2022年2月20日礼拝 音声有 説教「わたしはいのちのパンです」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信 This service: at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉 イザヤ書 55章1〜3節
さ ん び 「主はわが力 God Is The Strength Of My Heart」
さ ん び 「キリストが全て All I Have Is Christ」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌
聖書朗読 ヨハネの福音書 6章24〜35、48〜51節
聖書の話      「わたしはいのちのパンです」 百瀬ジョザイア伝道師
教会福音讃美歌 301番 「千歳の岩よ」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアメン」

 

説教(聖書の話) 「わたしはいのちのパンです」

 

はじめに

今日から私は、「わたしは何々である」という、イエス様がヨハネの福音書で約7回仰せられた発言を見ていきたいと思います。この七つの発言は比喩(ひゆ=metaphor)です。文字通りに聞くとおかしいが、たとえだと理解すれば印象深い説明になります。例えば、もし私が「私は卵です」と言ったとすれば、どう解釈しますか。たぶん、目の前に187センチの高さの卵が転がっていると想像しませんね。むしろ、卵と私が持っている共通の特徴は何だろうか、と考えて、私の何らかの特徴をより明確に理解されるだろうと思います。ご自身についての特徴を印象深く伝えるために、イエス様も比喩を使われました。なぜかと言えば、ご自身について私たちに大事なことを分かち合いたかったからです。

さて、皆さんにお聞きしたいのは、イエス・キリストはあなたにとってどういう方ですか、ということです。あなたは彼をどういう方として経験していますか。そのご生涯に関する知識や、成就された預言の数々や詳細を知っているかではなく、実生活の経験において、イエス様はどういう存在ですか。言い換えると、「イエスは私の何々である」と言えますか。当然クリスチャンでない方はイエス様の発言には同意できないでしょうが、クリスチャンであっても、イエス様の自己表現を忘れてあるいは無視して歩む時期もありえます。ですから、今日の箇所で新たにイエス様がだれかということを一緒に何か発見できればと思います。

今回はヨハネ書に出る最初の「わたしは何々である」発言を聖書朗読の中で聞きました。その文脈は、イエス様をイエス様ご自身の言われる通りに受け入れたくなかった人々に対する発言でした。彼らの「救い主」や「先生」の理想は、イエス様を拒むものでした。しかし、実は、イエス様は彼らを招いておられました。そして、聖書にこれを書かせた神様は、現代の私たちにも招きかけておられます。

では、まずヨハネの福音書6章全体の文脈ですが、6章の初めでイエス様は、教えを聞きに来た群衆の5千人以上の人のためにパン5個と魚2匹とを、奇跡的に増やしてくださいました…皆が満腹になるほどに(1〜14節)!想像してみてください。好きな有名人の話を聞きに、お店のない田舎にある広い会場へ出掛けて空腹を覚えたところ、聴衆全員のために十分な食事が出てきます。喜びませんか。そこまで気配りしたあの人はすばらしい!と一層思うでしょう。「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と、そこにいた群衆は言いました(14節)。あまりにも興奮してイエスを「王にしよう!」と思ったので、イエス様が逃げるほどの「成功」でした(15節)。

 

一、ユダヤ人の要求

24・25節で群衆がカペナウムの町まで主を熱心に捜しに戻って、見つけます。彼らはイエス様と会話をしますが、どんどん混乱していきます。彼らの要求にイエス様が応じないからです。

25節でこのユダヤ人たちはイエスに「先生」と挨拶します。ナザレ村出身のイエスはもしかしたら神様が遣わすと約束されたメシア、王かもしれないと思っていました。だからイエスを「預言者」「王」「先生」と呼びました。しかし、イエス様は彼らの建前に突っ込みを入れて、結果的に群衆が本音を出して離れて行きます。そのことは25節から66節までに書いてありますが、簡単に言うと群衆が求めたメシア像はイエス様の本当のあり方と異なりました。

群衆がイエス様をメシアとして受け入れなかった原因は三つのことから分かります。一つ目は、救い(永遠のいのち)は自分の努力で得たいと思ったことです。27・28節を見てください。「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」という警告を聞いて、こう返事をしました。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」(28節)しかし、イエス様の答えは29節で「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」と正します。(44・45節でも、イエス様はいのちはすべて父の働きかけにかかっていると教えられました。)

次に、彼らはイエス様に、おもに物質的な祝福を求めていたから、拒みました。彼らは食べ物が常に与えられれば良いと夢見ていました。

30〜31節 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」

群衆はここで紀元前数百年前、ユダヤ人たちの先祖が荒野で生活をしていた時の出来事を指しています。出エジプト記16章13〜36節にある出来事です。神様は甘いパンのかけらのような、マナと呼ばれた食物を降らせてくださって、40年間近く養ってくださいました。ですから、群衆はイエス様に、前日の奇跡をすっかり忘れたかのように、モーセの時代の奇跡以上のしるしを要求しますが、イエス様は応じるどころか、33節で「神のパン」と別の、謎のパンの話をし始められます。ユダヤ人たちにとって、ちんぷんかんぷんな展開です。

そして彼らにとっての三つ目の問題は、イエス様が彼らの輝かしい「メシア像」に合わなかったことでした。イエス様はご自身が父なる神から遣わされた者である、つまりメシアである、と伝えても(6:38-40)、42節のことばで文句を言います。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」イエスは凡人、しかも大工のヨセフとマリアの「でき婚」(授かり婚)の息子として、恥ずかしい過去のある凡人と見做されます。天からのパンとか偉そうに言っている場合じゃないぞ、と思って、「イエスはおかしい」と決めつけます。

一言でまとめると、群衆は自分の想像にあった、都合のよい救い主ならイエスを認めようと思っていました。部分的な救い主、部門AとBができるメシアを求めていましたが、「いのち」ほど大きなことを求めていませんでした。イエス様が彼らの要求に応じませんので、ほとんど皆は呆れてしまって、66節で疑いと拒絶の気持ちで去って行きます。

 

二、いのちのパンとは?

しかし、疑い深い群衆との対話を忍耐強く続けてくれるイエス様の答えは私たちのためにも書かれたものです。ここにいのちが秘められています。「わたしがいのちのパンです。」話の全体をまとめましたが、今度は35節と48節で繰り返された短い宣言に注目して、「いのちの「パン」の意味を考えましょう。

「わたしがいのちのパンです。」これを文字通りに受け止めたら、群衆のようにちんぷんかんぷんになってしまいます。もちろん比喩ですから、パンとイエス様が共通することに着目する必要があります。根本的な、第一の共通点は、どちらも生命を養って維持させることです。パンは人を養い生命を維持させます。イエス様は人に(身体的だけでなく)霊的にいのちを下さいます。もう少し、イエス様を「食べる」人に与えられるいのちの豊かさを見ましょう。

35節 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

一つ目に、いのちのパンなるイエス様は人間の根本的な必要を満たすいのちのパンです。「飢えることがなく、…決して渇くことがありません」と言われています。要するに、イエスを「食べて飲む」者の中にあったむなしさが変わります。空っぽだった心にいのちが入ります。イエス様を信じるようになった時の経験を覚える兄弟姉妹なら、それがどういうことだったか覚えていらっしゃるかもしれません。私の場合、劇的とは言えませんが、子どもとして子どもなりに平安と神様をもっとよく知りたいという思いが心に入ったというふうに覚えています。飢え渇きしないからと言っても、霊的な必要がまだ、一生涯あります。また、信仰生活の「山」と「谷」はあります。ずっとイエス様を必要としながら生涯を送ります。けれども、天国の完全な満たしの前味がイエス様のもとへ行く人、信じる人に与えられます。

二つ目に、いのちのパンなるイエス様は、この人生のあらゆる場面で必要な「いのち」を下さるのです。ヨハネ17章にあるイエスの祈りには、この説明があります。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)「知る」は情報の知識でなく経験上の知識、生き生きした理解のことです。喜び楽しみが伴う、知ることです。イエス様をそのように知ると、自分を造ってくださり愛してくださるまことの神様にある喜びを持つことができます。今週の悩みや苦しみ、また失敗と罪に直面する最中でも、神様と対話することができます。35節で言われている「どんなときにも」イエス様の恵みによって生活することができます。

第三に、いのちのパンなるイエス様は、死んだ後でも不滅の身体を与えてよみがえらせてくださるいのちのパンなのです。ヨハネ6章40節に書いてあります。「わたし〈イエス様〉の父のみこころは、子〈イエス様〉を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」つまり、今の人生だけでなく死んだ後にも、何の痛みも弱さもない身体で神様を永遠に楽しむ生活が用意されています。死後に関する恐怖を抱く必要がなくなります。なぜなら、今のいのちを無限に超えた、イエス・キリストからのいのちがまた与えられるからです。

最後に、いのちのパンなるイエス様は、イエス様の死と復活によって与えられる、尊いいのちのパンであるのです。

51、54節「だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。…わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」

これらの発言を群衆は字義通りにイエスの肉体を食べて、血を飲むと勘違いして、気持ち悪いとつまずきましたが、35節はそれが比喩としての「食べる」ことだったことを教えます。すなわち、本当はキリストのもとに行き、キリストに信頼することがそのみからだと血とを食べ、飲むことの意味です。ところが、血肉が表しているのは確かにぞっとするような暴力、キリストの贖いの死を意味しています。イスラエル人は動物の血を食べてはいけないと命令されていました(レビ17:13-14)。血は神様へのいけにえとしてのみ用いても良い、聖なるものでした。そしてイエス様は最初の聖晩餐を分け与えた夜に、ご自身のからだと血が弟子たちのために裂かれ、流されるものだと示唆されました(ルカ22:19-20)。ヨハネ1章29節でイエス様は「世の罪を取り除く神の子羊」と呼ばれて、当時の羊の犠牲にたとえられました。完全な犠牲となってくださったイエス様こそがいのちを与えることがおできになりました。

まとめると、イエス様はいのちのパンとして、ご自身の犠牲によって、ご自身に近づき信じる者を今も未来にもいのちで満たしてくださるお方です。

 

三、いのちのパンからの招き

普通のパンとイエス様との二つ目の大きな共通点は、どちらも人が受け入れ、自分の内に取り入れないといけないことです。どんなにすばらしいパンがあっても、またそのパンをいつまで見て、買って、切って、材料や栄養分の研究をしても、食べなければ力にはなりません。自分の一部にはなりません。イエス様の話を聞いて、読んで、分析して、整理して、話しても、イエス様ご自身を取り入れなければそのいのちの栄養は受けられません。だからこそイエス様がヨハネの6章で何度も招待してくださいます。

「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35節)

「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(37節)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。わたしはいのちのパンです。」(47〜48節)

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(51節)

イエス様がこのように仰っている訳です。「わたしのもとに来なさい。自分の心の拠り所を自分、お金、人間関係、力、外見、能力などからわたしに移しなさい。今の人生と死後に来る世界に関して、犠牲を完全に払うわたしにより頼みなさい。来るなら、決して追い出しません。信じて、永遠のいのちを持って。受け入れて、永遠に生きなさい。」

イエス様のもとに来るためには、先に聖霊様が心に働きかけて、意志を新たにして、キリストに信頼できるようにする必要があります。そしてキリストがヨハネの6章で特に仰っている「食べる」ことは、初めて信じるときのことを含みますが、それでは終わりません。ここにいるクリスチャンの皆さん、今日、主イエス様はあなたにとっていのちのパンとなってくださいます。主は常にいのちのパンを取り入れるように招いておられます。

クリスチャンには、ユダヤ人のように自分のわざでいのちを少しでも得ようとしたり、自分の好きなイエス像に曲げたりする危険性があります。例えば、イエス様をただ死ぬときの慰めを与える、遠い存在にしてしまうことがありえます。あるいは、自分のいのちがキリストによって確保されているのを忘れて、自力で責任を果たさないといけないと焦ってしまうことがありますが、これが都合の好いことかもしれません。なぜなら、イエス様のからだが裂かれ、血が流されたのは立派な人のためではなく罪人の罪のためでした。「イエス様、あなたのいのちを下さい」と祈ることは、「私は弱くて、罪深く、情けなく、自分自身にいのちのない者だ」と認めることです。けれども、聖霊様が助けることによってキリストを自分のいのちのパンとしてより頼めば、今日も未来にも平安に歩めます。

ヨハネ6章でイエス様は聖晩餐式を直接指してはいないと思いますが、聖晩餐式はこの箇所の意味をよく象徴しています。信じて主の晩餐を食べて飲む人は毎回、自分にいのちがなく、イエス・キリストの死によっていのちを頂くことに望みを置いて陪餐します。クリスチャン生活全体に関しても、イエス・キリストのいのちによって生きるためには、私たちは主のもとに来て、信じる必要があります。

では、どのような方法でイエス様の招きに応答して、永遠のいのちを経験できるでしょうか。この教会で「恵みの手段」と呼ばれる方法でよくまとめられると思います。私たちは聖書のことばに耳を傾けて、イエス・キリストがしてくださったことと約束されたことの福音を思い起こして信じます。見える形を取った「福音」である洗礼と聖晩餐式に参加して、同じように福音を思い起こして信じて、悔い改めます。そしてその信仰と悔い改めを具体的に祈り(賛美を含む)によって神様に返して、そこに対話を経験します。神様のみことばをいただいて、祈りのことばをささげるこのやりとりは公の礼拝の形だけではなく、日常の生活における一人一人の礼拝になります。いのちのパンと日々を過ごすことができます!

 

結論

イエス様はあなたにとって、日々いのちのパンですか。死んだら天国に行けるための「保証」のような、生命保険ではありません。イエス様は罪悪感を取り除き、快適に暮らすための「しもべ」や困ったときだけのためのドラえもんでもありません。イエス・キリストは私たちが神様と生き生きした関係を持てるようにしてくださったお方です。ですから、「どんなときにも」信じる者にいのちで満たしてくださっています。「イエスが私のいのちのパンです」と告白して、さらに喜んで歌って、またそれを生きる現実として歩むことができますように。