2022年9月25日礼拝 音声有 説教「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇 Psalm 16:11
さ ん び Opening Praise 「喜びの声上げて」
さ ん び Praise 詩篇73:21-24(教会福音讃美歌194)
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌14番「とうとき主のみ救いよ」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書 John 14:1~7
聖書の話 Sermon 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」百瀬ジョザイア伝道師
賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌299番 (1~4節)

「子羊なる主の招きにこたえて」

献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

 

皆様にとって、最高の居場所はどこですか。だれと過ごす時間ですか。それは友人との時間ですか。家族と過ごすお正月やクリスマスの実家ですか。あるいは、そういう居場所を経験できていないと感じますか。実家や居場所のようなところを見つけられず、寂しい憧れの「ホームシック」な日々を過ごしていますか。だれと一緒に居て、どこに居て、それがいつまで続くか、私たちは居場所にそういうことを問うと思います。どんなに素敵な場所に居ても、敵とずっと一緒なら楽しくありません。好きな人と、たった1日だけ一緒にいても、切ないです。また、場所がもし汚かったら残念です。あなたが憧れる最高の居場所はどこですか。

今日の箇所でイエス様が最高の居場所を用意しますと教えてくださいました。そしてそこへ行く方法も教えてくださいました。私たちが信じて、待ち望むためにこのみことばが与えられました。まずヨハネの福音書13章の文脈と14章の初めを確認してから、イエス様がご自分について語られることについて見てみましょう。最後に、私たちが最高の居場所、天国へどのように向かえばよいか分かち合います。

ヨハネの福音書13章がこのように始まります。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」イエス様が父のみもとに行くと言うのは、死ぬことと、復活の後、天に昇られることの両方を意味すると考えても良いです。13章から17章まで、イエス様が使徒たちと親密な教えと祈りの時を持たれます。主イエス様が「この世を去って父のみもとに行く」ため、これは遺言のように、イエス様にとって一番大事なことが伺える箇所です。三位一体、キリスト者が愛し合うこと、聖霊様の助けなどをここからたくさん学べます。

弟子たちはイエス様がどこへ行くのかをまだ理解できていませんでした。また、知っていれば、自分たちもすぐに行けると勘違いしました。例えば、13章36~37節では、

シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」

使徒たちの中で代表者のようなペテロは自信満々で、どこでもイエス様に従いますと主張して、一緒にいようと言います。イエス様が「いいえ、それは今できませんよ」とおっしゃいます。その上、ペテロが一緒に来る資格もない、裏切り者になるとも、38節で忠告してくださいます。そこで「一緒に行けません」と言われた11人の使徒たちはようやく、イエス様がもう離れていくと分かり始めて、不安になったと想像できます。大好きなイエス様がどこへ行くのだろうか、と思ったでしょう。

しかし、14章の1~4節でイエス様が励ましを与えます。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」(1〜2節)イエス様が行くところは、「父の家」、要するに神様がおられる天国です。

父なる神の「みもと」(1節)は最高の「家」です。皆さんにとって理想の「居場所」「実家」(home)があるか、すでにお尋ねしました。だれでも憧れて、目指そうとするのではないでしょうか。イエス様が指してお話しなさった場所は、思い描く理想の家庭、楽しい仲間、寛げる実家や楽しい隠れ家などを遥かに超越したところです。なぜなら、最高の父なる神がそこにおられるからです。

しかも、それはイエス様が独り占めする実家ではなく、他の人が住める「住む所」が多くあるところなのです。イエス様は喜んで、天におられる父の家を全ての弟子のために整えたいと3節でおっしゃいました。「行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」この約束を聞いて、ワクワクしませんか。最高の存在、究極の愛ときよさと力のお方が、完全なお父様として私たちに永遠の実家、居場所を下さいます。イエス様がそれを用意してくださっていて、その弟子たち(クリスチャン)をそこへ連れてくださいます。

しかし、問題があります。私たちは神様のみもとから家出した、あるいは寄留する外国人のような者です。完全な家庭、完全な実家を拒み、自分の居場所を作ろうとしがちです。どんなに理想的な居場所があっても、神様から離れていれば私たちは失われた者(lost )です。今の生活でも、小さな意味で私たちはこれを経験するかもしれません。私は安定したクリスチャンホームで育ちましたが、人間関係においても場所にしてもパラダイスではありませんでした。兄弟関係、親子関係の課題がありました。大好きだった、家周りの里山の環境がどんどん切り開かれていく悲しさも、好きな家からまた引っ越す喪失感もありました。

遥かにもっと悲しいことに、私たち人間はまことの神様と永遠の、滅びない愛の中の関係と居場所を楽しむために創造されましたが、先祖アダムと私たち自身、そして全人類の反抗によって、苦しみと喪失感が人生に付き物です。最高の親なる神様に対して私たちが最大の親不孝を犯して、最高の憧れの居場所から遠く離れます。

そして私たちが自分の知恵で神様にたどり着こうとすれば、必ず誤ってしまいます。まことの神がおられると知りながら、神様からのことばでなく自分勝手な考えで歩んできた人類は八百万の神、無神論、涅槃、アッラーなどを考え出してきました。それぞれにはよい考察や考えがあるかもしれませんが、結局、まことの神様への道でなく歪みであり偶像です(ローマ1:20-25参照)。そしてクリスチャンでさえも、自分の生き方という「道」、聖書知識や知恵という「真理」、熱心という「いのち」で何とかしようとする罠にかかってしまうことがあり得ます。だから、私たちは天の「実家」にたどり着くために本当の道、真実な道案内、また、神様との新たで生きた関係を必要とします。私たちには、本当の道、真理、いのちが必要です。

ですから、イエス様のことばがどんなに素晴らしいことばでしょうか。イエス様はヨハネ14章4節で使徒たちが天の家への道を知っていると伝えたら、トマスが率直に「私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と聞きます(5節)。それでイエス様が答えます。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(6~7節)

5節と7節の文脈からすると、「道」が強調されていると思いますが、真理もいのちも不可欠なものです。そして、イエスがその全てです。

「道」なるイエス様が私たちを父なる神様のみもとへ、私たちの天の実家への唯一の道です。比喩(ひゆ)として、思い描きやすいです。10章の「門」のように、道は行きたいところへ行き着くためのものです。そして、向かうべき方向をも示す導きも与えます。ですから、旧約聖書の詩篇86篇11節の作者は真理と道を関連付けて祈りました。

よ あなたの道を私に教えてください。      私はあなたの真理のうちを歩みます。

私の心を一つにしてください。         御名を恐れるように。

イエス様ご自身が「道」です。彼が道を指し示す看板でなく、道そのものです。天のお父様のおられる場所へ行くには、イエス様こそが道です。

イエス様は道として、「真理」でもあられます。もし神様と愛の関係を持ちたいなら、どの神様かということをも知るべきです(ヨハネ4:22~24参照)。もし友人同士や夫婦同士がお互いの名前、趣味、希望、恐れ、好き嫌い、感心あることなどを知らなかったら、本当に親しいと言えるでしょうか。言えませんね。「神学」は無用で冷たい学問ではないはずです。むしろ、神様について真理を知ってこそ、愛する理由を知り、交わりを楽しむことができます。そして、私たちが神様とその素晴らしい栄光を知りたければ、イエス様という真理によってこそ、親しみを持って知り得ます。イエス様がヨハネ14章7節で言われること、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります」をヨハネが1章18節で言い換えます。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」つまり、神様を見ることができなくても、キリストを見れば、神を知ることができます。他のところで真理を求めるのは空虚です。

残念ながら、この世の考え方はローマ帝国の総督ピラトの態度に似ているかもしれません。裁判で真理なるイエス様に出会ったピラトが皮肉っぽく答えました。「真理とは何なのか。」(ヨハネ18:38)人間が自分で客観的な真理と現実を追求できると思っていた近代時代が徐々に、真理は客観的にないと諦め、主観的に、自分で自分のための真理を選べると思っているポストモダン的な現代になりました。また、日本では、周りの人・世間の考えで「真理」が決まる同調圧力も「抽象的な教理より今の利益」、実用主義の考え方も物凄い影響力があります。これらの視点はまことの神様に行き着かないために、悪魔がよく用いると思います。しかし、一つの真理、現実があります。被造物と全宇宙が、真理そのものである神様を中心にして存在しています(コロサイ1:16~17参照)。神様が聖書で定義なさることはその通りに真実です。人間がどんなに哲学をして、自然界の研究を進めて、数学や美学で革命を起こしても、その価値は、イエス様ご自身が示された真理との関係によって決まっています。

最後にイエス様は「いのち」でもありますが、前回、ヨハネの福音書11章25節でもイエス様がこの比喩を用いられました。神様が自らいのちであり、自らいのちをお持ちです。「父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです」とイエス様がヨハネ5章26節で説かれました。さらに、17章3節でイエス様は永遠のいのちをこのように定義してくださいます。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」以前にもご説明したことがありますが、ここで言う「知る」は親しく知ることを意味します。イエス様に信頼して従うことはまことの神様と、永遠に続く、生きた交わりを楽しむことです。だからこそ、天の実家は一週間のバケーション先ではなく、終わらないいのちを持って永遠に楽しむ場所です。

旧約聖書では「いのちの道」もよく出て来ます。ダビデ王はこのようにその期待を神様に祈りました(詩篇16:11)。

あなたは私に  いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びが あなたの御前にあり

楽しみが あなたの右にとこしえにあります。

今日の箇所から、イエス様がそのいのちでも道でもあることが分かります。そして、イエス様は、使徒たちもイエスを「知っている」からこそ、いつか一緒にいることができると伝えてくださいます。「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。」(6~7節)父なる神様を知り、永遠にともに生きる特権はイエス様を通してでなければ受けられません。

残念ながら、私たち人間は多くの場合、理想の場所、あるいは、神様のみもとへ、自分の何かによって近づこうとしてしまいます。クリスチャンホームの履歴、自分また家族の道徳の良さ、聖書の知識、神学、献金を通して認めてもらい、天国に入ろうとするかもしれません。あるいは逆に、イエス様抜きのありのままの自分だけでいいかのように、神様の寛大さを軽くみて自由奔放に歩んでしまうかもしれません。クリスチャンはもちろん、そうは言わないでしょう。しかし、結局そうであるかのように考えて、生きていることはないでしょうか。たとえ、天国へはイエス様が入れさせると信じても、今神様の祝福を得るには自分の努力が鍵だと思ってしまうかもしれません。しかし、生き方や聖書理解が多少正解であっても、完全ではありません。欠けていて、神様から気をそらせてしまう煙幕になりやすいものです。

ここまで、イエス様のことばを見てみましたが、それでは、私たちはどうしましょうか。イエス様のことばは厳格(一つの道のみ)ですが、恵み豊かな唯一の「道」を示します。イエス様のみを通して、神様に近づき、真理を知り、永遠のいのちを受ける道です。

私が大きな特許事務所に勤めていた間、名刺を持っていました。そしてお客様に電話を掛ける際、最初に何をしたと思いますか。「某特許事務所の百瀬と申します」と言いました。「百瀬ジョザイアです」とは言いませんでした。なぜかお分かりですね。自分の名前だけを言ったならば、「だれ?」と言われておしまいです。しかし、某特許事務所の所長や業績への信頼があり、「百瀬ジョザイア」がそれに所属するなら、話ができました。もしもっと恵まれたら、例えば相手企業の代表取締役の信頼される息子と私が友人だったら、さらに楽に関係を持てたと想像もできます。クリスチャンはキリストのお名前によって祈り、イエス・キリストを通して神様に近づきます。自分の名だけではどうにもなりません。むしろ、そうすれば、神様は、「あなたは自分の名だけの名刺で入ろうとしますか。いいえ、あなたの名前の上に堕落したアダムの名前が書いてあります。いけません」とおっしゃるでしょう。

ところが、私たちが死から離れる唯一の道、真理、いのちはイエス様です。なぜなら、イエス様は天への上りの道を通られる前に、死への道を下ってくださいました。エルサレムの外壁の外へ、処刑場の丘を辿りました。イエスはいのちを与えるために、いのちを奪われました。真理である故に、ピラトに拒まれ、イスラエルの民に拒まれました。道を開くために、死を通られました。ヘブル人への手紙10章20節「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」それから、道を開かれたイエス様が、天に昇られ、父なる神様と栄光をともに持ち、愛されている神の子イエスの名で名乗って近づこうとする私たちの弁護をして、永遠のいのちに導いてくださいます。そして、居場所を用意してくださっています。これは現実ですが、私たちが目で見て体験するのでなく、信仰によって楽しみにします。その現実が完成され、イエス様が再臨なさるとき、私たちは完璧なからだと清くされた霊において、本当に最高の実家で神様に、「ただいま」と言えます。今も、同じイエス・キリストの御名が書かれた「名刺」を持って、祈って、父のみもとに出ることが歓迎されています!

最後に質問したいと思います。あなたは神様に近づくために、イエス様に信頼していますか。聖書が示すように、真理といのちなるイエス様により頼みながら、天の実家に入ることを楽しみにして備えていますか。「神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。…わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」神様がおられる永遠の実家を求めて、楽しみにしましょう。