2022年8月21日 礼拝 音声有 説教「このことをよく知っておきなさい。」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: in person at our church spaces and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)

礼拝式順 Order of Worship 10:45〜12:00

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇Psalm 105:7~11
さ ん び Opening Praise 「揺るぎない土台 Firm Foundation」
さ ん び Praise 「見上げよう神の御座 Behold Our God」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 307番 「イエスの血に洗われ」
聖書朗読 Scripture Reading 創世記 Genesis 15:7~20
聖書の話 Sermon 「このことをよく知っておきなさい。」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 130番 「ひとりの御子さえ」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

説教 創世記 Genesis 15:7~21 「このことをよく知っておきなさい。」

 

子供たちに聞きたいですが、「指切りげんまん」という歌を聞いたことありますか?歌える人?「♪指きりげんまん 嘘ついたら針千本飲ます 指きった♪」という歌ですよね?どういう時に歌いますか?もしお友達と何かを約束をして、約束が守れるかどうかわからないときに、歌いますよね。なぜ歌ったあとに、私たちはその約束が守られるかどうか信じられるのかな?それは「嘘ついたら針千本飲んでもいい」と約束した人が言ったからですよね。ハリセンボン飲ませたい人や、実際にハリセンボン飲ませた人はいないと思いますが、約束した人が本当に約束を守るかどうかを確かめたいから「指切りげんまん」をするんですよね。子供でも大人でも、日本でもアメリカでも、相手が約束を守るかどうかを確かめたいとき、ある条件で相手を威圧(いあつ)しながら「命を懸けて約束を守りますか?誓うなら信じますよ」と言うことはありますね。子供の冗談でも、正式なビジネスや政治の場面でも、人はいろんな形で「指切りげんまん」を相手に歌わせることがあると思います。

実は、今日の話の中で、神様がアブラムにいろんな恵みを約束されるのですが、なんとそのあとで、アブラムは神様に「指切りげんまん」を歌わせるのです。「なんて無礼なことを!」と思う人もいると思います。実は、アブラムは神様を信じたかったのですが、これまでいろんな大変なことがあったので、不安や恐れをかなり抱いていたのです。ですから、子どもが自分の親に「指切りげんまん」を歌わせるみたいに、神様が「命を懸けて」その約束を守る覚悟をされるのかどうかを、アブラムは確認したかったのです。神様は恵みと愛をもって、アブラムに約束してくださいました。神様は何を約束したか、そして、どのように約束したかを学ぶために、本日の聖書箇所の流れを確認して、覚えていただきたい三つの点を分かち合いたいと思っています。今日の箇所の流れを確認しながら、神様が何を、どのように約束されたのかを三つの点から学びたいと思います。

 

本日の聖書箇所の流れを確認していきましょう。アブラムの話は12章から始まります。創世記12:1-3で、神様がアブラム家に想像を絶するような約束を与えられました。それは、①アブラム家を「王家」にすること、②アブラム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③アブラム家が永遠の安息を得ることができる「約束の地」に住むこと、でした。そして、アブラム家はその約束を信じ、信仰をもってカナンへ向かいました。しかし、約束の地であるカナンに着きはしましたが、彼らの信仰が試されるような厳しい試練が次々と起こりました。それでも、アブラムは神様の恵みの約束を頂いた時から、何度も激しい試練を乗り越えながら、何年間もずっと神様が約束してくださった恵みを待ち望み続けました。

アブラムはいろんな試練を乗り越えながらも、世間的には非常に祝福された存在になりました。そして、たくさんの財産を蓄えることもできました。誰も倒すことができない連合軍を、たった318人で倒すこともできました。神様を信じ、約束の地に住み続けたことによって、自分と自分の家族の命と自由が守られました。しかし、アブラムは、それほど祝福されたにも関わらず、非常に恐れていました。なぜなら神様が約束してくださった三つの恵みが、まだそのみことば通りには与えられていなかったからです。それでアブラムは、現実的な手段を使って神様の恵みを頂けるようにお願いしました。アブラムは神様の約束を疑って、自分の力で変えようとしてみましたが、神様はそれまでと同じように、非現実的な恵みの約束を続けられました。アブラムは疑いと恐れの中でも、また、神様の祝福に値しないようなものであっても、神様の約束を聞き続け、信じ続けました。神様はそんなアブラムを祝福に値する、「義人」であると認められ、必ず恵みを与えると宣言されました。これが前回のお話です。

アブラムは、神様が自分を祝福される存在として認めてくださったのにも関わらず、また、自分で神様の約束を信じ続けると告白したのにも関わらず、今日の箇所を読むと、アブラムがまだ疑いと恐れの中にいることがわかります。神様はアブラムの気持ちをよくご存知で、アブラムを励ますために、ご自分がどういう神であり、今までどういうことをしてきたのかを15:7で思い出させました。日本語では異なりますが、原語か英語で読むと、「わたしはである」が先にきます。そして、太文字で書かれている「」は、神様のお名前「ヤハウェ」を指しています。つまり、神様はこうおっしゃるのです。「今まであなたとともにいる神の名を忘れるな。その神は、この世の限界を超え、人の考えに縛られることのない、あなたの主だ。そして、ウルからカナンまでの道は大変だったであろうが、あなたを約束通りに守ってきた。だから、確信せよ。私はあなたにこの地を絶対に与える」と。

アブラムは、そのように直接、神様の約束を聞きましたが、率直に自分の抱いている疑いと恐れを神様に告白しました。”アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」”(創15:8)

こんなふうに、アブラムが堂々と自分の抱いている疑問を全知全能の神様に言うなんて、非常に不思議だと思いませんか?7節でも、神様ははっきりとアブラムに約束されたのにも関わらず、またしつこく「不安です」と言うなんて、不信仰ではないのかと思います。しかし、16世紀の神学者ジョン・カルヴァンは、これはアブラムが、生きた子どものような信仰を持っていたという証拠だと主張しました。不信仰な人、または、神様の約束に期待できない人は、自分が神様の約束を疑っていることに対して、何とも思ってはいません。アブラムは、自分の中に疑いと恐れがまだ残っていてまだまだ確信できないと気づいたときに、すぐに神様の助けを求めました。アブラムは、「私は何を所有できるのですか?」、「私はいつ所有できるのですか?」、「私はどのようにそれを所有できるのですか?」とは聞きませんでした。「私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」つまり、アブラムは信じていた神様のみことばを確信したかったのです。「疑いと恐れ」は、信仰にはつきものですが、アブラムは、みことばを確信できるような、より強い信仰を求めていたのです。私たちにも同じような願いがあるでしょうか?

そのあと、神様は不思議なことをお命じになりました。

すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。(創15:9–10)

当時の人たちにとって、これは「契約を批准(ひじゅん)する儀式」でした。21世紀にいる私たちには、奇妙でグロテスクな儀式に思えますが、現代のことばに言い換えると、「私が今まで約束したことを公にして、私の印鑑を押します。そして、私が約束を守れなかったら、賠償金をあなたに支払うと約束します」という意味になります。しかし、なぜ動物を真っ二つにする必要があったのでしょうか?それは、約束をしたあとに、その約束をした人が真っ二つにされた動物の間を歩く必要があったからです。エレミヤ34:18に似たような儀式があり、そこには、この儀式の意味が書いてあります。

また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする。(エレミヤ34:18)

つまり、これは「もし、私がこの契約(約束)を破ったら、この真っ二つにされた動物のように、私を切ってもかまいません。それゆえ、私は命を懸けて、この約束を守ります」という意味なのです。「指切りげんまん」の歌の聖書版とも言えますね。

さて、アブラムはこの契約の儀式の準備をしたあとで、「深い眠り」に入り、「大いなる暗闇の恐怖」に襲われました。この「眠り」と「暗闇」が意味しているのは、アブラムが神様から直接「預言」を頂いたことを指しています(使10:10参照)。つまり、神様の約束は、将来、実現されるということです。そして、このような現象が起こりました。

日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。(創15:17–18)

神様は霊なので、私たちは神様を実際に見ることができませんが、聖書をよく読むと、神様はよくご自分のことを「炎」、「煙」、「光」として現されることがありました。ですから、ここで意味しているのは、切り裂かれた動物の間を歩んだのは、神様ご自身であるということです。要するに、アブラムに確信を与えるため、また、アブラムに平安を与えるために、神様が「命を懸けて、あなたに約束した恵みを与える」とおっしゃったのです。通常、家来が自分の主人に誓うものですが、ここでは、主人が自分のしもべに誓っています。全知全能の神様はへりくだって、人間のレベルまでご自身を低くしてくださって、アブラムに「もし、わたしがこの契約(約束)を破ったら、わたしをこの真っ二つにされた動物のように、切り裂いてもよい。わたしは命をかけて、この約束を守る」と、不安でびくびくしているちっぽけなアブラムに誓われたのです。つまり、神様はアブラムに約束の内容を「よく知っておく」(創15:13)ために、このような形で約束してくださったのです。

しかし、神様の約束の内容は、私たちが想像する「理想」の内容ではないかもしれません。その内容は二つのパートに別れています。前半は創世記15:13–16に書いてあります。まず、アブラムとサラに「子孫」が与えられたことは感謝で素晴らしいことでしたが、400年の間、その子孫たちには「約束の地」は与えられず、「王家」ではなく「奴隷」として苦しめられ、アモリ人や他国人が約束の地に住んでいる限り、約束の地には彼らの「王国」を建てることはできないということを、神様は約束されました。その上、アブラムは「幸せな晩年」を過ごすことは出来ますが、アブラム自身が神様の約束の成就を見られないまま、その地に葬られることが約束されました。後に、ステパノは、新約聖書の中で、「ここでは、足の踏み場となる土地さえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。」(使徒7:5)というふうに、まとめています。そして、創世記15:18-21には、約束の宣言がこのように締められています。

「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」(創15:18–21)

ある神学者は、このことばの成就を文字通りに解釈しようとしています。ある意味、文字通りに成就しました。サムエル記では、神様は、他国人をカナンから追い払い、イスラエル王国を建てられました。しかし、長続きはしませんでしたし、厳密に言えば、みことば通りにはまだ成就していません。神様の預言は、「想像を超えた恵み」を私たちにわかりやすく表現するために、いろんな比喩や出来事を用いて究極の成就を表現されます。15:18-21には、アブラムの子孫が、「世界の相続人」を意味していて、世界の様々な民を圧倒し、全世界を治める「神の国」の民としてこの世を楽しむということが書かれています。私たちの想像を超えているので、神様はわかりやすく説明してくださっています。たとえば、もしアブラムが日本人であれば、「あなたの子孫にすべての地を与える。北海道から沖縄まで、すべてを与える。そして、47都道府県の王国を倒し、神であるわたしがすべてをあなたに与える」というふうに言い換えることができます。

要するに、アブラムとアブラムの子孫には、長く、苦しい患難が待っていることが約束されましたが、同時に私たちの想像を超える仕方で、彼らが「王家」になり、大きな「王国」として建てられ、「約束の地」で永遠の安息を楽しむことになると、神様は約束されたのです。そして、神様は「命をかけて」その約束を守るとも宣言されました。もし私がアブラムのように、神様の約束のために自分の故郷から離れて、全ての「安定」と「富」を手放しながら様々な苦難を乗り越えて、そんなことを聞いたら、正直に言いますが、私はショックで悲しむと思います。「神様!ちょっと待って!どうして、もっと前から詳しく説明してくださらなかったんですか!」と訴えると思います。しかし、アブラムは、私と正反対のリアクションでした。アブラムはこの地上の恵みなど求めていませんでした。心地いいクリスチャン生活など求めていませんでした。アブラムは神様のお約束がすぐに成就することなど求めていませんでしたし、自分が生きている間にそれが成就することさえ求めませんでした。ヘブル書には次のように、アブラムの神様の約束の受けとめ方が記録されています。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました…しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(ヘブル11:13, 16)

神様の約束の儀式を見て、アブラムは自分が求めていた「確信」が与えられたのです。約束のものをすぐに手に入れられなくても、目に見えない「はるか遠い」希望を確信して、約束されたものが来るということを現実として喜び迎えることができたのです。

 

この話をどのように現代にいる私たちに適用したらいいのでしょうか?覚えていただきたい適用が三つあります。「あなたは神様の恵みを確実な現実として信じていますか?もしそうでなければ、なぜ、自分の確信のために神様に助けを求めないのですか?

たとえ話にすると、こういうことです。あるお父さんが子どもを保育園に預けます。子どもはとても不安そうな顔をして、「お父さん本当に帰って来るの?指切りげんまんしてくれる?」とお父さんに言います。お父さんとしては嬉しいですよね。保育園のおもちゃを楽しむよりも、お父さんと時間を過ごしたいと思ってくれることは嬉しいことです。しかし、父親としては、子供が不安を抱えながら一日過ごすのもかわいそうなので、子どもを安心させたいと思うのも当然なことです。「もちろん。何があっても絶対に帰ってくるよ」、それを聞いた子どもは微笑んで、お父さんと指切りげんまんします。子どもはお父さんが帰って来ることを確信したいから、お父さんに指切りげんまんを歌わせます。その反対を言うなら、お父さんがいなくなっても子どもが全く不安にならないということは、そもそも、その子にとって、お父さんの存在は小さいものであると言えるかもしれません。また、もし子どもが不安なことがあるのに、お父さんに何も言えないということならば、お父さんを恐れているか、信頼していないということが言えるかもしれません。

アブラムと私たちは同じ立場にいます。「疑問と不安」は信仰にはつきものですが、お父様である神様が戻ってこられること、みことば通りに私たちを恵んでくださることをますます確信したいと思うことは、信仰が生きている証拠です。神様が戻って来られていることを確信できていますか?キリストにあって私たちを神の子にしてくださること、キリストと世界の共同相続人になること、そして、天国で永遠のいのちを楽しむこと、そのことを確信してますか?確信できていないことは悪いことは全くありませんが、自分の不安や恐れをそのままにしておくとさらに大変になります。ですから、ぜひアブラムのように、確信できるように神様の助けを求めてください!

二つ目の適用はこれです。「神様はご自分の子のいのちをかけて、私たちに恵みを約束してくださいました。それ以上に、確信を与えるものがあるでしょうか?

私たちが「神の王家」の一員になり、大きな「王国」として建てられ、「約束の地」で永遠の安息を楽しむことができるとは非常に信じがたいことです。この世の常識から見ると可能性がほぼゼロというものに対して、全く疑わずに、人生を懸けてまで確信することはできないでしょう。私たちはいろんなしるしを求めます。「あなたがおられること、あなたが私を愛していて気にかけていることがわかりません。ですから、〇〇の形で明らかにしてください。」しかし、アブラムに示された儀式よりも、神様はさらに私たちのレベルにまでへりくだってくださり、さらにわかりやすくその契約を確実性を示してくださいました。

十字架に掛けられた前夜、イエス様は

パンを取り、…(パン)を裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

そして、

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:19-20)

つまり、引き裂かれた動物のように、イエス様のお身体は十字架の上で引き裂かれ、血が流されました。イエス様がご自分のいのちを懸けるほどに、御父がご自分の長男のいのちを懸けるほどに、神様ご自身の約束を、私たちのために成就されると宣言されたのです。もちろん、神様は私たちにいろんな形、いろんなしるしで確信を与えてくださることはおできになりますが、これ以上にすごいしるしがあるでしょうか?ですから、もしあなたが不安のためにしるしを求めようとしているなら、ぜひ、三位一体の神様の契約のしるしである十字架を見て確信してください!

最後の適用はこれです。「私たちが神様の約束を確信するとき、私たちは、たとえ苦しい患難のなかにあっても、イエス様喜んで迎えることができる」ということです。

もう一度、お父さんと子どものたとえに戻りますが、子どもがお父さんから離れる時間が長ければ長いほど、子どもには、お父さんを喜んで待ち、迎えるためのより強い確信が必要です。保育園に預ける6-8時間くらいだったら、「指切りげんまん」で済むかもしれませんが、「5年待って」と言われたらその人に対して確信を持ち続けることができるためのしるしが必要です。しかし、私たちはアブラム以上に約束の成就を喜んで迎えることができます。なぜなら、「神様の約束」はすでに成就されたからです。“神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。”(ガラ3:16)つまり、イエス様は「契約のしるし」であるというだけではなく、神様の約束の「成就」であり、すべてを現実にされるお方なのです。さっきのたとえで言うと、実際にお父さんがすでに帰って来たということです。そして、イエス様が天に昇られた理由は、私たちがこれから住む「天国」の最終準備をしているだけです。そういう訳で、私たちの希望ははるか彼方にあるものではありません。アブラムに比べると、私たちはすごく近い現実を待ち望んでいることになるのです。ですから、私たちは、苦しい患難の中にあっても、もうすでに一度来られたイエス様を、もう一度喜んで迎えることができるのです。私たちは、そのイエス様を仰ぎ見ながら、確信をもって喜んで待ち続けることができるようにお祈りしましょう。