2022年7月24日礼拝 音声有 説教「わたしはよみがえりです。いのちです。」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: in person at our church space and shared via ZOOM.

説教聖句朗読・説教 24:45頃〜

(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)

礼拝式順 10:45〜12:00

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 第一コリント1 Corinthians 15:55-58
さ ん び Opening Praise 「死を打ち破り」
さ ん び Praise 「主はいま生きておられる Because He Lives」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
幼児洗礼式 Infant Baptism 廣橋嘉信牧師
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イェスだけにある」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネによる福音書 John 11:14~27, 39〜45
聖書の話 Sermon 「わたしはよみがえりです。いのちです。」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 430番「夕闇の迫るとき」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 廣橋嘉信牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction 廣橋嘉信牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話「わたしはよみがえりです。いのちです。」

 

死。私たちは死にどう直面するのでしょうか。愛する人の死、そして私たちの死に直面する時、どう向き合いますか。

世の中には、死に対する様々な主張があります。本屋でベストセラー『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』を見かけました。その講義を教えてきたシェリー・ケーガン教授は魂がないと主張して、人間にとって死はそもそも悪いこととは限らないと言うのだそうです。ところが、アマゾンジャパンでこの本の批評(レビュー)を見てみると、例えば、神道的な「魂」概念をまともに扱っていないから日本人にあまり意味がない、というようなコメントがありました。また、別のレビューでは、ケーガン教授は仏教の輪廻転生概念を誤解しているという文句も見られました。

この一つの事例からのように、聖書以外の死生観には、物質しかなく、生も死も意味のないものだという唯物論があります。また、あらゆるものが霊魂あるものとして祀られ得る、神道のような多神教もあります。そして、輪廻を繰り返し、最終的に「無」の涅槃(ネハン)へ向かおうとする、すべてが一つであると言うような汎神論的仏教は多くの日本人にとって身近な考え方かもしれません。そして、多くの人はとにかく死について考えないで、とにかく今を楽しもう、と思いたがります。しかし、だれもが心の奥底で死が自分を捕らえると分かっています。

色々な立場は、哲学的また論理的に問題があるとクリスチャンの私は考えますが、ここで議論する積もりはありません。その議論は大切ですが、ここでは聖書の立場を提示する責任を受けています。昔の有名な牧師のリチャード・バクスターの抱負を覚えます。「私は、死にゆく人々に語る、死にゆく者として、説教する」者です。私たちは皆、死ぬ日の準備を今日、日々、していく必要があります。

 

それでは、まず話を見て行きましょう。それから最後に、死にゆく私たちが覚えて信じるべきことを確認しましょう。

まず、11章全体を見ていくと死の問題の大きさが見えます。

1〜3節 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

イエス様は二日間待ってから、ベタニアへ行くことを弟子たちに伝えます。

14・15節 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

この箇所が言及しなくても前提としている死生観は、すなわち、身体と霊魂を持つ存在の人間が創造主との生きた関係を放棄して勝手に生きようとした結果、身体的な死も霊的な死もあるということです。身体の死と悲惨がすべての人に訪れます。そして、身体的な死の裏に霊的な死があります。神様との生きた関係を再び受けて、完全な身体と霊をもっていわゆる「永遠のいのち」を持つためにどうすればよいかということは聖書全体の大きな課題です。

さらに、イエス様がベタニアの村外れに到着されると亡くなったラザロの姉妹マルタが迎えて、嘆きます。

21・22節「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」

「イエス先生、近くにいてくれたならばラザロを癒して、助けたはずです」とマルタは悔しそうに、ぼそっと漏らします。ともに嘆くために来た友人たちも37節で同じ思いを分かち合います。しかしイエス様はあわれみ深いお方です。マルタとマリアに同情して、死の悲しみをともにします。35節、「イエスは涙を流された」はそういう意味であると思います。

しかし、イエス様は23節でマルタと話すとき、まず彼女の視点を変えようとしてくださいます。「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』」イエスのことばには捉え方が二通りあります。すぐによみがえるのか、後々によみがえるのかを言わずに、イエスはマルタの自然な受け止め方から本音を24節で引き出します。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」要するに、マルタはラザロがすぐによみがえるとは思えないけれど、当時の敬虔なユダヤ人の多くの思いを告白します。すなわち、歴史の終わりに神様が世を正義によって裁きに来られて、全ての人が身体的に復活することを認めます。この出来事はヨブ記19章やダニエル書12章で言及されます。クリスチャンもこれを信じています。マルタは素直にこれを「知っています」と、信仰の知識として言えました。

 

しかし、イエス様はマルタの目を遠い将来や教理から、イエスご自身へ向けさせます。25・26節を読みましょう。

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

イエス様こそによみがえりがあり、いのちがあるということです。マルタが言う遠い将来のよみがえりの信条は正しいですが、それも本来、目の前に立つイエス様が成就なさることです。

さて、イエス様は今回の宣言でご自分について具体的に何を仰っているのでしょうか。25節後半が「よみがえり」を少し説明し、26節前半が「いのち」を少し説明していると考えます。

まず、「よみがえり」は「わたしを信じる者は死んでも生きる」ということです。これは新約聖書で使われる「よみがえり」や「復活」がほとんどの場合、イエスご自身の復活以外では、将来の「最後の日」に始まる「よみがえり」、つまり身体的な「いのち」の再開また刷新を意味します。単に生命を再び持つということではなく、具体的にイエス様を信じて従った者として、永遠に神様を喜び讃えるいのちを持つのです。イエス様は5章29節でよりはっきりと区別をしました。「善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます」と言われましたが、イエス様は「善を行った者」には、「死んでも生きる」約束を下さいます。まさに、マルタが考えていた、最後の日の「よみがえり」の出来事がイエスにあって可能であるということです。イエス様が「よみがえり」として、これを確約する権威があります。なぜなら、イエスは最初の身体的いのちの主でもあるからです。ヨハネの福音書1章3・4節でもヨハネがすでに示唆しています。

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

イエス様はラザロの身体的ないのちの主、また、彼が最後の日に復活して、最高の喜びなる神様を永遠に仰ぐことができるいのちの主でもあられます。私たちに対しても、同じお方です。

ただ、これはまだマルタには慰めのように聞こえなかったかもしれません。ラザロはもう死んでいるでしょう、と思ったでしょう。でもイエス様は「いのち」でもあると言われるのはどういうことでしょうか。26節前半がここの「いのち」を解説すると思います。それは霊的ないのちです。そしてヨハネ書の多くの箇所で使われる修飾語「永遠の」はここにも当てはまるでしょう。永遠のいのちは復活以降の約束だけではなく、26節前半が言うように、今も既に与えられたものです。「生きていてわたしを信じる者」は、霊的ないのち、つまり神様との生きた関係を持つからキリストを信じる者です。そのような人は、「永遠に決して死ぬことがありません」。身体的ないのちは失うかもしれません。25節では「死んでも生きる」ので、クリスチャンは死の体験から免れるという訳ではありません。しかし、終わらない、霊的ないのちを今受けて経験しているのです。ヨハネ5章でイエス様がこれにも触れました。24節「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方〈=父なる神様〉を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

今日の話の続きを見る前に、これがなぜ重要かを思い出しましょう。私たちは本来、霊的に死んだ状態にある者です。神様に心から敵対する者です。ですから、私たちは神様が示された基準(律法)に逆らって、罪を犯してしまいます。この罪の罰として、当然、「死」を受けるべきです。しかも、身体的な死だけでなく、ヨハネ5章29節でも既に読んだように、「悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます」。霊的ないのちが一方的に私たちに与えられなければ、私たちは希望のない者として、滅びるしかありません。ところが、イエス様が今日の箇所の通り、死に対する勝利を与えてくださいました。信じるなら、赦していただき、裁きを受ける必要がありません。

まとめると、言うなれば、イエス様が三つの意味でいのちを下さいます。創造主として、全人類に身体的ないのちを下さいました。そして救い主として、もう二つのいのちを用意してくださいました。今から始まる、霊的ないのち。さらに、霊的ないのちを受けた者には、さらに完全なからだをもって体験できる、最後の日のいのち。ですから、マルタが遠い将来の復活だけを考えていたところを、イエス様はご自身が今に繋がるいのちであると教えられます。

 

では、イエス様の宣言に対して、人々はどう応答したのでしょうか。そしてイエス様は何をなさったのでしょうか。

イエスは26節の終わりで言われます。「あなたは、このことを信じますか。」これは、マルタへの、そして私たちへの第一の適用です。マルタは単純な信仰告白をします。22・24節で彼女は概念として「知っています」言ったのですが、27節でイエス様ご自身に対して、「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と言えました。要するに、イエスが世に来られる、つまり、神様に遣わされた特別な預言者であり、聖なる神の子、また神様に選ばれて使わされた救い主キリストであると告白しました。

マルタは、イエス様が語られるよみがえりといのちをあまり理解していなかったかもしれません。39節から分かるように、彼女はイエス様でもラザロをよみがえらせる力がないように思って、墓を開けたら臭いですと注意しようとしました。しかし、イエス様はそれでも恵み深く、「しるし」を行われます。イエス様はヨハネの6章でパンを奇跡的に増やすというしるしをなさってから「わたしがいのちのパンです」と仰せになったように(ヨハネ6:35)、今回も「しるし」を持ってご自身に関する宣言を裏付けてくださいます。最後の復活をも、霊的な復活をも支配される主として、イエスはマリアとマルタのために特別なしるしを行われます。ラザロの開けられた墓の洞穴の前で祈られてから、ヨハネの福音書11章43〜45節の出来事があります。

イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。

ヨハネの福音書にあるしるしの中で二つ目に偉大なしるしです。死後四日目、腐り始めていたはずのラザロが身体的な復活をしました。イエスの敵はどう話し合ったのでしょうか。その祭司たちの中の「大祭司であったカヤパ」がイエスを殺そうと一層強く思って、発言しました。50節「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ…」そこで著者のヨハネがコメントを添えます。カヤパは皮肉なことに、知らないで「イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(51・52節)カヤパが預言した死は、イエス様に確かに起きました。「いのちの君」のイエス(使徒3:15)が死なれました。イエス様の究極の「しるし」は、神の国の「国民全体」が滅びないように、身代わりとしていのちを捨ててくださり、自らよみがえったことです。これを見て、または聞いて、信じる者は幸いです。

 

以上が今日の話ですが、私たちへの適用はどうでしょうか。私たちや私たちが愛する人が死にいつあうか分かりません。しかし、コリント人への手紙第一の15章55〜57節が死を直視して、イエスが下さる希望を宣言します。

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。

死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

主イエス・キリストによって、神は、罪に対する勝利、そして死に対する勝利を与えてくださいました。どうやってですか。律法を完全に守られたイエス様がわたしたちの「いのち」と「よみがえり」となるために、「罪」とされて十字架上で身代わりの「死」を遂げられました(第二コリント5:21、ローマ8:2-4)。私たちが歌ったように、イエスに信頼する私たちに向けられたはずの「死のとげ」は折られました。私たちを刺すのは、ただ短い間の身体的な死になりました。十字架のしるしによって、イエスを信じる者はそれ以上の死を恐れなくても良いのです。永遠のいのちを受けて、それに伴って、最後の日にまた復活する希望があるからです。

イエスはあなたにとって、「よみがえりといのち」ですか。私たちはイエスや最後の日の復活に関する知識を知っているだけなら慰めにはなりませんが、知ってイエス様を信頼すればどうでしょうか。その場合、ヨハネ3章16節のことばがすでに成就し始めました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

私たちが死に打ちのめされそうなとき、一つだけの慰めと希望があります。それは、死のとげを折るほどの力そして愛のあるお方です。まことの神様は一方で八百万の神々と違って、人生の全領域そして全世界に渡って、生命と死とを完全に統治しておられます。同時に、まことの神様は涅槃などの原理とは違って、近くにおられ、そして私たちを個人として愛して関わってくださいます。その証拠はイエス・キリストです。まことの、永遠・無限・普遍の神が人間の性質をお取りになり、イエスとして、「私たちの間に住まわれた」からです(ヨハネ1:14)。イエスは神様が私たちを救うために送られて、すでに来られた、そしてまた来てくださるお方です。恐れと試み、悲しみ、寂しさ、そして最期の闇が迫るとき、イエスを信じる者は「主よ、ともにいてください」と祈り、安心することができます。