*近くのアパホテル48階での礼拝をもち、ZOOMで様子をライブ配信の予定です。This service will be held in person APA Hotel in our neighborhood and shared via ZOOM.
(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)
礼拝式順 10:45〜12:00
礼拝式順
前 奏
神の招き
司会者 主イエス・キリストの恵みがあsなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
教会福音讃美歌 226番 「しもべらよ、み声きけ」
開会の祈り
罪の告白の招き イザヤ書55章6〜7節
「主を求めよ。お会いできる間に。 呼び求めよ、近くおられるうちに。
悪しき者は自分の道を、 不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
罪の告白の祈り
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証 詩篇32篇1〜2節
「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。
幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」
会衆 アーメン。
平和のあいさつ
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
教会福音讃美歌 141番 「よろこびたたえよ」
みことばの宣教
聖書朗読 マタイの福音書 28章18〜20節
聖書の話 「主イエスの権威」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 479番 「すべての人に」
聖晩餐式 司式 廣橋嘉信牧師
[制定のことば] コリント人への手紙 第一11章23〜29節
[式 辞][祈 り][分 餐] 配餐者 青木宏太長老 大場清文長老 那須宗泰長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金
報 告
頌栄(教会福音讃美歌)272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 廣橋嘉信牧師
後 奏 讃美歌567番[V] 「アーメン・アーメン・アアアアーメン」
聖書の話 「主イエスの権威」
序文)「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」
1 聖書における「権威」
始めに「権威」ということばについて考えましょう。
聖書において「権威」と訳されていることばは、エクスーシアです。これは、もともと「自由である、許されている、合法的である、能力がある」という意味のエクセスティから出た名詞で、支配する権利とか、行為する自由・許可・力・権威とかを表しており、合法に自由裁量を実現する力(権威)を有するという意味で「公認された力」を表す。このもともとの意味の、「処分する権利」から、新約聖書では主に、神の絶対的で主権的で自由な力(権威)、およびそこに発する権威を表現するようになりました。旧約聖書のヘブル語用法では、「処分する権利、あるものを所有する権利、あることをする権利、または自由、さらに神の絶対主権、主権的力の叙述」になりました。
以上から聖書で「権威」ということばは、「服従を命令したり、強制する自由と力」を指します、また、「所有し、支配し、統治する」といった意味になりました。全包括的な権利、権威をさすと考えられます。
2 主イエス様が地上で発揮された様々な権威について福音書の中で記されています。
律法学者の真似できない「権威ある者として教え」(マタイ7:29)人々は驚きました。「地上で罪をゆるす権威」(マタイ9:6)を持っておられました。「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)これらの権威を弟子たちに授けられた。「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。」(ヨハネ17:2)主の教えのことばは、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(ルカ21:33)と宣言できた権威あることばだったのです。
救い主イエスが主張された、この絶対的な権威は、実は行動においても示されました。主のことばがむなしいものではなく、権威ある力を伴っていることを数多く証明しておられます。ガリラヤ湖の上で大嵐に出会って、イエス様と弟子たちが乗った船が、今にも沈みそうになったとき、疲れて眠っておられた主イエス様は、起き上がって「風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。」(ルカ8:24)これは大自然界に表された、権威です。
3 「天においても地においても、すべての権威」は、地上で人間に表された権威をはるかに超えています。ここで天と地の全領域で、服従を要求し、強制し、すべての被造物を無制限に所有し、支配し、治める権利と自由と力とが、ご自分に与えられているのだと主張しておられます。天上におられるときに絶対権威者であられた主が、地上に救い主として来られて、名実ともに絶対権威者となられたいきさつですが、それはどうしてなのか。「キリストは、神の御姿であられるのに、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての姿をもって現れ、 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。 それゆえ神は、この方を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。 それは、イエスの名によって、 天にあるもの、地にあるもの、 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、 すべての舌が 『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:6-11)とあるとおりです。
パウロはキリストの権威が、天から地に降られたこと、それを6-8節に説明し、謙卑(ヒューミリエーション)次に、9-11節に高挙(エクザルテーション)を伝えることで、天におられた時の本来の権威が、救い主として、全被造物に対して権威を持っておられることを示しています。神の御姿で「あられる」(文法:未完了過去)神として「存在した・存在し続ける」を表す。「御姿」み父との関係でみ子は、すべての点でみ父と等しいことを示している。み父とみ子は「一つである」(ヨハネ10:30)ということ、唯一の神の二人格であることを示しています。ですから、み子が地上に来られるときに、み父と等しい栄光と誉をもって来られても不思議ではありません。それが論理にかなっています。しかしパウロは書きました。神のみ子がそうは考えないで、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての姿をもって現れ、 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。」キリストは第一の人アダムが人間でありながら悪魔にそそのかされて「神のように」なろうとしたのに対して、本来神でありながら、その特権を自発的に捨てて「人となり、仕える者となり、十字架の死にまで」謙遜にみ父に従われた。キリストは私たちの「主」です。私たちは主人の謙遜な歩みに従って、み父に従う者たちなのです。
「それゆえ神は、この方を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。」み父はみ子の全き愛と従順を受け入れてくださり、十字架の身代わりの犠牲を受け入れてくださった。「それゆえに」主は満ち満ちたものを獲得された。しもべの極みに落ちてくださったことで、満ち満ちた高みに入られた。かつてはすべての権利と栄誉を放棄されたが、今や天地の主となられ、すべてのものが膝をかがめて、あらゆる者が主の栄誉を告白しなければならない。「イエス」という名は、すべての名に勝る名である。天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるもの、すべてが膝をかがめるのです。この名に全権威と勝利が付与されています。信じる者たちはもちろん、信じない者たちもイエスの名の前に膝をかがめます。どれほど恐れ、慄いて膝をかがめることでしょうか。信じる者たちは歓声を上げて祝福に満たされてひざまずくことでしょう。
さらに「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」(エペソ1:20-22)
「大能の力を神はキリストのうちに働かせ」無から有を創造された神の力、死からいのちを、しかも永遠のいのちを創り出された。十字架の上に死なれたイエスを,よみがえらせただけでなく、天にまで引き上げられた。「天上でご自分の右の座に着かせ」場所のことではなく、み父がキリストに与えられた力である。すなわち、その名においてキリストが天地の帝国を司られることを示している。キリストの最高の支配権、名誉の座、楽しみの座(詩篇16:11)、ここは天使たちも座ることはできない。
「すべての支配、権威、権力、主権の上に」:「神は天使たちをとおして、その権力と権勢と支配を行使されるので、パウロは、そのような名で呼ばれている天使たちを、これらによって意味しようとした。」(カルバン)すべての天使たちの上に高挙されたのです。
「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」空間と時間を超えて永遠の将来にわたって、あらゆる「名」―尊厳、偉大、卓越―の上に、高く挙げられるキリストは置かれた。キリストの卓越は時間的なことではなく、永遠であり、またこの世のみに限られるものとはなく、神の国にも栄えるものであることを表している。
「キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」新創造により生まれた教会とキリストの関係が示されている。キリストの高挙は最高に考えられるばかりでなく、最大限の教会の王権を持たれた。教会・神の国の王として支配権は「王の王、主の主」としてすべての存在物が従う。それが空疎なことではなく、「教会のかしら」という支配の現実を示している。世界はキリストの王権を認めないかのように振る舞っているが、教会は、キリストが自分たちのかしらであることを知っており、さらに歴史世界の支配者であることを知っている。それゆえ歴史の初めであり、終わりである主イエスが「王の王」であることを告示し、認知させ、服従を求め、宣教とあかしによって戦いを進めていきます。
結び)このキリストの権威に支えられて、教会は存在し続けて行きます。ヨハネは最後の審判の時にいっさいの権威を持っておられる主のお姿を見ました。「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。」(黙示録20:11)この一年もまた、絶対的な権威を持っておられる主をかしらと仰ぎ、御国のゴールに向かって、日々の歩みを祈りつつ進めましょう。