*近くのアパホテル48階での礼拝をもち、ZOOMで様子をライブ配信の予定です。This service will be held in person APA Hotel in our neighborhood and shared via ZOOM.
(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)
<礼拝式順>
前 奏
神の招き
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
教会福音讃美歌 254番 「主イェスの恵みとみ栄えとを」
開会の祈り
罪の告白の招き イザヤ書55章6-7節
「主を求めよ。お会いできる間に。 呼び求めよ、近くおられるうちに。
悪しき者は自分の道を、 不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
罪の告白の祈り
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証 詩篇32篇1-2節
「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。
幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」
会衆 アーメン。
平和のあいさつ
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
教会福音讃美歌 391番 「主と主のことばに」
みことばの宣教
聖書朗読 ヨシュア記 23章1〜16節
聖書の話 「歴史は未来のひな型。」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 353番 「あなたこそ我が望み」
聖晩餐式 司式 マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことば] コリント人への手紙 第一11章23〜29節
[式 辞][祈 り][分 餐] 配餐者 那須宗泰長老 青木宏太長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金
報 告
頌栄(教会福音讃美歌)272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 讃美歌567番[V] 「アーメン・アーメン・アアアアーメン」
説教 「歴史は未来のひな型。」
歴史は私たちに関係ない、遠い過去の物語ではありません。歴史は私たちの未来と今後やるべきことを定めるものでもあります。例えば、みなさんは、自分の家族の歴史について調べたことがありますか?自分の両親や祖父母の環境や生い立ち、彼らが決めたことや犯した過ち、あるいは、子どもたちに与えた恵みや傷などをすべて注意深く調べて見てみると、自分がどういう者で、どういう立場に置かれているのか、そして、自分が今後どう歩むべきなのかなどが少し明らかになると思います。私の父と母がいろいろな犠牲を払って、日本に住むことを決めたという歴史があったので、私はここにいます。家族の歴史だけではなく、自分の母国の歴史、世界史も全く同じようなことが言えます。つまり、歴史を学ぶ目的は、過去へ逃げるのではなく、自分のあり方と向き合いながら未来へと前進するためでもあるのです。なぜなら、歴史は未来のひな型とも言えるからです。
ヨシュア記も歴史の一つです。そして、毎週私たちが聖書を読んでいる理由は、ただその歴史を思い出すためなのです。そして、その歴史はただ単に、遠い昔の、ある中東の部族の歴史ではなく、神の民である私たちの歴史でもあるのです。そして、この歴史を学ぶことによって、イスラエル人だけではなく、自分自身と私たちの教会がどういうものなのか、どういう立場と状況に置かれているのか、そして、自分が今後、どう歩むべきなのかが明らかになります。つまり、聖書という歴史は、クリスチャンの未来のひな型とも言えます。
ヨシュア記23:1-2では、当時の民のリーダーであったヨシュアは神の民に、それまでの歴史を振り返らせ、未来とどのように向き合った方がいいかを教えています。この箇所は、ヨシュアの民への最後のことばとなったのです。本日は、この歴史からヨシュアが教えた三つのポイントを紹介します。そして、この三つのポイントをイエス様の最後のことば(大宣教命令)と比較して、自分たちに適応したいと思います。
1-5節に書いてある、ヨシュアが教えた一つ目のポイントはこれです。「あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。ですから、自分の希望を確信しなさい」ということです。要するに、私たちは、自分たちの「歴史」を確認することによって、私たちの希望をも確信できるということです。
まず、ヨシュアは神の民に彼らの歴史を思い出させます。
「私は年を重ねて老人になった。あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。 」(ヨシュア23:2-3)
ヨシュアが民に歴史を思い出させた目的は、「あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である」という事実が彼らのアイデンティティーとなり、彼らの生活の中心となるようにするためでした。そして、ヨシュアは神の民に彼らの歴史を思い出させ、「この事実を自分たちの目で確かめたではないか?!」と言っているのです。
どのような歴史だったでしょうか?それは、神の民がヨルダン川を渡ったときのことで、彼らは自分たちの力でその川を渡ったのではなく、神様ご自身がまず民に先立って川を割ってくださったという出来事でした。また、自分たちの戦力ではなく、神様ご自身の剣でエリコの城壁を崩し勝利を与えられたこと。アイ国にぼろ負けした時、自分たちの戦略ではなく、神様が準備してくださった戦略でアイ国に打ち勝ったこと。そして、ハイリスクな状況の中、無計画のまま夜通しでギブオンを守りに行ったのですが、それは自分たちの情熱ではなく、神様が雹の嵐で敵を倒してくださり、「主がイスラエルのために戦われた」(10:14)ゆえに、逆転勝利を得ることができたこと。最終的に、カナンのすべての王国が同盟を組んで、「海辺の砂のように大勢の」カナンの兵隊たち(11:4)と最先端の武器と戦車に神の民が囲まれて絶体絶命の状態だった時でも、神様の御力によって、一人のイスラエル人で千人のカナン人を追い払うこともできたこと。自分たちの「救いの歴史」を振り返っているのです。
その歴史ゆえに、ヨシュアはこう宣言します。
5 あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。
自分たちの目で見た歴史と同じように、自分たちの神、主ご自身が、再び、自分たちに先立って、自分たちのために戦ってくださるということです。つまり、歴史が教えてくれることが理解できるなら、神様の約束に希望を置くということはなおさらのことです。神様の「救いの歴史」は、神様が与えてくださる「将来の救い」のひな型でもあり、保証でもあるのです。そして、逆を言いますと、私たちのために戦ってくださった神様に希望を置けないのなら、自分の目で見た神様の救いの歴史を疑うことになるのです。ですから、歴史を確認することで、自分の神様にある希望を確信することができるのです。
それでは、新約の時代に生きている私たちは同じ立場にいるのでしょうか?とんでもないです。なぜなら、イエス様による「救いの歴史」はヨシュア記よりも何億倍もいい希望を約束しているからです。イエス様は最後に、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」(マタイ28:18)とおっしゃいました。イエス様は、私たちの敵との戦争の結果を発表されました。イエス様は、ヨシュアと違って、私たちの敵を目の前から完全に追い払われたのです。そして、その敵とはカナン人ではなく、サタン、罪、死も含む「すべての権威」であり、その全てにイエス様は打ち勝たれたのです。その上、イエス様が勝利者として獲得してくださった私たちの遺産は、中東にあるちっぽけな土地の塊ではありません。私たちの代わりに獲得してくださった「遺産」は、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない」天国で味わえる「永遠のいのち」なのです(1ペテロ1:4)。私たちの「救いの歴史」は、私たちの「将来の希望」でもあるのです。希望を見出せないと言うことは、イエス様の歴史を忘れているということです。
次に、ヨシュア23:6-11の二つ目のポイントは、私たちへの注意です。それは、「自分自身に十分に気をつけて、イエス様のみことばに断固として従い、すべてを尽くしてイエス様を愛し、この世の神を憎みなさい」ということです。要するに、自分の「歴史」を確認すれば、なぜ自分がクリスチャンとしてイエス様を愛し、この世を憎むべきなのかを確信することができるということです。
6-11節の命令も 歴史を思い出せる箇所です。例えば、日本語ではすぐにわからないかもしれませんが、23:6節を直訳すると、「まことに強くあれ。モーセの律法の書に記されていることをすべて守り行うためである。そこから右にも左にも外れず」となります。これはヨシュア記1:7からまるごと引用されていて、ヨシュア記の1章の歴史を思い起こさせていることがわかります。ヨシュアは民に歴史を思い起こさせ、民に神の民として最も基本的で中心的、本質的な部分を思い出させています。そして、23:11節で一文にまとめています。「あなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」つまり、歴史を確認すると、神の民の使命が自分たちの神を愛することである、ということがわかります。
7-10節には、神様に従うこと、神様を愛することはどういうことかが具体的に書いてあります。その要素は二つあります。一つは、ヨシュア23:7に書いてある、他の神様を愛さないこと、そして、そのような神がみを愛する人たちと親密な関係を持ってはいけないということです。そして、それは単なる戒めではなく、ヨシュアは神の民に「罪の歴史」を思い出させているのです。モーセ5書の中で他宗教の異邦人と親密な関係をもってしまった結果、悪影響を受け、偶像崇拝に陥ってしまったケースはいくつもありますが、最も有名なのはバアル・ぺオル事件です(ヨシュア22:17参照)。
民数記25:1-3 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。
ですから、ヨシュアがこのように命令したのは、神の民に「罪の歴史」をピンポイントで思い出させるためでした。「あなたたちはわかっているよね。どんなに悪気がなくても、どんなに神様を愛したい気持ちがあっても、ただ私たちの罪の歴史を見たら、私たちが神様を愛さない人たちに惹かれ、彼らの価値観、歩み方、力、美しさ、幸せにすぐ惹かれてしまうということを。その結果、彼らが愛するものを愛し、神様が忌み嫌うべきものを愛してしまう。もうわかってるでしょう」とヨシュアは示唆しています。つまり、偶像崇拝は霊的な姦淫をするということです。そして、浮気をする人がよく言うことは、意図してやったわけではないし、悪気があった訳でもないということです。神様に対する霊的な姦淫も同じようなことです。どんなに悪気がなくても、私たちが 神様が忌み嫌うべきことに惹かれてしまうことに変わりはありません。私たちが自分の罪の歴史を振り返ってみると、私たちがどれほど、神を愛さない人たちからの影響を受けていることでしょうか?私たちは神様が忌み嫌うべきものに知らず知らずに惹かれていってしまうようなことはないでしょうか?
民に暗い「罪の歴史」を思い出させたあと、8-10節でヨシュアは「神様を愛すること」のもう一つの要素を紹介します。それは、神様を愛する「恵みの歴史」です。なぜ「恵みの歴史」を思い出しているのでしょうか?なぜなら、ヨシュアにとって、私たちが神様を愛さず、他の神々に惹かれてしまう根本的な理由は、「恐れ」ということなのです。英語ではやっている表現がありますが、FOMOという表現です。”Fear of Missing out”の略ですが、「ある幸せ、恵み、充実した生活を見逃してしまうかもしれないという恐れ」ということです。聖書の話に言い換えると、神様が恵みをくださることは否定しませんが、他の神々が約束してくれるような幸せや恵み、充実した生活を見逃してしまうかもしれないという恐れです。しかし、8-10節を言い換えると、ヨシュアは次のように言っています。「あなたがたはただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがり、主を愛した。そのため、神様があなたがたのために戦われ、あなたがたを愛してくださったから、あなた方はこのように約束の地を受け継ぎ、膨大な恵みをいただいて、幸せになっている。だから、恐れる必要はない。神様が下さる恵はこの世が約束する恵みに勝るものであり、その恵は十分であるからだ。むしろ、あなた方が想像する以上に有り余るほどなのだ。揺るぐことなく神様を愛しなさい」と。つまり、歴史は未来のひな型だから、恐れることなく神様だけを愛しなさい、と言っているのです。
イエス様もヨシュアと同じことをおっしゃっています。むしろ、もっと強く主張されます。イエス様がおっしゃる偶像崇拝は、単に目に見える偶像を拝むことではありません。新約聖書にはさらに高い基準があります。「地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」(コロサイ3:5)貪欲はまさしく”Fear of Missing out”、「ある幸せや恵み、充実した生活を欲しがり、それを見逃してしまうかもしれないという恐れ」から来るものです。しかし、イエス様が私たちに下さった「恵みの歴史」はヨシュア記に書かれた数倍以上の恵みなのです。イエス様が私たちに命じられた、すべてのことを守る理由(マタイ28:20参照)は、単にイエス様が命令されたからではありません。私たちがイエス様を愛し、イエス様に従う理由は、イエス様がまず私たちを愛し、豊かに恵んでくださったからです(1ヨハネ4:18-19)。人は、この「世の恵み」を得ようと思うなら「イエス様の恵み」を失います。たとえ人が全世界を手に入れたとしても、十字架の恵みを失うなら、「何の益があるでしょう」、と聖書は結論付けています(ルカ9:23-25参照)。ですから、自分たちの「歴史」を振り返ってみると、私たちはなぜ、クリスチャンとしてイエス様を愛するべきなのか、この世を憎むべきなのかを確信することができます。
そして、ヨシュア23:12-16の最後のポイントは、「この世の力を軽んじてはならない。そして、神様の力も軽んじてはならない」ということです。
歴史を振り返って、自分たちの「将来の希望」と「神を愛する使命」を確信することは新しいことではありません。しかし、ヨシュアは神の民の傾向をよく理解しています。私たちがこの世の力と神様の力を軽んじてしまうという傾向をよく知っています。「大丈夫、大丈夫。この世が提供する恵みや幸せを求めたとしても、大したことはない。それでも自分は神様を愛せる」と思ってしまうような時はありませんか?ヨシュアはこう注意します。
「12 しかし、もしも、あなたがたが再び堕落して、これらの異邦の民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っているこれらの者たちと親しく交わり、彼らと姻戚関係に入り、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来ることがあれば、 13 あなたがたは、このことをしっかりと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはやこれらの異邦の民をあなたがたの前から追い払われない。彼らはあなたがたにとって、罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。そして、あなたがたは自分たちの神、主がお与えになったこの良い地から滅び失せる…16 主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、主の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」ヨシュア 23:12-13、16
これは恐ろしい約束です。そして、23:1-3ですぐにわかりますが、12部族が自分たちの土地に帰って、幾日も過ぎたのに、まだ敵が残っていました。すでに神の民は、自分の弱さと罪の力を軽んじて、油断してしまったのです。そこで、ヨシュアはまた、愛をもって真実を語りながら、「私たちはまた罪にとらわれるぞ!また神様から離れるぞ!最終的に神様の罰を受けることになるぞ!罪を軽く見るな!」と注意します。しかし、聖書を読み続けると、神の民は、ヨシュアが注意したことを全部無視して、神様を愛さず、周りの人たちに影響され、神様を偶像と取り替えてしまいました。そして、神様が神の民に約束してくださったすべての良いことが、神の民に実現されたと同様に、神の民に約束されたすべての罰がもたらされ、最終的に神の民は裁かれました。ですから、この世の力と罪の力を軽んじてはいけません。なぜなら、聖書には長い「裁きの歴史」もあるからです。
もし歴史が未来のひな型であるなら、神の民の「罪の歴史」と「裁きの歴史」を思い返すと、自分たちの未来について怖くならないでしょうか?自分たちの歩みの実態を真剣に吟味するなら、怖くならない人はいないでしょう。しかし、「究極のヨシュア」であるイエス様の最後のことばは、「さばき」のことばではありません。イエス様の最後のことば、そして、私たちの「歴史」は、さばきではなく「福音」なのです。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)私たちの世の終わりにあるのは何でしょうか?それは、「最後のさばき」です。しかし、イエス様が私たちに福音を語ってくださいました。「その裁きのときに、わたしはあなたとともにいる。」イエス様は私たちの罪の上にご自分の血を流し、私たちの愛のない歴史の上にご自分の「義」で覆ってくださいます。「しかし、私は今いろんな罪を犯している!そのような愛に値しない」と思う方がいるかもしれません。しかし、よく読んでください。「いつもあなたがたとともにいます。」私たちが深い罪を犯したときに、神様は私たちから離れると思いますか?とんでもないです。全てが始まる前から私たちを選んでくださった御父、私たちのために死んでくださった御子、私たちの汚れた魂に宿っておられる御霊は、私たちといつも共におられます。神様がご自分の民を愛する力を軽んじてはいけません。ですから、この変わらない三位一体の救いの歴史を振り返って、自分たちの希望を確信し、イエス様だけを愛することを決心し、罪の力を軽んじないように歩みましょう。