*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信 This service: at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.
(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)
礼拝式順 10:45〜12:00
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コロサイ人への手紙 Colossians 3:3 |
さ ん び | Response to Call | 「喜びの声上げて」 |
さ ん び | Praise | “On Jordan’s Stormy Banks” |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 〈教福〉339番「この世にイェスの御名を」TH 408 “For All the Saints” J1, E2, J4, E5 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨシュア記 Joshua 24:29-33 |
聖書の話 | Message | 「黄金期には終わりがある。」
”An End to the Golden Age” マーク・ボカネグラ牧師 Pastor Mark Bocanegra |
賛 美 | Hymn | 教福304番 「恵みのひびきの」
TH 433 “Amazing Grace” E1, J3, E5, J7 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Congregational Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 Pastor Mark Bocanegra |
頌 栄 | Doxology | 〈教福〉271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師Pastor Mark Bocanegra |
後 奏 | Postlude / Amen | 讃美歌567番[V]
「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)「黄金期には終わりがある。」 ”An End to the Golden Age”
牧師という職業の特徴の一つは、聖書の神様が約束される「永遠のいのち」について色々な人たちに話をすることです。しかし、日本に住む21世紀の人間としてーどの時代とどの文化でも同じですがー「永遠のいのち」に対する必要性を感じない人は多いようです。しかし、私は、多くの人たちは、無意識に、日々「永遠のいのち」を追い求めているのではないかと思います。それは、私たち人間が、どういう訳か「永遠の黄金期」というものを期待しているからだと思います。
例えば、10-20代と同じように食べられる、瘦せられる、動ける、働けると思っていましたが、30代に入って自分の限界を感じ始めています。しかし、自分自身には「自分はまだまだ同じように行ける」とどこかで思っているところがあります。「黄金期は終わるものではない」「成長は絶対に衰えない」「今まで経験した喜びはなくなるはずがない」と無意識に考えてしまうときはありませんか?そして、反対に、「あの時の『〜』に戻りたい」(体重、関係、安定、自由、幸せなど)というような願いも「永遠の黄金期」に期待することだと思います。
そして、まだ黄金期を経験していない人たちは、「そのような黄金期に入れば、絶対に幸せになる」と期待してしまうこともあります。その上、自分の体や人生に対してだけではなく、自分の家族、自分の人間関係、コミュニティー、会社、経済、社会、政府にさえも「永遠の黄金期」を期待することがあるかもしれません。教会、またはクリスチャンライフの「永遠の黄金期」を期待してしまうかもしれません。しかし、本日の箇所でが示す通り、人が衰え、死んでしまう限り、どのような黄金期にもいつか終わりが来ることを認めなければなりません。
本日の箇所では、もっとも重要なことである「死と永遠のいのち」に焦点を当てます。英語で「タイタニック号のデッキチェアの再配置」という表現がありますが、その意味は沈み始めているタイタニック号を美しくリフォームしたとしても、沈むという結末は変わらないし、全く意味がないということです。ですから、もし「死と永遠のいのち」について考えることもしないで、日常生活に「黄金期」を見出そうとすることは、「沈み始めているタイタニック号のリフォーム」と同じようなになってしまいます。ですから、この箇所を「死と永遠のいのち」を意識しながら見て、自分たちの日常生活に適応したいと思います。この箇所から学べる3点を覚えていただきたいです。
最初に覚えていただきたいことは、①「どんな人でも衰えて死ぬので、どんな黄金期も衰えて終わる」ということです。聖書を創世記から読んでいくと、ヨシュア記は「黄金期」です。神の民が色々な試練を乗り越え、神様とともに敵を追い払い、神様の約束とみことばに600年も期待し続け、ついにヨシュア記で待ち続けてきた相続地を神様から頂きます。神の民も大きな罪を犯していませんでしたし、この前の箇所では、真心から神様に対して自分たちの忠誠を誓いました。ですから、ヨシュア記は神の民の「黄金期」を書き記した書物だとも言えます。
この書物を読み終わって、読者が「ヨシュア記のような『黄金期』を経験したいな」と思う時に、その思いに水をさすかのように、「黄金期」をもたらしたリーダーたちの「死」がずらっとその後に書いてあります。この箇所では、4世代のリーダーたちの「死」が示唆されています。一世代目は、ヨシュア、エルアザル、そして「ヨシュアより長生きした長老たち」の世代です。二世代目は、「モーセ」と「アロン」という、ヨシュアの前の世代です。そして、この箇所にも、エジプトとイスラエルを救い出した「ヨセフ」の亡骸について書いてありますので、「ヨセフ」の世代も示唆されています。そして、カナンの土地を一部買った、イスラエルの12部族の「父」である「ヤコブ」についても書いてあります。ですから、4世代(ヨシュア、モーセ、ヨセフ、ヤコブ)の黄金期のリーダーの「死」がこの箇所に示唆されていて、すべての人が衰え、最終的に亡くなって、黄金期が終わったという歴史が強く感じられる箇所なのです。
しかし、面白いことに、人間は自分の限界を知りながら、なぜか限界のない「永遠」の何かを期待してしまいます。元気に毎日を過ごしている人は「永遠のいのち」の必要性を感じないかもしれませんが、「いつか黄金期が来る」あるいは、「今ある黄金期がいつまでも続いてほしい」という希望は、21世紀の人々が抱く希望かもしれません。しかし、この箇所では、「人間の限界」ということに直面せざるを得ないのです。人は衰え、人は死んでいく。その結果、コミュニティーも衰え、死んでいくのです。そして、最終的には黄金期も衰え、終わってしまいます。もし歴史を見て、国や会社、組織などの黄金期が、いつかは終わるのであれば、「人生の黄金期」、「教会の黄金期」も永遠に続くことはないでしょう。「永遠の黄金期」を求めることは悪いことではありませんが、いつか衰えて死んでしまう人間の手では獲得できないということを認める必要があります。
しかし、限界はあっても人間として「終わることのない黄金期」または「永遠のいのち」を求めることは、空しいことではないでしょうか?ここで二つ目のポイントを覚えていただきたいです。②「永遠の神様は、衰えず、ひるむことなく、寄留者である私たちのために『永遠の約束の地』を用意してくださっている」ということです。
21世紀に住む者としては、「永遠」に対してちょっとしたアレルギーがあるかもしれません。21世紀の思考回路は、ニーチェの哲学に大きく影響されています。ニーチェはこういうのです。「神様とか、天国とか、地獄、永遠なものはない。だから、そのようなものを追う必要はない。人は衰え、人は死ぬ。人間の命は、一瞬ではかないものだから、目の前にあるものだけを楽しみなさい。自分の人生のはかない一瞬、一瞬を存分に楽しんで過去のことや将来のことは忘れてしまいなさい。『今』だけがあるのだから、『今』という はかない一瞬を『永遠のひととき』として楽しみなさい。」これは21世紀のスピリットを表していると思います。要するに、ニーチェと21世紀の考え方は、一方で人間の限界を認めつつ、「永遠」なものを手放しますが、皮肉なことに、もう一方ではかない一瞬、はかない人生から「永遠の楽しみ」を引きだそうとしていて、「今」を握りしめているのです。
しかし、聖書の人物は違います。限界のある世界から永遠の「何か」を期待してはいません。私たちはただこのはかない世界の寄留者です。衰えて死んだヤコブ、ヨセフ、モーセ、アロン、ヨシュア、エルアザルは、この世での「黄金期」という、はかない一瞬から「永遠のよろこび」を引き出そうとはせず、安易に手放しました。なぜなら、永遠の神様が、衰えず、ひるむことなく、自分たちのために「永遠の約束の地」を用意してくださっていることが彼らの希望と期待でした。
ヘブル書は次のように彼らの信仰を描いています。
これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。 (ヘブル11:13-14)
覚えていただきたいのは、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、アロン、ヨシュア、エルアザルは、地上での「黄金期」を経験しましたが、彼らは神様が約束されたものを手にいれることはできませんでした。
ヤコブは約束の地に葬られましたが、エジプトで亡くなって、約束の地を楽しむことはできなかったのです。ヨセフは人生の大半をエジプトで過ごして、エジプトで亡くなりました。モーセとアロンは、約束の地に住むこともできないまま、荒野で亡くなりました。そして、ヨシュアとエルアザルは約束の地に住むことはできましたが、その地からすべての敵を追い払って、自分の所有地にすることはできませんでした。しかし、このように、「黄金期」を経験した一人一人は、「自分の黄金期」が終わったことに、関心はありませんでした。
彼らは、「わたしが寄留して追い求めているものは、神様が用意してくださる『故郷』と『永遠の約束の地』です」と考えていたからです。そして、この地上に寄留し、ここで衰え死んでも、私たちは、永遠の神様が用意してくださる『はるか遠い希望』を見て、喜び、楽しみ、その希望を頂ける」という信仰を持っていたのです。そして、最終的に、聖書を読むと、「主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて」実現されたことがわかります(ヨシュア21:45)。
しかし、このような疑問がわくかもしれません。「まあ、永遠の神様が彼らが願っていた『永遠の約束の地』を実現したことは嬉しいことなんだけど…全く意味ないじゃないですか?ヨセフ、ヨシュア、エルアザルの亡骸が約束の地に埋められたことが神様の約束の成就であれば…。クリスチャンはそんな馬鹿げた、虚しい結末を期待しているのですか?恥ずかしくないですか?そんな結末になるんだったら、生きている間に楽しんだ方がマシじゃないですか。」21世紀の現代人とニーチェも私たちが信じていることを馬鹿にすると思います。しかし、その通りだと思います。ですから、最後に覚えていただきたいことは、③「衰えて死ぬ人は『永遠の約束の地』を楽むことはできない。だからこそ、私たちが『永遠の約束の地』を楽しむために、神様は『永遠のいのち』を用意してくださる」ということです。
ヘブル書はこのように説明しています。
もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。”(ヘブル 11:15–16)
わたしたちの信仰の先輩たちはこのように答えると思います。「あなた方は、私たちが求めていたものが、中東にある土地の塊だと思っていたのか?あなた方は私たちが信じている神様がどのようなお方なのか、本当に理解しているのか?私たちが信じているのは、天におられる、全知全能で、無限、永遠、不変の生ける神様なのだ。その生ける永遠の神様が、衰えて死んでゆく、ご自分の民の亡骸を埋めるだけで終わると思っているのか?それはあり得ない話だ。私たちの生ける永遠の神様は、私たちを『もっと良い』故郷に連れて行ってくださり、そこに私たちを住まわせ、私たちがそこでの生活を楽しむために、私たちに永遠のいのちを与えてくださるのは当然のことなのだ。私たちの黄金期は、あなた方が考えるような地上でのむなしい黄金期ではない。あなた方は、大きな勘違いをしているのではないか」と。
新約の時代に住むクリスチャンとして、私たちにも全く同じことが言えます。私たちはいきいきとした若さと健康、充実した人間関係、喜びをもたらす仕事、満足できる実績、人に認められる歩み、幸せな家族、心地いい生活を求めます。しかし、クリスチャンとして、そのような物を持っているときが「黄金期」だと勘違いしてはいけません。そのようなものは私たちの相続地、あるいは、神様が約束された「永遠のいのち」ではありません。パウロは、私たちの「永遠のいのち」は、神の長子として、神の子として、イエス・キリストが相続するものを、私たちも相続することです(参照:ローマ8:16-18)。それが私たちの永遠のいのちです。
もし自分で「私はキリストのもの」と告白するなら、あなたはキリストの「長子の霊」、つまり「長子の相続権」を頂いているのです。私たちはイエス様が相続されるものをすべて頂くのです。イエス様は何を頂かれましたか?イエス様の相続は、心地いいハワイの別荘でしょうか?そんな訳ないですよね。そして、イエス様はどこにいらっしゃいますか?イエス様の亡骸は約束の地の首都エルサレムに埋められていますか?とんでもないです。イエス様は、神様から永遠のいのちを相続され、天の都へ行かれ、神様の右の座に座しておられます。何千万人もの御使いたちがイエス様の名をほめたたえています。イエス様は、天と地の権威を引継がれ、永遠の神様とともに、最高の人生を今、送られているのです。
もしイエス様がそれらを相続されたなら、あなたも、私も、確実にそれらを相続できるのです。ですから私たちがこの地上での黄金期を経験できたとしても、ただただ苦しみと恥を受けこの地上を寄留したとしても、私たちが相続する「栄光」、「永遠のいのち」、「天の都」に比べれば、それらは取るに足りないことと私たちは考えます。そのような希望をもって歩めるように、信仰をもって歩みましょう。