*第二礼拝場(アパホテル)で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: at APA Hotel space (Site 2) and shared via ZOOM.
(For an English summary of the sermon each week, please contact us.)
礼拝式順 10:45〜12:00
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇 Psalm 103:1~4 |
さ ん び | Praise of Response | 全地の王イエス |
さ ん び | Praise | How Great Is Our God |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌 40番「父の神の真実」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書 John 10:1~10 |
聖書の話 | Message/Sermon | 「わたしは羊たちの門です」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌 299番1〜4節 「小羊なる主の招きに応えて」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 廣橋嘉信牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌 271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | 廣橋嘉信牧師 |
後 奏 | Postlude / Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
説教原稿 ヨハネの福音書10:1~10 「わたしは羊たちの門です」
今日はこの教会の創立21周年記念をする日です。この後のお祝いの時間をお楽しみにされているかと思います。創造主なる神様が私たちのために、私たちの内に多くのことをしてくださいました。創立当初、会員数が5名でした。今は、遠方会員を含め100名を超えています。マンションで始められた礼拝は、アパホテルのこの部屋で行えるようになりました。宗教活動がとてもしにくい街に廣橋牧師が来て、何十年もの経験を活かし、教会が成長してきました。礼拝の出席人数は、例えば先月の復活祭では90名近くに登りました。さらに、大きな宣教師チームがようやく、全員揃いました。
さて、「あれっ?」と感じて聞かれたかもしれません。私がこれまで挙げたこの指標はどうでしょうか。違和感がありませんか。人数、年数、場所の立地、開拓者の経験、マンパワー…。それらは目で見える、力あるように感じる、めでたいことかもしれません。人間はよく、このような指標や能力、賜物、指導者に目を向けて豊かさや成功を測ると思います。自分(あるいは、自分の配偶者、子ども)の出身校、会社、肩書きが大切。SNSでインフルエンサーになっているかどうかが大切。生活水準の高さかが大切。社会や家族に貢献していることこそ大切だ…という考え方に私たちは囲まれます。特に、いわゆる「勝ち組」の街海浜幕張ではそういうメッセージが強く、深く根差しているでしょう。
イエス・キリストのメッセージは違います。私たちが究極的に確認しないといけない指標は一つです。イエス・キリストを通って生活をしているかどうかです。これは個人としても教会としても確認するべきことです。今日の話では、まずこの箇所の文脈を確認したいと思います。次に、イエス様の宣言「わたしは羊たちの門です」を否定する「盗人」の危険を確認してからイエス様を「門」として見ていきたいです。
一 まず、ヨハネ書9章まで遡ってみましょう。3月にさせていただいた話では、ヨハネの福音書8章でイエス様が「世の光」として登場され、9章でその自称を繰り返してから、目の見えない男性に、光を見る目を与えられました(9:1-7)。その男性はイエス様を神様に遣わされた特別な人として認めましたが、聖書研究の優等生、パリサイ派の人々を含む有力なユダヤ人たちは、その男性のイエス様に対する尊敬のゆえに、彼を礼拝の場所から追い出しました(9:24-34)。この男性はユダヤ人の指導者たちに屈服せず、イエス様にまた会うとき、救い主(「人の子」)として拝みます(9:35-39)。そこにいたパリサイ派の人々は「イエス様の助けは要らない!自分たちはよく見えている」と自負して、章が終わります(9:40-41)。要するに、彼らはイエス様の奇跡を否定して、イエス様について行かないで、むしろ自分たちで人を導きたいと思っていたのです。
10章は場所や時間の変化なしに始まり、9章の続きと見えます。最初の5節まででイエス様は幾つかの喩(たと)えの中で羊、羊と接する人々、また、羊のための囲いの色んな場面が描かれます。「盗人」がいて、「羊たちの牧者」がいます。「囲い」とその「門番」も登場し、当然、「羊たち」もいます。古代の中東の社会では理解しやすいかもしれませんが、私たちにはピンと来ない話かもしれません。彼らにとって、羊はその毛も肉も有用であり、しかもイスラエルではいけにえとして使われる重要な動物でした。飼い慣らした羊は全然賢くありません。頑固でありながら、自分を守るための歯も爪もありません。人が飼わないと、死んでしまいます。ですから、羊飼いが必要でした。
羊飼いは、旧約聖書に登場する、ダビデのような少年にやらせたり、専門の人を雇ったり、アルバイト感覚の羊飼いを雇ったりすることができました。数家族で一つの大きな囲いを(石などで)作りそこにそれぞれの群れを入れて夜に守ることもありました。その場合は、3節に出て来る「門番」を雇うこともありました。また、羊飼いはそれぞれ、自分の群れの羊たちに声をかけて囲いの中から導き出し、連れ戻すことができました。イエス様が語られたシーンは余りにも当たり前のことだったからか、6節によると、聞き手は「イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。」次にイエス様が本題に入って、それまでの喩えの一部を展開します。二つの比喩に焦点を当てて、イエス様、イエス様から人を遠ざける人々、そしてイエス様について行く人について教えます。今日は、7〜10節にある「わたしは羊たちの門です」のテーマに集中しましょう。
二 「わたしは羊たちの門です。」(7節)「門」なるイエス様と対照的な存在は、羊たちの敵である「盗人であり強盗」です。1節だけでなく8節でも登場する彼らを先に見て、イエス様が門として彼らとどう異なるかを考えてみましょう。
「盗人」や「強盗」はもちろん、暴力的な指導者も含まれますが、おもな意味として、霊的に他の人を悪用し、虐げる人を指していると考えます。彼らは神様に従う民(群れ)を利用し、神様から引き離し悲しみへ導く人です。そして、9章から続く文脈からすると、イエスを批判する、尊敬される「先生」のパリサイ人たちも「盗人」、「強盗」と言われているでしょう。実は、旧約時代の多くの箇所で神様はイスラエルの指導者たちを「牧者」と呼び、彼らが民を養い守る責任を棄てて、むしろ人々を虐げていると訴えました。例えば、エゼキエル34章2〜4節にこう書かれています。
「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。』
自分を人の「牧者」と呼びながら、主なる神様のために仕える代わりに、自分のために人を使う人がいます。8節でもイエス様は、「わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です」と言われます。「前に来た」の意味はイエスの時代の前という意味ではなく、「イエス様を後に回そうとする」、あるいは「イエス様に代わって人を導こうとする」ことでしょう。ヨハネ10章1節の喩えで言うと、彼らは「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る」のです。門を避けて、羊飼いの群れに害を加えます。もちろん、門を避ける者なので、羊たちを門へ導きはしないでしょう。だから、羊たちを安全な道から逸らせてしまいます。
ちなみに、立派に見える人、教会員、あるいは牧師になった人でも盗人にはなりえます。熱心に聖書を学び、助言を与えたと思われるパリサイ人たちは良い人に見えたでしょう。しかし、イエス様の話では盗人となっています。ヨハネ9章のように、人々がイエス様から離れるように彼らは求めたからです。マタイの福音書23章13節で彼らがはっきりとこのように描写されました。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。」自分もイエス様を通して神の国に入らないし、他の人を妨げます。教会での活動でも、劇的な経験でも、献金でも、聖書研究でも、教会の拡大でも、どんなによいことであっても、もしそれがあなたやあなたを導こうとする人にとってイエス・キリストより大切であれば、それは盗みであり、人を滅ぼす強盗の一種です。
10節でイエス様が警告を締め括ります。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。」今でも、クリスチャンだと言って、牧師や教師だと言いながら、実はイエスを通っていない人々がいます。聖書の言葉を口にしながら、イエスという門の栄光を指すのでなく自分の光栄を求める人がいます。時には、彼らはそれに気づかないかもしれません。でも、彼らは私たちがイエス様に信頼して、神様と人に対する罪のために赦しを頂いて、生きることがないように邪魔して、人を間接的に滅ぼしてしまいます。彼らの教え、声を避けないといけません(10:5、8のように)。なぜなら、そのような人は、人間の最高の目的である、まことの神様のすばらしさを喜び、讃えることから引き離すからです。聖書のことばで言うと「滅び」「裁き」「死」です。
また、たとえ私たちの教師たちがイエス様を通りなさいと教えても、私たちは業績や成功、影響力や情熱を頼りにしてしまう諸々の方法でイエス様から離れて、自分と他の人の喜びを盗み、失ってしまうこともあり得ます。(もしかしたら、このほうが危険かもしれません。私たちはそれぞれ自分の願い通りに生きて、イエス様の前でへりくだらないで歩みたいという願望がありますが、これも盗人のささやきです。)
三 では、強盗から逃れる希望はどこにありますか。一人一人、また、一つの「群れ」として、海浜幕張めぐみ教会がこれから何十年も守られ、養われ、存続し続けるためには、何が必要ですか。そう、イエス・キリストという「門」が必要です。
では、イエス様は門とどういう共通点があるでしょうか。門は、どこかへ移る(繋がる)ための境目の場所、物です。今日の箇所の7節の「わたしは羊たちの門です」とは、イエス・キリストが略奪と死へ繋ぐ強盗と違って、豊かないのちに繋いでくださることを意味します。いのちへの道そのものと言えます。ヨハネ14章6節でイエス様は少し違うことばで同じ真理を語られました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父〈父なる神様〉のみもとに行くことはできません。」
「門」としてのイエス様が羊たちをどう助けるかを10章9節で述べます。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」要するに、門としてのイエス様が守り(救い)そして養いへ繋げてくださるお方です。まず、神様のもとにある安全である「囲い」に入って救われる必要があります。
幾つかの危険からの救いと言えます。8節後半によると、イエスを通る人は偽りの牧者、つまり神様との関係から引き離すものから救われます。「羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした」。結果として、ちゃんと門を潜って、囲いに入ります。「囲い」はこの喩えで明確にされていませんが、入ると「救われる」ので神様との愛の関係と守り、と言えるかもしれません。神様を知る「羊たち」は偽の救いを差し出す「強盗」が危ないと分かります。同時に、門なるイエス様がどのようなお方かを、彼らは経験します。少し前にお読みしたエゼキエル書34章の続き、10節で約束されたことがイエス様の羊たちの中で行われます。
「わたしは〈その悪い〉牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。」
ヨハネ10章9節後半でイエス様が続けます。「また出たり入ったりして、牧草を見つけます」という、三つの動詞がありますが、これらも「救い」を描写します。羊たちは守りの囲いに入ると獣から守られます。盗人と似ていますが、獣も次回の箇所で出てきて、羊たちを殺そうとします。しかし、囲いに入ることができると、盗人と同じような「死」をもたらす「獣」から救われます。
そして、門から出て行くと、必要な牧草を見つけて、養われます。囲いの中で安全に夜を過ごして、安心できる守りの場を経験します。門から出て、豊かな牧場に行って必要が満たされる経験をします。イエス様が門として、どちらをも下さいます。ですから、イエス様を通る人、すなわちイエス様に自分の信頼を寄せる人は、霊的に殺されることからも霊的に飢えることからも救われます。
しかも、この救いは「死なないで済む、ギリギリの生活を送るだけ」の人生ではありません。ヨハネ10章10節後半でこのようにイエス様が仰います。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」私たちは色んなことについて豊かに感じないことはあるかもしれません。悲しみがない、苦しみがない、ということではありません。しかし、イエス様のもとへ行き、イエス様を通る人は、苦しみや悲しみがあっても、何よりも偉大で喜びに満ちた、人をも喜びで満たしてくださる神様と深い親しみが味わえます。身体的、精神的、霊的な「日ごとの糧」が与えられます(マタイ6:11)。満足して、「私の杯は あふれています」と言えるようになります(詩篇23:5)。イエス様が門として、満しを下さいます。
しかし、豊かないのちを与えるために、イエス・キリストが貧しさと虐げと死を受けてくださったことを覚える必要があります。イザヤ書53章6〜8節の通りに、罪人なる、迷ってしまう羊のために、苦しんで死んでくださいました。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を 彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。 だが、口を開かない。
屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、 彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことか。 彼が私の民の背きのゆえに打たれ、
生ける者の地から絶たれたのだと。
この後に歌うように、イエス様は門だけでなく究極の子羊にもなってくださいました(ヨハネ1:29参照)。さまよい、囲いから離れて、死んだも同然の羊たち(人々)に代わって、門に入られるようにまず命を捨ててくださいました。
平安と満たしのあるいのちは、イエス様がいのちと栄光を一時的に捨ててくださったから頂けます。もちろん、復活もされましたが、彼が私たちのような罪人のためにあらゆる豊かさと栄光をささげられたことに変わりはありません。それによって、イエス様は今、門として開かれています。
では、私たちは「門」なるイエス様を通って、「囲い」に入っているのでしょうか。日々、イエス様を通って生活しているのでしょうか。ここから、個人として、また教会として覚えて歩みたいことをお分ちします。
まず、すでに確かめたように、キリストを通らないようにしようとする「盗人」がいることを意識しましょう。人かもしれません。私たちの注意をイエス様からそらそうとする娯楽かもしれません。恐れを抱かせて、イエス様から離れさせようとする世間の目かもしれません。人間の成功を歌って、イエス様の屈辱的な十字架が自分と関係ないとささやく人や自己欺瞞かもしれません。とにかく、イエス・キリストを通らないようにさせようとする声が、私たちの周りにも心にもあります。いのちの喜びを握り締めましょう。
しかし、聴くべき声は、「門」なるイエス様の招きです(マタイ11:28参照)。教会で育って、「イエス様は自分と本当に関係あるのかな?」と思う子どもでも、今までイエス様に信頼を置きたくないでいた方々でも、信仰生活歴が長いクリスチャンでも、私たちは皆、門を通って、盗人と飢え渇き、死から救われるように招かれています。入った上で、そしてイエス様を通って、出入りして生活する中で豊かな愛、喜び、平安のいのちを経験します。
また、教会としても、同じように歩みたいです。創立から22年目に入るこの教会の一人一人は、今までの罪、失敗、成長、喜びなどを振り返って、複雑な気持ちはあるだろうと思います。皆様とともに最優先させたいことは、常にイエス・キリストを通して神様に近づくことです。説教のはじめに挙げた、いわゆる成功の指標を心の拠り所にせず、必ず「門」を通って、神様のもとへ行き続けましょう。喩えを少し展開させるなら、イエス様を通って、私たちは公の礼拝へ入って安息をいただきます。みことばによって神様の恵みを覚えて、悔い改め、信じます。そして、門からまた出て行って、人生のあらゆるところで神様からのみことばの「牧草」を思い出して、日々養われます。そういう生活をこれからの1年間、歩みましょう。