2022年9月11日 礼拝 音声有 説教「葡萄園の労務者」

*会堂で礼拝を持ち、ZOOMで様子をライブ配信。This service: in person at our church spaces and shared via ZOOM.

(For those interested in an English summary of the sermon, please contact us.)

礼拝式順 Order of Worship 10:45〜12:00

 

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ペテロの手紙第一 I Peter 1:3~5
さ ん び Opening Praise 「希望の歌」
さ ん び Praise 「御手の中で In His Time」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 聖歌 485番 「迷える時光を」
聖書朗読 Scripture Reading マタイの福音書 Matthew 20:1~16
聖書の話 Sermon 「葡萄園の労務者」

廣橋嘉信牧師(百瀬伝道師代読)

賛   美 Hymn of Response 聖歌 498番 「歌いつつ歩まん」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

説教 「葡萄園の労務者」

 

序文) 今朝のたとえ話は、すぐ前の、マタイの福音書19章27節~30節の続きです。

「そのとき、ペテロはイエスに言った。『ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。』 そこでイエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。』

今朝の箇所と、結びの言葉が同じになっています。マタイ20:16「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」 これは、19章の意味を正しく理解させるために主イエス様が念を入れてたとえ話をしてくださったのでした。この文脈で聖句を理解しましょう。細かなところに意味を見つけるのではなく、大意を把握しましょう。

 

Ⅰ たとえ話の説明

1 全体の理解のために

『家の主人』は、明らかに聖書の神様のことです。『監督』は主イエス・キリスト様のことです。『労働者』は神の国の働き人です。『ぶどう園』は教会のことを指します。イエス様の時代の教会はイスラエルを指しています。『労働者』は朝早くから雇われた人々で「彼は労働者たちと一日一デナリの約束をし」ました。9時ごろ雇われた人々、12 時ごろ・3時ごろ雇われた人々には「相当の賃金を払うから。」5時ごろの人々には「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」賃金の約束はありません。このように、それぞれに違うことばで仕事に遣わされました。

支払いの段階になって、一番後の人々から支払いが始まり、最後に一番早い人々にとおよびました。そして、全員の賃金は一デナリでした。当時の一日の労賃でした。ローマの貨幣単位です。当時イスラエルはローマの属国になっていましたので、一般にローマの貨幣が用いられていたのです。

 

2 問題発生

全員真面目に働いたと思います。「一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たち」と初めに来た人々は言っています。朝早く最初から働いた人々です。彼らは支払いを受ける段階になって、まず5時から働いた人々が一デナリをもらったのを見て、自分たちはもっと多くもらえるだろうと思いました。当然そう思っても仕方がないですね。しかし、実際は同じ一デナリだった事柄を知って問題が発生しました。

より多く働いたのだからより多くの報酬をもらえるはずだ。一日の終わり頃に来て働いた者たちと、同じ賃金とはなんですか。彼らは、自分たちより他の人々が良い目に合うことを受け入れることができませんでした。彼らは嫉妬心(そねみ・ねたみの心)で満ちていました。

人間的に見れば、私たちも、最初からの人たちに同情するでしょう。それは同じように扱われないことは不公平だという思いがあるからです。最初の人と最後の人では違いがあって当然、そうでないと不公平で、それは不当である。しかし私たちがそう思うのは、神様の寛大さを忘れているからです。

 

3 主人は答えます。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』

 

ねたみの故に最初の人々はイエス様から非難されているのです。主人の寛大さは悪ではありません。むしろ最初から働いた労働者の妬みが悪だったのです。

 

Ⅱ 主人の答えは二つあります。

1 第一は、最初からの労働者には「一日一デナリの約束をし」ました。その通り支払ったので不正はありません。約束通りです。

 

2 第二は、後の人々にどれだけ支払うかは、主人の心次第で、気前よく、主人のあわれみと恵みによっているのです。「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。」

 

3 働き人に対する神の報酬は、自分と他の人とを比べて、もらう方が云々することではない。皆、最低、同じだけの一日分をいただいている。主人に絶対主権があり、その通り主権を発揮なさった。また溢れる恵みに満ちた扱いをしてくださっていることに感謝しましょう。

 

Ⅲ 「後の者が先になり、先の者が後になります。」

『後の者』は、人生の後になってクリスチャンになり、主に仕えるようになった聖徒たちで、報いは少しだろうと思っている人たちのこと。『先の者』は、人生の早くから信仰をもって主に長く仕えてきた聖徒たちで、多く期待している者たち。

 

このたとえ話は、ペテロを代表する弟子たちに何よりも直接語られているのです。ペテロがイエス様に問いました。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」これに対する答えの一つになっているのです。

後から信仰に召され、人生の残り、わずかしか主に仕えられない聖徒たちへの深い慰めがあります。

私たちが知っている、人生の最後に告白によって主に仕えたのは、聖書に出てくる十字架の強盗ですね。ルカ23:40-41 十字架の上で、心変わりしたもう一人の強盗は仲間に言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」

彼は悔い改めた者として偽りない言葉で語っています。事実をありのままで受け止めています。何事も飾らず、弁解もしません。ぎりぎりのところで自分の生まれ育った環境に理由を見つけたりしません。自分の弱さ、貧しさ、悪い仲間たち、他の何者にも咎めをかぶせようとしません。そうではなくて、自分自身が、この刑罰に価するのだと認めました。私は神様と人に対して罪を犯したのだと。「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける」箴言28:13。

人生ぎりぎりのところに立たされている人間への、神様の治療方法は「告白」にあるのです。自分の罪をかくす者はみじめであり、敗北しており、壊滅しています。しかし、主イエス様に告白する者は、あわれみを受け、深い赦しを経験し、解放されます。自分の真相に気づいた者は悔い改めます。次に祈るのです。

「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

彼は祈りました。簡単な祈りです。しかし大胆です。「イエス様、御国においても、私・盗賊で紛れもない自分のやったことを受け入れて刑についている者を思い出してください。」素直になって、「イエス様は王位に着かれる方である。十字架上で死ぬような方ではない。自分を十字架に付けた者たちのために赦しを祈るようなお方がいただろうか。本当にこの方は救い主なのだ。だから、自分を思い出すぐらいはしてくださるだろう。王座に着かれてやがては再びお出でになる時があるだろう。」

 

歴史的に十字架の出来事の真っ最中に、イエス様を救い主として信じたのは、この男だけだったのです。私たちが信じた時の状況とは全く違う信じがたい中で信じたのです。私たちは、十字架の後で何が起ったかを知っています。葬りと復活の事実を知っています。多くの人々が信じて救われ、教会が生まれ、2000年以上も続いていることを知っています。神様の知恵と力とよみがえりのいのちの事実を知っています。そして信じたのです。しかし彼は違います。私たちはこれだけ真実な情報を得ていながら信じるために躊躇しています。くもの巣のような自己弁護と自己欺瞞に囲まれて、罪の絆を断ち切ることができないでいるのです。自分の宗教的無関心や、罪の仲間との絆を切れないでいるのです。心からの悔い改めをしたくないのです。

 

ルカ23:43 「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」彼の祈りは「御国に入られるとき」でした。イエス様のお答えは「今日」です。皆様にとって、「今日」はあるでしょうか。ずーっと未来ですか。あるいは明日ですか?

『パラダイス』そこはイエス様がいるところです。御国のことです。神の御住まいのことです。死後直ちにイエス様がおられるところに、彼も一緒にいるというのです。イエス様がおられるところに共にいることほど確かで安心で平和なことはありません。

主イエス様を信じる者たちが、死後直ちにいるところ、そこはイエスがおられるところで、パラダイスです。

彼は主に奉仕することはありませんでした。しかし彼の信仰告白は十字架の主イエス様にとって深い慰めの告白という奉仕でした。さらに彼の告白は、救いの賜物をいただくのに、人生遅すぎるということはないことを示します。しかし、あなたにとっては「今日が救いの日」です。聖徒は全員信じた瞬間から「永遠のいのち」をいただきます。天に召されるまで仕えます。そして、召されるとパラダイスで主とともに住みます。主に仕えるのに遅すぎるということはありません。今から、御国のために福音に仕え、教会に仕えることができます。

 

もう一人の例は、キリストの教会を迫害していた、使徒パウロです。彼の言葉を味わいましょう。

コリント第一15:8-10 「そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」

 

結び)「何をいただけますか」とのペテロの問いに、主イエス様が『葡萄園の労働者』のたとえで答えられました。全世界の全て主イエス様を救い主と信じる者たちは、皆、同じ永遠のいのちをいただきます。それは、神の計り知れない恵み深さによるのです。それ故に、私たちは、まことの感謝と謙遜をもって喜んで仕え続けましょう。