*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: in person at our church spaces and shared via ZOOM.
(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)
礼拝式順 Order of Worship 10:45〜12:00
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
司会者 主イエス・
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌322番
「こひつじ主イェスの」 1~4節
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
会衆 あわれみ深い神よ。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
賛美 Praise 教会福音讃美歌 391番「主と主のことばに」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記 Genesis15章1~6節
聖書の話 「疑うアブラムが義と認められた」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式 辞][祈 り][分 餐]
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
説教(聖書の話)
創世記 Genesis15章1~6節「疑うアブラムが義と認められた」
子供たちに聞きたいのですが、車の「ナビ」って聞いたことありますか?お父さんかお母さんが車で使っているのを見たことあるかもしれませんが、車のナビは、行きたい所(例えば、ディズニーランド)への一番早い道を探して、「左に曲がってください」「右に曲がってください」というふうに道を教えてくれる機械なのです。そして、私の携帯に入っているナビは、どこが一番混んでいるか、どの道が一番早いのかをも教えてくれるのです。しかし、時々、私のナビが「この道を通ってください。30分で着きます」と言うのに、その道はすごく混んでいて、赤信号の待ち時間も長くて、すごくゆっくりしか進めない道です。私はせっかちなところがあって、「本当に30分で着くのか?やっぱり行くのをやめようかな。近道を使おうかな」と考えるときがあります。だけど、不思議なことに、我慢してナビに従うと、やっぱり何らかの理由で、時間通りに着くのです!
今日のアブラムの話はそういう話です。ナビみたいに、神様はアブラムにディズニーランドのような「約束の地」へ導くことを約束されます。そして、神様は一番短い、一番やさしい道を用意してくださいます。だけど、アブラムはその道を歩む中で、いろんな難しい出来事があり、自分が思った以上時間がかかります。アブラムの心の中で疑いと恐れが沸き起こります。「神様、このままで大丈夫ですか?本当に着くのですか?やっぱりディズニーランドのような『約束の地』よりも近くの公園でいいや」とアブラムは考えてしまいます。だけど、神様はアブラムにこう言います。「大丈夫だ。恐れるな。わたしを信じれば、絶対に着く。そして、あなたが思った以上に楽しい所だから、安心しなさい。」私たちが疑っても、私たちがあきらめようとしても、神様が私たちを恵んでくださるという聖書箇所です。ですから、いつもと同じように、本日の箇所を確認して、覚えていただきたい点を分かち合いたいと思っています。
本日の箇所(15:1-6)に入る前に、まず今までの流れを思い出しましょう。創世記12:1-3で、神様がアブラム家に想像を絶する約束を与えられました。それは、①アブラム家を「王家」にすること、②アブラム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③アブラム家が永遠の安息が経験できる「約束の地」に住むこと、でした。そして、もしアブラム家が神様の約束を信じるなら、それらのことは神様の恵みのみによって与えられるという約束でした。そして、アブラム家はその約束を信じ、信仰をもってカナンへ向かいました。しかし、約束の地であるカナンに着きはしましたが、彼らの信仰を試すような厳しい試練が次々と起こりました。寄留者として約束の地をさまよいました。激しい飢饉もありエジプトへ逃げましたが、アブラムのウソによってサラがエジプトの王に奪われてしまいました。そして、エジプトから追い出され、約束の地へ再び戻ったら激しい戦争が始まり、アブラムは自分の甥を救いに行かなければなりませんでした。このように、アブラムは神様の恵みの約束を頂いたときから、何年も激しい試練を乗り越えながら、神様が約束された恵みを待ち望み続けました。
この話の流れの中で、本日のお話が始まります。
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。 「アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたへの報いは非常に大きい。」 (創世記 15:1)
神様がこのようなみことばを、この流れの中でアブラムに与えられたことは非常に面白いと思いませんか?様々な激しい試練を受けながらも、揺るがずに神様を信じ続けたアブラムに、神様が今更「恐れるな!」とおっしゃるのは、ちょっと違和感がありませんか?エジプトから、また商売で蓄積した財産を持っていて、周りの王に認められたアブラム。たった318人で北同盟の強大な連合軍に挑んで勝利したアブラム。大都市ソドムの王からの大金のオファーをきっぱりと拒んだアブラム。北同盟やソドム王から自分の家族であるサラとロトを守ることができたアブラム。「これらの出来事の後」(15:1)、もし、皆さんがアブラムの立場だったら、ここに来て何かを恐れると思いますか?むしろ、私なら「全て順調だ!かかってこい!」と思うと思います。なぜなら、自分は、自分の社会的地位、経済力、軍事力、家族、自分の正しさと信仰を見たら、安心すると思うからです。
2-3節でアブラムの根本的な恐れが明らかになります。アブラムが最も恐れていたのは、何年経っても、神様の約束が成就されなかったことでした。
アブラムは様々な試練を通して、そのようなことが何の安心、何の保証も与えないものだと知っていました。ですから、どれほどの富や権力を持っていても、それに頼ろうとはしませんでした。最も安心と平安を与えてくれるのは、神様の約束と恵みだと信じていて、神様のみことばのみにより頼んだのです。しかし、アブラムとサラに子どもが与えられていなかったこと、アブラムの後継者、甥のロトが約束の地から離れたこと、血の繋がっていない「家のしもべ」ダマスコのエリエゼルしか後継者として残っていなかったことを見て、アブラムは神様のみことばを疑いました。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。」(15:2) アブラムは、神様の約束のために全てを手放して富と権力は与えられましたが、神様の約束の恵みについてはまだ何も与えられていませんでした。神様が約束された「王家」、「王国」、また「約束の地」がこれから成就するというような、ヒントや証拠のかけらさえ何もなかったのです。「神様、あなたが私の盾であることを信じていますが、あなたが約束してくださった非常に大きい報酬はどこにあるのでしょうか?私は何年も待っています」と思っていたのです。つまり、アブラムの恐れと疑いは、不信仰から来た「恐れ」ではなく、神様の約束の成就を信じたことから来た「恐れと疑い」なのです。信仰と自分の現実がぶつかると、恐れと疑いが私たちの心から湧き起こります。
そして、アブラムは、恐れと疑いの中で、神様のみことばが成就する手段を神様に提案します。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」(15:3)この一言には、非常に根深い恐れと疑いが潜んでいます。アブラムの疑いを、私の言葉に言い換えると、こう言うことです。「神様、私の現実を見て頂けますか。私とサラは、旅の始まりよりももっと老いているので、今まで子どもが与えられなかったサラに子が与えられるわけがありません。荒野で天幕生活を送っている私の家族がこの世を治める王家になることは、現実とはほど遠いものと感じます。今の私たちの現状と神様の約束には大きなへだたりがあり、どのように約束が成就されるのか全く想像がつきません。正直、その違いを毎日見るのがつらいです。ですから、もっと自分の現実に近い成就を考えました。自分のしもべを跡取りにしていただけたら、もうそれで十分です。神様はもう無理に約束されたことを成就なさる必要はありません。」つまり、自分の恐れを解消するために、アブラムは、神様が用意したご計画よりも、合理的に考えて自分の期待を引き下げて、自分の力で生み出した近道を用意したのです。
しかし、ここで神様が語られることばをよく聞いてください。
すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」 ”(創世記15:4)
神様は、「まずあなたが用意した近道は、わたしが用意した成就とは全く違う。わたしがアブラムとサラの間に子どもを与えると言ったなら、そのようになる。わたしの約束のことばを変えてはいけない!」と、そうアブラムに注意されました。
そして、面白いことに、神様はアブラムが求める反対のことをされます。アブラムは現実と待ち望んでいる希望のギャップを埋めようとしているのですが、神様はそのギャップをさらに大きくされます。
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」(創世記15:5)
様々な試練を通りながら何年も待ち望んでいるのに、子どもは与えられないし、王国も土地さえも得ることのないアブラムとサラにこのようなことを言うのはちょっと意地悪に聞こえますが、神様がおっしゃっているのはこういうことです。「アブラムよ。あなたが待ち望んでいる恵みは、現実的で、合理的な手段で埋め合わせできるものではない。あなたのしもべを通して、それができると思うのか?星の数さえ数えられないのに、なぜ自分の力で私の約束を成し遂げようとするのか。恐れるな。安心しなさい。何もする必要もない。わたしはあなたの盾としてあなたを守り、あなたが待ち望んでいる恵みを全て与えるわたしの約束とあなたの感じている現実のギャップを埋めて、全て現実としよう。」
そして、そのことばを聞いて、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創15:6)のです。この一節には非常に深い意味がありますが、その意味を理解するために、「義と認められる」ということがどういう意味なのか、そして、「主を信じた」ということがどういうことなのかを理解する必要があります。
「義と認められる」ということを理解するためには、その反対のことを考えるともっとわかりやすくなると思います。神様があなたを不義と認められるとは、どういう意味でしょうか?それは、あなたを神様の「裁き」または「呪い」に値する人だと認めるというです。(例えば、神様は、創世記18章のソドムとゴモラの人たちを「不義」と認めて、彼らを裁かれました。)ですから、「義と認める」ことはその反対だと言えます。義と認められる人とは、神様の「祝福」に値する人であると認められることです。しかし、どうすれば「義」と認められるのでしょうか?それは、神様の義を行うことです。
エゼキエル18:5-9: 人が正しい者(義人)であるなら、公正と義を行う。 丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、月のさわりのある女に近寄らず、 だれも虐げず、質物を返し、物をかすめ取らず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に衣服を着せ、 8 利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、 9 わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる──神である主のことば。
ですから、神様の約束を信じた時、アブラムは「義を行う人」、「神様の掟を守る人」と認められ、それゆえに、「神様の祝福」に値する人だと認められたということです。しかし、ここで質問です。今読んだ6節の中で、アブラムは、エゼキエル18章に書いてあるような、何か「義の行い」をしたでしょうか?飢えている者に自分の食物を与えたでしょうか?裸の者に衣服を着せたでしょうか?神様の掟を全うしたでしょうか?そのようなことは、一言も書いてありません。むしろ、アブラムは神様の約束を疑いましたね。
ある人は、「アブラムは神を信じました。それは『義の行い』だから、義人と認められたんです」と捉えたりしますが、それは聖書的な解釈だとは言えません。新約聖書はこのように解釈します。
もしアブラハムが(義の)行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ4:2-5)
新約聖書が言っているのは、アブラムは何の義の「働き」もしなかったということです。むしろ、彼は「不敬虔な者」でした。アブラムは自分の働きによって義と認められたのではなく、「不敬虔な者を義と認める方を信じた」から、神様に義と認められたのです。つまり、アブラムは、自分が義人でなくても、神様の祝福に値する人でなくても、神様が何とかそのギャップを埋めてくださると信じたのです。
そして、不思議なことに、アブラムはわたしたちのように詳細を聞いていませんが、彼が聞いた約束はイエス様の義が与えられるという「福音」なのです(ガラテヤ3:5-8参照)。アブラムも含め、イエス様の義が与えられると「信じる全ての人に与えられ」たのです(ローマ3:22)。ですから、信仰によって生きる私たちは、「信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのでそして、何年も何年も、義を行うことによっては誰も神様の前に義と認められなかったのです。しかし、アブラムの約束の2000年後に神様は、神様の約束と私たちの罪深い現実とのギャップを埋めてくださいました。イエス様を信じることによって、私たちが神様に祝福される存在になるための必要な「義」を与えてくださったのです。(ガラテヤ3:9)
では、私たちの日常にこの箇所をどのように適用したらいいでしょうか?三つのことを覚えていただきたいです。まず、「私たちはアブラムが恐れていたものを恐れていますか?」ということについてです。
この聖書箇所で、信仰生活の中でよくある二つの誤解がわかると思います。よくある誤解は、信仰は神様のみことばを疑わず確信することという考えです。しかし、アブラムの信仰を見ると、恐れと疑いは信仰にはつきものだと言えるでしょう。信仰というのは、「目に見えない」希望を、ちゃんと本質があり、手で触れることができる現実として受け入れることです(ヘブル11:1)。しかし、多くの場合は、私たちが生きている中で、望んでいることと現実のギャップが大きすぎて、私たちの抱いている希望を疑ってしまうときがあります。詩篇の多くは、詩篇22:1-2のような「疑う信仰」から来ています。
わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。 私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。わが神 昼に私はあなたを呼びます。しかし あなたは答えてくださいません。
ですから、信仰を持つ中で、疑いを持つことは自然なことなのです。ここで皆さんにお聞きしたいのは、皆さんはアブラムや、詩篇に書かれているような信仰の経験をしたことがあるでしょうか?もし、経験したことがあるなら、それは神様に対する不信仰ではなく、神様への強い期待と希望から来ていると言えます。逆に、何の疑いもないのなら、神様のみことばにあまり期待していないか、この世の絶望的な現実にまだ気づいていないのかもしれません。
もう一つの誤解は、アブラムの恐れは私たちがよく感じる恐れと勘違いしてしまうということです。アブラムは自分の富を失うことを恐れてはいませんでした。自分の地位、名誉、財産、心地いい生活、家族、いのちを失うことも恐れていませんでした。アブラムが最も恐れていたのは、「神様の恵みを失う」ことでした。私たちはどうでしょうか?人生の中でいろんな恐れがありますが、あなたが最も恐れているものは、自分の「信仰」から来るものでしょうか?それとも、どこか違うところから来るものでしょうか?
次に覚えて頂きたいことは、「自分の恐れを解消するために、自分の行いによって神様の約束を変えようとしていませんかか?」ということです。
アブラムと同じように、神様の約束の成就が見えないとき、私たちの中にいろんな「恐れ」や「疑い」が沸いてきます。そして、私たちは焦ります。「私たちは本当に神様の恵みを頂けるのでしょうか?」と神様に訴え、神様を急かします。そして、私たちは自分たちの行いによって、神様の恵みを頂く近道を作ろうとします。ここで出て来たパターンは ①神様の恵みの約束をより現実的な恵みに引き下げること、または、②自分の力で自分が用意した近道で恵みを獲得することです。私たちにはそのような傾向がないでしょうか?つまり、自分たちの手に届く範囲の恵みを「神様が約束されている恵み」と置き換えてしまうようなことです。
私たちは、アブラムと同じように「世界の相続人」(ローマ4:13)になることが約束され、「永遠のいのち」(マタイ22:32)が与えられるということも約束されています。星の数を数えられないように、このような恵みは私たちの想像を超えるようなものです。それ以下のことは、神様は約束されていませんし、それらの恵みを得るために自分の力で近道を作ることもできません。むしろ、そんなことをしたら、神様の「約束は無効になってしまいます」(ローマ4:14)。ですから、「神様の恵みを失う」という恐れを解消するために自分の力で近道を作れば作るほど、皮肉なことに、神様の恵みを全て失ってしまうことになるのです。
では、私たちは自分が抱いてしまう恐れの中でどうすればいいのでしょうか?最後に覚えていただきたいことは、「恐れるな。イエス様はあなたの盾です。イエス様は、ご自分の義によってあなたを神の祝福に値する人にし、あなたを豊かに恵んでくださいます」ということです。
私たちが恐れる理由は、自分たちが「神様の祝福に値する人」ではない、と心のどこかで思っているからです。ですから、私たちは神様の約束と自分の現実のギャップを埋めるために、自分の良い行いを変に見せびらかして、表面的に自分が義人であることを取り繕おうとするのです。つまり、自分の行いをもって、神様の前や人の前で「私は神様の祝福に値する人だ!」と巧みに誇るのです。しかし、皮肉なことに、プライドの根っこは、恐れと不安なのです。
しかし、不敬虔な人でも、罪人でも、汚れた人でも、みっともない人でも、イエス様の約束のことばを信じるなら、本日の聖書の箇所によると、私たちは義と認められ、「神様の祝福に値する人」として認められるのです。イエス様の義が私たちの盾になり、イエス様の義によって私たちは非常に豊かに恵みを頂くことができるのです。つまり、イエス様が「義人」であられる限り、私たちも「義人」と認められるのです。イエス様が完全で聖いお方である限り、私たちは「しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないもの」(エペソ5:26)として認められ、神様によって豊かに恵まれます。
ですから、アブラムは自分には誇れるような行いはないと認めました。そして、私たちの現実が神様の約束の恵みからほど遠く感じるとしても、イエス様が生きておられる限り、私たちは義と認められ、祝福されると恐れることなく信じることができるのです。ですから、私たちも、恐れることなく、「不敬虔な者を義と認めてくださる」イエス様を信じ、今週も信仰をもって歩んでいきましょう!