*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: at our church space (Site 1) and shared via ZOOM.
(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)
礼拝式順 10:45〜12:00
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ローマ人への手紙 Romans 5:3-6 |
さ ん び | Opening Praise | 「希望の歌」 |
さ ん び | Praise | 「Goodness of God〜素晴らしい主〜」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌 322番「こひつじ主イェスの」1~4節 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 創世記 Genesis 13:1~18 |
聖書の話 | Sermon | 「悔い改めの道は、賛美への道」マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌 316番「御前に立つとき」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
説教原稿 創世記 Genesis 13:1~18「悔い改めの道は、賛美への道」
クリスチャンの歩みを両足に例えると、右足は「信仰」で、左足は「悔い改め」です。クリスチャンとして、この二つのことをしつづけないと、前進することはできません。しかし、クリスチャンにとって「悔い改め」はこれほど重要なことなのに、「悔い改めなさい!」と聞くと、苦笑いしてしまうことはないでしょうか?私はまだまだ罪深いクリスチャンなので堂々と言えますが、「悔い改めなさい!」ということばは、「青汁を飲みなさい!」「デザートを止めなさい!」「ダイエットしなさい!」「朝の5時からジムへ行きなさい!」と同じような響きに聞こえます。私は、好きでそのようなことをしませんし、自分の健康と体重が相当悪いときにしかやらないことです。そして、仕方がなく、100%ピュアな義務感で嫌々やります。しかし、私のイメージする「悔い改め」は、キリスト教が教えている「悔い改め」と同じ意味でしょうか?
最近、私たちの教会では「福音中心の人生」という冊子をセルグループでよく使っていますが、「偽の悔い改め」について、このように説明されています。
悔い改めという言葉には否定的な響きがあります。私たちは本当に悪いことをしたときだけ悔い改めます…例えば、罪を犯したなら本当に申し訳ないと思うべきだ、そして、自分を痛めつけてその埋め合わせをすべきだ、というように。このような考えは悔い改めを、神や罪を犯した相手に対してというよりも、自分のことにします。私たちは自分の気分を良くしたいのです。自分の世界を正常に戻したいのです。罪を犯した後、自分のやるべきことはやったと線を引きたいのです。そうすれば罪悪感はおさまり、前に進めるからです。
この「偽の悔い改め」は、健康に悪い、根本的な解決にならないダイエットと似ていますね。霊的体重計に乗って、「うわ。かなり、霊的に太ったな。ちょっと罪から劇的にダイエットして、正常になったら、また同じように罪を食べよう」のような感覚とも言えます。(少なくとも、それは私のダイエットのやり方です!)しかし、この冊子が指摘するように、これは「偽の悔い改め」とも言えます。皆さんはいかがでしょうか?「悔い改め」を修業感覚で捉えるようなときはありませんか?そして、皆さんにとって「真の悔い改め」とは何だと思いますか?
聖書が求める「真の悔い改め」とは、安っぽくて乏しい喜びを手放し、キリストにある「いのち」を味わう道のことです。それは、喜び、平安、祝福、幸せへの道なのです。悔い改めは、ダイエットしながらちょびちょび安っぽいジャンクフードを食べることではありません。悔い改めは、100円のハンバーガーを食べるのをやめて、最高級の松坂牛を食べるようなことです。つまり、悔い改めは、安っぽい「喜び」を手放し、最高の「喜び」を頂くことなのです。本日の箇所を見ると、アブラムとロトの価値観から二つの悔い改めが見られます。いつものように、本日の聖書箇所の流れを確認して、今週皆さんに覚えていただきたいことを三つ紹介したいと思います。
アブラム、サライ、ロトは、神様の約束を信じていました。アブラムとサライの間に生まれる子孫が「王」になること。2人がすべての国々を治める「王国」の「父と母」になること。永遠の安息と平安を経験できる「約束の地」が与えられること。すべてが神様に約束されていました。アブラム家は信仰をもって、神様の約束を信じ、約束の地へと向かい始めました。しかし、約束の地に着きはしましたが、現実はその約束からはほど遠いものでした。安定した「一軒家生活」を手放したのに、何もない田舎を旅しながら不安定な「天幕生活」しかできませんでしたし、カナン人の力を恐れながら、都市から離れた「山の方」で天幕を張らなければなりませんでした。安息と平安の「約束の地」を約束されていたのに、土地さえも与えられませんでした。彼らは「どこに行くのかを知らず」に、不安を抱き、苦労しながら「他国人」のようにさまよっていました(ヘブル11:8-9参照)。そのように難しい状況であっても、アブラム家は信仰と希望をもって歩み続けました。そして、神様の祭壇を築き、主の御名を呼び求め、神様を礼拝しました。
しかし、苦難と喪失感の中でアブラム家が素晴らしい信仰告白をした後でも、さらなる苦難と喪失感が容赦なくアブラム家を襲います。ですから、アブラム家は白旗を振って、神様の約束を待ち望むことをあきらめ、神様が約束された地を抜け出し、「エジプトにしばらく滞在する」ことを決断しました。つまり、激しい飢饉に襲われている荒野の「神の約束の地」よりも、アブラム家は、ナイル川の側にある、食物が豊富で、富んでいるエジプトを選んだのです。皮肉なことに、アブラムとサライが望んでいたもの−−自分のいのち、安定、心地いい生活−−は手に入れることができました。しかし、エジプトはアブラム家の期待を裏切ったとも言えます。アブラムの不信仰、罪、そして、甘い考えによって、エジプトの王に強引にアブラムの妻を取られてしまいました。サライは妻として愛されたのではなく、ただの「商品」として扱われたみたいになってしまいました。自分たちの行為を後悔したとしても、取り返しはつきません。アブラムとサライが「やっぱり神様の約束を待ち望みたい!」と思い直したとしても、自分たちの不信仰と罪によって、エジプトの束縛によりその道は完璧に閉ざされてしまいました。
しかし、たとえアブラムが自分の妻を守ることができなかったとしても、また、神様の約束を信じ切ることができなくても、神様は誠実に約束を守られ、2人を力強く救ってくださいました。たったの1節で、神様はアブラムの妻サライの「こと」(12:17)で、ファラオとその宮廷が大きなわざわいで打たれ、最高権力者のファラオはパニック状態に陥り、アブラムは処刑されず、ファラオはアブラムを恐れてサライをすぐにアブラムに返しました。つまり、神様が12:3の約束を守られたのです。絶体絶命の状態から、たった一瞬で神様は、海を切り開かれたかのようにアブラムとサライに「神様の約束」への救いの道を与えてくださったのです。
その文脈の中で、創世記13章がはじまります。13:1-4節は、簡潔にわかりやすく「悔い改め」を描写しています。アブラムは、自分たちが選んだ道をただ悔いたのではなく、180度方向転換をして、選んだ道を逆戻りして、ネゲブというカナンの南部地方から、中部、そして、「ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所」に戻りました。つまり、アブラムは、自分たちの「信仰の道」の原点に立ち返ったのです。そのとき、アブラムは、頭(こうべ)をたれ、涙を流しながら、賠償あるいは宥めの供え物として何か神様に献げたでしょうか?いいえ、とんでもないです。アブラムは堂々と信仰を告白して、神様の御名を褒めたたえました。4節にこう書いてあります。
創世記 13:4 そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主の御名を呼び求めた。
「祭壇」は神様の権威と支配を表していて、「神の王国」の旗を地面に立てて、「この土地は神様の支配の下にある!」と宣言するようなものです。「主の御名を呼び求める」ことは、「神様の支配」を受け入れ、宣言することであり、神様の「御名」を自分の額と手に「主のもの」と書き記す(イザヤ44:5参照)ようなことでした。つまり、アブラムが神様の約束をあきらめたとしても、罪深いことをしたとしても、自分は「主のもの」で、神様の約束の恵みの対象であるということを宣言したのです。自分の失敗に落ち込むよりも、神様の変わらない恵みに大いに感謝したのです。彼らの悔い改めは、賛美に至ったのです。
しかし、その後、アブラムとロトの「悔い改め」が試される試練が与えられました。12章のような「激しい飢饉」ではありません。逆です。それは、「順境と繁栄」という試練です。この段階ではアブラムとロトにはハランとエジプトで蓄積してきた財産があり、「所有するものが多すぎて」(13:6)、同じ場所に住めなかったほど、彼らの家族は非常に裕福な遊牧民になっていました。そのため、「争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に」起こりました(13:7)。
アブラムはこの家族の頭として、なんでも自分の思うようにできました。争いをロトの牧者たちのせいにしてロトを注意したり、自分たちの地から追い出すこともできました。心地いい、最も豊かな良い土地を自分のものにし、残りをロトに与えることもできました。しかし、アブラムは逆のことをします。
アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」 (創世記13:8–9)
要するに、繁栄、安定、心地よさ、富を選んで大失敗したアブラムは、神様とロトを愛するために、自分の富と名誉を手放し、神様と神様が約束してくださる恵みだけにより頼んだのです。
しかし、アブラムと同じようにエジプトへ行って、エジプトで起こったすべての出来事を見たロトはどうでしょう。まず、「主の園」(13:10)で「目に慕わしい」ものに惹かれた(創世記3:6参照)アダムとエバが善悪の知識の木の実を選んだように、ロトは、「目」に慕わしい土地を選びました。しかも、「エジプトの地のよう」(13:11)な場所を選んだのです。つまり、ロトは、神様の約束の地よりもエジプトが恋しかったのです。そして、選んだ土地は、「ヨルダンの低地全体」(13:11)であり、そもそもカナンではなく、ヨルダン川の向こう側にある土地です。そして、結果的に、「どこもよく潤っていた」ソドムは、エジプトのように「邪悪で、主に対して甚(はなは)だしく罪深い者たち」が住んでいました。ですから、エジプトから離れたものの、結局は、エジプトで捜し求めたものをただ捜し続けただけでした。2人はエジプトから離れましたが、最終的に離れる目的は違っていました。ですから、目に見えない「神の恵み」を求めたアブラムはカナンに残り、目に見える恵みを求めたロトはカナンを出たのです。そして、結果的に、ロトの家族はソドムの環境によって、ソドム人のように「主に対して甚だしく罪深い者」になり、信仰を捨ててしまうのです。
ロトは自分の長男のような存在で、アブラム家の後継者でもあるので、アブラムにとって、ロトと別れることは非常に難しかったと思います。「また試練か」と心の中で呟いてしまったかもしれません。アブラムが悲しんでいる中で、神様はアブラムにまた「恵みの約束」の内容を語られます。
「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」 (創世記13:14–17)
そして、アブラムは、この状況を自分の「目」で見るのではなく、神様とみことばに目を向け、信仰の目で神様が与えてくださる恵みを待ち望みました。神様が下さる「約束の地」は、アブラムの想像を超える広さであること。神様が与えてくださる「王国の民」と「子孫」は数えきれないほどであること。そして、この地を治める「王家」としてこの地を「縦と横に歩き回る」権威が与えられていること。それらを淡々と神様は宣言されました。
これを読んで、「あー12章にも同じような内容が書いてあったな」と思うかもしれません。しかし、約束の内容は変わっていなくても、アブラムの状況はいろいろ変わっているので、約束の受け取り方も変わります。アブラムはこう考えているかもしれません。「この見えない恵みを追い続けるのは正直、つらい。だが、私はこの見えない神様の恵みを追うのをあきらめ、エジプトの見える恵みを追い求めたことがある。そこで悟ったのは、『見える恵み』は私を最終的には裏切るということだ。遠くから見たら『見える恵み』は輝かしいが、近くで見れば空っぽだし、私たちを苦しみへと導いた。そして、私がどれほど神様を裏切ったとしても、私の『見えない神様』は私が罪人であったときでさえも救ってくださった。そして、その上に、全く同じ『恵みの約束』、この想像を絶する『見えない恵み』を差し伸べ続けてくださったのだ。どう考えても神様の約束、神様の恵み、神様の愛のほうが勝る!主に感謝します!主を褒めたたえます!」と。そして、最終的に、アブラムは、カナンへ向かい「天幕を移し」、そこに「主のための祭壇を築いて」、神様を礼拝したのです。つまり、「真の悔い改め」の道は、自分の「喜び」である神様への道であり、神様を褒めたたえ賛美することが最終的な目的地なのです。
この話を振り返り、ここで皆さんに覚えていただきたい点が三つあります。まず、「真の悔い改めは、自分の願っている『喜び』を変える」ということです。
偽の悔い改めは、見える行動、言葉、姿勢だけを変え、見える恵みを追いつづけることです。そして、真の悔い改めは、見えない心の「欲」を殺し、見えない恵みを追いつづけることです。ロトは、「見える」形で悔い改め、エジプトを離れましたが、彼の「心」はまだエジプトとエジプトの富みを追いつづけていました。しかし、カナンでの貧しさとエジプトの富みを経験したアブラムは同じようにエジプトを離れましたが、根本にある「富みと安定から来る喜び」を手放し、神様と神様の約束を自分の「喜び」にしたのです。つまり、箴言30:8-9を悟ったのです。
むなしいことと偽りのことばを、 私から遠ざけてください。 貧しさも富も私に与えず、 ただ、私に定められた分の食物で、 私を養ってください。 私が満腹してあなたを否(いな)み、 「主とはだれだ」と言わないように。 また、私が貧しくなって盗みをし、 私の神の御名を汚すことのないように。
つまり、アブラムは、自分の喜びである神様ご自身とすり替えるような「安っぽい喜び」を自分から遠ざけたのです。そして、ロトが自らそのような「安っぽい喜び」へと向かった理由は、そもそも、ロトは神様を自分の喜びだと思っていなかったからです。皆さんはいかがでしょうか?どのように悔い改めているでしょうか?ロトのように「目に慕わしい」恵みを自分の喜びとして持ち続けて、目に見える行動、ことば、態度だけを変えているのでしょうか?それとも、アブラムのように、誰にも見えていない心の「喜び」を変えているのでしょうか。
次に覚えていただきたいことはこれです。「自分の最高の喜びは、悔い改めなかった自分を救ってくださったイエス様である」ということです。
一つ目のポイントを聞いて、「よし!じゃあ、神様を自分の喜びとして頑張る!」というふうに受けとめる方がおられるかも知れません。つまり、悔い改めは自分の意志と努力の問題だ、というふうに捉えることです。しかし、アブラムが悔い改めて、神様を自分の喜びとしたのは、神様が彼らを救ってくださったあとでした。そして、彼らが神様を呼び求めもせず、神様を礼拝することもなく、ただエジプトで自分の富を追求しながら全く悔い改めもしていなかったときに、神様が一方的に彼らを救い出し、恵みの約束を変わることなく差し伸べつづけてくださったのです。頑なになっていたアブラムが神様の無条件の愛、恵み深い救いという「福音」をまず体験し、そして悔い改めたのです。つまり、悔い改めることもしないような頑な罪人に対する神様の愛を経験することがなければ、私たちは神様を自分の喜びとすることはできないのです。悔い改めへの最初の一歩は、私たちが神様へ向かう一歩ではなく、頑なで罪深い私たちへと、まず神様が100歩踏み出してくださったことを思い出すことです。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」(ローマ5:8)。それほどの愛を私たちが受けたことを思い出すことができたなら、「富」よりもイエス様が自分の「喜び」であると、アブラムのように宣言することもできるのです。私たちが悔い改めるきっかけは、罪悪感からでしょうか?それとも、イエス様からいただいた計り知れない程の愛から来る喜びと感謝からでしょうか?私たちの悔い改めは、イエス様の愛を褒めたたえる心から来ているでしょうか?もしそうでないのなら、主を褒めたたえましょう!なぜなら、主の御名を褒めたたえなかったアブラムが救われたように、私たちも救われたからです!
そして、最後に覚えていただきたいことはこれです。「もし悔い改めが最高の喜びであるイエス様へ向かうことであるなら、義務感で悔い改めることはイエス様に対する最高の無礼となる」ということです。
12章の文脈を読むと、義務感で礼拝するアブラムを想像しづらいと思います。ですから、このような場面を想像してみてください。11人の弟子たちがイエス様を裏切って、イエス様が十字架にかけられました。激しい試練に陥った弟子たちは、イエス様がよみがえられるという預言が成就することを完全にあきらめてしまいました。しかし、イエス様は力強くよみがえられました。そして、11人の弟子たちに現れ、「あなたがたはわたしを裏切った。あなたがたは私のみことばを信じ切らなかった。しかし、それでも、わたしはあなたがたのために死に、あなたがたのために永遠のいのちを獲得した。だから、悔い改めて自分たちの偶像を手放し、わたしのもとへ戻りなさい。なぜなら、わたしがあなたの喜びだからです」とおっしゃいます。そして、11人の弟子たちが「(ため息)いやだな、もうちょっと罪犯したいな。面倒くさいな…はーい。わかりましたー」と言ったなら、とんでもないことですよね?想像もできませんよね?もし私たちがそのようだったら、その原因は自分たちが何者であり、私たちがどのような救いを受けているのかを忘れてしまっているということです。ですから、ぜひイエス様の十字架と復活を思い出し、喜びと賛美をもって、悔い改めましょう!