2022年1月16日礼拝 音声有 説教「どんぐりの背比べ」

*通常の会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信の予定です。This service will be held in person at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉 エペソ人への手紙 2章14〜17節
さ ん び 「主イエスの血潮で Let there Be Joy」
さ ん び 「キリストの平和」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 229番 「キリスト 教会の主よ」
聖書朗読 ヨシュア記 22章1〜34節
聖書の話      「どんぐりの背比べ」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 316番 「御前に立つとき」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアメン」

 

説教(聖書の話)  「どんぐりの背比べ」

 

「どんぐりの背比べ」。外国人として、この表現を初めて聞いたのは、社会人1年目でした。大変お世話になった、私の初めての上司から学びました。その上司は、「ザ・昭和のサラリーマン」でした。弱音を吐かず、上司の悪口を言わず、上司の命令通りに仕事をして、社内「戦争」−−マネージャー同士の争いや執行役員同士の陣地取り−−に関しては、常にポーカーフェイスで、何があっても速やかに仕事をされていました。何十年もの社内戦争で鍛えられ、何回も生き残られた大ベテランでした。しかし、ある日、特に激しい議論のあった会議のあと、上司の様子が変でした。会議のあと、自分のデスクに戻られて、大きなため息をつき、頭をふりながら、しかめっ面でパソコンを見ながら、小声で「どんぐりの背比べだ…」と呟かれたのです。それ以来、「どんぐりの背比べ」が私の好きな表現になりました。そして、よく教会で使っています。

 

本日の箇所は、神の民の兄弟姉妹同士の争いについてです。誰が正しかったのか、誰が悪かったのかをいろいろ分析することができます。誰が先に謝るべきか、誰が先に赦すべきなのかをいろいろと考えることができます。しかし、ヨシュア記の全体を見ると、最終的に至るのは、自分の上司の言葉しか残りません。「どんぐりの背比べ」。私たちが「争う」理由は、私たちはどんぐり同士で争っているけど、正しい「パースペクティブ」、正しい「見方」を持っていないからなのです。つまり、どんぐりである私たちは、イエス様という「木」の前で争っていることを忘れているのです。そして、イエス様の木は、単なる「木」ではありません。私たちの罪がつけられた十字架なのです。つまり、私たちが争う理由は、自分たちの立場と、神様の御性質を忘れているときなのです。それゆえに、本日の箇所の流れを確認して、クリスチャンとして人間同士の争いの中で、覚えて頂きたい点を分かち合いたいと思っています。

 

本日の箇所の流れを確認しましょう。本日の箇所は22章ですが、ヨシュア記は21章で終わっていても全く違和感はありません。神の民が約束の地に到着し、神様の御力によって約束の「安息の地」が与えられ、「がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した」(21:45)で話が終わり、「めでたし、めでたし」で終わることができました。それなのに、ヨシュア記に22-24章という「エピローグ」がある理由は、神様の救いが「約束の地」に限られていないこと、神の民の歩みがそこで終わっていないこと、そして、神様の「救い」の話がまだまだ続くということを表すためでした。どのように続くのでしょうか?本日の箇所が神様の「救いの歴史」の続きの「予告」とも言えます。ドラマの1話が終わった後で次回の話の場面を見せる「次回の予告」がありますよね?ある意味、22-24章はそのような目的を果たしています。

 

では、それはどのような場面でしょうか?ヨシュアはすべての相続地を振り分けて、22:1-9の話では、12部族に相続地を与え、ほぼ全員のイスラエル人が自分たちの相続地に帰りました。残っているのは、ルベン人、ガド人、とマナセの半部族です。彼らの相続地はヨルダン川の「向こう側」、つまり、ヨルダン川の東にあります。[1]そして、ヨシュアは彼らを送り出す前に、すべての「命令を守り、主にすがり、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい」と注意します(22:5)。なぜなら、もし1つの部族でも、この掟を破ったのなら、全12部族が自分たちの相続地を失うことになるのです。これが神様が出された条件です。そして、この掟を破る最も「分かりやすい」形は、偶像崇拝です。神の民は中毒のように何回もこの罪を犯しました。そして、偶像崇拝をしてしまったイスラエルを何回も裁かれたことがありました。ですから、ヨシュアが「忘れないように気を付けなさい」と東の2.5部族−−つまり、ルベン人、ガド人、とマナセの半部族−−に注意したのは、なおさらのことでした。

 

しかし、東の部族はヨシュアが注意したすぐ後で、「ヨルダン川のそばに」、「遠くから見えるほど大きな祭壇」(21:10)を作ったのです。詳細はあとで説明しますが、これは、西の部族にとって、非常に驚く展開でした。なぜなら、それは偶像崇拝のための「祭壇」であるかもしれないという恐れがあったからです。後で、東の部族は「悪気はなかった」と主張しましたが、文脈を読むと、説明もなくかなりKYで、愚かな行動だったと言えます。そして、この出来事を皮切りに、部族同士の争いが始まったのです。

 

西の部族は、東の部族に偶像崇拝の罪を訴え、戦争をする準備をし始めました。「偶像崇拝」の罪を指摘することは悪いことではありませんし、申命記13:13-17には、もしある「町」が偶像崇拝している恐れがあったら、徹底的に調査し、確認しなさいと書いてあります。しかし、西の部族は何の調査も行わず、証拠もないのに「あなたたちは偶像崇拝をしている!やめなさい!」と訴えました。自分の兄弟が普段乗ってない車に乗るのを見て、兄弟の話も聞かずに「盗んだ車を早く返しなさい!」と言っているようなものです。7年間も共に戦い続けた同胞に、何の確認もせずに、愛も理解もなく偶像崇拝の罪を訴えるのは普通ではないとも言えますが、彼らの焦りもわからなくはありません。なぜなら、もしも東の部族が偶像崇拝をしていたとしたら、西の部族である自分たちも相続を失うことになりますし、自分も自分の家族も神様に裁かれる恐れがあったからです(ヨシュア22:17-20参照)。

 

そうして、東と西の「口喧嘩」が始まります。西の部族は、「何であなたたちは神様を礼拝していないんだ!罪だぞ!」と東の部族を訴えます。そして、東の部族は、「いやいや。ちゃんと神様を礼拝しているよ。あなたたちが隣人を愛していないんだぞ!あんたたちが罪人だよ!」と西の部族を訴え返します。しかし、東と西はお互い理解を深めた後で、相手が神様を礼拝していること、相手が隣人を愛していることを知り、仲直りして仲良くなり、ともに神様を礼拝しました。めでたし、めでたし。そのように、この箇所を読む方が多いと思います。

 

しかし、このよくありがちな読み方には、問題があります。もちろん、そのような読み方にも一理ありますが、それは「どんぐりの背比べ」ならぬ 「木の背比べ」と言えます。この後の23-24章やヨシュア記の後に来る書物である、「士師記」を読むと、「めでたし、めでたし」のような展開ではありません。むしろ、「イスラエルが堕落した!大紛争が起きた!」という流れです。ですから、本日の箇所は、イスラエルの堕落と紛争に向かっていってしまった最初の一歩として読むべきなのです。しかし、12部族は最終的に和解して神様を礼拝したのに、どこが「堕落と紛争への第一歩」となったでしょうか?それは、どちらの部族も神様と隣人を愛していると言いながら神様抜きで歩んでいたからです。

 

まず、「祭壇」を築いた東の部族から見ていきましょう。簡単に言いますと、彼らは、「この祭壇で偶像崇拝する気は全くなかった!もしそうだったら、神様か、あなたたちが私たちをさばいてもいい。私たちは、お互いの存在を忘れないために、また紛争が起こらないようにと、この祭壇を私たちの一致を表す『平和』のシンボルとして作ったのです!」と、情熱をもって説明しました。もし、神様の律法の細かい部分を知らないで、彼らの情熱に圧倒され、そのような説明を聞いたなら、すぐに信じてしまうと思います。(この箇所を勉強する前に、私も信じてしまいました。)しかし、神様の律法をよくよく確認すると、この祭壇にはいろいろなツッコミどころがあり、彼らの説明も全く答えになっていないことも明らかで、この「祭壇」がどれほど深刻な問題であるかがわかると思います。

 

怪しいところが四つあります。①一つは、聖書の中で「祭壇を作る」場面が何回も書かれていますが、ヨシュア記22章以外の場面では、すべての祭壇は①何かの生贄を捧げる祭壇であり、②神様の命令かみことばに沿って造られた祭壇、③神様に礼拝をささげる祭壇なのです。ですから、東の部族が言う、自分たちの思いだけで造って、生贄も献げず、神様を礼拝もせず、人間に向けたような「平和のシンボル」は、非常に異常と言える祭壇なのです。ですから、西の部族の訴えは当然のリアクションなのです。むしろ、東の部族が西の訴えに驚いていることがうさんくさいとも言えます。②二つ目の怪しいところは、祭壇が「民の一致」を表す「記念」だということです。ヨシュア記には神様が指定された12部族の一致を表す「記念」がいくつかありますが、なぜ、東の部族は、神様の命令なしで、怪しい記念のしるしを作ったのでしょうか?③東の部族は、この祭壇が「主の祭壇の型」あるいは「主の祭壇のコピー」であると説明していますが、これも謎の発言です。なぜなら、申命記12章では、神様を礼拝するところは一つしかなかったからです。それは神様の幕屋です。ですから、神様の命令なしで、神様の幕屋のコピーを作る理由があったとは思えません。④そして、最後に、この祭壇が「遠くから見えるほど大きな」祭壇であったことも非常に怪しいです。主の祭壇である「契約の箱」は大きくないはずですし、出エジプト20章の掟によると、神様が許可された祭壇は、それ自体が非常に素朴で地味なもので、人の目を引くようなものではありませんでした。彼らは、なぜそんなに大きな祭壇を作ったのでしょうか?

 

ですから、そのようなことを知っていると、東の部族の、神様のみことばに沿っていない、長ったらしい説明や神様の命令なしで祭壇を造ったこと、また、訴えに対して大げさすぎるリアクションを見ると、東の部族の答えは非常にうさんくさく思えるのです。そして、彼らが全く悪気もなく、みことばに反した祭壇を作ったとしても、「神様が命じたすべての命令と律法をよく守り行いなさい」というヨシュアの命令を彼らが無視したということは明らかです。要するに、東の部族は神様のみことば抜きで、神様と隣人を愛そうとしたのです。

 

それでは、東の部族の怪しい行動を訴えた西の部族はどうだったでしょうか?実は、彼らも東の部族と同じように、神様抜きで、人を赦してしまいました。東の部族が情熱をもって、長々と説明した後で「祭司ピネハス、会衆の上に立つ族長たち、彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちはルベン族、ガド族、マナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。」と書いてあります(22:30)。「それに満足した」のヘブル語を直訳すると、「自分たちの目で良いと見なした」という意味になります。つまり、神様にも、みことばをも確認せずに、判断を下したことが示唆されています。

 

西の部族は、申命記13章の通りに、東の部族を訴えましたが、申命記13:14には、神様が忌み嫌われる偶像崇拝があるかどうかを「調べ、探り、よく問いたださなければならない」と書かれていますが、とても長い20節の怪しい展開の後に、イスラエルのリーダーたちは、問題だらけの東部族の応答を鵜呑みにして、確認も取り調べもなしで、たったの4節でその案件を片付けてしまいました。それは、本質を問うような和解ではなく、問題の深刻さを軽視して、平和を保つためにその問題を受け流したような解決だとも言えます。

 

しかも、12部族は、和解した時に、「が私たちの中におられる!」と宣言したのですが、大変皮肉なことに、この箇所には、ひとかけらも神様の存在が見られません。祭壇を作ったことを説明した時、東の部族は「神の神、はご存じです」と言い張りました(22:22)が、神様が「祭壇」を許可した証拠は全くありませんでした。それにもかかわらず、西の部族は、東の部族の言葉を鵜呑みにして、神様とみことばを全く確認せずに、「神様が喜ばれる」と判断してしまったのです。このように、神様抜きで、猛スピードで行動してしまった神の民が裁かれることがヨシュア記には何回もありました。特に印象的な場面は、イスラエルがギブオン人を怪しいと思っていたのに、彼らのことばに騙され、敵であったギブオン人と平和条約を結んでしまったことです。その箇所では、問題の原因がはっきりと書かれています。「しかし、の指示を求めなかった。」(ヨシュア9:14)このようなミスを犯しつづけた東と西の部族のリーダーたちは、再び、主の指示を求めることもなくみことばも確認せずに、問題の原因を突き止めもしないでお互いの過ちを赦してしまったのです。

 

感謝なことに、12部族は和解でき、紛争を阻止することができましたが、もうすでに神の民の歩みと一致の土台が歪んでいたことがわかります。そして、その箇所だけを見ると、何が真実であり、誰が正しかったのかは、非常に曖昧で、はっきりしたことはあまり言えませんが、ある意味、誰が悪くて誰が正しかったのかなどは、それほど重要ではありません。なぜなら、そのようなことは「どんぐりの背比べ」ですから。はっきり言えるのは、神様とみことばという「高い」基準に照らし合わせると、西の部族も、東の部族も、神様の聖さやお互いの罪に対して過小評価していて、どちらも「自分たちの目で良いと見なした」ことをしたと言えます。これは、神の民にとって致命的なことです。なぜなら、それは今後の堕落と紛争の原因となったからです。ヨシュア記の次の書物は「士師記」で、そこには、イスラエルが急激に堕落し、大紛争の始まりについて書かれておりその最後の一節には、堕落と紛争の原因がまとめられています。士師21:25 「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」つまり、彼らが神様抜きで神様を愛そう、人を愛そうとした結果、イスラエルは霊的に堕落し、最終的にイスラエルの紛争が始まったということです。そして、このヨシュア記22章は、その第一歩とも言えます。

 

では、この「争い」と「和解」から何が学べるでしょうか?三つの点にまとめたいと思います。一つは、神様抜きで人の罪を訴えることは、神様の聖さを過小評価し、自分たちの聖さを過大評価することになるということです。私たちが人の罪に気づくとき、よくしがちなのは、西部族と東部族のように、「あの人は何と言うことをしたんだ!もちろん、私にも罪はありますが、あの人ほどの深い罪、あの人が与えたほどの被害は、私にはありません。あの人が悔い改めるべきだ」という考え方です。しかし、新約聖書で、パウロはこう注意しています。兄弟姉妹の罪や過ちを正すことは「愛の行動」であり、愛をもって真実を語ることはキリストの律法を成就することです。しかし、人を「さばく」ことは、自分は「何者でもないのに、自分を何者かであるように思う」ことなのです。つまり、神様のみことばの高い基準を確認もせず、自分がどれほど罪深い人間なのかということにも向き合わず、神様の聖なるご性質と愛に満ちた御心を仰ぎ見ないで「オレは30%悪いけど、あんたは70%悪い」というようなことは、「自分自身を欺いている」のです(ガラテヤ6:1-3、ローマ2:1-5参照)。なぜなら、自分の「30%」が「神様の裁きから免れる」とか、自分の「30%」は人を深く傷つけていないなどと思っているからです。つまり、神様抜きで人の罪を訴えることは、「自分の目に良いと見えることを行う」ということですしかし、どんぐりはいつも「隣の木」(神様)を見る必要があり、罪人である私たちはいつもみことばを確認しなければなりません。なぜなら、どんなに小さな罪であっても、その罪は神様の主権と隣人の尊厳を100%否定していること、そして、100%永遠の罰に価するからです。私たちはどうでしょうか?私たちが人を訴えたくなるとき、神様の聖さを過小評価し、自分たちの聖さを過大評価していないでしょうか?

 

次に覚えていただきたい点は、神様抜きで人を赦すことは、神様の聖さを過小評価し、自分たちの聖さを過大評価しているということです。神様抜きでも、人間は人の過ちを赦すことができます。相手の過ちを見て、「大したことないよ」、「自分も同じようなことしているから大丈夫だよ」、「お互いクリスチャンだから、いいよ」、「悪気はなかったんでしょ」、「状況が難しかったら、しょうがない」、「みんなの和を保つために、赦してあげる」このような理由で赦すことはできます。多くの人たちが、それが「愛」だと思っています。しかし、それは聖書が求める赦しでしょうか?神様はそのように私たちの罪を見ておられ、赦されるのでしょうか?私たちの心の偶像、貪欲、性欲、怒り、神様と隣人に対する無関心さをご覧になり、神様が「しょうがない。大したことじゃない。大丈夫だ」と私たちを赦されるでしょうか?とんでもないです。しかし、私たちは、どうしてみことばによらずに、人を赦すのでしょうか?それは、私たちが、神様ではなく、「自分の目に良いと見えること」で赦したいからです。そして私たちがそのように赦すとき、多くの場合、神様が「罪」と見なされることを、私たちが「義」として見なすことになってしまいます。つまり、どんぐり同士でお互いに「そうだね。僕たち、似たもの同士だもんね。だから仕方ないね」と言い合うような赦し合いです。しかし、そのような赦し合いは、自分の身の丈を認めない、自分自身を欺むくような赦し合いです。いかがでしょうか?私たちは人を赦すとき、神様の聖さを過小評価し、自分たちの聖さを過大評価していないでしょうか?

 

最後に覚えていただきたいことは、「自分自身を欺く罪人として、自分たちの王の十字架の下で、お互いの罪を正し合い、お互いの罪を赦す必要がある」ということです。西の部族と東の部族は神様に対して熱心でしたが、その熱心さは知識に基づくものではありませんでした(ローマ10:2)。それは、お互い律法をもって、自らの義を立てて、お互いの罪を指摘し合い、お互いの義に基づいて罪を赦し合おうとしたからです。私も含め、私たちが罪人である限り、私たちはそうしてしまいます。しかし、律法の目的は、自分たちに義がないことを証明することです。そして、律法の目的は、私たちにはイエス様が必要であること、特に十字架の赦しが必要であることを証明するためです。私たちの王は、私たちの「罪」のために十字架にかけられました。十字架を仰ぎ見るとき、神様の聖さと私たちの罪深さを同時に見ることができます。十字架の下では、誰も誇ることも、自己弁護することも、相手の罪を責めることもできません。そして、私たちは十字架を仰ぎ見るとき、神様の愛をすぐに見ることができます。自ら十字架にかけられるほどに、私たちの罪を清め、その罪を赦したいという、イエス様の愛に満ちた御心を見ることができます。ですから、私たちの王様の十字架の下では、それがどれほど重い罪であっても、その罪を赦さないとか、愛をもって正さないなどできる訳がありません。ですから、私たちには自分自身を欺いてしまう罪人として、十字架にかけられたイエス様が必要なのです。自分の目によって、良しとすることではなく、私たちの王様である十字架の主を常に仰ぎ見て、愛をもって真実を語り合いながら、お互いの罪を正し、お互いの罪を赦し合いましょう。お祈りします。

[1] https://biblelearning.net/wp/wp-content/uploads/2019/06/yoshua.jpg 参照