2022年1月2日礼拝 音声有 説教「『めぐみ』とは?」

*通常の会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信の予定です。This service will be held in person at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

 

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉    ローマ人への手紙 5章20〜21節
さ ん び 「心に感謝を持ちながら I Will Enter His Gates」
さ ん び 「驚くばかりの〜罪とがを自由にされて Amazing Grace (My chains are gone)」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌  130番 「ひとりの御子さえ」
聖書朗読 ルカの福音書 18章9〜14節
聖書の話      「『めぐみ』とは?」   マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌  359番 「私の望みは主イェスだけにある」
契約の子ども祝福の祈り    マーク・ボカネグラ牧師
献   金
報   告
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷     マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアーメン」

海外宣教師のための祈り

 

説教(聖書の話)  「『めぐみ』とは?

 

あっという間に1年が過ぎ、新しい一年に入りました。海浜幕張めぐみ教会としての新しい一年ですが、教会として変化の時期でもあります。2021年は新しい牧師、新しい伝道師、新しい長老、新しい教会員が与えられ、新しい礼拝場も試しました。そして、2022年には新しい宣教師が教会に5人加わる予定ですし、総会で新しい執事も推薦されることになりますし、2022年の新しい計画が発表されます。皆さんの2022年はどういうものになるでしょうか?この2022年の活動を始める前に、海浜幕張めぐみ教会の「ルーツ」とも言える聖書の「ルーツ」に戻りたいと思います。つまり、めぐみ教会の「めぐみ」とは何なのかをこの新年礼拝で思いめぐらし、この1年のために私たちの「心」を整えたいと考えています。

皆さんにとって、「めぐみ」または「Grace」とは何でしょうか?具体的にどういうことを指しているのでしょうか?クリスチャンが言う「めぐみ」と一般社会が言う「めぐみ」の違いは何でしょうか?聖書が言う「めぐみ」は私たちをどんな気持ちにさせるものでしょうか?喜びを与えるものでしょうか?悲しみや、混乱や、驚きでしょうか?また、私たちがその「めぐみ」をより深く理解するなら、私たちの歩みはどのように変わるのでしょうか。私たちの人間関係はどう変わるのでしょうか。私たちの教会の「あり方」や「雰囲気」はどういうものになるでしょうか。

本日の箇所は、「めぐみ」の意味を最も明確に描写している箇所だと私は思います。ですから、この「めぐみ」を思いめぐらしながら、皆さんと一緒に2022年の歩みについて考えたいと思います。

このたとえは、ルカの福音書という書物の中にあるのですが、そこには主に、イエス様が全人類に語られた「めぐみ」について書かれています。そして、イエス様はそれらをまとめて次のようにおっしゃいます。「この霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。」(ルカ4:18)つまり、「めぐみ」とは、「貧しい人々」に語られる「良い知らせ」、「福音」のことだと言えます。皆さんは、そう聞くと「そうか。めぐみは、貧しい人の福音なんだ。いいね」と思うかもしれませんが、ルカの福音書を読むと、この「良い知らせ」は私たちの世界観をひっくり返すような、また、私たちの価値観を完全にくつがえすような、私たちに驚きと混乱を与える良い知らせだということが分かります。ルカの福音書の中には、イエス様の「良い知らせ」を聞いて驚かなかった人はいません。ですから、聖書の「めぐみ」に驚いたことがないなら、ある意味、聖書の「めぐみ」に触れたことがまだないのかもしれません。

なぜ人々は、イエス様が語られた「めぐみ」、「良い知らせ」に驚いたのでしょうか?それは、人々が考えていた「貧しい人」と「良い知らせ」のイメージが、イエス様が語られたこととは、全く正反対のことだったからです。なぜ人々は驚いたのでしょう。二つのことが言えると思います。

一つは、その当時「貧しい人」とは、ローマ帝国に支配されたユダヤ人だと思われていましたが、イエス様はユダヤ人ではない人々に「良い知らせ」を語られたということです。もう一つは、「貧しい人」のイメージは、神様に忍耐強く仕える「義人」というイメージだったのですが、イエス様は「義人」にではなく、「罪人」に良い知らせを語られたということです。

どんな宗教やどんな文化の中でも、頑張っている人、忍耐強い人、努力する人たちは、どんなにつらい状況を通らされていたとしても報われる、という考え方があると思います。聖書のことばで言い換えるなら、「義を行う人」は報われるという考え方で、神様に忍耐強く仕えている人たちが「貧しい人」だというイメージだったのですが、イエス様はなぜか、神様に忍耐強く仕えている人たちにではなく、神様に背いていた罪人にだけ「良い知らせ」を語られたのです。これもびっくり仰天です。

現代の私たちの感覚に言い換えますと、イエス様はこうおっしゃっているのです。「神様のめぐみはこういうことです。椅子にきちんと座って先生の話を聞いて、宿題を全部やるようなまじめな子供が報われるのではなく、教室でいつも騒いでいて、先生の話を全く無視し、宿題を全然やらないような問題児が報われます。高一から毎日塾に通って、親の負担にならないようにバイトもし、みんなに好かれるクラス委員長になり、偏差値77をとって努力と実力で東大・京大に受かるような学生が報われるのではなく、一切勉強しないで、教室にも行かずに学校の裏で酒を飲んだりたばこを吸ったりして、試験さえも受けないような学生が報われる。上司にも、同期や後輩にも好かれ、会社と自分のチームのために喜んで何時間もサービス残業をして実績を残すような常にポジティブな会社員が報われるのではなく、ノルマも達成していないのに早く帰ってしまい、他の会社員とは一切話しもしないし、助けもしないような、最悪の会社員が報われる。お迎えに遅れることもなく、決まりも全部守り、子どもたちもよくしつけていて、お弁当も美味しく栄養たっぷりで、忘れ物も全くないような幼稚園ママやパパが報われず、何もできていない幼稚園ママやパパが報われる。毎週の礼拝に遅刻せず参加し、説教のメモもびっしりとノートに書いて、毎日のデボーションを守り、いろんな奉仕をし、惜しげもなく献金するような人が報われず、礼拝にも来ないし、聖書も読まないような麻薬中毒と戦っているような人が報われる。」このような衝撃的な「良い知らせ」です。聖書の「めぐみ」は、あなたが考えているような「めぐみ」に価する人は報われず、あなたが考えているような「めぐみ」に価しない人が報われる、ということなのです。こんな「めぐみ」に驚かない人はいないでしょう。

ルカの福音書を読んでいると、「じゃあ、良い知らせを受ける「貧しい人」って、そもそも、どういう人なの?」という疑問が出てくると思います。ルカ18:9-19:27は、いろんなたとえや奇跡を通して、どのような人に「良い知らせ」が宣べ伝えられるのかが紹介されています。そして、本日の聖書箇所が最初のたとえです。パリサイ人と取税人を比較する非常にシンプルなたとえですが、驚きと混乱を与えるようなたとえです。そして、「めぐみ」の意味が明確に分かるたとえだと思います。

 

最初に覚えていただきたいことは、「イエス様が『めぐみ』をお与えにならない人とは、心の中で自分が『義』に富んでいると思い、『義』に乏しい人を見下すような人です」ということです。

「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。」(ルカ18:9)つまり、たとえの中のパリサイ人は、「自分は正しい、取税人は正しくない」と心の中で思っていたので、神様はこのパリサイ人に「めぐみ」を、お与えにならなかったということです。

「パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』」 (ルカ 18:11-12)

これを読むと、この祈りは、ある意味、自然で、良い祈りだと言えます。まず、神様が忌み嫌う罪を指摘し、みことばに従い、その罪から遠ざかろうとしていることは良いことです。そして、断食して神様に祈ること、惜しげもなく神様に献金していることも良いことです。また、声出して人をさばいているわけでもないし、むしろ、心の中で自分が義を行うことができることを神様に感謝しています。しかし、どれほど私たちが心の中で良い祈りをささげたとしても、他の人よりも良い行いをしたとしても、他の人よりも良い神学を持っているとしても、神様はそれらをすべて見通しておられ、私たちの心をご覧になれます。私たちが自分の「義」を信じ、自分が正しいと確信し、自分が「義」に富んでいると誇りながら、「義」に乏しい、罪深い「貧しい人」を見下していることを、神様はご存知です。

しかし、パリサイ人は良いことをしているのに、なぜ誇ってはいけないのでしょうか?イエス様はパリサイ人が一般の人よりも「義」を行っていて、「義」の偏差値が高かったということを認めておられます。しかし、偏差値の基本原則は、他の人と比較して自分を評価することです。例えば、100点満点のテストで、70点合格というテストがあれば、平均点が3点で、クラスのみんなが0-2点しか取っていなかったら、パリサイ人は10点取っていれば、その偏差値はすごく高くなります。(シミュレーションをやってみれば、偏差値79ぐらいですね。)

しかし、パリサイ人はそもそも合格していませんし、変に誇っているのです。自分の義を誇り、他の人の罪を見下すことは、神様の基準を軽んじ、神様に対する罪を過小評価することになるのです。つまり、イエス様は、パリサイ人が神様よりも周りの人を見て自分と比べ、神様の御前で高ぶってしまっているということを指摘されたのです。

気をつけなければいけませんが、クリスチャンは時々、「ああ、パリサイ人は本当に傲慢な奴だな。神様、私がパリサイ人のようでないことを感謝します」と心の中で呟いてしまうことがあります。そのようなとき、私たちは、パリサイ人と同じことをしているんですね。私たちはパリサイ人のように「断食」や「献金」をしていなくても、他のものと取り替えて、自分の「義」に対して誇り、その「義」をもっていない人たちを見下すことはないでしょうか。人間の「義」には、いろいろな形があります。自分の仕事からくる「義」、自分の家族からくる「義」、神学と道徳と情熱からくる「義」、知識とステータスからくる「義」、時間とお金の管理からくる「義」、自分の謙遜さと柔軟性からくる「義」、あわれみや寛容さからくる「義」などがあります。そして、自分と「他の罪人」の間に線を引くことがパリサイ人の基本的な心の姿勢です。つまり、「わたしはそのような人とは違う」と見下す人なのです。

しかし、パリサイ人の最も巧妙なことは、感謝をしながら、謙遜な言い方で、自分と他の人の間に線を引いていることを 心の中で隠していることと、自覚していないことです。私たちが自分の高慢さをことばや態度に出さないで、表面的に謙遜に見せかけたとしても、心の中でそう思っているとしたら、イエス様は、その全てをご存知です。ですから、自分は「義」に富んでいると思い込んで、「義」に乏しい人を見下す人に、イエス様が「良い知らせ」を語られないことは、驚きではありますが、神様にあってはもっともなことと言えます。

 

それでは、イエス様はどのような人たちに「めぐみ」を語られるのでしょうか?次に覚えていただきたいことは、「イエス様が『めぐみ』をお与えになる人は、自分の『義』の乏しさを悲しみ、神様に『めぐみ』を大胆に懇願する人である」ということです。

パリサイ人と違って、取税人はこうします。

「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』」(ルカ 18:13)

取税人の特徴はいくつかあります。①パリサイ人と違って、取税人は神様と自分の罪だけを見ています。偏差値も、平均点も見ていません。神様の御前では、「自分は義人ではない。自分はとんでもない罪人で完全に0点だ」と正直に告白します。②次に、パリサイ人と違って、取税人は自己弁護もせず、言い訳もせず、きれいごとも言わずに、「目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」、人前ではなく神様の御前で、深く、心から、自分の罪を見て悲しみました。それは、人に迷惑をかけた時にするような単なる後悔ではなく、神様に対してとんでもない罪を犯したというその罪を憎んで、悲しんだのです。③神様に対して交換条件を提案しないで、自分に値しない「救い」を大胆に、物乞いのように、ただ神様のあわれみにより頼み、懇願しました。④パリサイ人のように心の中で祈ったのではなく、公に、口で告白しました。

つまり、「めぐみ」を求める人は、「義に富んでいる人」ではなく、「義に乏しい人」なのです。はっきり言いますが、「めぐみ」は、何年間の努力の蓄積の結果である金メダリストの表彰式のような、綺麗で感動する光景ではありません。「めぐみ」をいただくことはかなり醜い光景です。自分のどうしようもなさ、自分の醜さ、自分の汚れを深く悲しみ、ぼろぼろになった物乞いのように、恥を捨て、手には何も持たず、ただただ神様に「金メダルをくれー」と、涙と鼻水をたらしながら懇願することです。全く美しくなく、ありえないほど、カッコ悪い、醜い光景なのです。忘れたくないのは、私たち海浜幕張めぐみ教会は、「義に富んでいる人」の集まりではなく、「義に乏しい」、カッコ悪くて、惨めな「貧しい人」たちの集まりだということです。そして、パリサイ人のような間違いを毎日犯していたとしても、パリサイ人になる必要はありません。自分の傲慢さに捕らわれている自分の罪深さに対して悲しみ、神様に「私を私の汚くて、醜いプライドから救ってください!」と嘆くだけで、イエス様があなたを受け入れてくださいます。

ですから、パリサイ人のように、教会では無理にカッコつける必要もありませんし、無理に自分のプライドを守る必要もありません。聖書からのきれいごとを言う必要もありませんし、良い行いで自分の罪を隠す必要もありません。「めぐみ」を求める教会は、人をさばく権利も持たず、自分たちの罪を公に告白し、神様 に「あわれみ」を懇願する、ぼろぼろになった、カッコ悪い集団です。このスピリットは、初めてイエス様により頼んだ時の一瞬のことではなく、クリスチャンの一生涯のことなのです。ですから、私たちは2022年の始めにあたって、いろいろと考えるかもしれませんが、自分たちのあり方を忘れていけません。めぐみ教会は、「義」に富んでいる者の集まりではなく、「義」に乏しい罪人の集まりなのです。

そして、最後に覚えていただきたいことは、イエス様の結論です。それは、「自分の義の『乏しさ』を悲しんで、あわれみを求めた人が『義と認められて家に帰った』 」ということです(ルカ18:14)。

この結論に違和感を感じる人はあまりいないでしょう。お金の話で例えると、「自分の貧しさを悲しんで、あわれみを求めた物乞いが「金持ちと認められ」家に帰った」ということです。お金のない人が、どのように「金持ち」と認められるのでしょうか?義のない取税人、奪い取る者、不正な者、姦淫する者がどのように「義」と認められるのでしょうか。ここでは、イエス様は答えておられません。しかし、貧しい人が「金持ち」として認められる方法は、一つしかありません。それは、神様が「お金」を一方的に与えることです。同じように、義のない罪人として認められる方法は、一つしかありません。神様がその「義」を一方的にお与えになるということです。

ですから、聖書がいう「めぐみ」とは、神様から与えられる単なるこの世の幸せのことではありません。具体的に言いますと、私たちが神様に認められ、愛され、祝福されるために、神様ご自身の完璧な「義」を与えてくださることです(ローマ10:4参照)。そして、人間になられたイエス様が私たちに必要な「義」を、私たちに転嫁してくださったのです。つまり、「あわれみ」を求めた、義に乏しい罪人に、神様が一方的に義を与えてくださったのです。ですから、罪人は何もしないで、無償で、「義と認められた」者として家に帰ることができるのです。

皆さんにお聞きしますが、このように「義と認められた」罪人は誇ることができるでしょうか?それは全くできません。なぜなら、私たちは自分たちの義で、義と認められたのではなく、イエス様が一方的に下さった義によって、義と認められたからです。もし1-2点とった教会の皆さんにイエス様の100点の義が与えられたのであれば、10点をとったパリサイ人は偏差値79を誇る意味があるでしょうか?全く意味がないし、バカバカしく感じると思います。どんぐりの背比べになってしまいます。

私たちは、イエス様から頂いた「めぐみ」を私たちの生活の「中心」に据えることによって、私たちの人間関係が変わりますし、伝道の仕方も変わりますし、奉仕の仕方も180度変わります。人の罪を見下す理由は全くありません。上から目線でそもそも話すことはできません。自分の罪や間違いを指摘されても、すぐに自分の罪を告白できると思います。人がどう思っているか、自分はどう評価されるのかも全く関係なくなります。神様との関係も変わります。恐れや義務感、罪悪感ではなく、感謝と愛と喜びをもって神様と歩むことになります。なぜなら、私は「義に乏しかった人」でしたが、イエス様の義によって、義と認められた者となったという「良い知らせ」があるからです。この2022年に、自分たちのルーツを思いめぐらしながら、歩んでいきましょう。