*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信 This service: at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.
*動画はございません。ご了承ください。
(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)
礼拝式順 10:45〜12:00
前 奏
招きの言葉 イザヤ書 60章1〜3節
さ ん び 「死を打ち破り」
さ ん び 「キリストの光」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 182番 「みことば放たれ」
聖書朗読 ヨハネの福音書 8章12節
聖書の話 「わたしは世の光です」 百瀬ジョザイア伝道師
教会福音讃美歌 359番 「私の望みは主イェスだけに」
献 金
報 告
とりなしの祈り 廣橋嘉信牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝 祷 廣橋嘉信牧師
後 奏 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアーメン」
聖書の話(説教原稿)「わたしは世の光です」
ヨハネの福音書8章12節 「わたしは世の光です」
はじめに
先月から、イエス様がヨハネの福音書で「わたしは何々です」とおっしゃった比喩(比喩、メタファー)の箇所を見ています。第二弾として、ヨハネ書の順序で言うと二つ目の「わたしは世の光です」ですが、このみことばを聞くと皆さんは何を思い描かれますか。光は安心させますか。それとも、恥ずかしく、怖いことを連想させますか。
私たち人間は暗い場所が怖く、明るい場所が楽しく安心できる、と自然と分かると思います。しかし、同時に光が怖くて闇が心地好いときもあります。前回の説教で申しましたように、イエス様は私たちにとって都合の悪い救い主です。絶対的な力を持ち、完璧な義の基準を持ちながら、一切の祝福を恵みのみによって受けられますよ、と誘いかける救い主です。私たちが持つ、それぞれ恥ずかしく思う過去、みっともない弱さや悔しい罪に光を当てる救い主は本当に欲しいのでしょうか。好き勝手に、誰にも見られないで過ごすのが楽な場合がありますね。自分の失敗を素直に認めて、憚らないで言えることはあまりないのではないでしょうか。
そこで、イエス・キリストが私たちを闇から引き出し、闇に光を照らし、いのちを与えようとしておられます。今日の箇所の背景と人間に纏い付く「暗闇」を見てから、イエス・キリストが世の光であることと私たちの反応について考えていきたいと思います。
一、イエス様の宣言の背景
ア、箇所の文脈 ヨハネの福音書の構成は、イエス様がどなたなのかを示す奇跡的な「しるし」の幾つかに焦点を絞って、できています。その「しるし」によって、人がイエスを主、救い主として信じるようにとヨハネが努めました。
ヨハネ20:30-31 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
前回6章でパンと魚を増やされたしるしがあり、9章で「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です」と言われてから、目の見えない男の目に光が通るような奇跡をなさいました。この二つのしるしに挟まれている話、7章と8章のエピソードはその二つのしるしを繋ぎ合わせるような、エルサレムへ祭りに上ったイエス様の話です。「仮庵の祭りというユダヤ人の祭り」(ヨハネ7:2)の時期にイエス様がエルサレムへ上京したのがその始まりです(7:10)。
イ、祭りの意味合い 仮庵の祭り?ピンとこないかもしれません。しかし、これはユダヤ人にとって大人気な祭りであり、イエス様の宣言と関係しています。この祭りは9月、10月頃に、一週間に渡って祝われました。木の枝からできた仮庵(テント、小屋)に住み、先祖たちがその一千数百年前に荒野で天幕に暮らした時代を思い出し、記念する時でした。神様が彼らに天からの食物を送り、飲むための水を与え、炎と煙の柱の形を取って守って導いてくださったというすばらしい思い出の機会でした(レビ記23:34-43)。ユダヤ教の史料によると、イエス様の時代の仮庵の祭りでは、エルサレムにあったシロアムの池から水を汲み、神殿の庭にある鉢に注ぎ出す儀式がありました。これは荒野で与えられた水を思い出すためであったそうです。
そして7章37節で「祭りの終わりの大いなる日」にイエス様は叫ばれます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」推測ですが、その水の注ぎの儀式の最中か終わって間もない時だったでしょう。(ヨハネ7:37-38)水を注ぎ出す儀式が指していた、神様からの水の意味はいのちを与えられるイエス・キリストご自身であったのです。
仮庵の祭りの終わりに四つの燭台を灯す儀式もありました。モーセがイスラエルの民を率いた時代のもう一つの特別な経験がここで示唆されている、と多くの読者が指摘します。出エジプト記13章21、22節にその始まりが書き記されています。
主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。
主なる神様が奴隷の生活のエジプトから約束の地カナンへイスラエルを導かれた際、ともにいてくださり、守り、導いてくださいました。これも推測ですが、メラメラと炎が揺れ動く中、あるいはその景色が鮮明に人々の記憶に残っているときに、イエス様が8章12節の宣言をなさったことでしょう。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」今、ご自身がそれである、と仮庵の祭りの終幕でお告げになります。つまり、この祭りの意義とは?それは、イエス様を指していました。イスラエルの民はモーセの時代にこの世における約束の地を待ちながら、神様の備え、ご臨在やお守りを楽しんだが、それらより身近に偉大な備え、ご臨在、お守りが群衆のただ中に立っておられました。
ウ、「闇」とは? 光としてのイエス様について考える前に、逆の観点から「闇」が何を指すかを考えるとよいと思います。ヨハネの福音書では霊的な「光」と「闇」(ある箇所では「夜」)の対照が何度かされています。大体は霊的な暗闇という意味合いで使われます。まず言えるのは、罪が「闇」です。暗闇や罪と言えば極悪犯罪や盗みのようなことが思い浮かぶかもしれませんが、聖書の定義ではもちろんそれより広い意味があります。神様との関係において反抗し、疑い、敵対することが罪、悪、闇です。どんなに小さな逆らいでも王の王であり、愛に溢れた神様とその王国に対する反逆罪です。結果として、人間同士でも敵対やねたみが生じて、暴力的な思い、言葉、行動が出て来ます。これが私たちの闇です。ヨハネ3章20節の通り、「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」私の昔の牧師が言ったたとえで言うなら、人間はごきぶりのように、神様のきよい基準とみことばの光が照らされたら、ガサガサと影へ逃げ込みます。刑罰や恥が怖いなどと思って逃げます。神様をもっと知りたい、と自然に思いません。
ヨハネが描写する「闇」には、罪だけでなく罪の結果の面もあります。平安と知恵の源から自分を切り離せば、平安と知恵を持つことができません。闇に覆われ、闇を心地好いものと思ってしまいます。イエス様ご自身はヨハネの福音書12章35節で警告します。「闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。」経験からしても、その通りですね。暗い部屋の中で歩くと、見えない障害物につまずくことがあります。あるいは、暗い道路を一人で歩くと怖くなりやすいですね。「神様を知りたくない!近づきたくない!」と言う人は空しい考え方と怖いことに囚われてしまいます(ローマ1:21参照)。人生で色々な成功を収めても、人生全体の指針が不安定です。だから、行き先も分からず、空虚と心配に囚われています。ヨハネの8章の31〜34節などを読み続けると分かるように、イエス様を拒む人は悪魔の手下として、罪の奴隷として歩むしかありません(参照:12:30-31)。
これまでの「闇」の描写から人間の実際の状態の絵が見えてきます。人は罪を持つ性質から始めて、出て来る考えと行動と言葉によって、暗闇に悩まされます。クリスチャンでなければ、その状態から自由になる方法は、一つしかありません。クリスチャンであっても罪に没頭して、暗いところを歩むときがあるかもしれませんが、その状態から自由になるには方法は、同じ一つしかありません。それは、世の光に照らされることです。ですから、「世の光」なるイエス様の発言の意味と招きをもっと見ましょう。
二、「世の光」なるイエス様の招き
ここまで、ヨハネ8章12節の発言の背景にある仮庵の祭りの意味を見ました。それから聖書が指摘する、人間の暗黒の状態の前提をも見ました。すなわち、私たちは「光」が必要な者です。そこで、イエス様が「わたしは世の光です」とヨハネ書8章12節で仰います。今回の比喩にはどのような良い知らせ、福音があるのでしょうか。
「光」を修飾する「世の」ということばも注意すべきことです。イエス・キリストはだれにでも光となってくださることができます。「世の光」は神様に反対するあらゆる人の闇の中を灯し、神様との関係への道を示す唯一の光です。ユダヤ人だけの光ではありません。西洋人か東洋人だけの光ではありません。富む人、人気者、あるいは逆に貧しい人だけのためでもありません。暗いところで隠したいと思う罪や恥があると知っている人のための「世の光」です。あなたのような人のための光です。私のような人のための光です。
では、「光」の比喩ですが、イエス様ご自身が光だと仰せになるのは、前回の「いのちのパン」のように、光と共通の特徴があるからです。闇と対照的な二つのことをイエス様が仰っていたと思います。一つは、イエス様に繋がることは光に近づき、本当の幸せに不可欠な知恵、導きと平安をもたらしてくださる方を親しく知り始めることです。そういう意味でイエス様は光です。神様のご臨在を楽しむことができるようになります。キリスト(イエス様)が「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく」なると招いてくださる通りです。
人生で行き先が分からないと迷います。不安になります。しかし、イエス様が一緒におられるならば、荒野で炎の柱に従って移動したイスラエル人のように指針と安心が与えられます。日々の人生は複雑であり、分からないことだらけかもしれませんが、イエス様のご生涯と教えから必須のことが全て備わっています。イエス様がともにおられ、導いてくださるお方だから、世の光なるお方です。
二つ目にイエス様が光として成し遂げるのは、罪の闇を追い払うことです。主イエスに従うと、導き、知恵、平安が抱けるのは飽くまでも、霊的暗闇が取り扱われるからです。父なる神様も光と呼ばれますが、神様はあらゆることを暴きます。そして完全な、聖なる義の基準によってそれを取り扱います。
神様に近づいても滅びないで済むために、私たちの救い主は光として、罪の暗闇を取り扱って、追い払う必要がありました。イエス様はそうするために、罪の刑罰、呪いの闇をも取り扱ってくださったのです。ルカの福音書22章53節で、イエス様がご自分を捕らえる敵に、「今はあなたがたの時、暗闇の力です」と言われました。少しの間、暗闇の力がイエス様を捕らえることができました。物理的な暗闇もイエス様の十字架を覆ったと福音書が記録しています。十字架にかけられた「光」が暗闇で覆われました。さらに、光なるイエス様が、身代わりとして転嫁されて、引き受けてくださった「暗闇」の罪に対する刑罰をすべて吸収されました。暗黒である罪に対する神様の聖なる怒りが完全に宥められて、イエス・キリストが死なれました。
信じられないような光景です!いのちの源である「光」が人の罪の闇に覆われて、神の怒りを身代わりとして受け、一時的に身体の死を味わってくださいました(ヘブル2:9参照)。もちろん、父なる神様と隣人を完璧に愛されたキリストはいつまでも死ぬことはあり得ませんでした。この後に歌う讃美歌の言うように、「闇夜にさまよう 世界を照らして 輝く栄光」の主が死を打ち破ってくださいました。イエス・キリストは、私たちの光になってくださることができます。信じる者には、この光が与えられている、そしてこれからも与えられる、福音のみことばが約束してくださいます。
パウロは別の箇所でイエス様の光の意味をこう解説してくれます。
第二コリント4:4-6 この世の神〈悪魔〉が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。私たち〈パウロと仲間〉は自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
私たちの心は私たちの力では照らされません。しかし、聖霊なる神様が私たちの心に照らしてくださいます。心から感謝します!
三、「イエス様が私の光です」
イエス様はあなたの光ですか。主イエスが仮庵の祭りでご自身を世の光と呼ばれたのは、罪が取り扱われた上で、人が導きと平安の内に前へ進むためでした。私たちは主を見上げて、その光の内に歩んでいるでしょうか。
イエス様の宣言を聞いた聖書学の優等生、聖書を真面目に受け止めて民を導こうとするはずのパリサイ人たちは信じられませんでした。ヨハネ書8章13節以降で彼らはイエス様が証拠なく空想話をしている、と決めつけました。それほどにイエス様のことばが彼らを揺るがせて、居心地悪くした訳です。理解できると思います。光を示されるごきぶりは逃げたがります。私たちが罪を示されると、神様、イエス様の光から逃げたがります。でも、そこに神様の赦しと平和、そして心に与えられる平安と導き、指針、またいのちがあります。
鍵となるのは、イエス様の光で自分の罪を示されつつも、その光が罪を取り扱ったと信じることです。ヨハネがイエス様のことを思い巡らして、これを書きました。「神は光であり、神には闇が全くない。…もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:5、7)光の内に歩む私たちに罪がないとは言いません。しかし、光の中を歩むと、明るみに出る罪をイエス様がきよめてくださいます。恥じることでも、主が取り扱ってくださいます。恐れずに歩むことができる訳です。
もし大地震の後に、暗い部屋に閉められたあなたのいる所へだれかが懐中電灯を持って来てくれたら、嬉しいと思います。安全な場所へ逃れるための道が見えてくるからです。しかし、懐中電灯の光は何を照らすと思いますか。瓦礫、割れたガラス、泥、それまでに押入れに隠していた不用品などが見えてしまうかもしれません。全然奇麗な景色ではないでしょう。けれども、危険から救われて歩むことができるようになりました。世の光なるイエス様は同じように、私たちに嫌なことをお示しになりますけど、同時に、懐中電灯にもできないことをします。私たちの心の瓦礫と泥を完全に奇麗にして、安全に歩けるようにしてくださいます。
どうやってイエス様の光で罪が示されるでしょうか。聖書を読めば、どこにでもイエス様のことが約束、予告、暗示、また具体的に取り上げられています。イエス様をそこで知れば知るほど、その「知恵、力、聖さ、義、愛、真実」を自分の心の思いと日々の歩みと正直に照らし合わせるなら、罪は示されると思います。しかし、主イエスの忍耐や真っ直ぐな真実、あわれみは変わらない、無限のものです(ウェストミンスター小教理問答問い4参照)。ですから、イエス様を聖書の中でもっと知ってみましょう。イエス様を知れば知るほど、私たちは自分の罪をよりよく分かって、悔い改めなければならないことに気づかされるでしょう。しかし、主は私たちをお見捨てにはなりません(ヘブル13:5)。モーセとイスラエル人の前を進んだ炎の柱よりも、私たちの内に住まわれる聖霊様が、はっきりと、イエス様がともにおられることを確信させて安心させてくださいます。
終わりに
イエス様はあなたに何を求めているのですか。信頼して、近くに歩むことです。光に照らされて歩むことです。嫌ですね…罪が暴露されつつ、無力な者としてイエス様の助けに依り頼む歩みは恥ずかしくて、楽しくなさそうかもしれません。しかし、これは光なるイエス様との歩みです。私たちが依り頼める唯一の礎、まことの光です。何にもまさって麗しいお方です。その光の内に、罪を取り扱っていただきながら導きと平安をもって歩みましょう。