての人にその「救い」を提供することはできないでしょう。むしろ、自分たちの国民、そして、国の味方をまず優先して、お金を払えないような国や、敵国を後回しにするはずです。なぜなら、人間の財産、権力、人力、寛容さなどには限界があるので、私たちはすべての人に救いを与えることはできません。しかし、クリスマスが約束する救いは、限られている人だけにではなく、すべての人に与えられます。神様を忠実に愛する者を優先するのではなく、不忠実で遊女のようなイスラエルであっても、凶暴で偶像崇拝していた異邦人であっても、お金や税金を払えない人であっても、暗闇の中で苦しんでいる人たちであっても、だれも知らないところでとんでもない罪を犯していたとしても、どんな年齢、人種、国籍、社会的地位、育ちであっても、神様は差別することなくすべての人に救いをお与えになるのです。そして、少し考えてみれば、だれでも聞くことができる公な福音、また、だれでもあずかることができる救いは、この世界に存在しない完全に無償な救いであることがわかると思います。そのような「救い」はこの世界に存在するでしょうか?

そして、この救いが「すべての人に、無償で」与えられるという理由は、その救い自体が「安物」だからではありません。むしろ、暗闇の中で苦しんでいる人たちを救い出し、暗闇の中で不正を行っている人たちを正し、イエス様を信じるすべての人の「苦しみと悲惨」を、「神の栄光」に変えられるような救いは、現実的に考えるとあまりにもうますぎる話なので、だれも手に入れることができない救いだと思えてしまうのです。しかし、神様はなぜすべての人が求める救いを、無償でお与えになることができるのでしょうか?限界のない救い主にとって、「不足」ということばは存在しません。ですから、経済学の「希少性」に縛られていない、無限の神様は、その想像を絶する救いを無償ですべての人に与えることができるのです。私たちは、神様の計り知れない力に気づいているでしょうか。

二つ目の驚きの事実は、「クリスマスの救いは、すべての人を救う一人の王様によるものである」ということです。クリスマスが約束する救いとは、この世界に存在しない力をお持ちである、たった一人の王様––しかも産まれたての赤ん坊––が、だれからも何の助けもなく一人で背負われ、自分自身の力で獲得してくださったものなのです。これは想像を絶する事実です。最も権力のある政治家、最も裕福なビジネスマン、最も才能のある科学者であっても、だれ一人、自分一人で獲得することはできないのです。しかし、イエス様はお一人で、イエス様を信じるすべての人の罪の負債を背負い、すべての人の罪の罰を十字架で受け、すべての人のために復活し、すべての人のために天に昇り、すべての人のために永遠のいのちと栄光を獲得してくださったのです。驚くべき事実は、これほど力のある救いが、一人の王様によってもたらされたということです。

ですから、クリスマスの意味は、老若男女問わず、貧しいやもめから裕福な王と王妃(おうひ)たちにいたるまで、「救い」を求めるすべての人が、この「イエス・キリスト」という王様の下に集まり、その救いを期待することです(参照:イザヤ49:22-23)。私たちが集まり、他の人たちをイエス様へと導く理由は、イエス・キリストという王様の愛、恵み、力、赦し、栄光、救いが絶対に尽きないからです。どんなに沢山集まっても、どれほど傷ついている人でも、どれほど罪深い人でも、どれほどみじめな人でも、どれほど傲慢で裕福な人でも、「神の救い」が不足することは全くありません。イエス様はそれほど力強いお方です。尽きることのない神の救いは、すべての人に無償で与えられます。今年のクリスマスも、力強いイエス様を待ち望む者は恥を見ることがないということを思い出し、イエス様を褒めたたえましょう。お祈りします。