2022年1月23日礼拝 音声有 説教「主にあって、ともに堅く立つ」

*通常の会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信の予定です。This service will be held in person at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.

 

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉
さ ん び 「揺るぎない土台 Firm foundation」
さ ん び 「満たしてくださる方」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 40番 「父の神の真実」
聖書朗読    ピリピ人への手紙 4章1〜3節
聖書の話   「主にあって、ともに堅く立つ」 百瀬ジョザイア伝道師
教会福音讃美歌 32番 「聖なる神」
献   金
報   告
とりなしの祈り    廣橋嘉信牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷      廣橋嘉信牧師
後   奏  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアメン」
海外宣教師のための祈り

 

説教(聖書の話) 「主にあって、ともに堅く立つ」

初めに

今日の午後に、教会の信徒総会が予定されています。過去の一年を振り返って、今年はどのように前に進みたいか分かち合う時間です。執事選挙に加え、今回は教会ロゴの投票もあります。楽しみにしています。ところが、私たちはなぜ、そこまで一緒に歩もうとしているのでしょうか。なぜ、海浜幕張めぐみ教会は一つの集団、共同体として存在しているのでしょうか。ざっくり言えば、教会は多くの集団やサークルと違って、とても多様な人の集まりですね。趣味、年齢層、性別、教育や経済的状況、政治的考え方などは様々でしょう。さらに言えば、賛美のスタイルや聖書理解の細やかな点などについても、考えが違うかもしれません。それなのに、私たちが一つの共同体となっているのは、中心にまことの神様とのいける関係であるからです。さらに、この関係は各個人が持つ縦の関係で終わりません。神様がそれに伴う共同体を用意され、聖書によってお創りになりました。エペソ人への手紙でパウロが強調するように、「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(エペソ4:4-5)。

けれども、一つだと感じないときがあるかもしれません。私たちの様々な相違によって、意見の違いが起きてしまう可能性があります。そして、教会とは人間、罪人の集いです。クリスチャンになっても、まだ罪の性質によって、神様に反抗して人を愛さないでいることがしばしばあります。小さな課題を過大評価して、お互いを過小評価してしまうことがよくあるかもしれません。私にもよくあります。ロゴの投票で大論争が起きないことを願いますが…どうなるか分かりません。

使徒パウロはローマで投獄されていた間、過去に教会開拓をしたピリピ市の教会へ宛てて手紙を書きました。この手紙は暖かく、「喜び」の繰り返しのテーマでよく覚えられていますが、この教会にも仲違いという問題がありました。パウロはこの共同体に、福音を信じる者として一致と愛を保つように訴えました。「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。…あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて…」ほしいと1章27・28節で願いを強く伝えました。2と3章でもその思いを伝え、ついに、今日の箇所の4章初めで、彼が気にしていた具体的な課題が分かります。4章1節から見てみましょう。一、「イエス様の民の希望と姿勢」(4:1) 二、「平和を作る課題」(4:2〜3前半) 三、「ともに立ち、平和を作る土台」(4:3)

 

一、「イエス様の民の希望と姿勢」(4:1)

1節は1章の「キリストの福音にふさわしく生活しなさい…霊を一つにして堅く立ち…」という勧め(27節)以降の内容から3章までの勧めをまとめて、「ですから」で始まります。2章では、イエス様が無限の栄光を隠してまでへりくだってくださり、自分のいのちまでお捨てになり、人のことを思ってくださったことが歌われました。その適用はお互いに対する思いやりと謙遜であると説かれました。3章前半でパウロはキリストとの関係が何ものよりもすばらしいことを証ししました。

そして3章の終わりのほうに「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます」と書いてあります(3:20)。クリスチャンはイエス様が王様として帰還されて、世界と自分の罪深さの惨めさなどが取り払われ、いつまでも神様を讃えて喜ぶことができるようになると約束されています。ですから、パウロは続けて聞き手が自分の喜び、誇りであるということを前置きして、それまでの結びで「ですから、…このように主にあって堅く立ってください」と勧めます。

「堅く立つ」ことはピリピ市民にとって、ローマ帝国の誇り高い兵士とその団結力を思わせる表現だったかもしれません。ピリピはローマ兵隊とその子孫が多く暮らす、ローマ市民権が広く与えられた町でした。ローマの軍は何度も、一騎打ちでなく集団戦の戦略で勝利を収めて、地中海圏の全体を制覇できました。入隊した男たちは様々な文化を背景にした個人でしたが、厳しい訓練をともに受け、一つとなって動きました。盾を駆使して、壁のような部隊として前へ進み、数多くの敵軍を追い返すことができました。団結して、堅く立つ人の模範でした。

このように、パウロは手紙をまとめて、希望を持ってともに堅く立つことを念押しで求めますが、抽象的な適用で終わりにはできません。おそらく、書きながらずっと気になっていた具体的な課題があったのでしょう。

 

二、「平和を作るように」(4:2〜3前半)

「このように」立つ、具体的な課題が2・3節にあります。「ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。」パウロは「戒めます」でなく「勧めます」と、優しい口調で始めます。ユウオディアとシンティケとは、クリスチャンの女性であり、教会の中でよく知られていたようでした。3節から読み取れるのは、彼らがパウロとともに働いたこともありました。兵隊のように大きな犠牲を払って、よく戦ってきた女性たちだったでしょう。だからこそ、パウロが教会の中で名指しして、呼びかけたでしょう。

ユウオディアとシンティケは神学的または道徳的なあやまちを犯していたようには見えません。もしそうだったとすれば、パウロは具体的なことを指摘して、論争したでしょう。(他の手紙では、よくそうしています。)ただ、この二人は何かについて意見の違いがあって、対立していたようです。そして、教会の中でその対立がモヤモヤと、あるいはグツグツと残っていました。ローマ軍の部隊と違う、二人の姿勢で教会が悩んでいました。

もちろん、共同生活の中に必ず意見の違いは生じます。(意見が全く同じだったとすれば、むしろ、カルト的な縛りがあるからかもしれません。)しかし、お互いのことを大切にして、「思いを一つにする」ことをパウロが強調しているので、その対立はかなり高まってしまっていたでしょう。

悪魔は教会の分裂によって神様の御業を台無しにしたいと思っています。神様には教会を変えるほどの力がないと証明して、神の栄光を曇らせたがっています。しかし、主イエス様のへりくだりと愛を覚えて、ともに堅く立つようになりたいとクリスチャンは願うはずです。「主にあって同じ思いにな」るようにパウロが勧めます。意見の違いを認めてもいいです。ところが、「主にあって」というのは、イエス・キリストによって、イエス・キリストのような謙遜さを求めることを意味します。高ぶってさばくことがないように注意したいです。意見が異なり続けても、愛し合うこと。

ユウオディアとシンティケは二人で平和を作ることができたかもしれません。しかし、パウロは念のため、3節前半で続けます。「そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。」もう一人の信者に向けて、二人が仲直りできるように適宜手助けしてくださいと声をかけます。登場する「真の協力者」がだれかは知られていません。長老か牧師のような人だったかもしれません。助けることは重い責任だったでしょう。もしあなたが仲の悪くなった二人に仲直りができるように手伝ってくださいと言われたら、緊張するかもしれません。しかし、パウロは二人の姉妹が同じ思いでともに立てるよう、「協力者」に力を貸してくださいと願い出ます。

私たちは「平和を愛する」者であると思いたいかもしれません。私たちは様々な意味で、あからさまな対立を嫌う社会に暮らしています。ところが、いわゆる「平和」や「和」を愛するゆえ、対立している友人、特にクリスチャン同士を見て見ぬ振りで済ますのは本当の平和や愛ではありません。表面的な平和を求めるのでなく、対立の中から本当の平和を生み出し、作るために、「真の協力者」はときには立ち上がります。パウロがそう願って、励ましお願いをします。

 

三、「ともに立つ土台」(4:3)

しかし、もし私なら、遠方から手紙一通を送っただけでこじれた人間関係がよくなるとはあまり期待しません。しかし、パウロは解決について希望を抱いています。実は、彼は3節で「協力者」と「助けて」と「同労者」と「一緒に戦った」の全てのことばでシンティケの名前にある「シン」と同じ語根を使います。それは、「共に、一緒に」という意味の語です。私たちは一緒だ!一つだ!一つの目的と一つの福音のために、「心を一つにしてともに戦って」いこう(ピリピ1:27)、とパウロは使うことばででも強調します。

そもそも、その希望はどこから来るのでしょうか。パウロが、ユウオディアとシンティケは「いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです」と3節で説明します。ここに、ともに堅く立つための二つの励ましがあります。

第一に、二人の人生の実りが励ましです。主イエスに関する良い知らせ(福音)のために、この女性たちは多くの人「とともに」、またパウロ「と一緒に」働いてきました。正しいことをすれば救いを確信するという意味ではありません。それはこの手紙の他の箇所で書かれていることに矛盾するようなことになってしまいます。しかし、心から出て来た過去の行動から、私たちは心の中身を推測できます(マタイ7:17-18)。過去に思いを一つにして協力することができたユウオディアとシンティケは、今の問題があってもまた団結することができるとパウロは考えました。神様の助けが今もあるからです。私たち過去の恵みを思い起こして、イエス様に頼りながらの平和作りに励むことができます。

二つ目の励ましは永遠の昔からの励ましです。パウロはユウオディアとシンティケが「いのちの書に名が記されている」人々とともに苦労したと書いています。つまり、この二人もいのちの書に名が記されていると示唆しています。「クレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦って、いのちの書に名が記されているこの女性たちです」とも読めます。

「いのちの書」は旧約聖書から新約聖書の黙示録まで、何回か出てきます。特に黙示録で登場する箇所から、それが「名簿」であることが分かります。イエス様が戻って来られて審判をなさってから、神様と永遠の喜びを楽しめる人々、神の民の「名簿」です。言い換えるなら、「天国本籍」の人々の記録です(ダニエル12:1、黙示録3:5、20:12-15参照)。

私たちは限られた理解でものを見ますので、人の発言や教会員名簿を基に神様の国の民がだれなのかを推測して教会員を数えます。そして、イエス様が戻って来られるまで、この「見える教会」にだれが入っているかを確かめ合うことを聖書は教えています。私たちの信仰生活にとって、とても重要です。洗礼式と聖晩餐式の執行に必要です。日本に住む人が住民登録されているかどうかのようなものです。そして、私たちの観点から「見える教会」に人が加わってもまた抜けるようなことがあり得ます。もしこの地上の教会名簿しかなかったなら、ピリピの教会も私たちも、仲違いする人を見て「あの人はクリスチャンじゃないはずだ」とか「もう関われない」と決めつけて、和解などを諦めたいと思うかもしれません。

しかし、永遠の昔から神様が定めてくださった、変わらない「天国本籍」の人の記録、いのちの書が別にあるのです。それは「世界の基が据えられたときから」書かれた書物であると黙示録13章8節が書き加えていますので、これは人が生まれる前からあった永遠の定めの記録です。約束です。全能の神様が民を絶対にお救いになると決めておられました。ですから、お互いに天国行きの二人が争っていたとしても、冷めた目でお互いを見ていたとしても、和解と一致のために努める意義がありました。

さらに、いのちの書はただ永遠の昔に書かれた本だけでなく、十字架によって確約されているものです。黙示録13章8節で使徒ヨハネがそれを「屠られた子羊のいのちの書」と呼んでいます。子羊、すなわちイエス・キリストがその民の身代わりとなって、死を味わってくださったゆえにいのちの書に効力があります。ユウオディアとシンティケの対立、私たちの対立を、世界の基が据えられた時の前から父なる神様がご存知でした。しかし、子なる神は、ピリピ2章5節以降で書かれているように、私たちの模範として以上に私たちの救い主として、御父のお遣わしに従ってへりくだられました。そして、復活によって、いのちの書に名前が書いてある私たちの立場を永遠に確立させ、朽ちない希望を下さいました。聖霊様が人々に信仰と悔い改めの心を下さり、これを私たちにいきたものとしてくださるのです。

私たちは、「いのちの書に自分の名は本当に書かれているのか」と疑うこともあるかもしれません。あなたはイエス様に少しでも本当に信頼して、慕い求めて生きようとしていらっしゃいますか。安心していいです。私たちの信仰と忠誠が弱くても、神様は誠実です(第二テモテ2:13)。父なる神がいのちの書に名を書いて、子羊のイエス様が保証してくださいました。

キリストにある兄弟姉妹に対立があった場合、相手の心を見抜けなくても、お互いがいのちの書に名が書かれていると思えるなら、解決を求め続ける努力はできます。パウロはユウオディアとシンティケ、そして必要なら真の協力者にもそれを求め、解決を神様に期待していました。私たちも期待できるのではないでしょうか。

 

結論

人間関係において対立があると心配になりやすいです。教会の中でも同じことが起こります。パウロが開拓した教会にも対立がありました。しかし、「主にあって同じ思いに」なれるよう、今年も祈って、努めたいと思います。自分とだれかの、あるいは他の二人の関係において、平和を作る機会はありますか。あなたと私の愛と知恵ではどうにもなりません。しかし、神様の約束と子羊の血によって勝利をいただくことができ、平和を作る道へ導いていただくことはできます。

この後の応答の賛美は簡単な歌詞ですが、深い意義があると思います。「ともにうたえ、ハレルヤ、アーメン。」意見が違ってくるときがあれば、それを隠す必要はありません。しかし、同じいのちの書に名前を書いていただいているなら、私たちの違いを超えて、主イエス様にあって私は一つの共同体、一つのからだであると告白しましょう。