2022年6月5日礼拝 音声有 説教「罪が増し加われば…」

*第二礼拝場(アパホテル)で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: at APA Hotel space (Site 2) and shared via ZOOM.

English summary of the sermon each week, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前 奏   Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌 130番 「ひとりの御子さえ」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書55章6〜7節
罪の告白の祈り Prayer of Confession
 個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing of the Peace
賛美 Praise  教会福音讃美歌 302番 1〜3節 「誰より深く罪に汚れた」
みことばの宣教 Proclamation of the Word
 聖書朗読      創世記 12章10〜20節 Genesis 12:10-20
 聖書の話  「罪が増し加われば…」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise  教会福音讃美歌 359番 「私の望みは主イェスだけにある」
聖晩餐式 Communion     司式 マーク・ボカネグラ牧師
献 金  Offering
報 告  Announcements
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 Benediction (Blessing)                       マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen   讃美歌567番[V] 「アーメン・アーメン・アアアアーメン」

 

説教原稿 創世記12章10〜20節 「罪が増し加われば…」

最近、娘たちがピアノを始めたんですが、妻とキーボードについていろいろ話し合った中で、今では笑い話ですが、小学校5年生のときの恥ずかしい大失敗を思い出しました。それは、私がピアノを習い始めて2年目のことでした。毎年、自分の小学校の音楽のクラスで、自分たちが練習している一曲をクラスメイトに披露する時間がありました。私はそれまで楽器が弾けなかったので、小学校4年生までは何も披露しませんでした。しかし、ピアノを習い始めたし、自分の上達ぶりを見せたかったので、私は頑張って「ウィリアム・テル」という曲を毎日練習しました。有名な曲なので皆さんもよくご存知だと思います。簡単な曲なのですがすごく速い曲で、親指で同じキーを連打するところが何回も出て来るので、それをみんなに見せたかったのです。父が買ってくれたキーボードで練習しながら、自分の親指が痛くなるぐらい練習したことを覚えています。そして、曲を披露する日が来ました。クラスメイトのアルジュンくんが弾き終わって、自分の番が来ました。私はピアノの前に座り、深呼吸をして、毎日練習していたように弾き始めました。練習と同じように親指ですばやく連打しようと思ったら、「あれ?」と思いました。音が全く出てこなかったのです。2回、3回、4回とやってみても音が全く出なかったので、振り返って、先生に「先生、このピアノ壊れてます。やめてもいいですか」と聞きました。先生は「いいえ、そんなことはありません。さっきアルジュンくんが弾いたでしょ。最後まで曲を弾いてください」と言いました。大人になってわかったのですが、私はキーボードで練習していてわからなかったのですが、本当のピアノはもっと強く押す必要があったのです。ですから、私がどんなに熱心にキーボードの感覚で連打しても、弱々しい音しか出ませんでした。今では笑えますが、その大失敗が恥ずかしかったし、自分が思い描いた成長曲線のようにはならなかったので、ピアノはやめてしまいました。

私たちが何か始めるとき、もしくはクリスチャンとして歩み始めるとき、私たちは綺麗な成長曲線を思い描かないでしょうか?もちろん、3歩進んで2歩下がるような曲線になるかもしれませんが、著しく前進することは私たちが望むことです。しかし、過去の成長が全部帳消しになったり、始めの時よりも悪い状態になるような、立ち直ることができないほどの大失敗をしてしまうと、前進する気力はなくなってしまいます。むしろ、自分の無力さや状況の難しさ、取り返しがつかないような失敗を見て、完全にあきらめてしまうときもあります。もしかしたら、今、そのような状況に置かれていらっしゃるかもしれませんし、今、そう感じていなくても、そのような時が来ることがあるかもしれません。

 

本日の箇所は、期待外れの苦難や取返しのつかない失敗について記されています。アブラムは、神様を信じ従い始めて間もなく、試練の激しさに追われ、アブラム自身の不信仰と罪によって大失敗をしてしまいます。私の小学生のころのようなかわいい失敗ではなく、アブラムの信仰、信頼性、人柄を疑うような醜い大失敗です。しかし、アブラムの大失敗によって、神様の恵みが明らかになります。アブラムの罪が増し加われば、神様の恵みも増し加わる(ローマ5:20)ということが明らかになります。本日の箇所の流れを確認した後で、皆さんに今週覚えていただきたいことを三つ分かち合いたいと思います。

 

神様は想像を超えた、現実的に不可能な約束をアブラムにお与えになりました。アブラムとサライは子供がいない老夫婦でした。神様に従っていなかった偶像崇拝者でした。そして、故郷もない寄留者たちでした。しかし、アブラムとサライの間に生まれる子孫が「王」になること、2人がすべての国々を治める「王国」の「父と母」になること、そして、永遠の安息と平安を経験できる「約束の地」を神様は約束されました。そして、アブラム家は信仰を持って、神様の約束を信じ、約束の地へ向かい始めました。

しかし、約束の地に着きはしましたが、現実はその約束からほど遠いものでした。大都市ハランでの安定した「一軒家生活」を手放して、アブラムは王として「大いなる名」を神様から頂くことを期待していましたが、約束の地についても、何もない田舎を旅しながら不安定な「天幕生活」をしいられました。アブラムとサライは、国々を支配し、「国民」を治めるようになるという約束が与えられていましたが、カナン人の力を恐れて都市から離れた「山の方」で天幕を張らなければなりませんでした。そして、安息と平安の「約束の地」を約束されていたのに、土地さえも与えられませんでした。「どこに行くのかを知らず」に、不安を抱き、苦労しながら「他国人」のようにさまよっていたのです(ヘブル11:8-9参照)。そのように難しい状況であっても、アブラム家は信仰と希望をもって歩み続けました。神様の祭壇を築き、主の御名を呼び求め、神様を礼拝しました。自分たちの苦難と喪失感の中でも、神様の将来のご支配と圧倒的な勝利を宣言したのです。つまり、「現実離れした神様の約束であっても、神様が約束されるなら、私たちは待ち望み続けます」とアブラムは決心したのです。私たちはこの箇所を読んで、「何と綺麗な右肩上がりの成長曲線でしょう。私もそうなりたい。むしろ、クリスチャンはそうなるべきだ」と期待するかもしれません。しかし、創世記を読み進めると、そのような曲線は存在しないということがはっきりわかります。

苦難と喪失感の中でアブラム家が素晴らしい信仰告白をした後でも、さらに悪化した苦難と喪失感が容赦なくアブラム家を襲います。カナンで飢饉が起こりました。ただの飢饉ではなく、非常に激しい飢饉でしたそれまでのアブラム家のつらい試練を読み続ける中で、また「激しい飢饉」ということばを見ると、ついため息が出てきます。アブラム家は、次々と、激しい試練を受けていました。苦難のオンパレードでした。

ですから、彼らの苦難の激しさを考えると、「アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った」(12:10)ということばにあまり、違和感を感じません。しかし、よく読んでください。ここには、身を守るために、家族を養うために、エジプトに「一時的に避難した」とは書いてありません。「エジプトにしばらく滞在するため」と書いてあります。つまり、アブラムとサライは、飢饉に覆われた、自分達の居場所のない荒野の約束の地に住むことをあきらめ、ナイル川に近い、富んでいるエジプトにしばらく住むことを選んだのです。「もういい。これは思った以上につらい。ギブアップだ」ということです。神様がアブラム家に約束を与えられた7節後に、アブラム家は白旗を振って、神様の約束を待ち望むことをあきらめているのです。私たちはアブラム家の信仰をすぐにさばいて見下したいような気持ちが起こるかもしれませんが、彼らは私たちよりも何百倍もの苦難を受けていたのです。しかし、たとえ、どんなに激しい試練があったとしても、アブラムとサライが不信仰に陥ったことには変わりありません。彼らは、安定した試練のない道を選ぶために神様の約束をあきらめて、エジプトへ向かったのです。

しかし、アブラムとサライの試練は悪化します。サライは非常に美しい人でした。(当時、65歳でしたがサライは127歳に亡くなったので、80歳の寿命で言い換えると、30代後半-40代前半とも言えます。)彼らが、カナンに寄留していたころは、アブラムが殺されたり、美しいサライがさらわれたりする恐れはありませんでしたが、エジプトでは全然あり得る話でした。エジプトは富んでいる国でしたが、アブラムはエジプト人の残酷さを知っていました。ですから、アブラムは、自分の身を守るために、また、サライと、自分たちの結婚関係を守るために、自分の知恵によってある計画、あるウソを考えました。ここには、はっきり書いてありませんが、もしアブラムがサライの兄だったら、サライと結婚したいエジプト人はアブラムを殺さず、むしろ、サライと結婚するためにアブラムと交渉し説得しようとしたでしょう。アブラムはサライの兄のふりをしながら、エジプト人のアプローチをかわして、自分たちを守ることができる、という計画でした。普通に考えれば、知恵のある計画だと思います。サライも強制的にではなく、計画に同意したというふうに捉えることができます。そして実際に、アブラムの思惑(おもわく)通りにすべての事が起きました。エジプト人はサライの美しさを見て、サライを自分たちの嫁にしようと思ったので、アブラムとサライのいのちは守られました。ですから、アブラムとサライの恐れは間違いではなかったし、むしろ、自分と妻のいのちを守るということは倫理的にも良いことだし、愛のあらわれでもあったと言えます。しかし、アブラムとサライの動機がどうあれ、2人の動機や恐れ、計画の根っこにあるのは、「神様が存在しておられたとしても、今まで私たちを守ってくださらなかったし、今も守ってくださらない。だから、自分を守るのは自分しかいない」という考え方でした。彼らは主の御名を呼び求めませんでした。神様のために祭壇も築きませんでした。神様の約束により頼むこともしませんでした。彼らの計画が神様の手段や御心を無視して、自分たちの罪と不信仰によるものであったとしても、自分たちで解決して、自分たちで何とかしようとしたのです。

しかし、この世界はそんなに単純ではありませんし、そう簡単に自分の環境を操ることはできません。アブラムにとって、予想外の展開がありました。エジプトの王であるファラオの高官たちがサライを見て、ファラオに彼女を薦めたのです。そして、ファラオはサライを「宮廷に召し入れた」(12:15)のです。つまり、ファラオはサライを自分の妻にし、自分のハーレムに加えたかったのです。アブラムは一般のエジプト人たちをサライの兄として断ることはできたとしても、エジプトの王、エジプトの神、エジプトの最高権力者の要請を断ることはできません。それはお願いではなく、命令でした。その結果、ファラオは、サライを妻にするために、「羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだ」(12:16)という持参金をアブラムに支払いました。ある人は、アブラムとサライの関係は守られ、ファラオとサライは夫婦関係を持たなかったと解釈する人もいます。しかし、普通に考えれば、ファラオの目にとまるほど美しいサライを、ばく大なお金で買って、ただサライの美しさを「見る」だけと言うのは考えにくいことです。創世記20章には、似たような出来事が起こります。その箇所では、同じような流れでサライはアビメレクという王の妻になりそうになりましたが、 アビメレクは、「まだ彼女に近づいていない」(創世記20:4)時にサライをアブラムに返しました。しかし、残念ながら、本日の箇所には、そのような表現はありません。本当に気の毒で、悲惨な展開になってしまいました。聖書に書いてある罪の「おどろおどろしさ」を久しぶりに感じました。

しかし、皮肉なことには、アブラムとサライが望んでいたことは手に入れることができました。荒野でのつらい寄留生活も終わり、アブラムとサライのいのちも守られました。彼らは、エジプトで心地いい生活を確保することができましたし、エジプトの王家との深い繋がりや、ばく大な財産も得ることができました。この世から見ると、アブラムの計画は大成功だったとも言えます。しかし、アブラムの不信仰、罪、そして、甘い考えによって、よその男性に強引に妻を取られてしまいました。アブラムの詐欺によって、サライは姦淫の関係に陥りました。そして、サライは妻として愛されたのではなく、ただの「商品」として扱われたことになるのです。自分たちの行為を後悔したとしても、取り返しは付きません。アブラムとサライが「やっぱり神様の約束を待ち望みたい!」と思ったとしても、自分たちの不信仰によってその道は完璧に閉ざされてしまいました。このままではアブラムとサライは物理的に子どもを産むこともできませんし、権力のない寄留者アブラムは最高権力者のファラオからサライを取り戻して約束の地へ帰ることもできませんでした。

要するに、神様が私たちを自分たちの罪に「引き渡されること」(ローマ1:28)とはこういうことなのです。アブラムとサライはエジプトでの安定や幸せ、苦難からの救いを望んでいましたが、最終的にはそれらすべてによって裏切られたのです。結局、自分たちが望む「罪の報酬」は、自分に害を与えること、自分の救いの道を閉ざすこと、神様が与えようとされる「恵みの報酬」を台無しにすることです。アブラムは富に囲まれたとしても、自分の大失敗に気づき、後悔の念にかられていたかもしれません。しかし、アブラムが後悔したとしても、どうしようもできないのです。エジプトで囚われていたアブラムは、何をしても逃げることができずに奴隷として囚われていたイスラエルのひな型とも言えます。

しかし、本日のポイントは自分たちの罪の悲惨さを知ることではありません。罪が増し加われば、神様の恵みが増し加わるということです。もし囚われたアブラムとサライが、囚われたイスラエルのひな型であるなら、創世記12:17-20は出エジプトの救いのひな型でもあるのです。たとえアブラムが自分の妻を守ることができなかったとしても、また、神様の約束を信じ切ることができなくても、神様は誠実に約束を守られ、2人を力強く救ってくださいました。たったの1節で、神様は「アブラムの妻サライのこと」(12:17)で、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれ、最高権力者のファラオがパニック状態に陥って、アブラムとサライに「なぜ、このような罪を犯したのか?」と訴えます。しかし、アブラムとサライは自己弁護せずに、ファラオを騙したことを沈黙によって罪を認めます。そして、ファラオとアブラムの立場が大逆転します。ファラオを騙したにもかかわらず、アブラムは処刑されず、ファラオはアブラムを恐れ、サライをすぐに返し、与えた莫大な持参金を取り返すこともしないで、彼らのためにエスコートも与え、エジプトから出ていくように丁重に送り出したのです。つまり、神様が12:3の約束を守られたのです。「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、 あなたを呪う者をのろう。 」アブラムとサライはみことばを聞いて、神様にすぐに立ち戻らなかったとしても、神様の約束を守り続けました。絶体絶命の状態から、たった一瞬で神様は、海を切り開かれたかのようにアブラムとサライに「神様の約束の地」への道を与えてくださったのです。

 

ですから、この短い箇所から今週覚えていただきたい三つの質問があります。まず、一つ目。激しい試練が罪を生み出したのか、それとも、自分の激しい欲が罪を生み出したのか?

アブラムとサライの厳しい試練を聞いたり、自分が厳しい試練にあったとき、神様や周りの人にこう訴えることがあるかもしれません。「厳しい試練にあったから私は罪を犯したのだ。神様が試練を与えなかったら、私はこんな罪を犯さなかったはずだ。」と。しかし、ヤコブ1:13-15にこう書いてあります。

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。 人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。 そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ1:13–15)

つまり、試練は、ただ私たちの心に潜んでいる罪深い欲を見えるようにするだけなのです。ファラオはアブラムとサライを責めた時、言い訳したり、試練の激しさや神様のせいにしませんでした。アブラムとサライは神様の約束の成就よりも、「安定した生活」を欲しがっていました。しかし、そういうものを欲しがることによって、自分たちが望んでいたものは与えられましたが、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生んで」(ヤコブ1:15)しまったのです。私たちはどうでしょうか?激しい試練によって自分の罪を生み出したのでしょうか。それとも、自分の激しい欲が罪を生み出したのでしょうか?

次に覚えていただきたい質問はこれです。厳しい試練が自分の幸せの妨げになっているのか、または、自分の罪と不信仰が自分の幸せの妨げになっているのか、どちらだと思いますか?

ちょっとした意地悪な質問かもしれませんが、答えはどちらも妨げにはなっていません。アブラムとサライは、最初、神様の約束による厳しい試練は、自分たちの幸せをもたらさないと思い、エジプトにしばらく滞在することを選んで、神様の恵みに期待することをあきらめました。そして、自分たちの判断が間違っていたことを悔いて、もう救われることもないとあきらめてしまいました。しかし、どちらが起こったとしても、神様の恵みはすべてを圧倒し、どのような障害物があってもアブラムとサライをエジプトから救い出されました。そして、彼らがどれほどの傷を受けたとしても、また、どんな罪を犯したとしても、最終的に、神様は2人を「祝福された」存在に変えてくださったのです。しかし、これは簡単な魔法をかけて解決するものではありません。神様は、ご自分の愛する子を十字架にかからせて、アブラムとサライの罪を赦し、イエス様の血によって祝福することを計画しておられたからなのです。

イエス様の十字架を見た弟子たちも、私たちも全く同じでした。イエス様が背負ってくださった十字架を見て、弟子たちのように十字架という厳しい試練を見て、私たちは恐れにとらわれ逃げ出しました。弟子たち、特にペテロのように、私たちは、イエス様を裏切ったことやとんでもない罪を犯したことを深く悔い、自分は救いようがないと思い、信仰の道をあきらめたいときがあります。しかし、弟子たちが不信仰によって試練から逃げたことがイエス様の復活の妨げになったのでしょうか?それとも、弟子たちの深い悔いと悲しみが永遠のいのちの妨げになったのでしょうか?とんでもないです。私たちの罪が増し加われば加わるほど、イエス様の力強い恵みも増し加わるのです!なぜなら、私たちのためにイエス様が死んでくださったからなのです!

最後に覚えていただきたい質問はこれです。自分の罪の深さを知ると、悔いる気持ちが増すだけでしょうか、それとも、キリストにあるより深い恵を大いに喜ぶでしょうか。どちらでしょう。

アブラムとサライは、この創世記12章の出来事を恥じて自分たちの悲しみに浸っていたでしょうか?サマリアの女が複数の男と関係を持っていたことをイエス様に指摘され、彼女はさらに悲しんだでしょうか?イエス様がからだを売って水商売している女を「罪深い女」と呼んだとき、彼女は落ち込んだでしょうか?3回もイエス様を裏切ったペテロに、イエス様が「あなたは私を愛していますか?」と3回続けて聞かれたとき、ペテロは神様の約束をあきらめたでしょうか?パウロが何人もの兄弟姉妹を自分の企みで殺してしまったことを思い出して、礼拝できなくなったでしょうか?とんでもありません。すべてのクリスチャンが自分の罪を知れば知るほど、もっと神様をほめたたえるようになるのです。パウロはこういいます。

私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(1テモテ1:13-17)

パウロと同じように、私たちも自分の罪をより深く知って、イエス様の犠牲に感謝し、御名をほめたたえましょう。