2022年4月24日礼拝 音声有 説教「離れるか、離れないか。」

*通常の会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: at our church space (Site 1) and shared via ZOOM.

音声ファイルの最後に、4/29予定のピクニックの案内が入っています。

(For those interested in an English summary of the sermon each week, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏
招きの言葉 ローマ人への手紙 4章13〜16節
さ ん び 「聞け我らの賛美」
さ ん び 「主は道をつくられる」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 40番 「父の神の真実」
聖書朗読 創世記 12章1〜3節
聖書の話      「離れるか、離れないか。」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 59番 「久しく待ちにし」
献   金
報   告
とりなしの祈り   マーク・ボカネグラ牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷    マーク・ボカネグラ牧師
後奏(讃美歌)  567番[V] 「アーメン・アーメン・アアアアーメン」

 

説教原稿 創世記12章1〜3節 「離れるか、離れないか。」

 

単刀直入に言いますが、聖書から見ると、生き方にはたった二通りしかありません。それは、①自分にないものを獲得するために、働いて生きること。②自分に約束されているもののために、待ち望んで生きること、です。聖書のことばによると、「働いて生きること」は「行い」または「律法」による生き方で、「待ち望んで生きること」は「信仰」または「福音」による生き方を意味します。そして、この二つの生き方は、白と黒、水と油のように、正反対で相容れない生き方です。

クリスチャンでもノンクリスチャンでも、よく誤解されるのは、キリスト教は、永遠のいのち、幸せ、聖さ、天国、神様の愛など、何かのために、神様のみことばに従いながら働いて生きることだと勘違いしてしまうことです。しかし、聖書によると、キリスト教はその正反対であることがわかります。キリスト教は、むしろ何かのために働くことをやめることなのです。キリスト教は、神様が約束されたことを、待ち望んで生きることなのです。 私たちは何のために日々生きているのでしょうか?皆さんは自分にないものを獲得するために、働いて生きていますか?それとも、自分に約束されたものを受けるために、待ち望んで生きていますか?

私たちは、クリスチャンとして、神様の約束の成就を待ち望んで、信仰をもって歩みたいと思っていますが、どのように信仰を深めたら良いかわからないときがあります。そのための、質問がいくつかあります。私たちは、神様が私たちに「何を」約束されているのかを知っているでしょうか?もし知らないのなら、そこから始めた方がいいでしょう!もし知っていると言うなら、なぜ、その「約束」を待ち望んでいないのでしょうか?その「約束」を「だれの約束」と「どのような約束」と取り替えているのでしょうか?

前に説明したことがありますが、創世記を読むと、神様からの「恵み」が具体的にどういうものか、また、神様の恵みを具体的にどのように受けることができるかを学ぶことができます。そして、本日の聖書箇所のアブラムに対する神様の約束を通して、「恵みの下で」どのように生きるかについて学ぶことができると思います。

 

まず、本日の箇所の流れを確認していきましょう。本日の箇所はたったの3節ですが、神様の「恵みの約束」の枠組みがここに書き記されています。前回の説教で確認しましたが、アブラムは、神様の約束に値しない人だった上に、私たちが想像する「理想のクリスチャン」でもありませんでした。アブラムの家族は、悲惨に溺れ、偶像崇拝にハマって失敗してしまった家族でした。しかし、神様は一方的に12:1-3の祝福をアブラムに約束してくださいました。その約束を一節ずつ見ていきたいと思います。

創世記 12:1  主はアブラムに言われた。 「あなたは、あなたの土地、 あなたの親族、あなたの父の家を離れて、 わたしが示す地へ行きなさい。」

アブラムは家族の出身地であったウルを出てカナンに向かい、ハランという町に住むことになりました。そして、ウルとハランという町は、どちらもTOP3に入るほどの大都市でした。今の日本に例えると、東京と大阪のような大きな都市です。そして、神様は「あなたの土地を離れなさい」とアブラムに求められました。その「土地」が約束する名誉、成功へのチャンス、祝福、富などから離れなさい、ということです。しかし、それだけではなく、「あなたの親族、あなたの父の家からも離れなさい」と神様はおっしゃいました。自分の家族が約束する安定感、心地よさ、平安などからも離れなさい、とおっしゃったのです。つまり、「神様の約束」とその他の約束を同時に求めることは不可能だということです。「神様の約束」か「大都市ハランでのエキサイティングな生活」。「神様の約束」か「あなたの父の親族との心地いい生活」。どちらかしか選べないのです。つまり、アブラムは決断しなければなりませんでした。そして、神様の約束は、「神様が示す地」は、今よりも「もっと良い故郷」(ヘブル11:16)だという前提でした。自分の土地と家族から離れても、損することはなく、むしろ、大いに祝福されるということを神様は約束してくださったのです。

では、神様はどのようなことを約束されたのでしょうか?

創世記 12:2  「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとする。 あなたは祝福となりなさい。」

ここには、具体的には書いてありませんが、聖書の全体を見ると、神様は三つのことをアブラムに約束しておられます。

神様が最初に約束されたことは、アブラム家を「王家」にすることでした。「あなたの名を大いなるものとする」とは、アブラム家が単に有名になるということではありません。聖書の中でこのような表現が使われた場面は、もう一箇所しかありません。それは神様がダビデを王様に任命し、「大いなる名」(2サムエル7:9)を持つ王にすることを約束される場面です。そして、創世記17:6と17:16を見ると、アブラムとサライの間から「もろもろの民の王たち」が生まれることが預言されています。つまり、神様の約束は、アブラム家の子孫を、世界の国々を支配する力強い王家にするということでした。

神様が次に約束されたことは、アブラム家に「国民」を与えることでした。「国民」を治めない王家はありません。ですから、神様はアブラムとサライを「国々の父と母」にする(創世記17:6,17)と約束されたのです。創世記15:5で預言されたのは、星の数のように子孫が与えられ、「海辺の砂のように」(1列王4:20)国民が増えるということでした。つまり、神様の約束は、アブラム家におびただしい数の民を与え、力強い、祝福された、「大いなる国民」とするということでした。

神様が最後に約束されたことは、アブラム家に「領土」を与えることでした。神様が示される地は単なる「土地」ではありません。神様が約束された「王家」と「国民」が住む「領土」とも言えます。そして、この「領土」は、周りの王国から攻撃を受けず、内戦もなく、すべてのものが満たされ、「平安」と「安息」の約束の地になるようにと、神様が約束されたのです。つまり、アブラムの王家と国民が住む「領土」は、「安息」と「平安」を経験できる「王国」なのです。

要するに、創世記12:2の神様の約束の意味は、だれがどう見ても、アブラム家が「祝福された存在」となるということなのです(イザヤ19:24、ゼカリヤ8:13参照)。どこの王家の血も引いていないアブラムとして。  子どもも産めない老夫婦として。  自分の故郷ウルを出て、故郷さえもない寄留者として。  神様が約束されたことはとんでもない話です。どう頑張っても、どう努力しても、どれほど働いたとしても、自分の力で獲得できるものではありません。悪く言えば、ちょっといじわるな約束だとも言えます。すでに亡くなっている人に命を約束するような、全く不可能とも思えるような約束を神様はなさったのです。

 

そして、神様の約束は、私たちが考えている「王家」、「国民」、「領土」のことではありませんし、中東にある王国の王様、民、領土のことでもありません。もちろん、アブラムの1000年後に、アブラムの子孫であるダビデ王がイスラエルの王様になり、イスラエルが「海辺の砂のように」(1列王4:20)多くなり、イスラエルという王国がカナンを自分の領土にすることができました。しかし、神様はそのようなことを約束の「成就」としてお与えになったのではありませんでした。これは約束の究極の成就のひながたとしてお与えになったのです。神様が約束されたのは、アブラムの子孫が、神様の右の座に座し、天と地を治める三位一体の神様の王家に入る「王」(黙示録5:5)のことでした。そして、すべての国民、部族、民族、言語から(黙示録7:9)、だれにも数えきれないほどの大勢の「国民」がその「王」の御座の前に集まり、ひれ伏すことを指していました。また、神様が約束されたのは、自分の霊と体が完全に満たされる永遠の「安息」と「平安」の約束の地である天国という聖なる「領土」がアブラムに与えられるということでした(黙示録21:1-4, 22:1-5)。つまり、一言でいうと、神様の約束は、アブラム家を「神の子」あるいは「世界の相続人」(ローマ4:13)にするようなことです。私たちの想像を越える、ぶっとんだ話なのです。

ですから、神様がアブラムに「わたしが示す地へ行きなさい」という意味は、「自分にない『神の子』の身分を獲得するために、働いて生きなさい」という意味ではありません。もし、そのように解釈するなら、神様の約束されたことは、アブラムとサライの手に届くようなものであると誤解してしまっているということです。神様がおっしゃっていることは、「神様が約束されているもののために、待ち望んで生きなさい」ということです。つまり、約束されたものは100%神様が実現されるものなので、あなたは5%も、1%も、0.01%さえも貢献できないのです。これが、神様が約束されている「恵み」なのです。ただただ神様の恵みにより頼み、待ち望むことが「信仰」なのです。もし神様の約束の成就のために、5%でも、1%でも、0.01%でも自分で何かをしようとすると、「信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます」(ローマ4:14)。要するに、自分の「働き」あるいは「行い」は、神様が約束された恵みを無効にしてしまうのです。「そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです」(ローマ4:16)と聖書は結論づけます。

そして、神様の約束はこのように終わります。

創世記 12:3    「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、 あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。」

ここには神様の約束への招きも、神様の注意も入っています。神様に約束されたアブラムの祝福を見て、アブラムと同様にその祝福を喜ぶ者は、アブラムと同じ祝福を得ることができるということです。つまり、アブラムと同じ「信仰」を持つ者は、アブラムと同じように祝福を得ることができるのです。ですから、日本人であれ、アメリカ人であれ、フィリピン人であれ、アブラムと同じように神様の約束を待ち望むなら、私たちもアブラムに約束されたものを受けることができます。

しかし、神様が命じられたアブラムの約束を待ち望む「信仰」の生き方を見ても、喜ばない者、あるいは、拒む者は「呪われる」ということです。もちろん、これはアブラム家の子孫であるイスラエルを攻撃する「敵」も含まれています。しかし、新約聖書を読むと、これにはもっと広い意味があります。要するに、神様の恵みの約束を拒む異邦人とイスラエル人は呪われるということなのです。ローマ9:8では、創世記12:3の意味をこう説明しています。「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。」つまり、アブラムに約束された神様の恵みは、血統によって引き継がれるものではなく、神の約束に対する信仰によって引き継がれるのです。そして、信仰のない者は祝福を得ることができない、すなわち、呪われるということです。ですから、祖父であるアブラムの約束をたった一杯の食ベ物と引き替えた孫であるエサウのように、神様の恵みを拒み、他の約束と引き替えた異邦人とイスラエル人は、祝福を得ずに呪われるということです。

 

創世記12:1-3の神様の約束の最初と最後は、最終的に私たちに二通りの生き方を提示しています。神様が約束されたもののために待ち望んで生きるか、あるいは、待ち望むことなく自分にないものを獲得するために働いて生きるかです。そして、この箇所を通して、神様がアブラムを強く促されたように、私たちにも「信仰のみ」と「恵みのみ」の生き方を神様は促しておられます。ここで、皆さんに三つのポイントを覚えていただきたいです。

 

まず、一点目。「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家から離れなさい。なぜなら、神様の約束にしか 真の「恵み」はないからです。

私たちは、神様が約束されていることと、この世が約束していることが、似たもの同士だと思ってしまっているところがあります。「神様は私に祝福を約束してくださっている。この世も私に祝福を約束している。どっちも欲しい。」そんなふうに思う時はありませんか?しかし、これは真実からほど遠いことです。自分たちの周りの社会、環境、が約束することは、「十分に働いたら、恵みを得られる」という価値観です。つまり、その「恵み」は最終的に自分の何かにかかっているということです。聖書によると、これは律法です。「行い」と「働き」による恵みは、真の恵みではありません。神様が約束する恵みは、「待ち望んだら、恵みが得られる」ということです。要するに、「恵み」は100%神様によるものだということです。神様の恵みにより頼むこと、「信仰」を持つことは、恵みを得るための働きをやめ、恵が与えられることを待ち望むことなのです。これほど正反対なことはありません。そして、神様の約束にしか、真の「恵み」はないのです。

そして、私たちが「神様の約束」と「この世の約束」を少しでも混ぜるようなことがあると、「神様の恵み」はすべて無効になります。アブラムの例えで言うと、彼らはウルかハランに留まりながら、カナンへ向かうことはできません。物理的に不可能ですよね?同じように、自分の「働き」を一滴でも神様の約束に混ぜたら、神様の約束が無効になります。ですから、皆さんに単刀直入に聞きます。私たちは何のために生きているでしょうか?祝福を得るために働いていますか?それとも、神様が約束された祝福を得るために待ち望んでいますか?どちらかを選んで、どちらかから離れてください。

 

次に覚えていただきたいのは、「神様は、私たちが求めている『恵み』だけではなく、私たちの想像を超えた、現実的に不可能な恵みを保証してくださっている」ということです。

ハランで「普通」の生活を送っていたアブラムとサライは、「ある程度の名誉と富が欲しい」「一人の子どもが欲しい」「何十頭の羊と牛を飼うことができる土地が欲しい」というようなことを求めていたと思います。大して、ぶっとんだことを求めてはいなかったと思います。そして、神様はそのようなことを与えることもできますし、アブラムとサライに約束してもおられました。私たちも、アブラムやサライと同じように、人間としていろんな「普通」の恵みを求めます。お金で悩みたくない。健康で長生きしたい。人に愛されたい。認められたい。達成感のある、充実した生活を得たい。平安と安定を感じたい。幸せになりたい。ありのままでいたい。良い人と環境に囲まれたい。

しかし、アブラムとサライが求めていなかったとしても、また、彼らにとって完全に不可能なことであったとしても、神様はアブラム家を天と地を治める「大いなる王家」にし、「大いなる国民」にし、安息と平安の「約束の地」を与えることを約束してくださいました。それだけではなく、私たちも、もしアブラムと同じ信仰を持っているならば、私たちは神様とともに「神の子」として右の座に着き、神様の大勢の国民に囲まれ、天国にある永遠の安息と平安の「約束の地」を楽しむことになります。神様が約束される「永遠のいのち」は、私たちの限られた視力で見る2Dの白黒の恵みではなく、私たちの想像の限界を超える、生きた、充実した、最高の恵みなのです。皆さんはどちらが欲しいですか?自分の手に届く、自分の努力で働いて得られる恵か、自分の想像の限界を超えた、神様が約束してくださっている恵みか。どちらを選びたいでしょうか。

 

最後に覚えていただきたいのは、「神様がアブラムに約束されたすべては、イエス・キリストにあります。ですから、イエス・キリストを待ち望む者は祝福され、拒む者は呪われる」ということです。

神様がアブラムに約束してくださったものは、すべてイエス様に与えてくださいました(ガラテヤ3:14参照)。アブラムの子孫であるイエス様は、「天においても地においても、すべての権威」が与えられ、「大いなる名」を持つ永遠の王様となられました(マタイ28:18)。私たちも含め、すべての国民、部族、民族、言語から、誰にも数えきれないほどの大勢の「国民」がイエス様の前でひれ伏します。イエス様の救いによって、私たちは「神の王国」である平安と安息の約束の地を楽しむことができるのです。つまり、イエス様が「祝福された存在」(創世記12:2)となられ、イエス様を祝福する者は永遠に祝福される(創世記12:3)ということなのです。

多くの人たちは、聖書からいろんなことを捜し求めます。聖い生活を送るためのテクニック。幸せになる鍵。平安を獲得する手段。永遠のいのち。天国。しかし、聖書を読みながらも、イエス様が私たちに提示してくださる恵みを拒むなら、あるいは、イエス様ご自身を求めないなら、神様がアブラハムに約束した恵みを完全に拒む呪われた者になってしまいます。イエス様はこう注意されます。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39–40)

では、私たちはどのように生きるべきでしょうか?イエス様はこうおっしゃいました。

「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」(ヨハネ8:56)

アブラムは創世記12:1-3の時点からイエス様を喜んで待ち望んでいましたので、私たちも自分たちが求めるもののために働いて生きるのではなく、アブラムと同じように、神様が約束してくださったイエス様を喜んで待ち望みながら、歩んでいきましょう。お祈りします。