礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌 254番 「主イエスの恵みと御栄とを」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
賛美 Praise 教会福音讃美歌435番「道なき砂漠を」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記 Genesis 16:1~16
聖書の話 「私を見てくださる神」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Praise 教会福音讃美歌432番「いつくしみ深き」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式 辞][祈 り][分 餐]
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
説教 「私を見てくださる神」
子供たちに聞きたいですが、兄弟喧嘩したことありますか?わたしは弟と何回もしました。これは本当にあったことではありませんが、今日の話をわかりやすくするために、ちょっと想像してみてください。男同士のあるあるの兄弟喧嘩です。お兄ちゃんと弟くんがいます。弟くんがお兄ちゃんが嫌がることをして、お兄ちゃんも弟くんをイライラさせるようなことをします。そのお返しとして、弟くんがお兄ちゃんのことを蹴ります。そして、泣きそうになりながらお兄ちゃんも怒って、倍以上の力で弟くんを蹴ってきます。当然、弟が大泣きして、お母さんが来て、「どうしたの?何をしたの?」と聞いてきます。お兄ちゃんと弟くんは、お母さんが見ていなかったと思ったので、「お兄ちゃんが僕の邪魔をして、僕を蹴ったんだよ!お母さん、どうして止めてくれなかったの!」と泣きながらいろいろ言い訳をします。しかし、お母さんが「わたしは全部みてたよ。二人とも相手が嫌がることしてたこと。二人ともお互いを蹴り合ってたこと。だから、お互い謝りなさい!」と言います。そして、兄弟はハッとします。どっちがどっちを蹴ったかなんて、どうでもよくて、「お母さんはどこかに監視カメラを置いているのかな?!」と驚くのです。そして、そのあとで二人の兄弟は泣きながらお互いに謝って、「痛かったよ~」とお母さんに甘えます。今日の聖書の話は、この兄弟げんかのようなお話です。
登場人物は3人です。アブラム、サライ、ハガル。3人にいろいろ大変なことがありますが、3人で喧嘩になって、お互いに痛い目に合って、いろんな言い訳して相手のせいにしようとします。しかも、すべてを神様のせいにもするのです。「何で私たちをこんなひどい目に合わせるの!」と。しかし、神様が現れて、「私はすべてを見ていた。私はすべてを聞いていた。一人一人が受けた傷、一人一人が与えた傷。全部知っているよ。」とおっしゃいます。その結果、アブラム、サライ、ハガルの3人は神様に「ごめんなさい」と言って、仲直りしたというお話です。こどもの信仰問答にはこう書いてあります。「Q.11. あなたは神様を見ることができますか。いいえ、見ることはできません。しかし、神様が私をいつも見ています。」わたしたちが神様を見えなくても、そばにいると感じられなくても、神様は私たちをいつも見て下っています。私たちがどんなにひどい傷を受けても、私たちがどんなにひどい傷を他の人に与えたとしても、神様は私たちとともにおられ、私たちを見守ってくださるのです。では、本日の聖書箇所を確認しながら、三つの適用について見ていきましょう。
アブラムの話は12章から始まります。創世記12:1-3で、神様がアブラム家に想像を絶するような約束を与えられました。それは、①アブラム家を「王家」にすること、②アブラム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③アブラム家が永遠の安息を得ることができる「約束の地」に住むこと、でした。そして、アブラム家はその約束を信じ、信仰をもってカナンへ向かいました。しかし、約束の地であるカナンに着きはしましたが、彼らの信仰が試されるような厳しい試練が次々と起こりました。それでも、アブラムは神様の恵みの約束を頂いた時から、何度も激しい試練を乗り越えながら、何年間もずっと神様が約束してくださった恵みを待ち望み続けました。
前回のお話では、アブラムが神様の約束を信じている中でいろんな疑いや悩みを抱いていることがわかりました。不安の中で、15:2-3で神様に一つの提案をします。アブラムとサライの間に子供が与えられなければ何も始まらないので、自分の子ではなく、自分のしもべを通して跡取りをもうけ、神様の約束の成就を早めようとしたのです。しかし、アブラムに確信を持たせるように、神様はある儀式を行われました。神様は約束の内容をアブラムに語られた後、切り裂かれた動物の間を歩まれました。その意味は、私がもしこの約束を破ったら、切り裂かれた動物のように自分を切り裂いてもいい、つまり、御自分のいのちをかけてでも、アブラムに与えた約束を絶対に守るということを神様ご自身が宣言され、アブラムに確信を与えられたのです。
しかし、その力強い宣言の後、どのぐらい時間が過ぎたかのかわかりませんが、創世記16章はこのようにはじまります。「アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。」(16:1)アブラムとサライは、結婚したときから何十年も子供を祈り求めてきました。そして、アブラムは75歳の時から、神様が与えて下さった約束の通りに子供が与えられるのを10年間も待っていました。古代では、受け継ぐ長子がいないと言うことは、21世紀の現代よりも社会的に致命的なことでした。アブラムがどんなに成功したとしても、自分の功績はすべて水の泡になってしまうという考え方でした。また、、古代には、女性に対して「キャリア・ウーマン」という発想もありませんでしたから、当時の女性の唯一の存在意義は、夫に、家族に、子供(特に男の子)を産むことでした。それ以上に、サライにとって最も辛かったのは、神様の恵の約束のすべてが、サライが身ごもるか否かにかかっていたと言う事でした。ものすごいプレッシャーだったと思います。そして、日々、アブラムが不安そうに悩んでいる顔を見る度に、「これは私が子供を産めないからだ。すべてが私のせいだ。」とサライは何十年間も思い続けていたかもしれません。
そのようなプレッシャーを10年間も抱えながら、サライはその重荷を下ろしたいという思いで、自分のエジプト人の女奴隷ハガルをアブラムに妻として与えることを提案しました。この提案は、当時の古代の文化では、よくあることでした。一夫多妻という制度は、跡取りを確保するために作られた制度なのですが、もし最初の妻が身ごもることができなくて、第2の妻に息子が与えられるのであれば、第2の妻に権力が移ってしますということにもなります。ですから、身ごもることができない最初の妻が自分の女奴隷を夫に差し出し、女奴隷が身ごもったら、その女奴隷と与えられた子供は、まだ最初の妻の下にいるので家族の中の権力を保つことができるのです。そして、もし、女奴隷に子供が与えられたら、その女奴隷は「妻」という立場にもなるので、どちらにとってもWin-Winになるのです。要するに、このやり方は、自分にとって都合の悪い状況を自分のコントロールの下に置き、自分の努力と巧妙な計画によって祝福をひねりだすような手段なのです。「エジプト人のハガル」と何回も強調されているのは、この手段が「人間的」なやり方であることを示唆しているからです。
これは神様が望んでおられることではありません。そして、アブラムとサライももちろんわかっていました。なぜなら、アブラムは15章で合理的な手段で跡取りを作ることを神様に提案して、神様にはっきりと却下されています。それなのにアブラムはなぜ、神様の御心に反することをしたのか?サライの一言ですべてがわかります。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。」(2節)つまり、「夫よ。わたしたちが幸せになれないのは、私たちのせいではないでしょう。神様ご自身が私たちを苦しめて、私たちへの恵みを差し止めておられるからだと思います。ですから、自分たちの手で取りに行かなければ、何にも起こらないでしょう。」そして、アブラムは、神様の御声よりも、サライの声を聞き入れて従ったのです。皆さんはもうすでにお気づきかもしれませんが、注解者たちは、アブラムとサライのやりとりは、善悪の知識の木の実を食べる前のアダムとエバの様子に非常に似ていると指摘しています。つまり、サライはエバと同じように、自分たちが望んでいる恵を神様が差し止めておられる、と勝手に言い訳にして、神様に逆らったということです。
さて、サライの計画通りにハガルとアブラムに子供が与えられたのですが、人間が作った計画にはいつも限界があります。ハガルは、「自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった」(16:4)のです。つまり、ハガルは、サライのおかげで裕福なアブラムの妻になれることを忘れ、サライを見下すようになったのです。実は、当時の法律(ハンムラビ法典、ウル・ナンム法)に「身ごもった女奴隷が女主人を見下し、呪うことを禁ずる」と言うようなルールがあったほど、女主人たちは頻繁にこのような問題にぶつかっていたのです。それだけではなく、「軽く見るようになる」の原語は、「呪うようになった」(12:2参照)とも読めるのです。それ以上に、ハガルはサライのことを神様に祝福された、選ばれた「神の民」としてではなく、呪われた存在として見ていたのです。
サライは、ハガルによるそのような反抗を受けて、「私に対するこの横暴(おうぼう)なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。」(5節)とアブラムに責任転嫁をします。本当は、家長(かちょう)として妻に逆らう奴隷に適切な罰を与えなければならなかったのですが、「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」(6節)と臆病なアブラムは責任放棄をしてしまいました。アダムとエバと同じ様ですね。そのあと、サライがハガルを「苦しめた」(6節)と書いてありますが、それは「恥をかかせる」、「圧迫する」、「虐待する」という意味です。この言葉は、エジプト人がイスラエル人を400年も奴隷として、恥をかかせ、圧迫し、暴力をふるって、「苦しませた」(エジプト1:11、申命26:6参照)と同じ言葉です。ですから、サライはハガルの罪の被害者ではありましたが、同時に自分の立場を利用し、「義」という名の下で、適切な罰よりもはるかに大きい復讐で、ハガルを苦しめたのです。神様の目から見ると、これもとんでもない「虐待」の罪でもあります(出エジ22:21-24参照)。ですから、自分の身を守るために、ハガルが逃げ出すのは当然なことでした。しかし、彼女はどこへ逃げたのでしょうか?残念ながら神様には戻りませんでした。「シュルへの道」に沿って、エジプトへ戻ろうとしました。つまり、神様の恵み、神様の力強さを、アブラム夫妻とともに見たのにもかからわず、潤っている、輝かしい偶像崇拝をするエジプトへ戻ろうとしたのです。これらの出来事を見ると、ハガルも含めアブラム家が急激に堕落していくのがわかります。
しかし、そのような中でも、神様は憐れんでくださいました。「主の使い」が荒野にある泉のほとりのそばにいるハガルを見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と彼女に問いかけます。いきなり見知らぬ人から話しかけられたことにハガルは驚いたと思いますが、ハガルは、状況をあまり説明せず遠回しに答えます。しかし、状況を知っていた主の使いは、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と言いました。その言葉は、神様が「虐待者の元に戻りなさい」とお命じなられたようにと思われますが、そのあとの主の使いの説明をよく読むと、三つの理由がわかります。
一つ目の理由は、神様は彼女を裁かれるのではなく、彼女を祝福されたかったと言う事です。「わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。」と神様はおっしゃいました。二つ目の理由は、神様はアブラムと違い、良き裁判官として、全てを聞き入れ、全てを見ておられると言うことです。主の使いが、息子の名前を「イシュマエルと名づけなさい」とハガルに命じたことによって、神様がハガルの全ての過程を見ておられ、彼女の苦しみを聞き入れて下さり、ハガルに対して適切な正義を行うことを約束して下さったのです。。そして、この箇所の表現は出エジプト3:7のように、神様がエジプトの圧制によるイスラエル人の嘆きを聞き入れ、十の災いによって救って下さったように、ハガルをも守るということを示唆しています。しかし、三つ目の理由が最も重要なことかもしれません。イシュマエルと彼の子孫は、「野生のろば」のように、アブラム家やイスラエル人も含めすべての人と争う傾向があると預言されました。つまり、イシュマエルは闘争心の強い母親に似ているということが言えるかもしれません。しかし、神様の選ばれた家系であるアブラム家を祝福せず、呪い、争い続けることは、神様の恵みを頂くことができなくなるということであると主の使いがハガルに注意を与えたのではないかと私は思います(創世記12:3参照)。つまり、主の使いは、ハガルが神様の恵みをいただけるように、彼女に悔い改めのチャンスをもう一度与えたのです。
その招きを聞いたハガルは、どう答えたでしょうか?
“彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。” (創世記16:13)
厳しい試練の中にありながらも、ハガルは主の使いの御姿に圧倒されました。具体的に何に圧倒されたのでしょうか。「エル・ロイ」には二つの意味が含まれています。一つは、「私を見てくださる神」という意味です。つまり、神様がアブラム、サライ、ハガルの苦しみ、葛藤、辛い思いをすべて見守ってくださり、気にかけておられると言うことです。しかし、もう一つは、「私が見る神」という意味です。つまり、抽象的で見えない神様ではなく、私の目に見えるほど近い、生きておられる神様だという意味です。そして、その神様の「うしろ姿」をみて、「私がまだここにいるとは」の意味は、ハガルは全知全能の生ける神様の御姿を見てしまって、恐れおののいているということです。要するに、ハガルは神様の御栄光に圧倒され、自分の言い訳を全部忘れて、ただ御声に従ったということです。神様の御栄光を見て、自分が受けた傷、アブラム家の罪、厳しい試練などのすべてがどうでもよくなって、「わたしはなぜか神様に裁かれなかった!」とハガルは結論付けたのです。そして、ハガルはアブラムとサライの下に戻り、神様の選ばれた家族の一員として、神様の恵みを待ち望みました。そして、ハガルはアブラムに男の子を産み、神様の御言葉通りに、男の子をイシュマエルと名づけたのです。(創世記16:15)
はっきりした結論もなくこのように16章は終わるのですが、私たちはどのようにこの箇所を適用すればいいでしょうか。様々な適用がありますが、三つに絞って話したいと思います。
「神様の恵みを受ける人は、良い動機をもってとんでもない罪を犯す人たちです。」
この短い箇所から、アブラム家が犯した罪のリストを作ると、とんでもないリストになります。神様に対する苦みや不満。不信仰。神様への冒涜。子供や権力を欲しがる貪欲さ。頑なな神様の命令への無視。姦淫。二重結婚。責任転嫁。責任放棄。臆病。不従順。恩知らずな傲慢さ。憤りと復讐。精神的、物理的な虐待。不義の黙認。神様の約束への拒否。この聖書箇所は、罪の嵐です。とてつもないカオスです。アブラム家がアダムとエバのように堕落した悲劇の箇所です。
そして、この箇所の、一つ一つの罪の「動機」を見てみると、一人一人は良い事と思いながら罪を犯しています。神様の恵みを見たいから、夫を喜ばせたいから、姦淫と二重結婚を許してしまいます。厳しい試練から逃げて幸せになりたいから、神様のみことばを無視してしまいます。自分が相手よりも成果を出しているのは客観的に見ても事実だから、相手を見下します。自分が起こした問題でもないのに、変に攻められているから、責任放棄をします。自分は被害者だから、その相手を虐待します。アブラム、サライ、ハガルは、自分たちのとんでもない罪を正当化しようとしました。それなのに、神様はこのような人たちに恵みを与えられたのです。わたしたちのような人間に恵みが与えられているのです。、誰が「最も良い動機を持っていたか」、誰が「最も被害を受けていたか」、誰が「最も神様と人を愛していなかったか」この箇所は、そのような事をあら探しするための箇所ではなく、このような人たちにも、神様の恵みが与えられるということを、驚きをもって知る事が出来る箇所なのです。
「イエス様は私たちを見ておられ、私たちはイエス様を見ることができる。」
アブラム、サライ、ハガルは、様々な言い訳をして罪を犯します。「神様はわたしたちの何十年間もの苦しみと孤独をご存知ない。神様の恵と約束された子供を祈り求め続けるという嘆きを全く聞いておられない。」とアブラムとサライは、自己弁護したかもしれません。「神様はわたしがどのようにサライに苦しめられたか何にも見ていない。私が助けを求めた時、神様は聞いてくれなかった。」とハガルは訴えたかもしれません。私たちも同じように自分たちの試練と苦しみを言い訳にして、自分たちの罪を自己弁護をしようとするかもしれません。しかし、この聖書箇所の結論は、ハガルの結論なのです。「彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。」つまり、神様がどういうお方なのかが明らかになったとき、ハガルの不平は止み、神様を褒めたたえたのです。
実は、私たちも同じ立場にいるのです。ハガルの前に現れた「主の使い」は、ただの天使とは違い、神様ご自身の御名と御性質を持っておられる存在でした。御父とは異なる存在ですが、御父と同様の権威、聖さ、御力を持っておられることが旧約聖書からわかります(出エジ3:2-5, 23:21;ヨシュア5:15参照)。そして、この「主の使い」は、実は神様の御子、イエス様のことを指しているのです(マラ3:1参照)。そのイエス様が私たちにおっしゃいます。「わたしは、サライ、アブラム、ハガルを見てきたように、あなたが受けた全ての傷を見ている。また、あなたの嘆きを全て聞いている。しかし同様に、わたしはあなたが他の人に与えた傷、あなたの被害者の嘆き声も全て聞いている。だが、わたしはあなたを裁くのではなく、あなたが受けた傷とあなたが受けるべき罰を十字架で全てを背負い、あなたが求める救いを十字架ですべて果たす。だから、私の十字架をみなさい。」これを聞いた私たちはどう答えるでしょうか?「私の罪と傷をすべて見てくださる方の 十字架にかけられる姿を見て、なおも私がここにいるとは」とハガルのように答えるのではないでしょうか。イエス様の十字架の栄光を見て、自分が受けた傷、自分が犯した罪、自分が経験した厳しい試練がすべて小さくなっていくように感じられ、井戸でイエス様と出会ったサマリア人のように「あの方は、私がしたことをすべて私に話された!ああなんと驚くべき恵でしょう!」と褒めたたえるのが、イエス様と出会った人の応答だと思います。
「自由になったのは、自分の行いを手放し、主の恵みのみを受け入れた人。」
創世記16章をみると、アブラム、サライ、ハガルは自分たちの厳しい試練や深い傷、根深い罪などに囚われていました。そして、何とか自分の力や人間の知恵を使って抜け出そうとしました。しかし、皮肉なことに自由になる道とは、自分で何かをすることよりも、神様の約束をただ待ち望むことだけだったのです(ガラテヤ4:22-23参照)。創世記16章の結論を読むと、アブラム、サライ、ハガルが同様に祝福されたように捉えることができますが、実は、創世記を読み進めると、ハガルはサライが産む、神様が与えてくださった「約束の子」を通して、神様の恵みを頂けるとは信じませんでした。むしろ、人間の手段で生んだ自分の子によって祝福されたかったのです。つまり、主の使いからの招きを直接受けたのにもかからわず、自分の力と手段で自分を救おうとする「くびき」を選び、厳しい試練、深い傷、根深い罪に囚われ続けました。
しかし、祝福される人、その「くびき」から解放される人とは、自分の力で恵みを勝ち取った人ではなく、自分の力に頼らず主の恵のみにより頼む人です。アブラムとサライはそうでしたし、神様がそのくびきを取ってくださいました。そして、16章の出来事の16年後、創世記21章にはこう書いてあります。“アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。 サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。」”(創世記21:4-6)与えられた厳しい試練、深い傷、そして根深い罪の傾向から私達は解放されたいでしょうか?進むべき道は全く同じです。アブラムとサライの究極の子孫、神様が約束してくださる「笑いを与えてくださる子」イエス様のみを受け入れ、より頼み、待ち望むなら、神様は私たちの苦しみを笑いに変えてくださり、私たちを縛る試練から解放してくださいます。そのように待ち望むことができるよう、お祈りしましょう。