2022年9月4日礼拝 音声有 説教「死と向き合うとき」

廣橋嘉信牧師が天に召された後の、海浜幕張めぐみ教会で持たれた最初の公の礼拝です。短いメッセージ(説教)と礼拝後に特別の祈りの時間を持ちました。ビデオ公開は終了しました。

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: in person at our church spaces and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)

礼拝式順

前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
開会の賛美 Opening Praise  教会福音讃美歌158 小羊をばほめたたえよ!
開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。

賛美 Praise  435 道なき砂漠を

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記 Genesis 16:1~15
聖書の話  「死と向き合うとき」        マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise  432 いつくしみ深き

聖晩餐式 Communion   マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式 辞][祈 り][分 餐]
配餐者 青木宏太長老 大場清文長老 那須宗泰長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷        マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教) Sermon

廣橋先生と最後に会話したのは、27 日の土曜日でした。礼拝の準備のために、私は土曜の 15 時ぐらいに 会堂へ行きました。会堂の 2 階では GRACE 編集の方々がミーティングをしていました。そして、廣橋先 生は、夏季休暇中なのに、美穂さんとそのミーティングに参加されていました。わたしは1階で作業して いて、廣橋先生が帰られる前だと思いますが、1 階に来られて、ドンと、ドアを開けて、 「え!ここ暖房入っているの?」「いえ、扇風機をかけています。」 「あ、そうか。」と言いながら、先生はコーヒーマシンのあたりをウロウロされていました。 「先生、夏季休暇中、ゆっくり休めていますか?」
「やることないから、全然休めないね。」 「そうですか。わたしだったら全くやることがないしか、ゆっくり休めないです。」 「えーそうなのー?」 そして、一瞬の間があって、すぐに玄関へ向かわれて、「じゃあ、来週もよろしく」と言って、帰られま した。これがわたしと廣橋先生の最後の会話です。皆さんご存知のように、せっかちな廣橋先生でした。 そして、先生らしく 8 月 30 日にこの教会の牧師として急に引退されました。わたしの勝手な想像です が、せっかちな廣橋先生は、今、神様の御下で喜びをもって神様に忙しく仕えながら、永遠の安息を楽し んでらっしゃると思います。

しかし、愛する廣橋先生が目の前からいなくなってしまうということは、めぐみ教会にとって深く、耐え がたい悲しみでもあります。廣橋先生とともに食事することも、ともに笑うことも、ともに泣くこともも うできないということは非常に寂しいです。廣橋先生が天に召されることは感謝ですが、この会衆の霊的 なお父さんである廣橋先生の「死」と向き合うことは、教会として最も辛い試練だとも言えます。私がこ の説教を書いている間に気づいたのは、わたしが教会にいる短い 2-3 年の間、海浜幕張めぐみ教会の兄弟 姉妹たちは、何回も愛する人の「死」と向き合ってきました。何回も「死」の恐ろしさを何回も経験して きました。

私たちはどのように「死」と向き合うべきでしょうか?皆さんに覚えていただきたいことは、救い主イエ ス・キリストにとっても一人の人の死というものは、深く、耐えがたい悲しみであること、そして、その 救い主が私たちと共にいてくださるということです。先ほどお読みした箇所から、クリスチャンとして、 「死」とどのように向き合うべきかを一緒に考えたいと思います。

「死」と向き合うとき、私たちは「死」が破壊したもの、私たちの失われた愛する人を深く悲しみ、悼み ますが、それは、愛の現れとも言えます。

先ほど読んだ聖書箇所は、ある男性の葬儀の話です。この話は「死」というものがどれほど冷酷で、どれ ほど残酷な破壊者であるかを表しています。この男性はやもめの息子でした。当時の文化では、すべての 奥さんは完全に旦那さんに経済的に頼っていました。ですから、夫を失うことは、当然精神的にものすご いダメージを受けます。それと同時に自分の日常、自分の人生のすべてを失ったも同然となるのです。自 分の家族と息子以外に、やもめには希望がありませんでした。しかし、ここでは、「死」が このやもめ の愛する息子、唯一の希望、そして、自分のいのちのすべてを冷酷に、残酷に破壊したのを見ることがで きます。つまり、このやもめとこの町の人々が深く悲しんでいた理由は、やもめが息子を失ったことと、 「死」が冷酷に、残酷に私たちの愛する「人」、私たちが大切にしている「希望」、私たち自身の「いの ち」を破壊したからです。私たちも廣橋先生を通して、同じように悼み悲しんでいます。

聖書は、愛する者を失う時に、私たちの喪失、私たちの苦しみ、私たちの深い痛みを軽んずることはありません。「死」は愛も憐れみもないものです。「死」は残酷で、醜いものです。私たちがどれほど自分の愛する人、思い出、関係、物を大切にしていたとしても、「死」はそれをすべて破壊します。そして、最も心苦しいことは、私たちは「死」に対して無力であるということです。しかし、もし私たちが悲しまないなら、また、私たちが「死」の恐ろしさを口にしないなら、失ったものの価値と大切さを軽んじることになります。廣橋先生の「死」を深く悲しまないなら、廣橋先生が私たちにとってどれほど大切な存在であったかを表すことができないということです。ですから、私たちは廣橋先生の「死」を無理して美化する必要はないと私は思います。

廣橋先生の死を悲しむことは、罪深いことではありません。弱いことでもありません。恥ずかしいことでもありません。間違っていることでもありません。むしろ、このようなときに悼み悲しむことは、最も人間らしいことです。自分の愛する「人」の死を悲しむことは、神様に造られた人間として、強く、正しい、愛のある、真実に基づいた最も良い行為です。私たちが失った愛する大切な人を深く悲しむことは、愛のあらわれだと言えます。

次に覚えていただきたいことは、私たちは悲しみの最中からも、イエス・キリストを仰ぎ見るということ です。

悲しみと苦しみの最中(さなか)にいるクリスチャンとして最も重要なことは、自分達がどのようにこの 悲しみと苦しみに向き合うかではなく、イエス様こそが私たちの悲しみと苦しみに向き合っておられると いうことを知ることです。この聖書箇所が焦点を充てているのは、なくなった男性でもなく、すべてを失 ったやもめでもありません。イエス・キリストです。
イエス様には、神様の福音を宣べ伝え、世界を救う使命がありました。そして、使命を果たしておられる 中、この町を通られたのです。世界を救う為に福音を宣べ伝える忙しさの中で、イエス様は、すべての働 きをやめられて、やもめと一緒に息子さんの葬儀に参列されました。ただ葬儀を「見た」のではなく、や もめを「深く憐れん」だのです。イエス様は、「もっと強くなれ。前にすすめ」とはおっしゃいませんで した。イエス様は、「ネガティブ指向をやめて、ポジティブに考えなさい」ともおっしゃいませんでし た。イエス様は、やもめの悲しみと失った希望をご覧になり、悲しみ、憐れんでくださいました。なぜで しょうか?イエス・キリストご自身が廣橋先生の神様の似姿に造られた美しい人生が破壊されたことをご 覧になられ、深くあわれみ、深く悲しんで、深く愛しておられるからです。ですから、自分の状況を見る のではなく、イエス様の憐れみに満ちた御顔を仰ぎ見てください。

そして、最後に覚えていただきたいことは、「死」の恐ろしさの前に、実際に何かをなさってくださるイ エス・キリストをあがめましょう。

死の前では、人間は、何もできません。人間はただ悲しみ、共感し、励ましの言葉を発することしかできません。私達は死の前では、無力で、希望を与えることができない存在です。パウロは、「死」を完全に破壊することの出来ない救い主、つまり、復活を与えることができない救い主は全く無意味な存在だといいました。なぜなら、それでは他の人間と全く変わらないからです。しかし、イエス様はそのようなお方ではありません。イエス様はただ口先だけの救い主ではなく、実際に希望を与え、実際に救いを成し遂げられたお方です。イエス様がおっしゃった「泣かなくてもよい」という意味は、「あなたにはもう泣く理由がありません。わたしが破壊者である「死」を完全に破壊するからです」ということなのです。

本日の箇所のイメージはこう言うことです。やもめと町の人々は悲しみながら、棺(ひつぎ)を担いで町 を通っていました。この葬列は、「死」の破壊を表しています。目の前にあるものすべてを破壊する津波 のように、この葬列(そうれつ)は町を悲しみと苦しみで覆っていきました。しかし、イエス様がこの葬 列の前に、立たれます。そして、棺(ひつぎ)に一度だけ触れられ、たった一言で、この男の人を復活さ せ、このやもめの希望も復活させ、二人に実際に「いのち」をお与えになったのです。イエス様はやもめ に、どのような人生を送ってきたのか、どれほど信仰深かったか、どれほど聖かったかとは聞かれません でした。ただ、イエス様は憐れみ、彼女を救ってくださったのです。

そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。」このように、イエス様の救いがシンプルに書き記されています。そして、これを見て町の人々は、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神様をあがめました。

ですから、今は、悲しむ時でもありますが、イエス様が廣橋先生を憐れんでくださり、実際に復活と永遠 のいのちをお与えになられたことを覚えて 私たちは「神がご自分の民を顧みてくださった」と言いなが ら、苦しみと悲しみの中で神様をあがめるときでもあります。イエス様もこの箇所と同じように、この世 界が「死の波」に覆われ、死と苦しみと悲しみに包まれる中で、たった一言で、廣橋先生を復活させ、私 たちが待ち望んでいる希望を実際に与えてくださり、永遠のいのちも与えてくださるのです。そして、忘 れてはいけないのは、イエス様はその若者だけを救ったのではなく、悲しんでいる母親とその町も救われ たということです。ですから、イエスさまが廣橋先生を天の御父に返されたことは、先生の家族として、 わたしたちにも「いのち」が与えられるということなのです。ご自分の民を顧みてくださる、蘇りの主で あられるイエス・キリストをあがめ、褒めたたえ、お祈りしましょう。