2022年7月10日礼拝 音声有 説教「畑の宝・良い真珠」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: in person at our church space and shared via ZOOM.

(聖書朗読・説教は17:35頃から)

(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship コロサイ人への手紙 Colossians 1:19~20
さ ん び Opening Praise 「感謝と喜びを」
さ ん び Praise 「主イェスの十字架の血で He Is Our Peace」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 聖歌 465番 「よびとのとがのために」
聖書朗読 Scripture Reading マタイの福音書 Matthew 13:44~46
聖書の話 Sermon 「畑の宝・良い真珠」 廣橋嘉信牧師
賛   美 Hymn of Response 聖歌 462番 「わがしょうがいは」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 廣橋嘉信牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction 廣橋嘉信牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話「畑の宝・良い真珠」 廣橋嘉信牧師

 

序文)主イエス様が教えられた「たとえ」は、ここから四つ出てきます。天の御国は、「畑に隠された宝」「良い真珠」「地引網」「一家の主人」です。皆、短いですが、二組ずつ共通している教えがあります。今朝は最初の二つを学びます。

 

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイ13:44)

 

Ⅰ 宝は?

「畑に隠された宝」とは、イエス・キリストこそ(福音)まことの宝であることを教えようとしています。「宝」も「真珠」も小さなものだけれども価値あふれるもののたとえです。まことの宝であるキリストの中には「満ち満ちた神の本質」(コロサイ1:19、ヨハネ1:16)がやどっています。

「知恵と知識との宝庫」(コロサイ2:3)です。これらはみな信じる私たちのものとなります。

その始まりが小さいからといって、そのために低く評価するきっかけを誰にも与えないように。それは、今は小さく見えるかもしれないが、とてつもなく大きな価値のあるものなのです。「満ち満ちた神の本質」がやどっているのですから。

福音という宝は、旧約聖書と新約聖書との両方の福音のみことばに隠されています。主イエス様はご自分のことを次のように言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5:39)。

聖書のことを、他の良い書物より何が優れているのか、と比較しながら考える。キリストの福音はプラトンの哲学、孔子の道徳などより何が優れているのかと比較する。こういうレベルで聖書、キリスト教を見ている人は世間に多いのです。自分はクリスチャンだという人の中にさえいるのです。

キリスト教の価値は、神の子イエス様ご自身の中にあります。畑に隠された宝を見つけても、帰って、持ち物全部を売り払って、戻ってきて買い求めない人は、結局、畑に隠された宝の価値が分からない人、信じきれない人です。この畑の価値が分かり、これを買う決心をした者は、福音の出す条件で、福音の申し出た条件に喜んで(快く、イヤイヤではなく、willingly) 応じ、この畑を買います。買ってそれを自分のものとする。私たちが目当てにしているものは福音の中心にいますキリストです。私たちが天に上ることが必要なのではなくて、みことばの中のキリストが、私たちの近くに、内におられることが必要なのです。キリストにしっかり目が向かうと、この畑を買うために持ち物全部を売り払う。 キリストの恩恵に与りたいのなら、それを確実に手に入れるように、持ち物を快く手放さなければならない。パウロはその発見を次のように言っています。

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。」(ピリピ3:8-9)

 

Ⅱ コストは?

キリストに従うためのコストは、次の聖句に明示されています。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:26-33)。

「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。』」(マルコ10:29-30)

 

ルカ14:26-27で主が語られた語調は大変厳しいものです。「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることができません。」「憎む」ということばは、肉的な人情としての憎しみをもって憎むと言う意味ではありません。最愛の者を文字通り憎めと言っているのではありません。イスラエル人が、AよりもBを選ぶ、AよりもBを優先するというときに「わたしはAを憎む」という言い方をするのです。例えば、ローマ9:13「『わたしはヤコブを愛し、エソウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」ということばは、神がヤコブを選ばれたことの論証にもちいられているのです。つまり、この26節は「わたしよりも父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのちを愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)と同じ事を言っているのです。主イエス様と「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのち」を同列において、どちらが重いかと考えるようでは、キリストの弟子に相応しくない。まして、単なる好奇心や、自分の夢を実現するためにキリストを利用しようとするのでは、弟子になることはできない。主イエス様を最優先して、そのために自分のいのちとイエス様のどちらを選ぶかと言われた時、自分のいのちを憎む、すなわちイエス様を選ぶと決断する。このような献身が弟子には要求されている。

 

それは主イエス様が天の神のみこころを最終的に「わたしの心ではなく、あなたのみ心がなりますように」とゲッセマネで祈られた結果、私たちの十字架を負ってゴルゴタに上ってくださったように、神が、私たち弟子に求めておられる御心の実現のためには、「自分の十字架を負って、従ってゆく事」を求めておられるのです。主イエスに付き従う者は、主とともに生死を分かち苦楽をともにする。十字架を負う道であるが、それは栄光の復活に与る確実な道でもある。クリスチャンは生まれながらの「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのち」への愛にも勝ってイエス様への愛に生きる新しい道をあたえられたのです。

Ⅲ 「素晴らしい値打ちの真珠」の話は、畑に隠された宝と同じ話。

「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。」(マタイ13:45-46)

宝と言い、真珠と言って、たとえが二度繰り返されるのは、意味がある。ヨセフがエジプトのファラオ王の夢を解き明かしたときに「夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。」(創世記41:32)と説明しています。よほど重要な事柄をイエス様は教えようとされたのです。傾聴するはずでしょう。

私たちは良い真珠を探して忙しくしています。人生で富む者になろう、名誉ある者になろう、学のある者になろう、地位のある者になろう、子どもが子供が出世するように育てよう。しかし忙しくしているうちに、良い真珠ではなくて、にせものの真珠をつかまされて、人生を終わることになります。老齢になって、これで良かったのかしらと反省します。

主イエス・キリストは良い真珠です。持っている物を全て売り払ってでも買うべきです。計り知れない価値があり、永遠に輝く真珠です。本当に富む者について主イエスは「自分のために天に宝を蓄えなさい」(マタイ6:20)と言われました。主を知り、信じる者は、この世でも、永遠の世でも幸せになります。何か足りないということはありません。一日一日充分です。永遠に充分です。霊的に天に宝を蓄える者となりましょう。

持ち物全部を売るとは、キリストへすべてを明け渡すこと。見つけたすばらしい真珠の本当の値打ちがわかっているなら、そうしましょう。明け渡した人生を歩むことです。主から全ての愛と犠牲の奉仕が出てきて私たちに注がれました。ですから、私たちの愛、奉仕が行き着くところは主イエス様なのです。

 

結び)私たちの信仰は、神からの圧倒的、一方的な恵みによって与えられました。主イエス様に出会ったからです。その上で、私たちの側で、神の子としての特権をいただいたので、救い主、導き手、完成者である主イエス・キリスト様に人生をかけて求め、従い、歩み、天の御国に入ることが肝要です。それは、主イエス様が最高の宝であり、価値ある良い真珠であるからです。そのように進む者は誰も報いから漏れることはありません。