2022年2月13日礼拝 音声有 説教「ひとりでに実る」

*通常の会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信の予定です。This service will be held in person at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

 

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏

招きの言葉                  ペテロの手紙第一 1章23〜25節

さ ん び 「主は今生きておられる Because He Lives」

さ ん び 「私たちのこの口は」

開会の祈り

主の祈り

教会福音讃美歌          213番 「神の国と神の義」

聖書朗読                     マルコの福音書 4章26〜29節

聖書の話              「ひとりでに実る」                                   廣橋嘉信牧師

教会福音讃美歌          482番 「昔主イェスの」

献   金

報   告

とりなしの祈り                                                                         マーク・ボカネグラ牧師

頌栄 (教会福音讃美歌)        271番 「父・子・聖霊の」

祝   祷                                                                                    マーク・ボカネグラ牧師

後   奏                   讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアメン」

 

説教(聖書の話) 「ひとりでに実る」

序文)2022年度、私の説教当番のときは、原則として主イエス様のたとえ話を中心にしたいと考えています。今朝は第一弾です。マルコの福音書は、「神の国の福音」と言われています。主イエス様が「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣言し始められた神の国のさまざまな様相は、次々と明らかにされてきた。今朝の所は、神の国が育って行く神秘の力についてのたとえ話である。

 

Ⅰ はじめに、そもそも「神の国」とは何なのかについて少しまとめて見ましょう。神の国は神の日々に活動される統治を意味しています。主イエス様ご自身の人格と宣教活動において、神は比べる事のできない仕方で人間歴史の中にご自身を現された。主イエス・キリスト様は人間の罪と死に勝利された。身代わりの十字架上に負われた罪と死は、ご自身の復活によってうち破られ、主イエス様は勝利してくださった。神の国は既にこの意味で実現した。しかし究極的な解放と勝利は、主イエス・キリスト様が再び地上に臨まれる時であり、その意味では神の国はまだ完成していない。現代も途上にある。主イエス・キリスト様の救いに与って弟子となった者たち、キリストの教会は、やがて起こる大きな希望を目指して、毎日途上の旅路を、忍耐をもって恵みに励まされて歩み続けている。

別の表現を用いるなら、神の国は、神から人へと既にもたらされている。主イエス様が「時が満ち、神の国が近づいた。」と言われたのはこの観点である。しかし神の国は人から神への方向性ももっている。それで、「すでに」に対して「まだ」という観点がある。それは「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われている部分です。神様の恵みに対する人間の応答を、主イエス・キリスト様は最初から求めておられる。悔い改めは、知性と意志と感情を含む人格的なもので、信仰は生きておられるお方への全き従順と献身を意味する。

これらのすべてを推進し実現して行かれるのは聖霊のお働きによる。神の国は徹頭徹尾、神様が中心におられる、神様の力によって成し遂げられてゆく。聖霊は目に見えないが間違いなく存在されてお働きになっている。

 

Ⅱ 今朝のたとえ話は、まず、神の国のために、人が出来ることがあると教える。それは種を蒔くことです。福音の種を蒔くことです。救いのみことばを蒔くのです。私たち教会にゆだねられた働きです。信じる人一人一人にゆだねられている働きです。主イエス・キリスト様は天に帰られるときにも「全世界に出て行って、すべての人に福音を宣べ伝えなさい」とお命じになりました。

教会が海浜幕張の地に始められたのは、種を蒔くためである。それは1999年7月の祈祷会から始まりました。定期的な礼拝は2001年4月1日から始まり5月27日に伝道所設立式を行ないました。何のために。それは福音の種を蒔くためである。神の国のために人がしなければならない事があります。蒔いたら刈り入れをしなければなりません。収穫をするのです。蒔かれた種が、実を実らせるときに、人は収穫する事をしなければなりません。

 

Ⅲ しかし、今朝のたとえ話の大切なポイントは、人に出来ないことがあり、それを神様は今もなさっているということです。

蒔かれた種が芽を出して、苗となり、穂をつけ、穂の中に実を結ぶ。それが熟す。種から育つのは、どうしてか?太陽の光と二酸化炭素、水が化学反応・光合成して日数をかさねて育ちます。その際、「頂芽優勢」で成長します。種が芽を出し、一番上の芽が、さらに上に伸びる性質があります。花や木など植物は全部この原則で育ちます。この一連の成長の過程で、人は何も出来ません。

種が芽を出すのは、人が「夜昼、寝たり起きたりしているうちに」です。人が自由にコントロール出来るものではありません。神の国は神の支配であり、神の主権が一方的に働いている。

「地はひとりでに実をならせ」という言葉が、ここを理解する上でのカギである。どういう意味なのか。ギリシャ語「αυτοματηオウトマテ」文字通りに訳すと「オートマティック」です。成長の自動性を言っている。目に見える原因はない。「神ご自身によってなされる」という意味合いです。

この考えを、心の中に蒔かれたみことばによる人の救い、永遠のいのちへの誕生、ひいてはその人々の集まりである教会のいのちという事に当てはめると、ある成長は「ひとりでに実る」あるいは「自動的に」起こされて来るということになります。

しかしながら、クリスチャンは、たとえそれが経験的には証明出来なくても「ひとりでに」実を結んでくるのは、実際は聖霊なる神の働きである事を良く知っているのです。この「オートマティズム」(自動性)は「セオマティズム」(神動性)なのです。

 

神の国の成長は、個人の中で始まり、それがみからだである教会を形成してますます世界大に広がり、深まり、高まり、長く、永遠に続く。それは福音の持つ「ひとりでに」の力による。心の中心に蒔かれるみことばの種の中にある、神が種に仕組まれたひとりでに成長する力によります。私たちは、この大切な原則を宣教に際して忘れてはなりません。

福音のみことばが持っている、ひとりでに実を結ばせる力が発揮されるために、私たちは、自分の内にそのみことばを受けている事、働いている事を信じます。伝えた相手の中に既にみことばは力を発揮しつつある事を信じるのです。

 

結び)ですから、私たち一人一人が、助け合うことが必要です。ひとりでに実を結ぶみことばを分かち合い伝えるために、それぞれが出来ることがあります。種を蒔くのは私たちに出来ることです。水を注ぐことは出来ることです。牧師にしかできないのではなく、既に信じている人はみことばの「ひとりでに」の力を得ている。聖書の言葉を語る機会を作ること。今年一年間、それぞれにチャレンジしてもらいたい。

みことばにある、ひとりでに実を結ぶいのちは、神様が救いに導かれた一人一人の中で成長して行きます。それは一人一人がキリストの恵みの量りで量られた賜物を発揮するように人生を導かれる。それぞれの賜物が種を蒔き、水をやる事のために発揮されるために、自分に与えられた賜物の発見が必要です。さらにその賜物を用いるための訓練が必要です。

自分の弱さを知っているが賜物を与えられている一人一人が、その発揮のために助け主聖霊様の助けを必要としている事に気がつくと、熱心に祈り求めるようになります。義務感や律法的にでは決してなく、恵みの福音による喜びのゆえに熱心が湧き出てくるのです。熱心に祈り求めるものは与えられる。それでなおのこと、賜物を発揮する喜びを人生で味わう。神が自分を通してひとりでに実を結ばせるのを経験して行く事となる。人生で最も嬉しい出来事は、自分の祈っていた方が罪の中から救われる事です。主イエス・キリスト様がおっしゃっている「天にて大いなる喜びがある」その喜びに与るからです。

ひとりでに実を結ぶに至るのは、その蒔かれた種が、生き生きと成長している時です。生き生きとした祈り、感謝、喜び、献身、礼拝、賛美、何でも、福音の恵みがおのずから生き生きと現れる。そのような教会として歩みを進めましょう。