*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信 This service: at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.
(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)
礼拝式順 10:45〜12:00
前 奏
招きの言葉 コロサイ人への手紙 3章3節
さ ん び 「詩編100」
さ ん び 「御手の中で In His Time」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 482番 「昔主イェスの」
聖書朗読 ルカの福音書 13章18〜21節
聖書の話 「神の国の成長?」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 462番 「主の愛と御恵みに」
献 金
報 告
とりなしの祈り 廣橋嘉信牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝 祷 廣橋嘉信牧師
後 奏 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアーメン」
聖書の話(説教) 「神の国の成長?」
序)今朝は、たとえ話の第二弾です。主イエス・キリスト様は、神の国について、ここで二つのたとえを話されました。からし種のたとえと、パン種のたとえです。神の国の成長力と、パン種としての福音がもたらす神の国の民の変化について説明されました。順次、学びましょう。
Ⅰ 13章18-19節 からし種のたとえ
1 からし種は、イエス様の時代「くろがらし」の種を指していました。アブラナ科の一種です。栽培用と野草に分かれていました。成長はとても早くすぐに2-3メートルになりました。大きいのは4メートルぐらいで、よく小鳥が群がり、黒い小さな実を好んでついばんでいると言われています。庭に蒔くものなら、手入れも良くするので成長する条件が良い。初めは、どこにあるか分からないほどの小さな種が、自分の成長力によって意外な程の大きさとなって感化を及ぼす、空の鳥が来て枝に巣を作り宿るようになる。
2 旧約聖書では、空の鳥が来て宿る木というたとえで、大帝国を示していました。その支配にある国々を木の枝に宿る鳥のように描いています。ダニエル書4章19-22節「そのとき、ベルテシャツァルと呼ばれていたダニエルは、しばらくの間驚きすくみ、いろいろと思い巡らして動揺した。王は話しかけた。「ベルテシャツァルよ、この夢とその意味のことで動揺することはない。」ベルテシャツァルは答えた。「わが主よ、どうか、この夢があなたを憎む者たちに当てはまり、その意味があなたの敵に当てはまりますように。あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さが天に届いて、地のどこからも見え、葉が美しく実も豊かで、すべてのものの食べ物があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、王よ、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。」
バビロンのネブカデネザル王の夢を解き明かしたダニエルの説明にあるとおりです。
3 ですから神の国のたとえとして、このことを考える時、神のご支配の完成した姿は、世界の諸国が、そこに望みをかけ、その中に入ってくる世界的広がりを見せるということです。神の国は、初め個人から始まり、最後は全世界に及んで行く。世界中のすべての国民がそこに含まれるのです。
当然、神の国は多様な民によって成立している。信仰の表現も、経験も礼拝様式もさまざまで、多様な人々によって実現されて行きます。神のなさることが完成した時には、主イエス・キリスト様のもとに一つとなるのです。
人間が作り出すものは、さまざまな障害をもうけて国家間、人種間に差別をし、その割れ目を深めて行こうとします。しかし神がへりくだってくださって、ご自分の側から罪人に和解の手をさしのべ、御子イエス様によって和解させてくださったので、成立した神の国、その現れである神の支配に服する教会は、人間の生み出す障害を排除するために戦い、キリストにある多様性を認めて、しかも一つとなって行かなければならないのです。
ルカ11:20「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」と主イエス・キリスト様がおっしゃった時、確かに神の支配と力は、私たちの中に今、働いていることをさしておられるのです。12人の弟子から始まった福音宣教は、現在世界中に広がっているのです。
ヨハネの黙示録7章9節「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」
Ⅱ 13章20-21節 パン種のたとえ
1 これも福音は次第に広まり、実を結ぶが、静かで気づかれないということです。そして、みことばによって益を受けるのは、それを受け入れる心を持った者です。パン種は、すりつぶされていない麦の中では始動し始めない。同様に、福音も、罪のためには砕かれていない魂、失意を味わっていない魂の中では働かない。律法が心を砕き、それから福音がパン種として働く。
3サトンの粉は、39リットル、かなりの量である。「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです」(ガラテヤ5章9節)から。(良いパン種も悪いパン種も。)
粉はパン種が入る前にこねなくてはならない。私たちの心も同様で、みことばから影響を受け取るために、すりつぶされた麦と同様に、心は砕かれて、湿っていなければならず、苦痛とともに受けるのである。乾いた小麦粉の中にイースト菌を入れても何も起こらない。
パン種は、心に蓄えられねばならない。詩篇119篇11節「私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」それは隠しておくためではなく、みことばはそれ自身を表すものですが、私たちの安全のために蓄えるのです。私たちは、みことばを基礎としなければならない。ちょうど、母マリアがキリストの言われたことを、みな心に留めていたようにである(ルカ2:51)。女の人が粉にパン種を入れるのは、それによってパンを作るためであるが、私たちもまた自らの魂にみことばの宝を積み、ヨハネ17章17節にあるように、それによって聖別、聖化され、ついに栄化されるためである。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」私たちを成長させ、聖化させるのは、真理によって、即ち、福音の真理を知ることによってなのです。
2 このようにパン生地に入ったパン種は、そこで働き、発酵する。
「神のことばは生きていて、力があり」(ヘブル4章12節)とあるように、パン種はこねた粉の中でゆっくりと働きます。みことばも同じように、働きますが、ゆっくりとである。完成までは生涯をかけてです。
マルコ4章26-27節「またイエスは言われた。『神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。』」みことばは(福音は)、静かに、しかし強くて抵抗できないように働く。植物の成長と同じで、その働きがなされても、音を立てることはない。それが、聖霊のやり方であり、しくじることなく行われる。パン生地にパン種をわずかでも入れるなら、その働きは、誰にも見えないし、音を立てることもないが、双方が作用しあって、徐々に「全体がふくらみます。」 (マタイ13章33節)
初代教会においても、このようであった。使徒たちが、福音を説教すると、大多数の人間に一握りのパン種が入った。やがて不思議な効果が生じました。世界は発酵状態になり、ある意味で「世界中を騒がせた」(使徒の働き17章6節)。しかし、それは徐々に味や風味が素晴らしいものへと変っていった。福音の香りが「いたる所で放たれて」いた。第二コリント2章14節「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」 みことばは、このように効果があるわけですが、それは外からの力、抵抗可能な力、征服可能な力に押されてのことではありません。万軍の主の御霊が働く所では、誰も逃れることが出来ない。
心においても、このようである。福音が魂の中に入ると、変化が起こる。といっても、実体そのものが別のものになるのではない。パン生地は同じでも、質が変わるのである。これまでの私たちとは別の香りを放ち、別の風味となる。また他のものごとも、私たちにとって、以前とは別の香りを放つものへと変るのです。ローマ8章5節「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。」
即ち、全体的な変化が起こってくる。福音は魂のすべての力や機能に溶け込み、からだの手足の特性まで改造する。ローマ6章13節「また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」
この変化は、パン生地にパン種が入ったのと同様、魂がみことばの本性に与ることから起こる変化です。第二ペテロ1章3-4節「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
私たちは、鋳型に投げ込まれたようにその中に入れられ、ろうそくの上で印を押したように同じ形に姿を変えられる。第二コリント3章18節「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 ローマ6章17節「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し」。
福音は、神の香り、キリストの香りを放つ。そして、自由なる恵みと来るべき世の香りを放つのであるが、これらのことは、私たちの魂から放たれるのです。それは、信仰のことばと悔い改めと聖なる性質と愛の言葉ですが、これらは福音によって魂に植え付けられるのである。このような香りが伝わるのは気づかれないほどだが、それは 「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」(コロサイ3章3節)しかし、決して分離されることはないのです。み恵みは、それを持っているものから「取り上げられることはありません。」(ルカ10章42節)
パン生地がふくらむと、それをオーヴンで焼く。パンが出来上がるには、試練や苦悩によって、焼かれねばならない。このようにして、聖徒たちは主なるキリストの聖晩餐式のテーブルのパンになるにふさわしい者へと変えられる。
結び)2022年が始まり早くも二ヶ月が過ぎました。この一年、神の国は、私たちの間でどれほどの成長をするでしょうか。蒔かれたイエス・キリストの福音の種は、どのように芽を出して、枝を伸ばして行くことでしょう。
また、福音の力と恵みにより、私たちの本質は、どのように古い生まれつきの自分に死に、神の子の新しい自分に変質して行くでしょうか。聖霊様の助けは、この年度もさらに溢れるように必要であると期待して、祈りをもって進みましょう。