2022年7月17日礼拝 音声有 説教「2人の王、2つの王国」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: in person at our church space and shared via ZOOM.

音声ファイル:13:40頃までの音質がよくなくて申し訳ありません。それ以降は改善されています。説教箇所は15:30頃から。

(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ヘブル人への手紙 Hebrews 7:24~25
さ ん び Opening Praise 「御名を掲げて Lord, I Lift Your Name on High」
さ ん び Praise 「主はいま生きておられる Because He Lives」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 4番  「父なる神 力の主よ」
聖書朗読 Scripture Reading 創世記 Genesis 14:17~24
聖書の話 Sermon 「2人の王、2つの王国」マーク・ボカネグラ牧師
賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 158番 「小羊をばほめたたえよ!」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話 創世記 Genesis 14:17~24「2人の王、2つの王国」

 

2021年に出版された「Work Won’t Love You Back.」という本を最近見かけました。日本語に直訳すると、「仕事はあなたの愛を返しません」。それは、つまり、私たちは「仕事」に「片思い」しているということを意味しています。私たちは自分たちの「好きな仕事」を捜し続けて、「好きな仕事」のために骨を折ったり、いろんな犠牲を払ったりして、その「仕事」に仕え、その「仕事」を愛し続けます。しかし、残念ながら、「仕事」や「会社」は人を何とも思わず、人の「愛」を利用して、低賃金で私たちを雇い、忙しさによって人を疲れさせ、孤独にさせているというようなことをこの本は主張しています。そして、最終的には人が利益をもたらせなかったら、仕事や会社はその人をすぐに切り捨て、もっと若くて、有能な人を雇うのです。私は、この本の内容のすべてには同意できませんが、この本の題名は本当にその通りだと思います。「Work Won’t Love You Back.」「仕事はあなたの愛を返しません」そして、仕事に限らず、人間はさまざまな「モノ」や「人」を愛して、いろいろなことを期待してしまうのですが、「恋は盲目」なので、その「モノ」や「人」が本当の意味で自分を愛していないことに気づくことができないときもあります。

本日の箇所では、そのような究極の決断がアブラムに与えられています。2人の王様がアブラムにアプローチをします。そして、アブラムがどちらの王様に仕えるか、「だれ」を愛し、「何」に希望を置くかを選ぶ場面です。私たちは古代に生きていたアブラムのように「王」に仕えてはいませんが、自分が信頼し、尊敬する好きなだれかや何かに対して、全身全霊で自分をささげて仕えていると言えるのではないでしょうか。自分にとって、何だと思いますか?目で見える「王様」ではありませんが、私たちの霊とからだはそのような「存在」に仕える傾向があると思います。しかし、この聖書箇所の主人公は、良い王様を選んだアブラムではなく、アブラムが選んだ王様のほうなのです。その王様はどのようなお方であり、他の王様とどのように違うのかが明らかになります。アブラムが選んだ王様は、私たちが惹かれている王様とどう違うのかも一緒に考えたいです。いつものように、本日の箇所の流れを確認してから、覚えていただきたいことを分かち合いたいと思います。

 

本日の箇所(14:17-24)に入る前に、まず今までの流れを思い出しましょう。創世記12章で、神様がアブラム家に想像を絶する約束を与えられました。それは、①アブラム家を「王家」にすること、②アブラム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③永遠の安息が経験できる「約束の地」に住むこと、でした。そして、もしアブラム家が神様の約束を信じるなら、それらのことは神様の恵みのみによって与えられると約束されました。そして、アブラム家はその約束を信じ、信仰をもってカナンへ向かいました。しかし、約束の地であるカナンに着きはしましたが、色々な厳しい試練があり、アブラム家は神様の約束に期待することをあきらめてしまい、約束の地を出て、エジプトにある、目に見える富を追い求めるようになりました。そして、アブラム家は、自分たちの間違った判断によってより苦しい状況に陥ってしまったのです。しかし、神様は彼らを救い出され、約束の地への道をアブラム家に与えてくださいました。

エジプトから救われた後(創世記13章)、アブラム家は神様の御名をほめたたえましたが、アブラムと甥のロトは別々の道を選びました。ロトはエジプトに戻らず、エジプトのように潤っているソドムを選び、神様の約束の地を出て、「主に対して甚だしく罪深い」(創13:13)ソドム王国に住み始めました。しかし、創世記14章に書いてあるように、戦争が始まり、北の同盟という4つの大きな王国の同盟が、ロトが住んでいたヨルダン渓谷に侵入し、ソドム王国を植民地にしました。そのため、ソドムは12年間も北同盟に毎年貢(みつ)ぎ物か税金を支払わなければなりませんでしたし、ソドム王国が13年目に北同盟に反発したせいで、「北同盟」は「ソドムとゴモラのすべての財産とすべての食糧を奪って行き」(14:11)ました。その中には「アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った」ということでした。しかし、アブラムはロトと違って、潤っている王国ではなく、カナンの荒野での厳しい天幕生活を選び、神様の約束を待ち望むことを選びました。神様の摂理とご支配の中で、アブラムは北同盟からの侵入から守られました。そして、アブラムは自分の親類のロトが捕虜になったことを聞いたとき、318人を引き連れて北同盟を攻め、小さな軍隊で強大な連合軍を一晩で倒しました。そして、ソドム王国ができなかったことを、アブラムがし、親類のロトを救い、取り戻したのです。このすべての出来事は、アブラムのおかげではなく、アブラムが信じた神様のおかげでした。そのような流れで本日の箇所が始まります。

アブラムが、北同盟のケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って戻って来たとき、2人の王が彼を迎えに来たのです(14:17-18)。一人はソドムの王ベラ(14:2)、もう一人はサレムの王メルキゼデクでした。この2人の王様は、二つの生き方、二つの道を現わしています。それは、神様の恵みの支配の下で生きる道と、この世の厳しい支配の下で生きる道です。

ベラは、ロトが住んでいた「主に対して甚だしく罪深い」(創13:13)ソドム王国の王です。たまたまなのか、意図的なのかは、はっきり言えませんが、原語では「ベラ」の名前の中に「悪」という文字が入っているので、「ベラ」と聞くと、邪悪な存在であるという印象を受けます。ソドム王国は潤っていましたが、北同盟がソドムに侵入し始めた時、ソドムの王ベラは戦わずに戦場から逃げ出し穴に隠れました(14:10)。その結果、北同盟は、ソドム国を略奪し、民を奴隷にして北同盟に連れて行ったのです。要するに、ソドムの王ベラは、大失敗して民を置き去りにした自己中心で邪悪な王様でした。

もう一方の「サレムの王メルキゼデク」についての情報が少ない中、ベラとの対照的な存在として、非常に興味深いことがいくつか記されています。まず、メルキゼデクの人柄が名前と肩書に現わされています。メルキゼデクの名前を直訳すると、「義の王」という意味です。ですから、邪悪なベラとは対照的に、メルキゼデクの名前からは「正義の味方」という印象を受けます。また、メルキゼデクは「サレムの王」で、「サレム」は「平和」という意味なので、戦争を引き起こしたベラと違って、メルキゼデクが「平和の王」(ヘブル7:2)であり、平和をもたらし平和を保つ良い王様であることが伺えます。また、「サレム」は「エルサレム」を指しているので、メルキゼデクが神様が宿られる「平和の都」となる地の王であることが示唆されています。そして、創世記の人物にはいつもの家系が記されているのに、メルキゼデクには「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく」、この王には「いのちの終わりもない」(ヘブル7:3)ような印象を私たちは受けます。ですから、メルキゼデクは「義と平和をもたらす、初めも終わりもない王」であるということがわかります。

次に、メルキゼデクの動機も明らかになります。メルキゼデクは王でもあり、「いと高き神の祭司」(創14:18)でもありました。「いと高き神」とは「天と地を造られた方」(14:19)を指していて、メルキゼデクはすべてを創造された聖書の神様を信じており、その神様に「祭司」として仕えていました。「祭司」は、聖書の神様と神様の民の間に立つ「仲介者」または「架け橋」です。神様にとって、祭司は「民の代表」であり、民にとって、祭司は「神様の代表」でした。実は、メルキゼデクの名前は「義の王」と訳すことができますが、「私の王は義である」と訳すこともできます。メルキゼデク王は、自分を王として見ていたのではなく、神様を自分の王として認め、神様は「義なる方」だと告白しているかのようです。つまり、メルキゼデクは、ソドム王のベラとは対照的な存在で、ベラのように自分の利益のために働いているのではなく、いと高き義なる神様のために、聖書の神様を信じる人々のために、働いた王であるということがわかります。

そして、この対照的な2人の王は、全く逆のアプローチで、北同盟を打ち破ったアブラムを迎えます。メルキゼデクは、神様の祭司(代表)として、アブラムに神様の恵みを宣言します。アブラムと彼と一緒に戦った318人は、北同盟を夜に奇襲し、カナンの一番北部まで敵を追跡し、北同盟に捕虜にされた人々や財産を強盗や敵に襲撃されないようにカナンの南部まで導き守ったので、非常に疲れていたと思います。そのような状況の中、メルキゼデクは神様の祭司として、疲れ果てていたアブラム軍に、すぐさまパンとぶどう酒を与えました。そして、その後、メルキゼデクはいと高き神の祭司としてアブラムに祝福の宣言をしたのです。

「アブラムに祝福あれ。 いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。 あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」(創14:19-20)

メルキゼデクは、神様の大使として、神様がアブラムの王としてなさった二つのことを宣言しました。それは、①神様がアブラムに勝利を与えたことと、②神様がアブラムに恵みを与え続けることです。要するに、いと高き神の祭司として、サレムの王メルキゼデクは、アブラムに何かを求めたのではなく、一方的に神様の愛と恵みを語ったのです。

しかし、ソドムの王ベラはどうでしょう。ソドムの国民を置き去りにして、戦場から逃げ出したベラはアブラムをこのように迎えます—「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」(14:21)ソドムの王ベラは、メルキゼデクと全く違いますね。まず、アブラムの疲れ果てた様子を無視して、ベラは自分がアブラムから欲しいもののことしか考えていませんでした。次に、ベラは自ら民を置き去りにしたのにもかかわらず、民を救い出してくれたアブラムに感謝もせず、何事もなかったかのように「私の民を返せ」と命じたのです。そして最後に、ベラは財産を使ってアブラムを誘惑して、ずる賢い取引をしようとしました。まず、ベラには治める民もいなくなり、自分の収入源(税金)も完全に失ったわけなので、どうにか民を再獲得しようと考えたのだと思います。ですから、ソドムの財産をアブラムに与え、アブラムをベラが雇った傭兵(ようへい)にして、アブラハムの勝利を自分のものにし、ソドム人に「わたしがあなたを救い出したのだ!」と言おうと企んでいたと思います。

要するに、メルキゼデクはただ神様の恵みを一方的に与えた王であり、ベラは富を使ってただアブラムを利用したかった王であったと言えます。言い換えると、メルキゼデクは神様の恵みの支配の下で生きることを表していて、ベラはこの世の厳しい「ギブ・アンド・テイク」(律法)の支配の下で生きることを表しているのです。

そして、アブラムはこの二人の王の支配を見て、二つのことをしました。まず、アブラムはすべての物の十分の一をメルキゼデク王に与えました(14:20)。その献げものの意味は、アブラムがメルキゼデクが宣言した神様の祝福を受け入れたということ、そして、神様の恵みの支配の下で生きることを決断したということです。そして、その感謝を見える形で現わすために十分の一の献金を献げ、メルキゼデクの権威に従い、いと高き神様に忠誠を誓いました。ある意味、その時がアブラムの正式な信仰告白だとも言えるかもしれません。アブラムは、エジプトから抜け出せたこと、アブラムが北同盟から守られたこと、北同盟を打ち破ることができたこと、ロトを救い出せたことなどの全てをみて、「これはすべて神様の恵みのおかげだ。神様はおられる。もしそうなら、神様は私に下さった約束を成就し、私を守ってくださる」と確信できたので、神様に自分の忠誠を誓うことができたのだと思います。そして、自分の財産の十分の一を献げたことは、信仰告白を見える形で表したことになるのです。

アブラムが次にしたことは、ソドムの支配を完全に否定したことです。

(創14:22–24) アブラムはソドムの王に言った。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、主に誓う。 糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。」

つまり、アブラムは勝ち取った全財産をソドムに返し、「神様が下さる恵み、神様の約束のみことばで大いに十分だ。むしろ、それが最高の恵みだ」と決心したのです。エジプトの富に惹かれていたり、エジプトの王をびくびく恐れていた臆病なアブラムはいなくなり、いと高き神様のみわざに強められたアブラムが、「そんなのいらねぇよ!」という勢いで、ソドムの財産とソドムの支配を拒みました。このようにアブラムは、いと高き神様を選び、この世を拒んだのです。

 

さて、この箇所から何が学べるでしょうか?覚えていただきたい点が三つあります。まず、一点目。「究極のメルキゼデク、イエス・キリストは、私たちに神様の恵みを実際に与え、私たちが恵みの支配の下で生きるようにと招いておられる」ということです。

この短い聖書箇所の主人公はアブラムではなく、アブラムに神様の恵みを宣言したメルキゼデクです。しかし、メルキゼデクはアブラムに約束された恵みを与えなかったし、約束が成就されなかったので、アブラムにとっては不十分だったと思います。ですから、将来、アブラムに約束されたすべての祝福(12:1-3)がメルキゼデクのような祭司王によって与えられるということが、この場面を通して預言されているのです(詩篇110篇、ヘブル7-10章参照)。つまり、究極のメルキゼデクがアブラムに約束された「永遠のいのち」を与えてくださるのです。では、誰が究極のメルキゼデクなのでしょうか?

究極のメルキゼデクとはイエス・キリストです。イエス様はメルキゼデクのように、「平和の王」、「義の王」、「新しいエルサレムの王」、いのちの終わりのない、永遠のいのちを持っておられる王様です。イエス様は、メルキゼデクのように、「いと高き神の祭司」で、「いと高き神の子」(マルコ5:7、ルカ8:28)として神様の右の座に座られ、神と民の仲介者、架け橋になられました。そして、イエスさまはメルキゼデクとは違って、神様の代表ではなく、神の長男として、ご自分の救いのみわざによって、実際に私たちを神の「王家」の一員にしてくださり、私たちを「神の国」という王国の民にしてくださって天という「約束の地」を与えてくださいました。それらを通して、イエス様は私たちに「永遠のいのち」を実際に与えてくださったのです。アブラムはメルキゼデクに恵みの「約束」を頂きましたが、私たちは究極のメルキゼデクであるイエス様から、恵みの「実物」ー永遠のいのちーを頂いたのです!ですから、私たちはアブラム以上に喜ぶべきです!そして、メルキゼデクと同じように、イエス様は私たちからは何も求められません。むしろ、私たちに必要な「パンとぶどう酒」を与え、「神様の恵み」を与えてくださるのです。そして、私たちを神さまの恵みの支配の下へ招いてくださり、ご自分のためにではなく、神様と私たちのために働いておられるのです。私たちが信じているイエス様は、メルキゼデク以上に素晴らしい王様なのです!

次に覚えていただきたいことは「究極のソドム王ベラであるサタンは、私たちに輝かしい報酬を差し出し、私たちを利用し、この世の厳しい支配の下に招いている」ということです。

ベラが自分の民を置き去りにしたように、また、アブラムを利用しようとしたように、サタンも、私たちのことなど、何とも思っていません。サタンは、ただ自分の利益のために私たちを利用したいだけなのです。もちろん、私たちに輝かしい報酬を差し出そうとします。私たちが願っているものを約束して、それを全て与えます。そして、目に慕わしくて楽しく輝かしい王国に私たちを招きます。しかし、忘れてはならないのは、「この世の中、この王国はあなたを愛していません。」残念ながら、ソドムの王ベラのように、この世もサタンも自分のことしか考えていないのです。輝かしい報酬、サタンの笑顔、この世の甘い言葉に騙されていけません。この世の厳しい「ギブ・アンド・テイク」(律法)の支配の下には、イエス様のような、無条件で命がけの「永遠のいのち」を与えるような愛はありません。

ですから、最後に覚えていただきたいことは、「私たちが神様に誓った誓い、神様があなたに誓った誓いを思い出していただいきたい」ということです。

洗礼を受けたクリスチャンは、アブラムと同じように、すでに究極のメルキゼデク、イエス様に忠誠の誓いをしました。そして、アブラムのように、自分の信仰告白を見える形にするために、自分の財産の十分の一だけではなく、自分の時間、自分の霊、自分の体をイエス様にささげます。そして、私たちの信仰告白は、ある意味、サタンに宣戦布告することです。アブラムのように、「私は、いと高き神、天と地を造られた方、私を救ってくださったイエス・キリストに誓う。 糸一本、履き物のひも一本さえ、何一つ私はサタンの所有物から取らない。それは、『マークを富ませたのは、この私だ』とこの世が言わないようにするためだ」ということです。ですから、神様に誓いながら、この世の輝かしい報酬を楽しむことはできません。

しかし、私たちがサタンの輝かしい報酬に誘惑されることはよくあることですし、イエス様が約束してくださる恵みに魅力を感じないときもあります。そんなときは、頂く祝福のことよりも、祝福を約束してくださる「王」を思い出してください。この世の中が私たちに誓ったことと、神様が私たちに誓ってくださったことを比べてみてください。サタンと罪は私たちにこう宣言します。「私は、神のように、自分が思うように生きる自由を与えますし、喜ぶことも与えます。しかし、私はあなたたちを救わないし、いのちも与えません。むしろ、みんなと同じように、平等にあなたたちが滅びることを見ます」(ローマ6:20-21参照)。しかし、イエス様はこのような宣言をされました。“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。” (ヨハネ 3:16–17) 神様が私たちに宣言してくださったことを思い出して、感謝をもってこの一週間歩んでいきましょう。