*アパホテルの会議室で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。礼拝後に祝会・交わりあり。 This service: at APA Hotel (Site 2) and shared via ZOOM. Fellowship meal after the service.
(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)
礼拝式順 10:45〜12:00
前 奏
神の招き
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
教会福音讃美歌 142番 「キリスト・イェスは」1〜4節
開会の祈り
罪の告白の招き イザヤ書55章6-7節
「主を求めよ。お会いできる間に。 呼び求めよ、近くおられるうちに。
悪しき者は自分の道を、 不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
罪の告白の祈り
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証 詩篇32篇1〜2節
「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。
幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」
会衆 アーメン。
平和のあいさつ
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
教会福音讃美歌 154番 「まどろむ世界に」
洗礼式 司式 廣橋嘉信牧師
みことばの宣教
聖書朗読 マルコの福音書 16章1〜8節
聖書の話 「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」
マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 335番 「はるかにあおぎ見る」
聖晩餐式 司式 マーク・ボカネグラ牧師
献 金
報 告
頌栄(教会福音讃美歌)272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 讃美歌567番[V] 「アーメン・アーメン・アアアアーメン」
説教原稿 マルコの福音書16章1〜8節 「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」
毎年イースター礼拝が来ると、私はいつもあるギャップを感じてしまいます。聖書の中でイエス様の復活はTOP3に入るビッグイベントなのに、私の中で三つのギャップを感じてしまうのです。①日々の忙しさで、あまり時間を取れなくてイエス様の復活に集中できないこと。②復活が私たちにとって想像を絶するほどの喜びなのに、それほど喜んでいないしそれほど賛美していないこと。③あっという間に受難週が過ぎてしまって、すぐに復活の希望を忘れてしまうこと。クリスチャンとしてこのように思ってしまっているのは恥ずかしいのですが、皆さんはいかがでしょうか。皆さんも共感してくださるかもしれません。
しかし、本日の聖書箇所を読むと、興味深いことに私たちが感じているようなギャップが記されています。イエス様の復活は、マルコの福音書のクライマックスの出来事にもかかわらず、非常にあっけなく、期待外れの終わり方だとも言えます。イエス様が復活されたのに、それに気づかない弟子たち。イエス様が復活されたのに、ドラマチックな奇跡やハレルヤコーラスを歌う天使たちや、御父の声も耳にすることはありません。イエス様が復活されたのに、多くの学者は16:8節がマルコの最後の一節だと考えていますが、その一節は「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った」という言葉で締めくくられています。イエス様が復活されているのに、喜んでいる人、賛美している人、神様を誉めたたえる人、その人数はゼロでした。
実は、マルコの福音書に記されている復活と復活の実際の意味には大きなギャップがあるのですが、感謝なことに、それは復活の意味をすぐに忘れてしまう人や、イエス様の復活に対して疑問を持っている人たちにとっては、大きな励ましでもあります。本日は、マルコ16:3-5に書かれているマリアたちの反応に焦点を当てながら、自分たちがークリスチャンでもノンクリスチャンでもーどのようにイエス様の復活と向き合えばいいのかをともに考えていきたいと思います。まず、本日の箇所の流れを確認していきましょう。
今日読んだ箇所は、イエス様が死なれたあとのことです。イエス様は金曜日に十字架の上で亡くなられました。旧約の教えでは、第七日の土曜日に働いてはならないという戒めがあったので、金曜日の日が暮れる前に、イエス様の弟子であるアリマタヤのヨセフとニコデモがイエス様のご遺体を香料と一緒に亜麻布で巻き、近くのまだ だれも葬られたことのない新しい墓に葬りました。
そして、土曜日の安息日が終わり(16:1)、日曜日の朝に、三人の女性ーマグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメ ーがイエス様のお墓に向かいました。自分たちの先生というだけではなく、自分たちを救ってくださる『メシア』として「イエス様に油を塗りに行こう」と思っていたのです。マルコの福音書にしか書かれていない台詞が16:3にあります。3人の女性たちはお墓に向かいながらこう言っていました。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」
もし、この1節の背景を知らなかったらそれは「普通」の会話の1つだと思うかもしれませんが、かなり変な会話だとも言えます。当時の墓は日本のお墓と違って、小さな洞窟のようなお墓で、そこに遺体を置き、非常に大きな石で入り口をふさぎます。しかし、少なくとも1年が経たなければ、たとえ家族の誰かが亡くなったとしても、その石の蓋を動かしてそこに安置することはできませんでした。ですから、1度ふさいだら開けることはないというのが前提でした。しかも、ヨセフとニコデモがイエス様を十分丁寧に葬ったので、もう一度イエス様のご遺体に油を塗りに行く必要はありませんでした。ですから、日曜の早朝に3人の女性たちがイエス様に油を塗りに行くなどという事は普通の事ではなかったのです。しかし、彼女たちの行動と会話は、彼女たちの心境を表していました。自分たちの聖書の先生、自分たちの希望を置いていた「メシア」が、突然、深夜に開かれた不正な裁判によって、惨い十字架で死なれたことは、想像を絶するショックだったと思います。イエス様の十字架刑は一晩で急展開したことだったので、イエス様に最後のお別れさえきちんと言えなかったかもしれません。ですから、その悲しみ、ショック、失望、寂しさの中で深く考えることなく、ただイエス様に愛を示し、お別れをしたいと思って、お墓へ向かったのだと思います。皆さんもこの3人の女性たちの気持ち、悲しみ、苦しい思いに共感できると思います。残された11人の弟子たちはローマ兵にイエス様と同じように殺されることをびくびく怯えていたのに、この3人の女性たちは、イエス様に対する深い信仰と愛を示したのです。
しかし、16:3の3人の女性たちの会話には大変皮肉なことが含まれていることもわかります。マルコの福音書を全部読んだことがある方はご存知かもしれませんが、イエス様が十字架の上にかけられる前に逮捕され、十字架刑を受けられ、三日後によみがえられることが3回も預言されていました(8:31, 9:30-31, 10:33-34参照)。しかも、それは弟子たちだけではなく、多くの人たちが聞いた預言です。イエス様の敵であったパリサイ人さえも、「わたしは三日後によみがえる」と言っていたイエス様の言葉を覚えていて、彼らはこのようにピラトに要請しました。
「三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」(マタイ27:64)
大変皮肉なことに、敵であったパリサイ人が、イエス様の弟子たちよりもイエス様の「復活」を期待していたのです。
三日後に、イエス様のご遺体の下にだれが集まったのでしょうか?遠い所から、イエス様の癒し、教え、奇跡を求めた大群衆が「(わたし)は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」(マルコ8:31)という預言の成就を期待していたでしょうか? イエス様が死なれる一週間前に、自分たちの上着を道に敷き、イエス様に対して、「ホサナ。 祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。 ホサナ、いと高き所に!」(マルコ11:9-10)と叫んでいた群衆は、墓の前に集まってイエス様の御名を誉めたたえていたでしょうか? イエス様が愛する12人の弟子たちはどうだったでしょうか?1人は裏切り者のユダ。他の11人はイエス様のみ言葉が成就されたかどうかを全く考えていません。そんなことより、自分たちが殺されるかどうか、自分たちは今後どうなるのかという心配で一杯一杯でした。
3日後に集まったのは、たった3人の女性たちでした。今日の礼拝よりも少ないですよ!そして、彼女たちは、他の弟子たちよりも、深い信仰と愛を示しましたが、同時にそこには、ものすごい深い不信仰も隠れていました。彼女たちは自分たちが愛している、敬虔で権威のある、力強い「メシア」のご遺体と会うことを考えていました。そして、彼女たちが最も心配していたのは、「イエス様が預言された通りに、本当によみがえられるのか?」ではなく、「イエス様のご遺体に油を塗るために、だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」ということでした。当然の心配のように聞こえるかもしれませんが、復活されたイエス様に大変失礼な心配だとも言えます。
しかも、本当に面白いことは、4節で、彼女たちは石が転がしてあるのを見たのにもかかわらず、その非常に大きな石の扉が開いていたことにさえ驚いていませんでした。「イエス様がよみがえられた!」とは、全く考えなかったのです。彼女たちが驚いた理由は、墓が開いていたことではなく、墓の中に座っていた天使の存在でした。そして、その天使が「イエス様はよみがえられました!弟子たちに伝えなさい!」と命令したのにもかかわらず、彼女たちは喜びもせず、また、神様を誉めたたえもせず、墓から逃げ出したのです。つまり、イエス様の弟子の中には、復活に対する希望や期待を抱いていた人はだれもいなかったのです。
ですから、マルコの福音書の結末は、当時の弟子たちの恥ずかしい「告白」とも言えます。残された11人の弟子たち、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが、「私たちは全くイエス様の言葉を信じなかった。よみがえられたにもかかわらず、すぐにイエス様を誉めたたえなかった」と正直に告白し、このように書物に書き記されたのです。自分たちの不信仰、自分たちの恥ずかしい歩みを隠ぺいしませんでした。なぜそのようにできたのでしょうか?それは、実際にイエス様が復活されたからです。恥ずかしい自分たちの告白よりも、想像を絶することが起きたからなのです。
イースターの主人公は弟子たちではありません。イースターの力強い福音は、弟子たちの信仰強さと忍耐強さの事ではありません。イースターの意味はあなたが神様を信じているかどうか、私たちがイエス様の復活を信じているかどうか、私たちがイエス様をメシアとして認め、御名を誉めたたえているかどうかでもありません。イースターの目的は、神様が存在しておられるかどうか、イエス様が復活されたかどうか、洗礼を受けるべきかどうかについて、私たちを説得することでもありません。イースターの主人公は私たちではないのです。主人公はイエス様です。
イースターが表していることは、私たちが復活についてどのように考えたとしても、イエス様の復活が全く変わらない事実であるということです。私たちの信仰が弱くても。私たちが神様の存在とイエス様の復活を疑ったとしても。私たちが深い罪を犯していても。復活の事実を聞いていながら神様の御名を誉めたたえなくても、イエス様が復活されたことに変わりはありません。
むしろ、私たちの不信仰にかかわらず、イエス様が復活されたことが私たちの希望です。私たちが弟子たちや3人の女性たちと同じように、日々、小さな心配にとらわれているにもかからわず、イエス様は私たちのために復活されたのです。私たちが「三日後によみがえる」と聞いていて、イエス様がよみがえられた証拠も示されながらも、神様の御前から逃げ出す にもかからわず、イエス様は私たちのために復活されたのです。それがイエス様の復活の力強さです。イースターの主人公は、不信仰な私たちのために復活されたイエス様なのです。
最後に覚えていただきたい3つの質問があります。まず、一つ目は、「復活されたイエス様の墓の前で、私たちは何を恐れ、何を心配しますか。」残された11人は、自分たちのいのちを失うことを心配していました。3人の女性たちは、愛する人を大事にするために、だれが墓の入り口から石を転がしてくれるかを心配していました。パリサイ人とピラトは、弟子たちがイエス様のご遺体を盗んで、「イエス様が蘇った!」とウソをつくのではないかと心配し、そのようなウソから社会を守りたいと思っていました。しかし、どの心配も根っこにあるのは、「イエス様は復活しない」という前提に基づいています。
皆さんは、本日のイースター礼拝に来られる前に、いろんな恐れやいろんな心配を抱えて、出席されたかも知れません。それは、自分のいのちと生活にかかわるような心配かもしれませんし、愛する人たちのいのちと生活にかかわる心配かもしれません。あるいは、この社会またはこの世界の心配かもしれません。しかし、多くの心配は、「イエス様が復活されない」か、「イエス様の復活は私のものにならない」という前提から来るのです。ですから、もしイエス様が本当に復活されたのなら、私たちは心配を持ち続ける必要があるでしょうか。復活されたイエス様の墓の前で、私たちは何を恐れ、何を心配するのですか。
次に覚えていただきたい質問は、これです。「イエス様は復活するために、私たちの信仰を必要とされません。しかし、私たちにはイエス様の復活が必要であることを認めますか?」
皆さんに覚えていただきたいのは、イエス様はご自身の復活のために、私たちの信仰、賛美、良い行い、献金を必要とされていません。イエス様はやけくそになった営業マンのように、自分が復活したことをみんなに説得しようとして「教会に時間とお金と賜物を投資してください!」と私たちに願ってもおられません。私たちに、認められるという必要もないのです。イエス様は、私たちが何をどう信じようと、ご自分の力で復活されたのです。ですから、私たちに問われているのは、「イエス様が復活されたことを認めますか」ということではないのです。
実は、立場は逆なのです。私たちがイエス様の復活を見下して、イエス様を認めるかどうかを決めるのではなく、死を打ち破られ、復活された救い主イエス様が私たちをあわれんでくださったのです。復活されたイエス様は、「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として」、ご自分の復活のいのちを与えるために来られました(マルコ10:45参照)。私たちは日常の悩み、葛藤、苦難、痛み、孤独、恐れに捕らわれている弟子たち、3人の女性たち、パリサイ人たちの一人なのです。そして、復活されたイエス様は、すべての人に、「わたしの復活のいのちによって、その日々の心配から解放されたいか?」と問いかけておられるのです。クリスチャンになることは、非常にシンプルなことです。三人の女性たちの会話や恐れによって逃げ出した記録は、彼女たちの信仰告白のようなものでした。「私はイエス様が復活することを信じていなかった。そして、恐怖とパニックに陥ってしまった。それにもかかわらず、イエス様は私たちのために復活された!」とマルコの福音書で公に告白したようなことです。同じように、皆さんは、自分が恐怖と恐れに捕らわれていることを認め、復活されたイエス様に拠り頼みたいでしょうか?
そして、最後の質問はこれです。「もしイエス様の復活が真実なら、あなたの日常はどう変わると思いますか?」復活を信じていても信じていなくても、ぜひ想像してみてください。私たちの悩みと恐れの向き合い方はどう変わると思いますか?
ヨハネの福音書には、イエス様のご遺体がなくなり、恐れと悲しみに落胆したマリアの記録が書いてあります。そんなマリアにイエス様はこのように話しかけられました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」(ヨハネ20:15)つまり、復活のイエス様と出会ったなら、もう泣く必要はなくなるのです。自分を恐れから救ってくれる誰かを捜す必要もなくなります。クリスチャンたちを殺すほどイエス様の復活を疑っていたパウロは最終的にこう結論づけています。
“ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留(と)めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。”(第二コリント4:16–18)
復活を疑った弟子たちのために復活されたイエス様に感謝しつつ、落胆せず、恐れず、「一時の軽い苦難」とは比べものにならない復活の「重い永遠の栄光」に目を留めましょう。