2022年4月3日礼拝 音声有 説教「恵み、あれ!」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信 This service: at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

 

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉 ヘブル人への手紙6章13〜18節
さ ん び 「主とともに」
さ ん び 「私の願い I Give You My Heart」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 348番 「信仰こそわが身を助ける杖」
聖書朗読 創世記 11章27節〜12章3節
聖書の話      「恵み、あれ!」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 355番 「私の望みは」
献   金
報   告
とりなしの祈り    マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷      マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アアアアーメン」

 

聖書の話(説教)原稿「恵み、あれ!」

 

コロナが流行る前から「マスク美人」という言葉がありましたね。なぜそのような言葉が生まれたのでしょう?マスクで顔が覆われている人を見た時、脳がその人のマスクの下の顔を想像します。 見えていない部分が多いですが、そこは見えている部分から脳が補います。しかし、私の経験上、マスクを付けている人を実物以上に美男・美女だと想像する傾向があると思います。なぜなら、私たちは物事を都合よく想像してしまったり、髪型や服装、見た目など目で見える情報だけで判断したりして、その他の細かい、貴重な情報を確認しないことが多いからです。同じように、キリスト教の世界でも、「日曜美人」とか「聖書美人」とかあるのではないかと思います。日曜日に信仰深く礼拝し、奉仕している人を見て、「平日も同じように、熱心で忠実で聖く正しい、幸せな人なんだろうな」」と想像するかもしれません。または、聖書の人物、例えば、ダビデの派手な面だけを見て、「ダビデはなんと幸せで信仰深くて聖い、みことばに根づいた義人だろう!」と思うかもしれません。しかし、そのような人達がマスクを外して、それぞれの日常と心の状態を現したら、私たちは「え!そんな人だっけ?」と驚くでしょう。しかし、その驚きの原因は、私たちがマスクの下の状態を、自分勝手に思い込んでしまうからかもしれません。

これからの1-2年の間、私たちは創世記12-35章を見ていきたいと思います。ここはアブラハム、イサク、ヤコブの家族の歩みを記した箇所です。そして、この箇所を通して、四つの質問を見ていきたいと思います。①どのような人が神様の恵みを頂くのか?②「恵み」とは具体的に何なのか、③どのように「恵み」を頂くのか?④神様の恵みをいただくのに、なぜ私たちは試練を通る必要があるのか?この質問に対して、いろんな考えがあると思いますが、創世記をゆっくり読みながら、聖書の「マスク」を取り外して、聖書の語るメッセージを確認したいと思います。本日は特に①の「どのような人が神様から恵みを頂くのか?」に焦点を当てたいと思います。

 

まず、本日の箇所の流れを確認してみましょう。アブラハムの話を読む場合、多くの人たちは12:1から始めます。この箇所は神様が一方的に、「あなたに恵みを与えます」という場面なのですが、私たちは「ああ、アブラハムは信仰深くて聖い、特別な人だったんだね」と想像してしまうかもしれません。しかし、アブラハムの話は12:1から始まるのではなく、11:27から始まります。そして、ここでアブラハムの家系、アブラハムの育ち、アブラハムの歩みについて、細かく、マスクを外して確認することができます。

まず、27節では、「これはテラの歴史である」というふうに書いてありますが、創世記は、もともと「1章」「2章」という区切りがなく、「~の歴史」と冒頭に書くことによって、新しい章の始まりを記しました。なぜかというと、創世記は神様が選んだ家族の歴史について書いてあるからなのです。

創世記の話を一言で言うと、創世記は二つの「家系」の争いを書き記した書物だと言えます。神様は、人類の代表としてアダムを創造され、アダムに「天の永遠のいのち」を与えたかったのですが、アダムは堕落して「永遠のいのち」を受けることができませんでした。そこで、神様は、別の方法でこの「永遠のいのち」を与えようとされたのですが、神様の敵である蛇のサタンがそれを妨げようとしました。そして、創世記3:15から、「エバの子孫」(セツの家系)と「ヘビの子孫」(カインの家系)の争いが始まるのですが、神様は「エバの子孫」に勝利と永遠のいのちを与えることを約束されます。この話を表しているのが創世記1-4章という「序論」です。そして、創世記5:1には「これはアダムの歴史の記録である」と書いてあり、創世記の話が始まります。そして、「エバの子孫」が何世代にもわたって、「神とともに」歩む(創5:22)信仰が継承され、その信仰がアダムからセツ、セツからエノク、エノクからノア、ノアからテラの家族に継承されました。ですから、創世記はこの選ばれた家族の歴史を記した書物なのです。

しかし、「テラの歴史」を確認すると、様子がおかしいのです。神様に選ばれ、恵まれた、信仰深い「エバの子孫」のイメージと、「テラの歴史」には、かなりのギャップがあります。この短い説明の中にテラの家族の三つの特徴が見られます。

一つ目は、テラの家族が、悲惨と苦しみに溺れていた家族だったということです。テラには三人の息子がいました:アブラム、ハラン、ナホルです。しかし、28節には「ハランは父テラに先立って、親族の地であるカルデア人のウルで死んだ」と書かれています。自分が生きている間に子供が死んでいく姿を見るのは、親として最も悲惨で、最も苦しいことかもしれません。そして、そのに、アブラムの妻、サライについて書いてあります。「サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。」(11:30)当時の感覚から言いますと、自分の財産と名誉を自分の息子に引き継ぐことができないとは、アブラムの将来や希望、生きる意味をすべて失うようなことでした。そして、それによって、サライも深い罪悪感、恥、挫折感に襲われ溺れていたかもしれません。そして、次の特徴でもう少し説明しますが、テラはカナンへ行くために、ナホルとナホルの家族と別れる必要がありました。どう見ても、テラの家族は、幸せで、恵まれた、特別な家族ではありません。むしろ、悲惨と苦しみに溺れていた家族でした。

二つ目の特徴は、テラの家族は偶像崇拝をしていた家族だということです。28節に書いてありますが、テラの家族は「ウル」という町に住んでいました。ヨシュア記には次のようにそのウルでの生活が説明されています。

ヨシュア 24:2  ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。」

つまり、テラは「選ばれた家系」に入っていたのにもかかわらず、神様を拝まず、偶像崇拝をしていました。そして、はっきりと言えませんが、アブラムの妻「サライ」とナホルの妻「ミルカ」の名前は、ウルで信じられていた「月」の神様に関係した名前だという恐れもありました。ある人は、「アブラムはウルを出た時から、ウルの偶像を捨てたはず!」と解釈するかもしれません。しかし、詳細を確認すると、最も驚くべきことは、その500年後にもイスラエル人は「あなたがたの先祖たちが、ユーフラテス川の向こうで仕えた神々」をまだ持っていて、ヨシュアに、「その偶像を取り除きなさい!」と注意されたということです(ヨシュア24:14-15)。つまり、ウルを出た後、テラとアブラムはウルの偶像を持ち続けており、そのあと500年もアブラムの子孫たちはエジプトや、荒野の中、カナンにまでも持ち運んでいた可能性があると言えるのです。ですから、テラの家族は、神様とともに歩む「エバの子孫」、セツ、エノク、ノアの信仰を引き継いだ子孫であったにもかかわらず、がっつり偶像崇拝をしていた家族でした。

三つ目の特徴は、テラの家族は、途中で旅をやめてしまった寄留者だということです。「テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した」と11:31に書いてあります。理由ははっきりとは書いてありませんが、彼らはウルで偶像崇拝をしていたので、聖書の神様に従ってカナンへ向かったという可能性は低いとも言えます。一族としてどこかへ移って、寄留するということは非常にリスクの高いことです。なぜなら、自分がもともともっていた名誉、コネクション、財産をすべて手放す必要があるからです。ですから、彼らは何かを得るために寄留したのだと思います。しかし、彼らは途中で旅をやめて、ハランに住みました。彼らは色々なリスクを負いましたが、自分たちの思い通りにはうまくいきませんでした。そして、そのまま、テラはハランで死んでしまいました。(11:32)

つまり、テラの家族は、悲惨に溺れ、偶像崇拝にハマって、失敗してしまった家族だとも言えます。そして、テラが死んだあと、アブラムには、子どもを産めない妻サライ、亡くした兄弟の長男の息子ロト、ウルから持ってきた偶像、そして、自分の父が成し遂げられなかったカナンへのミッションだけが残りました。そして、この数節だけを読むと、アブラムは、信仰の大先輩であるセツ、エノク、ノアの子孫だったのに、神とともに歩む信仰のかけらもありませんでした。これが悲惨、偶像崇拝、失敗に埋もれてしまっていたアブラムのマスクなしの実態です。

そして、テラが死んだ後、人間に「永遠のいのち」をお与えになりたかった神様は、アブラムに一方的にこのように告げられました。

主はアブラムに言われた。 「あなたは、あなたの土地、 あなたの親族、あなたの父の家を離れて、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとする。 あなたは祝福となりなさい。 (創世記12:1–2)

アブラムは子どもをもうけることができませんでした。また、神様とともに歩んでもいませんでした。そして、寄留者として自分の「国」と呼べる民もいませんでした。しかし、なぜかアブラムは神様の御言葉を聞いて、ただ神様をそのことばを信じました。そして、神様は、そのアブラムとサライを祝福されました。次回の説教で、この数節の意味を説明しますが、この流れを確認すると、どのような人が神様の恵を受けられるのか、そして、神様はその恵をどのようにお与えになるかがわかります。パウロはこのようにまとめています。

ローマ 4:17  「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼(=アブラム)は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。」

つまり、アブラムは自分の中に神様から恵みを頂ける理由も、受け取れる権利も全くなく、自分が「何もない者」だという状態であることを十分理解していました。しかし、何もない状態であっても、無からすべてを創造された神様が「恵み、あれ!」とアブラムに仰せられたのなら、「恵の無いもの」を「恵の有るもの」がおできになるということを、アブラムは信じたのです。神様はこのようにアブラムを選び、恵を一方的に与えてくださったのです。

 

旧約聖書の出来事であっても、アブラムが恵みを受けた過程は、現代の私たちと全く同じです。この箇所から、皆さんに覚えていただきたいことが三つあります。まず、一つ目。どのような人が神様の恵みを頂けるのでしょうか?

「神様の恵み」は悲惨の中に溺れていたり、偶像崇拝にハマっていたり、失敗してしまっているような、何もない者に与えられるということです。

多くの人たちは「神様の恵み」を受けられる者は、その恵みにふさわしい者だと解釈してしまいます。しかし、それは「マスク美人」のように、真実から程遠いものです。新約聖書では、クリスチャンになる前、すべての人は、アブラムのように悲惨に溺れていて、偶像崇拝にハマり、失敗してしまった、何もない者であると言っています

私たちはイエス様を信じる前、アブラムのように、神様を求めませんでした。私たちの目には、神様に対する恐れもありませんでした。わたしたちは神様に敵対するもので、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき、背きの中に死んでいた「不従順の子」だったのです。それがすべての人が自分のマスクを外した時の私たちの実態なのです。(参照:ローマ3:9-20、エペソ2:1-5)

そして、福音書を読むと、イエス様により頼んだ人たちが、「幸せそうな、恵まれた義人」ではなかったことがわかります。毎週の祈祷会でマルコの福音書を学んでますが、イエス様により頼んだ人たちは、貧しさと恥にまみれている病人たち。社会に嫌われた取税人のような罪人たち。偶像崇拝をして悪霊に捕えられてしまった汚れた人たち。このような人たちがイエス様から恵みを頂いたのです。

ですから、神様の恵みを頂いた者として、私たちは全く自分のことを誇ることができませんし、同時に、罪深くて神様の恵みにふさわしくないとも言えません。アブラムと同じように、私たちが神様を追い求め、見出したのではなく、私たちが悲惨、偶像崇拝、失敗に溺れていた中、神様が私たちを見つけ出し、私たちを無条件に選び、一方的に救い出してくださったのです。これが「神様の恵みのみによる選び」の素晴らしさなのです。誰でも神様の恵みを頂けます。それと同時に、誰も誇ることはできません。

では、私たちはどのように「恵み」を頂くのでしょうか?二つ目に覚えていただきたいことは、神様がご自分の力強い「ことば」によって、私たちを「恵のないもの」から「恵のあるもの」にしてくださるということです。

神様がアブラムに「恵み」を与えてくださった時、アブラムには何の条件も与えませんでしたし、恵みを獲得するための説明書もお与えになりませんでした。アブラムが信じるための物質的な恵みも与えられませんでしたし、アブラムの難しい状態をすぐに変えられた訳でもありません。神様はただご自分の「ことば」をお与えになったのです。そして、その「ことば」は単なる「約束」でしかありませんでした。しかし、アブラムが、その約束のことばを聞いて、ただ信じたゆえに、「恵まれた者」になったのです。

しかし、勘違いしてはいけないのは、自分が「信じた」から恵まれたのではなく、神様の「約束のことば」があったので恵まれたということです。神様が「わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとする」(創世記12:2)と約束されたことばがあったので、私たちは神様の恵みを頂けるのです。その「ことば」がなかったなら、たとえ私たちに信仰があったとしても、全く意味がないことなのです。ですから、自分たちの信仰を誇る理由も全くありません。

そして、その「約束のことば」を発された神様は、目の見えない神のことばによって、目に見えるこの世界、そして、すべてのものをお造りになりました(ヘブル11:3参照)。「神様のことば」とは、それほど、力強いものなのです。そして、神様は偽ることができない誠実なお方であること、そして、神様に不可能なことはないということから、「約束のことば」が実現しないということは絶対にあり得ないことなのです(ヘブル6:17-18参照)。それが私たちが頂いている力強い、神様の「約束のことば」です。

ですから、私たちは神様の「ことば」を頂いているものとして、たとえ自分の難しい環境が変わらないとしても、自分の悲惨さが悪化したとしても、自分に何もないとしても、「約束のことば」があるので、神様が「恵み、あれ!」と仰せられた瞬間にそれらのすべてが変わるという力強い励ましと、確信が与えられるのです。どれほどこの世の富、力、影響力、幸せがあっても、「恵のない者」を「恵のある者」にされる神様の「約束のことば」にまさる力はどこにもありません。私たちはそのような膨大な恵みを頂いていることを確信しているでしょうか?この世の目に見える「モノ」よりも目に見えない神様の「ことば」のほうが力強いと信じているでしょうか。

そして、最後に覚えていただきたいことは、これです。私たちが頂くことができる「恵み」とは、「イエス・キリストの福音」であるということです。このことも次回、具体的に説明しますが、パウロは創世記12:1-3をこのように解釈しています。ガラテヤ 3:8には「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、『すべての異邦人が、あなたによって祝福される』と、前もって福音を告げました」と書いてあります。つまり、創世記12:1-3の時点から、イエス・キリストを通して、神様の「恵みの約束」を信じる者に永遠のいのちを与えるということを、神様は「前から知っていた」のです。要するに、紀元前2000年のアブラムに与えられた神様の約束は、神様がイエス様をこの世に送られ、イエス様の十字架と復活によって、私たちがどれほどの悲惨、偶像崇拝、失敗の中にあったとしても、私たちに永遠のいのちを与えてくださるというものです。

 

しかし、ある人は、「え?アブラムはそのように解釈したの?」と疑問に思うかもしれません。もちろん、アブラムは「イエス様がこの世に送られる」ことを厳密には理解していなかったかもしれません。けれども、恵みを受けることは、アブラムの理解と信仰の深さに基づくことではありません。神様が何の希望もない罪人に、完全に保証されている救いと恵みを与えてくださるという約束に基づくことなのです。そして、アブラムに約束した恵みの成就として、神様はイエス・キリストを与えてくださいました。そして、イエス・キリストにあるその恵みと救いは、アブラムの想像以上のものでした。私たちの「イエス・キリストの福音」はそのような「恵みの約束」です。神様は私たちの罪、理解、信仰、限界、悲惨、試練などによらず、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの想像を絶するほどに私たちを恵んでくださいます。アブラムと同じように、自分が完璧に理解できなくても、「無いものを有るものとして召してくださる神を信じ」、約束の最終的な「成就」を待ち望みましょう。