2022年7月3日礼拝 音声有 説教「王様たちの衝突」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: in person at our church space and shared via ZOOM.

(聖書朗読・説教のみ)

(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

司会者  主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。

会衆      主の恵みがありますように。

司会者   さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

会衆      感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。

一同      主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌 432番「いつくしみ深き」

開会の祈り Opening Prayer

 

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

会衆      あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。

アーメン。

個人的な告白 Private Prayer of Confession ( 黙祷のうちに )

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2

会衆      アーメン。

平和のあいさつ Passing the Peace

司会者  神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。

会衆      主の平和が、あなたとともにありますように。

 

賛美 Praise 教会福音讃美歌 355番「私の望みは」

 

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読           創世記 Genesis 14:1~16

聖書の話     「王様たちの衝突」                     マーク・ボカネグラ牧師

 

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌 353番「あなたこそわが望み」

 

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29

[式 辞][祈 り][分 餐]

一同        私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。

私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」

祝 祷 Benediction                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

説教原稿 創世記 Genesis 14:1~16  「王様たちの衝突」

 

外国に住むことができたフィリピン人の家庭で育った私が時々両親に聞かれたのは、「あなたは何になりたいか」ではなく、「あなたはどこに住みたいか」でした。なぜなら、私の父と母は、マニラで個人的にどう頑張ったとしても、アメリカ、日本、カナダで約束されるような機会や安定を獲得できないと知っていたからです。つまり、個人的な努力や決断よりも、自分が置かれている「国」が自分の成長、幸せ、安定、将来に最も影響を及ぼすということです。ですから、そんな質問をいろんな形で私と弟と妹に聞き続けました。そして、最近のニュースを見てもよくわかります。ウクライナ人とロシア人は今まで頑張って獲得してきたものを、戦争によって失っています。中東にある戦争によって、アフガン人やシリア人がどう勤勉に頑張ったとしても、安定した生活を送ることも難しいです。ミャンマーのクーデターによって経済が停滞し、トルコ政府の判断によって通貨の価値が50%下落したことなどを考えると、私たちの個人的な判断よりも、私たちが住む「国」が私たちの将来を決めることが多いと思います。マニラから離れてもう15年も経ったのですが、カリフォルニアや関東に長く住んでいてそのことを忘れてしまっていたことに最近気づきました。

前回の聖書箇所では、アブラムとロトがこれからどこに住むかを決めたことが書かれていました。しかし、彼らのその決断は「住まい」についてだけではなく、どの「国」に所属するのか、どの「民」とともに生活するのか、また、どの「文化」に影響され、どの「王」により頼み従うのかを決めることでもありました。そして、2人は異なった基準や価値観で、自分たちの住まいを決めたのです。本日の箇所から、その決断の結果を見ることができます。ですから、本日の箇所をとおして、私たちはどこの「国」の住民であり、どんな「民」と「文化」に影響されていて、どの「王」により頼んでいるのか、そして、その決断の裏にはどのような「価値観」をもって決めているのかを一緒に考えたいと思います。いつものように、本日の箇所の流れを確認した上で、今週覚えていただきたいことを二つ分かち合いたいと思います。

 

創世記12章で神様はアブラム家に約束を与えました。アブラムとサライの間に生まれる子孫が「王」になること。2人がすべての国々を治める「王国」の「父と母」になること。永遠の安息と平安を経験できる「約束の地」が与えられること。それらのことが神様に約束され、もしそれらを信じれば、すべてが与えられるという約束でした。アブラム家はこれを信じ、カナンという約束の地へ向かい、「天の都へ向かっている寄留者」として歩み始めました。しかし、自分たちが思った以上に激しい試練が待っていました。最初は難しい状況であっても、アブラム家は信仰と希望をもって歩み続けました。神様の祭壇を築き、主の御名を呼び求め、神様を礼拝しました。しかし、激しい飢饉に陥って、アブラム家は神様の約束の成就を持ち望むことをあきらめてしまい、ナイル川の近くの食物が豊富で、潤っているエジプトに「しばらく滞在する」ということにしました(創世記12:10)。それでも、皮肉なことにアブラムとサライが望んでいたものー自分のいのち、安定、心地いい生活ーは手に入れることができました。しかし、エジプトはアブラム家の期待を裏切ったとも言えます。アブラムの不信仰、罪、そして、考えによって、アブラムは妻サライを強引にエジプトの王に取られてしまいました。アブラムとサライが「やっぱり神様の約束を待ち望みたい!」と思い直したとしても、自分たちの不信仰と罪、またエジプトの束縛によってその道は完璧に閉ざされてしまいました。彼らが自分たちの行為を後悔したとしても、取り返しは付きません。アブラムは自分の妻を守ることもできず、神様との約束を信じ切ることもできませんでしたが、神様は誠実に約束を守られ、アブラム家を力強く救ってくださいました。

この「救い」を体験したアブラム家は、自分たちが選んだ道をただ悔いたのではなく、180度方向転換をして選んだ道を逆戻りし、ネゲブというカナンの南部地方から、中部、そして、「ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで」戻りました(創世記13:3)。つまり、約束の地に戻り、自分たちの信仰の原点に戻ったのです。ここでアブラムとロトは表面的には同じように悔い改めたように見えますが、13章をよく読むと、心の中では全く違うことが起こっていたことがわかります。彼らは非常に裕福になっていて、アブラムとロトの牧者たちの間にはたびたび争いがありました。アブラムは平和を保つために、別々の場所に住むことにしました。ロトは、「目に慕わしい」(13:10)、「エジプトの地のよう」(13:11)な「ソドムとゴモラ」という国を選びました。そして、その国は神様が約束された地から離れた地域にあったので、ロトは「目に見えない」神様の約束よりも、「目に見える」富と祝福に心が引かれたのです。しかし、アブラムは、「信仰の目」で住むところを選びました。そして「ヘブロンにあるマムレの樫(かし)の木のそば」に住みました(13:18)。なぜなら、アブラムは神様の約束をもう一度聞いて、もう一度信じたからです(13:14-17)。神様が下さる「約束の地」は、アブラムの想像を超える広さであること。神様が与えて下さる「王国の民」と「子孫」は数えきれないほどであること。そして、この地を治める「王家」としてこの地を「縦と横に歩き回る」権威が与えられていること。アブラムはそれらのことを神様が与えてくださると信じて、ヘブロンに住んだのです。

 

その文脈から14章が始まります。今までは、アブラム家の個人的な話についてでしたが、14:1-12節には、当時の政治的な動きとあらゆる王様の衝突と争いについてずらっと書いてあります。私たちにとってあまり意味のないようなことかもしれませんが、実は、この歴史はアブラムとロトの決断の結果とも言えるのです。簡単にまとめると、創世記14:1-2は、二つの王の同盟の話です。1節は4人の王たちが組んだ「北同盟」で、2節は5人の王たちが組んだ「南同盟」です。北の同盟は、バビロン(10:10)やメソポタミアから来た大きな王国の同盟で、ヨルダン渓谷に侵入し、ヨルダン渓谷にあった5つの小さな王国を植民地にしようとしました。そこで、その5つの小さな王国は「南同盟」を組み、対抗しようとしたのですが、残念ながら負けてしまい、「北同盟」の植民地になってしまいました(14:1-4)。そのためソドムは、「北同盟」に毎年貢ぎ物か税金を支払わなければなりませんでした。当然、ソドムに住んでいたロトの家族も「北同盟」の支配下になってしまったので、税金を払う必要がありました。それは12年間も続いたのですが13年目には、「南同盟」がまた反旗をひるがえしました。彼らは1年間だけ「北同盟」から独立することができたのですが、「北同盟」はヨルダン渓谷に侵入し、前回よりももっとすごい勢いでヨルダン渓谷を制覇し、さらに多くの王国を自分たちの植民地にし、さらに多くの王たちを自分たちのしもべにしたのです(14:5-6)。「南同盟」はまた対抗しようとしたのですが(14:9)、また「北同盟」につぶされ、ソドムの王、ゴモラの王、その他の王たちは穴に隠れたり、山の方に逃げました(14:9-10)。その結果、「北同盟」は、「ソドムとゴモラのすべての財産とすべての食糧を奪って行き」(14:11)、その中には「アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った」ということでした(14:12)。

創世記14章だけを読むと、ロトは「王様たちの衝突」による被害者であったというふうに解釈できますし、それも事実です。しかし、12章と13章の文脈を考慮すると、それもロトがソドム王国に住む決断の結果でもあったと言えます。ロトが「目に慕わしい」、「エジプトのような」ソドム王国を選んだ理由は、「土地」だけに引かれたのではありません。「ロトはソドムに住んでいた」と14:11に書いてあるので、ソドムの「国」、「民」、「文化」、「王」の全てに引かれ、見えない神様と見えない王国よりも、見えるソドム王とソドム王国を選んだのです。しかし、皮肉なことに、ロトの歩みも12章の「エジプト事件」と全く同じような結果になりました。ロトは安定と繁栄を期待していましたが、「南同盟」は「北同盟」の侵入を2回とも防ぐことができず、「北同盟」のソドム王国への税金を支払うために毎日働き続けました。ロトは約束の地の寄留者になるよりも、ソドム王の下で住んだ方が安全だと思っていたかもしれませんが、ソドム王の軍は滅び、ソドム王は自分の身を守るために「穴」に逃げ込んで、ロトの家族も含めソドムの住民は置き去りにされました。そして「北同盟」の思いのままに住民たちは略奪され、利用されたのです。当時、人権を守る「ジュネーブ条約」などはなかったので、私たちが想像する以上にひどい目にあわされたと思います。それだけではなく、ソドム王国を倒した「北同盟」は、ロトとその財産を奪い、北の王国へ連れていこうとしました。つまり、ロトとロトの家族は、自分たちが選んだすべての土地も、自由さえも失ってしまったのです。12章の「エジプト事件」と同じように、ロトの期待と希望は裏切られ、そして、取り返しのつかない絶望的な結果になってしまったのです。

「エジプト事件」から悔い改めたアブラムは、その戦争が起っている間、平和なヘブロンの「天幕」に自由に住みながら、見えない約束の地を待ち望んでいました。そして、その戦争からの一人の逃亡者によって、ロトが北同盟の捕虜になってしまったことを知らされました(14:13)。14:14のアブラムの反応はかなり衝撃的です。「アブラムは、自分の親類の者が捕虜になったことを聞き、彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した。」(14:14)驚きが三つあります。まず、一つ目は、アブラムがロトを「自分の親類の者」として見ていたということです。ロトが自ら家族から離れ、アブラムに与えられた神様の約束をあきらめたとしても、「ロトが捕虜になった?それは自業(ごう)自得だ。私はロトの番人だろうか」とは言わずに、アブラムはロトを「自分の家族」、「神様が選んだアブラム家の一員」として愛し続け、助けに行ったのです。二つ目の驚きは、アブラムが「ダンまで追跡した」ということです。地図を見ると、ヘブロンは約束の地の南に位置しているのですが、ダンは北部のほうなので、アブラムが相当な情熱を持って、物凄い勢いで追跡したことが伺えます。そして、最後に、最も驚くべきことは、アブラムが、たったの318人でヨルダン渓谷の王国を制覇した「北同盟」に戦いを挑んだということです。今で言うと、たったの318人でアメリカ軍やロシア軍、中国軍に喧嘩を売りに行くようなものです。

なぜアブラムはそのような反応ができたのでしょうか?それは自分が「神の王国」に住むという決断によって、そのように反応することができたのです。アブラムはヘブロンに住んでいましたが、そこでは寄留者として住んでいました。アブラムは、神が「設計者」である「堅い基礎の上に建てられた」、見えない都を待ち望んでいて(ヘブル11:10)、見えない神様を自分の「王」として受け入れ(創世記14:20)、神の国の「民」として神様により頼み、従っていたのです。ですから、アブラムからすれば、たったの318人での戦いではありませんでした。この軍の先頭に立っていたのは、目に見えない「いと高き神、天と地を造られた方」(創世記14:20)アブラムの主だったのです。つまり、それはアブラムと北同盟の王たちの衝突ではなく、見えない神様と北同盟の王たちの衝突だったのです。そして、アブラムの主がエジプトの王を大きなわざわいで打って圧倒してくださったように、北同盟も圧倒してくださるとアブラムは信じていたのです。

しかし、ロトが神様を見捨てて、神様の約束の成就をあきらめていたのに、なぜアブラムは神様がまたロトを救い出してくださると確信できたのでしょうか?それは、アブラム自身がエジプトで神様を見捨てて、神様の約束の成就をあきらめてしまったのに、神様が一方的にアブラムを救い出してくださったという経験があったからでした。神様の恵み深い愛と力強い救いを経験したアブラムは、そのことを通して、神様からいただいた同じ愛と同じ救いをロトに差し出そうとしたとも言えます。そして、神様はアブラムの思いを祝福されました。318人の軍隊は夜の奇襲で中東を制覇していた「北同盟」の大軍を倒し、最終的には約束の地からその大軍を追い出したのです。つまり、「南同盟」の軍事力を持ってでも14年間もできなかったこと、また、ソドム王国の政治力によって成し遂げられなかったことを神様は、たったの318人の軍隊で、しかも一晩で成し遂げられたのです(14:15)。要するに、アブラムの見えない「王」が、ロトの選んだ穴に逃げ隠れたソドム王だけではなく、すべての王を圧倒したということなのです。そして、「アブラムはすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した」(14:16)のです。つまり、ロトが頑なになって神の国を捨て、神様からいただいたものを放蕩したにもかかわらず、神様はその子を救い出し、また神様の約束により頼む機会を与えてくださったのです。

 

これがアブラムとロトの決断の最終的な結果です。見た目の良さだけで決めたロトの王国は最終的にロトを裏切り、信仰の目によって決めたアブラムの王国は裏切者を救い出したのです。この箇所を新約聖書に置き換えて、今週皆さんに覚えていただきたいことを二つ分かち合いたいと思います。

一つは、私たちは自分たちが決めた王国の「勝利と繁栄」に引き渡されますが、その王国の「敗北と滅び」に翻弄(ほんろう)されるということです

この世界には、大なり小なり様々な「王国」や「王様」が私たちのお金や時間や忠誠などを求めます。そして、私たちにいろんな約束をアピールします。「ここに住んだら、誰もが欲しがるような、心地いい、悩みのない、見栄えのいい、充実した、楽な、輝かしい生活ができる。」そして私たちに「目に慕わしい」モノを提供してくるのです。そして、私たちはその王国の「勝利と繁栄」に心を引かれ、その「王国」を選び、その民からも影響を受けながら、その文化や富を楽しみます。しかし、私たちがそのように楽しんでいる間は、その王国がどれほど歪んだ土台の上に建てられているのかをあまり意識しないでしょう。ロトは「ソドムは最高の町だ!」と思っていましたが、ソドム王は「北同盟」からロトを守ってはくれませんでしたし、むしろ、ソドム王は民を置き去りにして自分の身を守るために穴に逃げ隠れたのです。

今日、ロトのように、聖書の神様を自分の王としてまだ認めたくない方もいらっしゃるかもしれません。ロトのように目にも見えないし手で触れることもできないような「神の王国」などには、あまり心が引かれない方もいらっしゃるかもしれません。そう思っても仕方ないと思います。けれども、ここで皆さんにお聞きしたいのは、あなたが心引かれる、目に見える「王」や「王国」、「勝利や繁栄」だけを見るのではなく、その裏にある、見えない「敗北と滅び」についても見ておられるかどうかということです。いろんな王様たちが衝突するなかで、最終的にどの王国が生き残ったでしょうか?創世記14章で言うなら、北同盟か南同盟か?平安時代で言うなら、源氏か平氏か?戦国時代でいうなら、徳川軍か石田軍か?現代に言い換えますと、ロシアかNATOか?アメリカか中国か?どの王国が最終的に勝利し、どの王国が滅びるのか?歴史を見ると、最終的にはどの王国も滅び去ります。どれほど成功したとしても、どの王国も停滞し、最後には滅び去るのです。そして、過ぎ去ってしまう王国は、私たちを守ることもできず、私たちを置き去りにしてしまいます。ですから、新約聖書は、この世の輝かしいモノは、ソドム王国のように過ぎ去り、私たちの期待を裏切り、私たちをも滅ぼすと警告しているのです。(1ヨハネ 2:16–17)むしろ、この世の究極の支配者−−サタン、罪、そして死−−は、私たちに色々な輝かしいことを約束しますが、私たちのことは何とも思っておらず、北同盟がロトを捕虜にしたように、私たちを「奴隷」にし、自分たちの思うように利用し、最終的に私たちを「死」へと導くのです(ローマ6:20-23)。ここで、改めてお聞きしたいのですが、あなたは、ご自分が今所属している「組織」の「勝利と繁栄」だけを見ていらっしゃるでしょうか、それとも、その裏にある、目には見えない「敗北と滅び」も見ていらっしゃるでしょうか。

 

次に覚えていただきたいことは、神の王国は、アブラムロトのような罪人を追い求め、自分の民を救い出す王国であるということです。

皆さんはこの話を聞いて、「自分はアブラムなのか、ロトなのか」または「自分はアブラムのように神の国を選んでいるのか、または、ロトのようにこの世に引かれているのか」と自分に問うかもしれません。これは非常に大事なことですが、忘れてはいけないのは、アブラムもロトも、自分の個人的な判断で、自分を救うことはできなかったということです。むしろ、アブラムもロトも、放蕩息子のように、試練から逃れるために「目に慕わしい」この世の王国を選んでしまい、自分と家族の将来をどん底に突き落としてしまったのです。2人とも絶体絶命の状態に置かれながらも、神様を呼び求めませんでした。この箇所の主人公はアブラムやロトではなく、神様なのです。2人が救われた理由は、神様が2人をご自分の民として見てくださったからなのです。

神様ご自身が彼らのような罪人を追い求め、ご自分の民を救い出し、約束の地へ導き、祝福することを約束してくださいました。そして、ソドム王国と北同盟とすべての王国とは違って、神様は実際にそれを実現する力のあるお方なのです。アブラムはその王国の民として自分の主と同じように、ロトという罪人を追い求め、自分の民を救い出したのです。

私たちも同じ立場に置かれています。今、私たちはなぜ「神の国」の民になったのでしょうか?「神の国が最高の王国だ」と悟ったからでしょうか。とんでもないです。私たちはロトと同じように、自分たちの「ソドム」を選び、自分たちで破壊の道を選んでしまったのです。そして、サタンが私たちを捕虜として「暗闇の王国」に連れて行こうとしたとき、神様が、アブラムというしもべではなく、ご自分の御子であるイエス様を派遣し、赤の他人の罪人である私たちを指して、「自分の親類の者が捕虜になった。救い出しておくれ」と命令されたのです。そして、イエス様は、318人の兵隊たちとともにではなく、12人の弟子たちさえもいない、たった一人で十字架の上で、ご自分のいのちをかけて、サタン、罪、死という強大(きょうだい)な連合軍を倒されたのです。そして、御父がその救いの業を祝福され、イエス様は私たちを救い出し、神の国に連れ戻し、私たちに約束された天の相続分を与えてくださったのです。そして、コロサイ1:12-14はこう書いてあります。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

私たちはそのような王様に救われ、そのような王国の民なのです。ですから、アブラムと同じように、自分たちの王であられるイエス様からいただいた救い、恵み、愛を思い出し、私たちも積極的に、犠牲的に、そして、ためらうことなく私たちのような罪人を追い求めて、神の王国に招いて行こうではありませんか!お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church