2022年6月12日礼拝 音声有 説教「収穫時期には」

*通常の会場で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: at our normal worship site (Site 1) and shared via ZOOM.

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 黙示録 Revelation 1:5~6
さ ん び Opening Praise 「御名を掲げて Lord, I Lift Your Name on High」
さ ん び Praise 「その日全世界が」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 491番 「この世はみな」
聖書朗読 Scripture Reading マタイの福音書 Matthew 13:24~30, 36~43
聖書の話 Sermon 「収穫時期には」廣橋嘉信牧師
賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 476番 「行きて告げよあまねく」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 廣橋嘉信牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction 廣橋嘉信牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

説教原稿 マタイの福音書 Matthew 13:24~30, 36~43「収穫時期には」

 

序文)イエスさまは、湖のほとりで種まきの話をされて、その後、弟子たちにその意味を解き明かされた。そして、今、麦と毒麦のたとえを話し出されたのです。種まきの話をされて、多くの群集が何も得るところなく帰っていったのではと思いやられます。みことばを聞くには聞いたのだが、耳に入っただけで、恵みのみわざとして心に残ることなく多くの者が立ち去ったことを思うと悲しい。弟子たちは、イエスさまが群集にたとえなどで語られた、そして解散させた、その後で、「すると弟子たちがみもとに来て、『畑の毒麦のたとえを説明してください』と言った。」弟子たちも、麦と毒麦のたとえの意味がわからなかった。それで主に説明を願った。

 

Ⅰ このことが教えることは、私たちが、礼拝で説教を聞いて、そこで聞いたことについて話し合い、互いの忌憚のない対話によって、互いの理解を助けて、心に刻み、影響を受けるようにするのは、非常に良いことであり、聖書的なのである。セルグループはそのような分かち合いの良い機会となる。そうしないで、礼拝の後、無駄で無益な会話をして、多くの説教の恵みをなくしているケースがしばしばあるのではないか。教職者との個人的な語りの機会は、公の説教で我々が得るものに、さらに多くを加えてくれる。ナタンの個人的な言葉、「あなたがその男です。」(Ⅱサムエル12:7)は、ダビデの心に触れた。真摯に教えを乞う者には、キリストの教えを受ける適切な場が与えられるのである。

 

 良い種を蒔く人とは、「良い種を蒔く人は人の子です。」(37節)すなわち、イエス・キリストであり、また彼に種蒔きのために用いられている人です。 「畑は世界で」(38節)即ち、人間の世界のこと。しかし、麦と毒麦が共生している場所として描かれているのは、見える教会のことである。良い種とは、「御国の子ら」真の聖徒のことである。種は芽を出すだけでなく、実をつけることが求められている。毒麦とは悪い者(サタン)の子らのこと。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(ヨハネ8:44)。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」(エペソ2:1-2)。

 

「麦の中に毒麦を蒔いて」(25節)即ち、毒麦は教会の中に生えていることが教えられている。地上の教会は完全な聖徒たちだけで成り立っているのではない。必ず、毒麦が共存していることを自覚する必要があるということです。そして、「毒麦を蒔いた敵は悪魔であり」(39節)と語られている。眠っている間に蒔いたということは、なかなかわからないようになされるのである。悪魔は最大の被害を与えるとき、身を隠すことに何よりも気をつける。もし、そこで見つけられたら、計画がだめになるからです。だから「サタンでさえ光の御使いに変装します」(Ⅱコリント11:13-14)。毒麦が現れるのは、「麦が芽を出し、実ったとき」(26節)からである。毒麦も、良い種のように土の下にたいへん長い間横たわっていて、最初、芽吹いた時、両者を区別するのは難しい。しかし、試練の時が来て、実を結ぶころとなり、そこにいるのが苦しく危険になると、誠実な真の聖徒との区別がつけられることとなる。

 

「ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか」(27節)。教職者が、誠実に良い種を蒔いたとしても、また毒麦が生えないように力の及ぶことはすべて行なっても、教会がまるで、「怠け者の畑で」 「いばらが一面に生え」 (箴言24:30-31) たように荒れ果てることがある。それは、「敵(サタン)がしたこと」で、必ずしも教職者の責任ではないと言われている。たとえ、望んだ成功が得られなくても本分を尽くしていれば非難されることはない。教職者は、結果によってではなく、如何に、主に対して、忠実に、誠実に、勤勉に行なったかが問われるのである。経過が問われている。毒麦が、サタンによって蒔かれても、それは良い種を蒔いた働き人にわからないので、水をやって、成長を助長し、実ることを許すので、責任を負わされることはない。

 

Ⅲ 「それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。」(28節)キリストのしもべたちは熱心で、軽率な部分もあるため、主と相談したりする前に、自分たちが毒麦だと判断するものは皆、根絶しようとして、逆に教会を危険にさらすことがあります。時に「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言って、主イエスに叱られました(ルカ9:54―55)。ここでは次のように言われた。「いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」(29節)。人には、絶対誤りなく判断することは出来ない。間違えるかもしれない。従って、毒麦を抜こうとして、麦を危険にさらすより毒麦の存在を最後まで許すことは、キリストの知恵でありあわれみなのです。勿論、恥ずべき者は、教会訓練規定の戒規によって、除名もありえます。「一方、愚かな議論、系図、争い、律法についての論争は避けなさい。それらは無益で、むなしいものです。分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。」(テトスへの手紙 3:9,10)。

ただ、十分注意する必要性を説いています。早急で潔癖過ぎてはいけないと教えられている。「反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。」(Ⅱテモテ2:25) とは言っても、信仰の幼子やベビー・クリスチャンに合わせろということではありません。あくまでも完全なるお方、イエス・キリストに似た者となることを目指すのです。ついて来られない者にあわれみとやさしさを持って接し、養い育てることが求められているのであって、信仰の幼子やベビー・クリスチャンにとって居心地の良い教会を目指すのでは断じてありません。ついて来られない者が出るのを恐れるあまりに、信仰の初歩だけを伝え続けるということと、成長の可能性のある一人一人を養い育てるための忍耐を持つということとは全く違うのです。

 

収穫とは、この「世の終わり」のことです(39節)。最後の審判の日にすべてが裁かれることを言っています。神は刈り入れ日を定めておられるのです。「イスラエルの家にわたしはおぞましいことを見た。エフライムはそこで姦淫をし、イスラエルは汚れてしまった。ユダよ、あなたにも刈り入れが定まっている。わたしが、わたしの民を元どおりにするときに。」(ホセア6:10-11) 「主よ、主よ」と叫んでも無駄である。肉に蒔いた者の収穫は「病と癒やしがたい痛みの日には、その収穫は消え去る。」(イザヤ17:11)。

 

刈り手とは、「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(41-42節) 蒔く者と刈る者が共に喜ぶ日が来るのです。「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(ヨハネ4:36)。

 

刈る人は、本来麦を集める人であるが、その前に先ず、「収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。」 (30節)と命じられる。良い者も悪い者も、この世には区別なく一緒にいるのです。だが最後の審判の日には、それらははっきりと分けられる。今は、その違いを判別することが難しくても、その時には明白となる。

 

「そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。『彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──」(マラキ3:16-4:1)。

教義、礼拝、習慣はすべて堕落し、罪を重ね、教会の不面目、人の良心の「つまずきの石」となってきたのであるが、すべて「その日」には義なる審判者によって刑が定められ滅ぼされてしまう。「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」(Ⅱテサロニケ2:8)。

 

その日には、私たちの信仰生活全体は何をもって構築したかがあらわれます。「だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。」(Ⅰコリント3:12-13)。それはこの世の御国の最後の時期にいる者だけでなく、あらゆる時代の者たちも蘇ってさばきをうけるからです。「わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。悪者どもをつまずかせ、人を大地の面から断ち切る。――主のことば――」(ゼパニヤ1:3)。

 

それから、「毒麦を集めて焼くために束にし」(30節)罪で仲間だった者たちは、恥と悲しみでも仲間になる。栄光に包まれた聖徒たちの交わりが更なる無上の幸福となるのに反して、彼らの罪は悲惨さを増し加える。詩人の願いは私たちの願いですね。「どうか私のたましいを 罪人どもとともに私のいのちを 人の血を流す者どもとともに取り去らないでください。」(詩篇26:9)。

 

「麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。」(30節)

「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ。いけにえによってわたしと契約を結んだ者たちを。」(詩篇50:5)とある通り、麦は束として、集められて、神の倉に入れられます。「あなたは長寿を全うして墓に入る。あたかも麦束が、時が来ると収められるように。」(ヨブ5:26)。倉とは、天の御国のことであり、麦はそこで悪い毒麦と分けられるだけでなく、自分自身の堕落である籾殻とも選り分けられ、聖く傷なき者として収められるのです。

 

「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」(43節)この世では、神の子たちは、ひっそりと隠されている(コロサイ3:3参照)。彼らの美しさは、彼らの貧しさや彼らの外側の状態の卑しさによって覆い隠されている。彼ら自身の弱さや衰え、彼らに投げかけられる非難や不評は彼らを暗くする。しかし、やがて彼らは雲の陰から輝く太陽のように輝く。最後の審判の日に全世界の前で公然と輝くのです。

 

結び)ここに間違いのない約束があります。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20-21)