2022年6月26日礼拝 音声有 説教「わたしは良い牧者です」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: at our church space (Site 1) and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ペテロの手紙第一 I Peter 2:24~25
さ ん び Opening Praise 「詩篇100」
さ ん び Praise 「How Great Is Our God」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌180番 「いのちのみことば」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネによる福音書 John 10:11~16
聖書の話 Sermon 「わたしは良い牧者です」百瀬ジョザイア伝道師
賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌303番 「かいぬしわが主よ」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 廣橋嘉信牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction 廣橋嘉信牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

説教原稿 ヨハネによる福音書 John 10:11~16「わたしは良い牧者です」

2022年6月26日                                                                    百瀬ジョザイア伝道師 説教

ヨハネの福音書10章11〜16節「わたしは良い牧者です」

 

私は大学で一時期、教育学を学んでいました。最初の教育学の講義を教えてくれた教授は、学生の私たちに、「あなたがどれほど人に心を向ける(care)かを知る(know)まで、人はあなたがどれほど知っている(know)かに気を向け(care)ない」 “People don’t care how much you know, until they know how much you care”という台詞を引用されました。先生が生徒のことを大切にしなければ、生徒はそれを察知して心を閉ざし、先生の知識をどうでもよいと思って、受け入れようとしません。そして、良い教育がなされえません。しかし、もし先生の思いやりと愛が生徒に伝わるなら、生徒は先生を慕って、その知識を喜んで学ぶ、という原則を教授が教えたかったのです。

どの「上下関係」でも同じことが言えると思います。例えば、教会の中のセルグループなどを導く人も、執事や長老、牧師でも、人を愛しているとき、聞くべき人が聞き入れます。聖書学校の卒業証書や肩書があるだけではどうにもなりませんし、残念なことに、それは時に会衆への虐待を隠す仮面に過ぎません。世界各地で、政府、家族、教会の指導者たちに欺かれ虐げられた人々は嘆き、よい導き手はいないかと周りを見渡します。人が従いつづけて、繁栄するためには、私たちは本当に信頼できる良い導き手、聖書で何度も使われる表現では、良い「牧者」、が必要です。

前回の説教でヨハネ10章の10節までで、イエス・キリストが「門」として人々に救いの道を与えられるお方であることをお話ししました。神様から人々を引き離そうとする人物や状況からの守りを与える「救い主」です。今回、イエス様がヨハネ10章で用いられた二つ目の大きな比喩を見ます。羊たちと親しい関係を持って、導く「良い牧者」の比喩です。

背景として、ヨハネの福音書10章の1から13節があります。イエス様と対照的な人物3名は人々に害を加えたり見捨てたりします。まず「盗人」と「強盗」がいます。ヨハネ10章の1節、8節、10節に登場する彼らは、イエス様を避けながら、イエス様が愛する人々(「羊たち」)に害を加えます。また、ヨハネ10章12節に「狼」的な人がいます。「狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。」強盗と大した違いはありません。そして、第三に、12・13節の「雇い人」もいます。「牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。…彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」アルバイト感覚で羊たちを見ている人は愛着と責任感が薄いので、心を込めて人を霊的に養わない、敵から守らない、ということです。敵が襲ってきたら、自分を守るために簡単に逃げてしまいます。

この喩えで大切なのは、誰が狼か、誰が強盗か、だれが雇い人か、でなく、そのような危険な導き手がいるということです。前回の説教で引用した預言書エゼキエル34章を読んでも、盗人、狼、雇い人のような敵が昔から、自分の益を求めて、神様の民を襲って、悩ませ、放置する光景があります。その反面、神様が選んでくださった「羊たち」はヨハネ10章5節でその敵から離れて、良い牧者を慕うということも分かります。

では、イエス様が良い牧会者としてその羊たち、言い換えるとクリスチャン、をどのように知り、愛するかを見ていきましょう。キリスト者はなぜイエス様を慕って信頼するのでしょうか。今日のみことばを聞くとき、クリスチャンは、自分の救い主の愛のすばらしさを改めて思い出して、イエスについて行くことのすばらしさを思い出してみたいと思います。また、クリスチャンでない方は、イエス様に知られ愛されることを受け入れて、従って行きたいかについて、ぜひ考えていただきたいと思います。

 

 先に、良い牧者なるイエス・キリストがその「羊たち」をどのように知り、愛してくださるかを見ましょう。この結論は良い牧師、良い教会指導者についても限定的に言えることですが、今日は特にイエス様ご自身に焦点を当てます。キリストについて、二つのおもなことがこの箇所から分かります。一つ目に、14〜15節でイエス様はその羊たちを深く知り、愛してくださるお方であると分かります。14節で見ましょう。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」ここに「愛」ということばは出てきませんが、聖書の多くの箇所で「知る」ことは情報に留まらず、人か神様と親しい関係を持つことの意味合いをよく含みます。ここでは、イエス様は良い牧者として、ご自身の「群れ」に属する人を一人一人選んで、深く愛しておられるという意味で知っておられます。

イエス様が言われる「知る」は実に人間の想像を超えたことです。イエス様は10章14節と15節前半で想像を絶する描写をします。「わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。」ヨハネ17章にあるイエス様の祈りによると、父なる神様と子なる神であるイエス様は時間を超えて永遠に、唯一の神として栄光をともに持ち、完璧な愛をもってともにおられ、知り合っているお方です(5、21、22節)。愛が神様のご性質ですから、神様を親しく知ることは愛の関係に入れられることです。

要するに、三位一体の関係には父と子なる神の間にある完全な親しさ、愛し知り合う関係があるのと似たように、イエス様がその弟子たち・羊たちであるクリスチャンに親しい関係を下さるのです。その愛は無限の深さがあります。もちろん、三位一体の内にある愛と知り合う関係を全て経験できる訳ではありません。しかし、イエス様が羊たちに示される愛はそれに似通っています!信じられますか。イエス様の「羊たち」の主観的な幸福などがどうであっても、確実に、親しい関係をもってイエス様を知ることができます。喜びだったり、平安だったり、確信だったり、様々な形で経験できるでしょうが、気持ちがないときでも、イエス様がこの関係を下さっています。

この関係はどのように私たちに与えられたのでしょうか。元を辿ると、神様が世の始まりに「神のかたちとして人を創造」された時から(創世記1:27)、人間を神様と親密な関係を持てる者として創造してくださいました。そして、さらに、関係を強めるために契約を下さいました。もし最初の人間アダムが神様のみことばの通りに服従した場合、神様との親しさを完全に楽しめたはずです。ところが、アダムは神様との契約を棄てて、自分の欲望を自分で満たそうとしました。その結果、愛の関係が断絶し、神様にただ怯える関係が残りました(創世記3章、ローマ1:18-21)。喩えで言い換えるなら、羊が狼になってしまい、人間同士が傷つけ合い始めました。私たち人間は神様の敵として滅んで当然の者です。

しかし、神様はご自分にある喜びを知り慕う「羊の群れ」を創って、導くと計画しておられました。子なる神が人間の性質を持たれ、イエスとして「羊」を呼び出して導くご計画を実現なさいました。「狼」を「羊」に変えて、群れに加え、守り抜くために、身代わりとなってくださいました。ヨハネ10章15節でイエス様は11節のことばを繰り返して、ご意志を強調します。「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」

18節ではっきりおっしゃるように、イエス様は羊たちを滅びから救い出すために喜んで、自らいのちを捨てて復活する権限がありました。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」イエス様は人間の罪深い手によって殺されても、それはご自身のご計画通りでした。アダムが放棄した契約の条件を満たし、契約不履行の刑罰をも払うことによって、罪深い「狼たち」に新しい、ついて行く羊の心といのちを与える保証をしてくださいました。ヨハネ15章13節で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」の通りでした。これはまさにイエス様の愛の深さ、大きさを物語り、その意志の強さを示します。

 

 次に、ヨハネ10章16節から分かるのは、良い牧者なるイエス様がその羊たちを広く知り、愛してくださることです。主イエスは、自分の楽を求めて小さな群れの世話に限定するような牧者ではありません。むしろ、任された大きな群れの全体を見据えて、その一匹一匹を求め、包んでくださる方です。16節を読みましょう。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」

この箇所には「囲い」が出てきます。ここでイエス様は具体的に「イスラエル」という、宗教と民族の枠を指しています。イスラエル国家・ユダヤ教の「囲い」には、確かに「羊たち」は入っていました。ところが、枠を超えて、イエス様がまだ集めていない、他の羊たちもいました。現在でも、まだイエス様の声を聞いていない、あるいは拒んでいる人の中には、神様がイエス様の群れに加えると計画してくださった人がいます。イエス様は彼らを追って、求めつづけてくださいます。ご自分に似た人、ご自分のようにきよい人にご自分の群れを限定されませんでした。(仮にそうでしたら、だれも羊にはなれません!)主イエスは、ヨハネが幻で聞いた賛美を受けるにふさわしいお方です。

黙示録5章9-10節「あなたは屠られて、

すべての部族、言語、民族、国民の中から、 / あなたの血によって人々を神のために贖い、

私たちの神のために、彼らを王国とし、  / 祭司とされました。…」

私たちの会衆にいる信者はイエス・キリストの世界的な群れの一部です。国籍が違い、しゃべる方言や言語が違い、性別も年齢も罪の現れ方の傾向も違うものですが、イエス様がこのように多様な民、群れを望んでおられます。そしてこれから、他の人をもその群れに加えようとなさるでしょう。

また、イエスの群れは一つの群れ、一人の牧者の共同体です。地区教会は様々な過ちや意見の違いで別々の道を歩むことがあります。残念な別れもあります。しかし、イエス様は聞き従う人を皆、ご自分の一つの群れとして見て、愛して導いてくださいます。一人一人を知り愛してくださいます。イエス様の愛の広さは感謝ではありませんか。これからも私たちもイエス様のもとへ多くの人を招くことができますように。

 

さて、はじめに申しましたが、人が誰かに従いつづけるためには、本当に愛してくれて、信頼できる良い導き手だとまず確認したいです。イエス・キリストがそういう牧者であるということは今日の箇所から、明らかです。イエス様の愛は神様の愛の深さであり、罪人を変えて救い出すに必要な犠牲を払うほどに深いです。イエス様の愛の広さは世界に及び、世界の何千もの言語と文化の人々が一つの群れ、一つの群衆に加えられるまで働かれます。その愛はこの街にも届いて、私たちに届けられました。それでは、私たちはどう応答しましょうか。イエスに学び、従いたいですか。適用として、三つの質問をしたいと思います。

一つ目は、「あなたには、イエス様の声が聞こえていますか」です。ヨハネ10章3・4節でイエス様がこういう牧者と羊たちの喩えを語られました。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。」当時の中東の牧者の伝統的な方針は、西洋のシープドッグ犬が羊の群れを追い詰めるような導き方ではありません。イエス様が描写するのは、羊飼いが恐れでなく、羊との信頼関係に基づき、先に立って導く姿です。しかも、「おおい!、こっち来い!」でなく、「それぞれ名を呼んで連れ出」せるほどに、監督に委ねられた羊たちを知っています。そして、「羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです」。聞いて、イエスの声だと分かるから、従い始めます。

イエス様の「声」はどこにあるのでしょうか。どうしたら聞こえるのでしょうか。聖書からイエス様の御声が聞こえます。ヨハネの手紙第一1章3節でヨハネは、イエス様を見て聞いた証人として、後輩クリスチャンたちに書きました。「私たち〈使徒たち〉が見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」つまり、聖書がイエス様を伝えることばです。そして、それによってイエス様と親しく知り合うこと(ここでは「交わり」)ができます。使徒28章25節などから分かるように、ウェストミンスター信仰告白1の10の表現を借りるなら、「聖書の中に語っておられる聖霊」が私たちに、聖書においてイエス様の声を聞かせてくださいます。ですから、神のことばである聖書を聞いて読んで、「イエス様の声だ」と分かるように、聖霊様が助けてくださるのです。聖書に親しむ中で、イエス様の声にますます慣れ親しみましょう。

二つ目の適用の質問は、「あなたは、イエス様に聞き従おうとしていますか」です。ほとんどの子供は保護者の声は分かると思いますが、聞こえるのに聞こうとしないことがありえます。聖書に「聞き、従う」ことは私たち罪人が嫌がることです。ところが、イエスは、ご自分の弟子たち(羊たち)はそうすると仰います。単純な質問ですけど、行うのは難しいですね。

最初の二つの質問は「律法」のように適用されやすいです。私たちはちゃんと聞いているか、従っているか、を自分に問うことができます。もちろん、私たちはイエス様の声を聞き逃したり、聞く時間を取れないと感じたり、聖書にないことをイエス様の導きと勘違したりすることがありえます。また、私たちはイエス様の御声で聞こえる、嫌な部分や面倒くさそうなことを無視したいと思うかもしれません。カルヴァンという牧師は、今日の箇所を読むとクリスチャンは恥じ入るべきだ、とコメントしました。自分たちがイエス様の声に対する感覚も反応も鈍く、なかなか従おうとしないからです。ですから、確かに悔い改めるべきことがあるかもしれません。いかがでしょうか。

しかし、それだけではありませんので、最後の適用の質問は「福音」に集中します。「イエス様が羊のために命を捨てて、今、豊かないのちを下さるということを信じて、聞き、従いたいですか。」「できていますか」でなく、その信仰と願いはありますか、です。10章10節後半を見ましょう。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」イエス様が自らいのちを捨てて、その羊のために豊かないのちを保証してくださいました。私たちの望みは、イエス様に対する私たち羊たちの良さではありません。私たちは日々、神様に逆らってしまい、その声を聞き損なって自分の気分や周りの人に合わせて行動してしまう羊たちです。しかし、ペテロの手紙第一2章24・25節が何と言っていますか。

キリストは自ら十字架の上で、 / 私たちの罪をその身に負われた。

それは、私たちが罪を離れ、  / 義のために生きるため。

その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

あなたがたは羊のようにさまよっていた。  / しかし今や、自分のたましいの牧者であり

監督者である方のもとに帰った。

牧者なるイエス様のもとに帰るのは、私たちの力の問題にはよりません。私たちは変えられ、癒されました。罪がイエス「の身に負われた」のです。羊にまだなっていない友よ、イエス様のもとに帰っていいです。羊である兄弟姉妹、私たちはイエス様の犠牲によって、羊となっています。

 

私たちは何も、神様の前で誇ることはできません。自分を見て絶望するかもしれませんが、私たちは牧者イエス・キリストに希望が持てます。羊たちは自分のひづめを見て、自分のメーメー鳴く声を聞いて、何の安心感もないと思います。しかし、自分の牧者に名を呼ばれ、前を歩く牧者の姿を見ると、安心できます。

イエス・キリストが良い牧者です。私たちはその御声を聞いているのでしょうか。喜んで従っているでしょうか。その声は最高です。その導きは完全です。その愛の深さと広さが私たちの罪を背負って、覆って、続きます。聞くのも従うのも下手でも、信じつづけてついて行きましょう。