2022年4月10日礼拝 音声有 説教「イエスの価値は?」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信 This service: at our regular chapel (Site 1) and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉 詩篇 118篇19〜26節
さ ん び 「詩篇100」
さ ん び 「主イエスの血潮で Let There Be Joy」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 45番 「神の子羊」
聖書朗読 マルコの福音書 14章1〜11節
聖書の話      「イエスの価値は?」  百瀬ジョザイア伝道師
教会福音讃美歌 121番 「ああ主は誰がため」
献   金
報   告
とりなしの祈り          廣橋嘉信牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷                      廣橋嘉信牧師
後奏(讃美歌)  567番[V] 「アーメン・アーメン・アアアアーメン」

 

 

説教原稿

マルコの福音書14章1〜11節 「イエスの価値は?」

 

始めに

本日の箇所が私たちに問いかけます。私たちはイエス様とその死の価値はどのぐらいあると信じているのでしょうか。イエス様とその死を、どこまで私たちも犠牲を払って大事にしたいと思いますか。イエス様に出会って、私たちの人生は変わったのでしょうか。私たちの行動はイエス様の価値をどう映すのでしょうか。

私たち人間、クリスチャンであってもそうでなくても、深く考えても考えていなくても、毎日、様々な成功や経験の価値を評価して、その価値に見合うと思う犠牲を払っています。例えば、一方で子供の教育や昇進の価値ともう一方で他のことにかける時間の価値を値積もって、お仕事の残業や転勤を受け入れるかどうか決めます。入りたい学校や会社に入るために、あるいは親に喜ばれるために、受験勉強やインタビュー練習にかける労力を決めます。子どもは、観たいテレビ番組のために何かを我慢するかもしれません。例えば、まず宿題をするかもしれませんね。私たちは皆、欲しいものを「評価」して、犠牲を払ってまで求めます。私たちは、そもそも何に価値があって、何が喜びを与えるかを確かめてからその決定をするのが良いのではないでしょうか。

今日の箇所は誰もが真剣に確認すべき価値評価を取り上げています。イエス・キリストとその死の価値が、その敵、友人、そしてご自身によって評価されます。それぞれの評価を順に見ましょう。そして、最後に、イエス様の絶大な恵みの評価を思い出して、その良い知らせの福音に私たちも応答することを考えましょう。

一、祭司長たちとユダによる「イエス評価」 (1~2、10~11節)

イエス様は多くの人に憎まれました。マルコの福音書全体を読むと分かりますように、第1章で悪魔が攻撃をしかけます。そして2章以降、旧約聖書の専門家律法学者たちがイエス様に反対するようになり、続々とユダヤ人の祭司たち、祭司長たちや長老たちも嫌うようになっていきました。彼らの自己正当化と自己欺瞞を指摘するナザレのイエスはあまりにも邪魔者となっていたので、今日の14章の1節が「祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた」と教えます。色々模索して、便利な方法はないか、と考えていました。

ただし、時は、イスラエル全国民が神様の昔の救いを記念する「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭り」の少し前でした。その祭りには、ユダヤの首都エルサレムの人口が普段の数倍に増えて、騒動などが起きたらローマ帝国が干渉しかねない大問題になり得ました。祭司長たちも律法学者たちも騒動を恐れて、「祭りの間はやめておこう」と思っていました。イエス様を密かに殺したかったです。ところが、神様が状況を治めておられました。皮肉なことに、ちょうど過ぎ越しの祭りと重なるように主が事を運ばれます。

と言うのも、10節で イスカリオテのユダがイエスの敵のところに行って、イエスを彼らに引き渡すという提案を持ちかけます。11 節によると「彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。」突然に機会が訪れたので、祭司長たちと長老たちはユダと商売を受け入れました。マタイの福音書26章15節では、イエス様を引き渡すユダが「銀貨三十枚」を受けることとなりました。これはおそらく、神殿で取り扱われたシェケル銀貨であり、ローマ帝国の通常の銀貨デナリウス(労働者賃金の1日分)の約4倍の値打ちがありました。この値積もりは、旧約時代の指定によれば、奴隷のために賠償する場合の値打ちでした(出エジプト21:32)。つまり、イエス・キリストは多少のお金で買われる、社会的地位のほとんどない奴隷ほどの人物として評価されてしまいました。そして、その死は、敵が望む最終的な目標でした。

二、友人たちによる「イエス評価」

では、マルコの福音書14章3〜9節に戻りましょう 。イエス様の敵の話に挟まれることによって、先ほど見た数節と対比できるようになったエピソードです。イエス様の友人たちはまず3〜6節で、直接的にまた間接的にイエスの価値を評価します。この箇所はマタイの福音書26章6〜13節とヨハネの福音書12章1〜8節と同じ出来事を説明していると考えます。実際にそうなだとすると、ヨハネ書の記述を読むとイスカリオテのユダがこの出来事を一つの切っ掛けに、マルコ14章10節でイエス様を裏切ったようです。

まず場面設定ですが、「ベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである」(マルコ14:3)。このベタニアはエルサレムより東のエリコへ向かって3kmほどの所にありました。ここに出るシモンの詳細は知られていません。もしかしたら、ツァラアトという皮膚病をイエス様に癒していただいた人々の一人だったかもしれません。彼の家にイエス様や他の弟子たちが集まって、一緒に食事をしていました。そこには、ヨハネが補足するように、イエス様によって復活させられたラザロとその姉妹のマルタ、マリアもいたそうです(ヨハネ12:1-3)。

ア、女性 による値積もり その社交的な場が衝撃的なシーンに一変します。マルコ書14章3節後半が次々と説明します。ヨハネの福音書12章の話が同じ出来事であれば、ここの「ある女の人」はラザロの姉妹マリアでした。当時、男性たちが食事をしている間に、女性が給仕しないで集まりに割り込んできたら、空気を読めていない、失礼なことをしているというような文化でした。この女の人はお構いなしに、空気を一変させます。「純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来」ます。「ナルド」はインドから輸入されないといけない、稀な材料でした。その香油は膨大な値段のするものでした。マリアの家族が裕福だったかもしれませんが、それでもナルドの香油は日常的に使える物ではありません。贅沢な財産でした。

マルコが続けます。女の人は「その壺を割り、イエスの頭に注いだ」。壺を割るということは、一部だけ使って残りを後に残すことができません。中身を全部、使うことになります。そして女の人はイエス様の「頭」に注ぎ掛けました。これは単なる礼儀ではなく、まさに王様の任職を告げる「油注ぎ」の儀式に似た行為でした。神様が特別な職に選ばれたイスラエルの祭司や王は、その務めをなさせる聖霊なる神様が入って助けることの象徴として油注ぎをされることがありました。そして神様からの約束の最高の王は「メシア」、つまり油注がれた方、あるいは「キリスト」と呼ばれていました。この女性がそこまで意識していたか分かりませんが、イエスを神様のメシアというふうに、心を込めて贅沢に扱っていました。

マルコの福音書でイエス様は長い間、ご自身の正体を公に宣言なさいませんでした。ただ、この女性はイエスが自分の王だという感謝と尊敬を持って、おそらく最も高価な持ち物をイエスのために献げました。この方が自分の王様であると認めて、敬意と愛情を表現する瞬間でした。彼女の「イエス評価」が非常に高かったのです。

イ 、弟子たちによる値積もり 部屋に満ちた香ばしさで、そこにいた人たちは驚いたでしょう。彼らの反応から、女の人とイエス様に対する彼らの評価が分かります。

4〜5節 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。

ある者(マタイとヨハネの記述によれば、具体的に弟子たち、特にイスカリオテのユダでした)は「何とみっともないこと、もったいないことをしたのだ!」と、上から目線でその女の人に対して怒ります。彼らはイエス様の友人、弟子のはずです。楽しい食事を一緒にしていました。けれども、この女の人が「無駄」をしてしまったと怒ります。もったいない!効率が悪い!と憤りを示します。

もちろん、この人々は理由を付けて彼女を非難します。せっかく手放すなら、香油を売りお金に替えて、労働者賃金の300日分のデナリ銀貨で多くの人を助けることができるのに!と彼女を叱りつけます。善行のために使えたのにそんな使い道はおかしいでしょうと訴えます。理解できると思います。贅沢をしてはいけない、与えられたものを上手に用いて益をもたらしなさい、人を助けなさい、と神様は確かに教えられます。そして、「無駄遣い」を見て怒る気持ちも理解できます。しかし、彼らの反応は間違った評価によって出て来たものです。

三、イエス様によるご自身と女性の評価

さて、イエス様がどう介入されますか。贅沢をした女性と非難する男たちについて、イエス様は彼女の行為の評価をして、ご自身の評価をもなさいます。そしてイエス様の自己評価によって、この出来事の意義が見えてきます。

ア、女性に対する評価 まず、6節を見てください。イエス様は女性に対するいじめを止めさせます。「わたしのために、良いことをしてくれたのです。」この女性は本当に称賛に値する、美しいことをしたのだとイエス様が評価します。

イエス様は続けて7節で、女性の行動がなぜ良いかを言われます。「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。」イエス様の答えは状況の比較からできています。

一方で、貧しい人は神様の似姿として造られた高価な人であるゆえ、聖書で教えられている通りに、資源のあるクリスチャンが彼らを助けるのは良いことです。ただし、彼らはいつでも周りにいるのであって、今しかできないという訳ではありません。

もう一方で、イエス様に対してその時にしかできない善行がありました。人が亡くなるときに親族や親友は時間とお金を掛けてでも集まって来ます。この女性も同じでした。香油を塗ってくれた女性は本当によくやった、とイエス様が喜ばれます。「彼女は、自分にできることをしたのです」(8節)。というのは、神様から与えられた物と思いに従って、彼女はイエスを主、また王として認めただけでなく、「埋葬に備えて」行いました(マルコ14:8)。イエスが葬られた後に香油塗りを行おうと思った他の女性たちがマルコの16章1節に出てきますが、結局彼女たちはそれができませんでした。なぜかと言うと、イエス様がもう復活されていたからです!ところが、ご心配は要りません。マリアはイエスが近いうちに死なれるとは知らなかったかもしれませんが、神様の導きによって、このように香油塗りを前もって行うことができたからです。

9節でさらに、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」とイエス様は、この女性が世界中で知られるようになるとも預言してくださいます。彼女の行為は無駄でなく、日本にいる私たちにも知られるすばらしいことでした。

イ 、イエスご自身に対する評価 ところで、イエス様が女性の行動をこのように評価する理由は、ご自身の評価とご自身に起ころうとする出来事とに結び合わされています。言い換えると、二つの事実によって、イエス様の他の友人たちの「常識的」な評価が間違っていて、女性の行動が正しかったのです。第一に、イエス様の価値は彼らの考えるようなものではありませんでした。300デナリの銀貨は、皮肉なことに、その無駄を避難したユダが後で受ける裏切りの代価の数倍ですが、神様が聖霊様を注ぎ掛けられたたメシアにはどんなに高価なものをささげても同等なものにはなりません!日常的にイエス様は非常に質素に暮らし、財産をほぼ持たずに暮らしましたが、そのへりくだりの姿は無限の価値を隠していました。

二つ目に、そしてイエス様が強調する点は、「時」です。その「時」はいつもと違う、特別な時でした。イエス様は毎日、香油を塗ってほしいとは教えておられません。しかし、今しかできないことがありました。一緒にいない時が近づいていました。 まず7節の最後にあるように、イエス様はいつまでも「一緒にいるわけではありません。」間もなく、ユダとユダヤ人とローマ兵隊の暴虐によって殺されます。そして、丁寧に埋葬されるべきときがきます。しかし、さらに復活して、間もなく天国に戻られるイエス様ご本人に対しては、このような贅沢な行為はできなくなります。父なる神様は子なる神の栄光を、このような特別な方法で示すよう、この女性にこの思いを下さいました。

イエス様は9節でも、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる」と仰いましたが、その「福音」とは何でしょうか。イエス様が死と罪の支配に対する勝利者であり王様であり、今まで敵対してきた人間がイエス様だけに信頼すれば神様と和解して完全な者として評価されることが可能だという知らせです。私たちの企みや努力によっては獲得できません。ただ、イエス・キリストに信頼を置いて、頂くことができます。私たちがよく歌い、語り合う、神様の恵みの福音です。

私たちの評価

本日の箇所を適用する際、私たちの評価を振り返る必要があります。私たちはイエス様をどう評価しているのか。そして、神様がイエス様を評価する私たちをどう評価されるのか。実を言うと、私、私たちは、神様のメシアを受け入れ、最高の喜びとするのは自分の意志の力では不可能です。私たちの「イエス様評価」はしばしば不十分なものであると言わざるを得ません。説教のはじめに言いましたように、私たちは皆、何かの成功や喜びの価値を評価して、その何かを楽しむために他のことを用いて、犠牲にして生きますが、自然に「イエス様が最高の喜びだ」とは言いません。

いちおう「全てをささげます。自分を捨てます。」と祈って信仰告白をしても、実は日々、ささげきっていないことに気づくかもしれません。他の良いことを過大評価して、イエス様を無視する危険があります。例えば、祈るより映画を見るほうを楽しむかもしれません。人にイエス様のことを伝えるより良好な関係を保ちたいために黙るかもしれません。イエス様の栄光と価値に生ぬるくなって、他のものを高価なものとしてしまうことが毎日あるかもしれません。しかし、他に何を得ても、神様との愛の絆を捨てるならそれこそ無駄です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(マルコ8:36)

ですから、最後に、私たちの「イエス様評価」の乏しさを踏まえて、想像を絶する、神の恵みに戻りたいです。神様の、私たちに対する評価を思い出しましょう。マルコ10章45節ですでにイエス様が予告されていました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

多くのクリスチャンが大切にするイザヤ書43章4節前半に続く後半は忘れてはいけません。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。

わたしはあなたを愛している。

だから、わたしは人をあなたの代わりにし、

国民をあなたのいのちの代わりにする。

主の愛は軽々しい愛ではありません。神様が罪まみれの人間を「尊い」と評価するために、代価がありました。「人」による代価が支払われるべきでした。そして聖書が教えるように、無限の価値ある「人」イエス様が十字架の上でその代価を払われました。

キリストが裏切られて、逮捕されて、殺されたことを今週思い巡らす中で、イエス様の価値とその死の価値を思い出しましょう。イエス様が悪い評価を受けるべき者のためにご自分をお捨てになりました。男性の弟子たちのことばを借りるなら、「何のために、イエスの栄光と血をこんなに無駄にしたのか。」 神様を離れては、私たち自身に価値があるのではありません。ただ神様の深い恵みゆえ、私たちは代価を払ってまでイエス様に買い戻されます。神様のご栄光のためと私たちの喜びのためにいのちを捨てられたイエス様に栄光がありますように!

女の人が注ぎ出した敬愛の香油が私たちに教えます。イエス様の価値に応えるとき、私たちがささげないでいられるものはありません。イエス様を過小評価しがちな私たちを、なおも愛して贖ってくださったその方に感謝して、改めて自分をささげて歩みましょう。