2022年5月1日礼拝 音声有 説教「恵みは犠牲を求む。」

*第二礼拝場(アパホテル)で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: at APA Hotel space (Site 2) and shared via ZOOM.

English summary of the sermon each week, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前 奏   Prelude
神の招き Call to Worship開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌 254番 「主イェスの恵みと御栄とを」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書55章6〜7節
罪の告白の祈り Prayer of Confession
 個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing of the Peace
みことばの宣教 Proclamation of the Word
 聖書朗読 創世記 12章4〜9節
 聖書の話 「恵みは犠牲を求む。」 (全文原稿は別紙) マーク・ボカネグラ牧師
聖晩餐式 Communion     司式 マーク・ボカネグラ牧師
献 金  Offering
報 告  Announcements
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 Benediction (Blessing)                       マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen   讃美歌567番[V] 「アーメン・アーメン・アアアアーメン」

 

説教原稿 創世記12章4〜9節 「恵みは犠牲を求む」

 

普段、私は重度の面倒くさがり屋なのですが、以前おいしいラーメンを食べるためにいろいろな面倒くさいことをした経験があります。そのラーメン屋さんは大変長い行列ができる店で、昼の開店のために午前7時から整理券が配布されます。ですから、整理券をもらいに行くために、私は6時に起きて、電車に45分間乗って、7時ぐらいに整理券をもらって、泊まっていたところに戻って、自分の荷物を持って昼にまた戻って、30-45分ぐらい列にまた並んで、そのあと、自分の記憶に刻まれるほど最高の塩ラーメンを食べました。本当に大変で面倒くさかったのですが、なぜか自分の喜びにつながると確信していたので、全く「苦」じゃありませんでした。むしろ、そのような面倒なことがあったから、余計にラーメンが美味しくなった気もします。皆さんもそのような経験はありませんか?やはり自分が楽しみにしていることであれば、人はいろんな犠牲を払えると思います。

前回の説教で、私は神様から頂く「恵み」についていろいろ説明しました。私たちはイエス様を通して、三位一体の神様の王家として「神の子」とされるのです。私たちがどのような国、民族、階級から来たとしても、私たちは「天の市民」、「神の王国の民」になることができます。そして、私たちは永遠のいのち、安息、平安を味わうことができる天の約束の地で、イエス様とともに住むことになるというのです。しかし、本日の聖書箇所では、私たちはどこまでこの「恵み」を楽しみにしているのか、どこまでイエス様とともに永遠に歩むことを待ち望めるのかが問われます。言い換えますと、私たちはイエス様とお会いするためにどれほどの犠牲を払えるかによって私たちがどれほどイエス様とお会いすることを楽しみにしているかがわかります。ですから、神様は、神様の恵みを受けたい人に試練を与え、犠牲を求められます。神様の恵みを頂く人はなぜ犠牲を払わなければならないのか、どのようにアブラムが試練と向き合ったのか、結果的にどうなるのかなどについて疑問が湧きます。ある意味、その疑問の答えはアブラムとサライの全生涯の中に見られますが、本日の箇所には、その答えの始まりがあります。まず本日の箇所の流れを確認して、皆さんに覚えていただきたいポイントを分かち合いたいと思います。

 

神様は想像を超えた、現実的に不可能な約束をアブラムにお与えになりました。アブラムとサライは子供を産めなかった老夫婦でした。神様に従っていなかった偶像崇拝者でした。そして、故郷もない寄留者たちでした。しかし、アブラムとサライの間に生まれる子孫が「王」になること、2人がすべての国々を治める「王国」の「父と母」になること、そして、永遠の安息と平安を経験する「約束の地」を神様は約束されました。これが創世記12:1-3の約束の内容です。

そして、神様から頂いた約束のことばに対して、アブラムの応答は創世記12:4-5に書いてあります。

アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

つまり、75歳のアブラムは、神様の約束を信じ、神様の恵みを期待して、犠牲とリスクの大きい、確実性もない、非常に険しい道を自ら選んだのです。アブラムの妻サライと、当時成功していたロトも同じ道を選び、アブラム家とロト家で蓄積した全財産をこの道にかけました。これはただ感情に任せた超楽観的で、危険なギャンブルではありません。もしそうだったら、それはカルトや新興宗教に近いものと言えるでしょう。アブラムは神様の恵みと、恵みを得るための犠牲について十分に検討し、試練をも覚悟して決断したのです。イエス様はこうおっしゃいます。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。 計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、 『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。」 (ルカ14:26–30)

アブラム、サライ、ロトは自分の十字架を背負うことを覚悟し、神様の恵みを待ち望む決断をしました。そして、忘れてはいけないことは、本日の箇所を読むと、神様はアブラムにすぐに恵みを与えたわけでもなく、すぐに報われたわけでもなかったことです。むしろ、アブラムは約束された恵みとは正反対と思えるようなことを経験させられました。

アブラムは「大いなる名」が約束されたのに、大都市ハランでの安定した「一軒家生活」を手放して、何もない田舎を旅しながら不安定な「天幕生活」を経験し続けました。そして、カナンという「約束の地」に着いても全く落ち着きませんでした。この短い箇所を読むと、アブラム家はカナンのあるところに定住しようとしていましたが、違うところへ移動する姿が3回も見られます。好きで何回も引越しをする人は、そういないので、何らかのトラブルが次々と起きて、各地から追い出されたのかもしれません。

アブラムとサライは、国々を支配する「王家」と「王国」を生み出すと約束されたにもかかわらず、彼らはいつもカナンの都市から離れた「山の方」で天幕を張っていました。なぜなら、約束の地には「当時、その地にはカナン人がいた」(創世記12:6)からでした。「山の方」に天幕を張ったのは、、カナン人が所有している土地から離れた所で天幕を張る必要があったからです。王国も軍事力も権威さえもないアブラム家は、「国々を支配する」立場ではなく、むしろ、「国々」の力から距離を置き、葛藤や争いを避けていたのです。

そして、アブラムとサライは、安息と平安の「約束の地」が約束されていたのに、膨大なリスクを負ってやっとの思いでカナンに着いたのに、土地さえも与えられませんでした。アブラムの旅路を確認すると、カナンの北部から始まって、中心部、南部まで寄留したのです。ぱっと見ると、最終地点が定まっていない旅であったことがよくわかります。なぜなら、アブラムが神様から頂いたのは12:1-3の約束でしたが、具体的にどこへ行けばいいのか、どのように約束の地が与えられるのか、どのタイミングで何をすればいいのかは全く説明されませんでした。ヘブル書11:8-9にアブラム家の状態が描写されています。

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。 信仰によって、彼は約束された地に他国人(じん)のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

アブラム家は「安息と平安」よりも、常に「不安と苦労」が追ってくるような天幕生活を送っていたということです。要するに、神様の恵みは、アブラムに犠牲を求め続けたのです。

大きな犠牲を払い続け、様々な苦難を受けていたアブラムを神様はどう励まされたのでしょうか。それは、非常にシンプルな方法でした。7節に書いてあります。「主はアブラムに現れて言われた。『わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。』」つまり、神様はご自分の存在をアブラムに見えるようにされ、そして、そのあとに神様の約束の内容を確認されたのです。

「主はアブラムに現れて言われた」という表現はアブラムの人生の中で3回(12:7, 17:1, 18:1)しかありません。そして、ここで初めて神様は、アブラムに神様のみことばだけではなく、神様のご臨在を、見て感じられるような経験をお与えになりました。そして、アブラムが不安や苦難に直面しているとき、神様ははっきりと「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」と宣言されました。「アブラムとサライが老夫婦であっても、息子を与える」や「カナン人がいても、あなたはこの地を支配する」などの約束よりも、最もインパクトがあるのは、「わたしが与える」という約束です。つまり、「死」がサライの胎内を支配しているのではなく、カナン人が約束の地を支配しているのではなく、天地を創造された神様がすべてを支配しておられ、その権威の中から神様が与えるくださるということが力強く伝わってきます。

その宣言の応答として、アブラムは祭壇を築き(12:7)、「主の御名を呼び求め」(12:8)、そして、「進んで」(12:9)旅を続けました。しかも、この短い箇所でアブラムは2回も祭壇を築いています。それは、具体的にはどういう意味でしょうか?祭壇はもちろん神様を礼拝する場所でしたが、私たちが考えるような礼拝ではありません。当時は、祭壇を築くことにもっと深い意味がありました。祭壇は神様の権威と支配を表していて、「神の王国」の旗を地面に立てて、「この土地は聖なる聖なる聖なる神様の支配の下にあり、聖書の神様の勝利を表している!」と大声で宣言するようなことなのです。そして、「主の御名を呼び求める」ことも、私たちが考えるような祈りではありません。それは「神様の支配」を受け入れ、宣言することであり、神様の「御名」を自分の額と手に「主のもの」と書き記すこと(イザヤ44:5参照)でした。また、それは、「主の御名」の旗を堂々と振って、「どうか、この地で神様ご自身の権威、御力、栄光がすべての人に明らかになりますように。御国が来ますように!」と大声で公に祈ることでした。

そして、アブラムとサライは、カナン人から見れば不法寄留者で、権威も軍事力も子供さえもない老夫婦でしたが、カナンの各地に神様のご支配を表す「祭壇」を築き、「この土地は主のものだ!ここも主のものだ!そして、主はこの土地を私たちに与える!我々の主がどれほど力強いか知っているのか?!わはっはっ!」と堂々と宣言したようなことでした。しかも、それはアブラムが様々な苦難や試練を通って、不安や傷や喪失感を抱えていた頃のことでした。

この箇所を読むときに、わたしの頭になぜか思い浮かんだのは、ロッテ対神様、シリーズは3-0。9回ウラ2アウト、11-0、勝利の確率はほぼ0%。それなのに、マリンスタジアムでロッテのファンの大群衆の中で、笑いものにされながら、唯一のファンとしてアブラムとサライの老夫婦が超おんぼろな旗を振りながら、「絶対勝つぞ!神様の逆転勝ちが絶対に来る。お前らみてろよ!」と堂々と、めげずに神様を応援するようなイメージです。しかし、今日のポイントはアブラムとサライの信仰がすごいということではありません。勘違いをしないでください。彼らも、絶対心の中で疑っていたと思いますし、このあとの箇所でそれが明らかになります。しかし、なぜアブラムはこのような信仰を持つことができたのでしょうか?それは、彼らが疑っていた時でも、バッターボックスに立っている神様が、スタンドにいるアブラムとサライを指して「心配すんな!必ず勝つ!」と宣言してくださったので、アブラムとサライは堂々と宣言できたのです。自分の根性で自分たちの信仰を保っていたのではなく、神様が見える形でアブラムに現れて、勝利の宣言をしてくださったので、アブラムは、苦難の中にあっても、主を礼拝し、主の御名を呼び求め、前に進むことができたのです。

皆さんはこの試合の結末をすでにお分かりだと思います。この約束の成就には2段階ありました。この神様の宣言の600年後に、アブラム家が何百万人もの民になっていました。そして、神様からカナンという「約束の地」がイスラエルに与えられたのです。与えられた後、イスラエルが最初にしたことは、アブラムが最初に祭壇を築いたシェケム(12:6)に戻って、神様の権威を認め、自分たちが「主のもの」であることを認めたのです(参照:ヨシュア24章)。しかし、ここで神様の約束がすべて成就されたわけではありません。これはただ最終的な成就の「ひながた」なのです。パウロは本日の創世記12:7の約束を引用して、こう説明します。

約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。(ガラテヤ 3:16)

それゆえに、創世記12:7の約2000年後に、神様はアブラムの子孫であるイエス様に、天と地におけるすべての権威を与えられます。そして、すべてを圧倒したイエス様は、イエス様を待ち望んでいたアブラム家、そして、アブラムと同じ信仰を持っている私たちに。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい」と宣言されます(マタイ25:34)。そして、世の終わりに、神様は約束された通りにすべてを成就させます。

 

ですから、神様の約束と苦難を乗り越えるアブラムの信仰をみて、覚えていただきたいことが三つあります。まず始めに「安全を保障するものから離れることによって、自分の乏しさから抜け出すことができる」ということです。これは自分のことばではなく、Brueggemannという注解者のこの箇所についてのまとめです。私たちはアブラム家が受けた苦難、喪失、屈辱を見て、可哀そうに思うかもしれません。そして、私たちも似たような経験をしたら、自分を可哀そうだと思うかもしれません。なぜでしょうか?それは、アブラムも、自分たちも安全を保障するものを失ったと思うからかもしれません。しかし、アブラムはそうは思っていませんでした。ハランで得られたかもしれない安全、心地よさ、幸せから離れた理由は、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。」(ヘブル11:10)つまり、アブラムから見ると、ハラン、日本でいえば『東京』を離れた理由は、神様が設計し、建設された天の都(ヘブル11:9, 16)と比べると、ハランや東京は乏しい場所だと思えたからです。つまり、この世の「安全を保証するものを失う」ことは、「犠牲を払う」ことと言えるかもしれませんが、「この世の乏しさから抜け出す」と言う過程でもあるということです。

私たちは、自分が苦難と直面するときどうでしょうか?パウロと同じように、その苦難を「キリストを得る」プロセスとして見ることができるでしょうか?

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、 キリストにある者と認められるようになるためです。(ピリピ 3:7–9)

次に覚えていただきたいのは、「礼拝は、自分の苦難と喪失の中で、将来の神様のご支配と圧倒的な勝利を宣言するときである」ということです。礼拝することは、自分が感じている幸せと喜びを神様に示すことではありません。私たちはアブラムと同じように神様が約束されている恵みをまだ完全には頂いていません。むしろ、苦難と悲しみと喪失感の中にいます。ですから、もし礼拝が今感じていることを表すときだというのなら、私たちは常に礼拝することはできないでしょう。

礼拝というのは、自分たちの感情によって始めるものではありません。神様の宣言から始まるのです。「落ち込んではいけません!必ず勝利する!そして、あなたは神の子になって御国を引き継ぐ。永遠のいのちを楽しむ。私をみなさい!イエスの十字架と復活をみなさい!」そして、私たちは応答として、御父の約束を聞いて、イエス様の十字架と復活を思い出し、自分が苦難と悲しみと喪失感に溺れていたり、周りの人に笑いものにされていたとしても、「神様の御名が聖なるものとされますように!御国が来ますように!国と力と栄はとこしえにあなたものものにだからです!」と「主の御名」の旗を振りながら、将来の神様のご支配と圧倒的な勝利を宣言することです。つまり、礼拝は、神様のみことばを聞いて、自分の現実からほど遠いことを宣言し、将来の神様の勝利に希望を置き、たとえ苦難の中にいても、全身全霊で待ち望むことなのです。

最後に覚えていただきたいのは、「アブラムになるように努めるのではなく、イエス様が究極のアブラムになってくださったことを感謝する」ということです。皆さんはアブラムの模範を見てがっかりするかもしれません。「自分はそうなれない」と思うかもしれません。しかし、安心してください。次の箇所で、アブラムは私たちのように完全に神様を疑い、思いっきりしくじります。「アブラムのようになりなさい」がポイントではありません。アブラムの歩みはイエス様のひな型で、イエス様のみわざのすばらしさを表しているのです。

イエス様は、神の御姿であられるのに、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分の天の都を離れてご自分を空しくされ、しもべの姿をとって苦難、屈辱、裁きを受けられました(ピリピ2:6-7参照)。イエス様は、ご自分の悲しみではなく、ご自分の喜びとしてその道を選ばれたのです。この世界に見下されても。ご自分の民に拒まれても。自分の12人の弟子たちに裏切られても。十字架の上で神様のさばきを受けられても。前に進まれました。なぜなら、イエス様は神様の勝利の宣言を信じておられたからです。そして、その宣言の応答として、イエス様を嘲って十字架につけた罪人に、「わたしはほむべき方の子キリストです。あなたがたは、わたしが力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(マルコ14:60-61参照)と毅然(きぜん)とに宣言され、神様を礼拝されました。つまり、イエス様は十字架上の苦難にあって、神様を礼拝し、現実からはほど遠い将来の勝利を宣言されたのです。当時の人にとって、気が狂ったかのような行動でした。しかし、イエス様がこのように疑わず、躊躇せずに愛と喜びをもって神様に従ってくださった結果、私たちも今日(こんにち)、永遠のいのちを引き継ぐことができるのです。ですから、私たちがアブラムになるように努めるのではなく、イエス様が究極のアブラムになってくださったことを感謝し、イエス様の御名を堂々と誉めたたえ、将来の救いの完成を待ち望みましょう。