礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コロサイ人への手紙 Colossians 3:15~17 |
さ ん び | Opening Praise | 「ワンボイス One Voice」 |
さ ん び | Praise | 「主はぶどうの木」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌 1番「聖なる 聖なる 聖なるかな」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書 John 15:1~8 |
聖書の話 | Sermon | 「わたしはまことのぶどうの木です」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌353番 「あなたこそ我が望み」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
説教「わたしはまことのぶどうの木です」
数ヶ月前、私はイエス様の「わたしは〜です」シリーズで、私たちが死ぬ日の準備を常にする必要があると言った記憶があります。まさか、それをつくづく痛感させられるときが8・9月に来るとは思っていませんでした。私たちは確かに、死にいつ直面するか分かりませんから、今日は生き方について話したいと思います。私たちの生き方が私たちの死に方への備えであると言えます。今回、イエス様の「わたしは〜です」シリーズの最後になりますが、実り豊かな生き方について一緒に考えることを通して、生きても死に直面しても、私たちが望みを持てますようにと願っています。
早速、今日メッセージの構造ですが、まず今日の8節を読んでみれば、イエス様は1~4節そして5~8節に同じ、3点の大きな現実を繰り返されています。その三つのポイントを確認しましょう。続けて、良い実りのある、人生の秘訣、つまり「とどまる」ことの意味とは何かを聞きましょう。そして、最後に、私たちの日々の生活でこの箇所から、生きるための2点を分かち合いたいと思います。
まず、三つのポイントですが、一つ目はイエス・キリストが豊かな実りの源であること。これは1節と5節にはっきりと書かれています。例えば、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」(1節)1節に「まことの」が付いていますが、これは、ヨハネ書の他の箇所(ヨハネ1:17、6:32など)と比較すると、ただ「真実な」「正解」だけではなく「天からの」や「究極の」という意味合いがあります。旧約聖書は何度か、イスラエルの民をぶどうの木あるいはぶどう園に喩えました(例えば、詩篇80:9~16、イザヤ5:1~7、ホセア10:1~2)。いつも、イスラエルは神様に不誠実に歩み、他の国や偶像を頼りにして、まずいぶどうを実らせてぶどうの木として失格の姿ばかりです。その不誠実のために焼かれて、無用なぶどうの木としても描写されました(エゼキエル15:1~8)。それらとは全く違って、イエス様こそが神様のみこころを行い、天からの、究極のぶどうの木、だという意味で「まことのぶどうの木」です。イエス様が究極のイスラエル、イスラエルの成就だとも言えます。
イエス様はご自身の立場を語っているだけではありません。人々に豊かな「実り」をもたらそうとしておられます(ヨハネ10:10参照)。イエス様はどんな「実り」を想定しておられるでしょうか。ヨハネ15章に次のような側面があります。
・7節では、祈りが神様によって聞かれて、願いが叶えられること。
・8節では、神様が誉めたたえられることは最終の目的としての実りです。
・9・10節では、イエス様の教えに従うこと。
・11節では、喜びで満たされることは人間の目的としての実りです。
・12節では、クリスチャン同士が愛し合うこと。
要するに、クリスチャンが神様と持つ、生きた関係の様々な結果をイエス様が「実り」と呼ばれます。クリスチャンが成長して神の素晴らしさをあらわす中で「実り」ます。
二つ目のポイントは、人間は自ら、本物の実りを決して作り出せないということです。4節後半、そして5節の最後がこれをはっきりと教えます。「枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(4節)そして「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(5節)
ぶどうの木の枝が地面に落ちたら、栄養分を地面から取れません。もちろん、ぶどうの房を作れません。同じように、イエス様の話を直接聞かれた使徒たちでさえも、イエス様を離れていたら何もできないのです!なかなか受け入れ難い現実です。人間は何かの行いによって誇り、それに自分の価値を見出そうとしがちです。良い友だち、真面目な学生、良妻賢母、イクメン、すばらしい会社員や教会員などと言われたら、自分がよくやったと思いたいです。もちろん、努力の成果でもありますが、何より、イエス様が指す実りと言うのは、人間の力でできることではありません。神様のあわれみと働きかけのみによってできます。従って、私たちは何も誇ることができません。
また、私たちの無力さから導き出される結論ですが、警告の2節、また6節で繰り返して言われているように、イエス様を信じると言っても神様が求めることをしないで、実質的にイエス様と繋がっていない人がいる場合があります。まるでぶどうの木に付いていたが、ぶどうの成らない枝を農夫が「取り除き」ますように、神様が、イエス様と繋がっていたように見えたがそうでなかった人を取り除くという「裁き」をなさいます。6節でそれらが「投げ捨てられて枯れ…燃えてしまいます」と言われます。
この警告に私たちは戸惑うかもしれません。イエス様は、信者を見捨てることがあるのかと疑問に思うかもしれません。それは違います。ヨハネの福音書6章44節や10章28節でイエス様が説明されたのは、心からご自分を信じる者は神様の一方的な恵みを受けていて、「決して滅び」ないのです。しかし、15章2・6節は、裏切り者のイスカリオテのユダのように、イエス様の恵みを口先で受け入れるが、本当にイエスに信頼をして従わない人も存在し、裁きを受けることを意味します。
もう一方で、三つ目のポイントですが、イエス様にとどまって、生きると、神様が求める実りが結実する道があります。繰り返しますが、神様に祈りを聞き入れられ(7節)、神様の栄光があらわされ(8節)、正しく歩み(9〜10節)、人を愛し(12節)、喜びに満たされること(11節)が示唆されている「実り」に含まれます。そしてイエス様が特にこの実り豊かな道の生き方を教えてくださいます。イエス様にとどまって、実る「枝」という人は15章2節後半~4節前半・5節真ん中・7~8節に出てきます。それぞれを見ていきましょう。
神様は私たちに益々、先ほどのような実りを与えようと考え、愛をもって「刈り込みをなさいます。」(2節)痛く聞こえるかもしれませんが、良い剪定で行われるように、植物がより健康に生えて、さらにもっと豊かな実が成るために神様がなさいます。原文では「刈り込み」は「きよめ」です。だから、3節でイエス様が「あなたがたは、…すでにきよい」と言われるのは、イエスの弟子たちは綺麗にされていて、実るようにされているということです。
5節はこう教えます。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」その実りが多くなるのは、イエス様に人がとどまり、イエス様が神様の御霊を通して信者にとどまることによってです。とどまることの意味を後でもっと深くお話しします(7~8節)。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
イエス様が描いてくださる実りある生活では、私たちは神様に自由に祈るように招かれています。こういった生活の中で、すでに触れたように、私たちは結果として、イエス様「の弟子となる」のです。「なる」の意味合いは恐らく、まだ弟子になっていない人が後でなるということではなく、弟子としての立場がもっとはっきりと現れるようになる、という意味合いでしょう。これによって、神様「が栄光をお受けになります。」つまり、神様によって変えられた人を他の人が見て、変化の原因はイエス様だと分かれば、その人の喜びや愛し方を見ることによって「確かに聖書の神様は力強いね」と認めるでしょう(マタイ5:16参照)
さて、イエス様に「とどまる」ことはそもそも、どのようにしてできるでしょうか。私は昔から、「『とどまる』って具体的に何だろう」と思っていました。クリスチャンは何もしなくても、自然ととどまっているのでしょうか。何か、特別なことをして、とどまるのでしょうか。例えば、イエス様はある祈り方や感情的な経験などで「とどまっている」ということになるのでしょうか。
今日の箇所で繰り返し出ていることが鍵だ、と思うようになりました。イエス様にとどまる方法とは、訓練や感動的な体験ではなく、イエス様のことばにあります。具体的に、イエス・キリストについてどこでも暗示また示唆また大宣言する聖書のことばによって、私たちはキリストにとどまります。イエスはヨハネ5章39節ですでに言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」さらに、今日の箇所の文脈の3箇所のヒントを見ましょう。
・3節「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよい」と、イエス様のみことばが人を、実を結ぶ、イエス様に結合された「枝」の弟子に変えます。
・7節に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」とありますが、5節でクリスチャンとイエス様が相互的にとどまり合うという表現は、イエス様のことばがとどまる、とも表現できる訳です。イエス様のことばが私たちに入ると、私たちは神様が喜んでかなえてくださることを祈り求めるようになっていきます(詩篇37:4参照)。
・さらに、9節の「わたしの愛にとどまりなさい」は7節と似た形で、「イエスの愛」にとどまることが「イエス」にとどまることと入れ替わっています。ただし、続く10節の補足によれば、キリストの愛にとどまることはイエスの「戒め」を守ることで要約されます。従って、イエス・キリストのことばである「戒め」を守ることこそがイエス様の愛にとどまり、イエスにとどまることだ、と言えます12節参照)。
イエス様にとどまることは何もしないことでもなく、方法でもなく体験でもありません。生きているキリストを私たちに伝える、キリストのみことばです。救い主イエス様のことばにただ浸って、それによって造り変えていただくことです。今日の招きのことば、コロサイ人への手紙3章16~17節を読みます。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
キリストのことばが豊かに住い、とどまることによって、感謝と喜びをもって「主イエスの名において」生きることができます。今日の箇所と同じ実りを見ることができます。神様の助けと喜びを経験したいのなら、私たちは聖書のことばと教えに満ちた賛美を歌い、聖書のみことばを伝え合い、思い返すことが大事です。聖書はどこにも、「聖書を毎日読みなさい」とは言っていません。しかし、キリストのことばを豊かに持ちたいのなら、何らかの方法でたくさん摂取することを勧めます。申命記8章3節の通り、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」のです。
ですから、今日の箇所をまとめると、イエス・キリストは父の働きによって、ご自分の弟子たちを通して実りをもたらしてくださいます。具体的に、イエス様はクリスチャンを聖書のみことばできよめて、みことばで満たして、みことばに基づく愛によって実りをもたらしてくださいます。
では、イエス様の教えをどう受け止めて、生きましょうか。一つ目には、イエス様が求める応答があります。イエス様に関することばを慕って、その味を楽しんでいられれば、私たちの祈り方、愛し方、喜び方は益々深くなるでしょう。けれども、もう一方で、思うかもしれません。「でも、ジョザイアさん、忙しくて聖書は読めていない。」「他のことが楽しすぎて、聖書を聞こうとするのが面倒くさい。」「説教が分かり難い。」私もその気持ちが解ります。時間や体力の問題で読んだり聞いたりするのが難しいことがあると認めます。
また、真剣に実りを見たいクリスチャンでも、自分の歩みが立派な「巨峰」ばかりではないと痛感するでしょう。渋い野生ぶどうばかりのように感じるかもしれません。そして、「このまま人生が終わったら、捨てられる枝とされるのかな」という心配もあるかもしれません。
ですから、はっきりと言います。イエス様の弟子として歩む者は聖書のみことばによって、イエス様のことばにとどまる必要があります。が、同時に、その教えを守れない私たちのために福音もあります。もしあなたが心からイエス様に来たのであれば、あなたはすでに、みことばによって綺麗なものとされています。確信して歩むことができます。なぜなら、ぶどうの木なるイエス様がおられます。イエス様はどのように私たちに愛の戒めを示し、成就されたのでしょうか。ヨハネ15章12~14節まで読みましょう。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」
イエス様はまことのぶどうの木なのに、神様に逆らってきた「枝」を「友」と呼び、彼らのために命を十字架上で捨ててくださいました。「ぶどうの木」は磔の木につけられ、身代わりとして、信じてより頼む人の罪のために神様の裁きを受けました。焼かれて捨てられた枝かのように死なれましたが、不滅のいのちをもって復活されました。究極のぶどうの木が、究極の実りをもたらしてくださり、信じる者に分かち合ってくださいます。これが福音という良い知らせの中心です。
イエス様の樹液を受け入れる枝がたとえ僅かにだけみことばを摂取していても、イエスのみことばによって生かされます。私たちが「イエス様がわたしのぶどうの木です。私はその枝です」と心から告白できるなら、そのみことばが私たちを生かしています。私たちがみことばに浸っていなければ確かに感じる実りも少ないでしょう。しかし、その実りは本当の実りです。
この箇所から二つのことを実践したいと思います。一つ目は、みことばをたくさん心にとどめて、イエスの素晴らしさを堪能して、祈り、愛し、喜ぶことです。しかし、二つ目としては、同時に、さらに大切なのは、福音に基づく信仰です。聖書から一文しか思い出せなくても、そこで示されているぶどうの木なるイエス様に信頼して、繋がり続けて、実ることができます。みっともない信仰生活と僅かな実りしかない日々を通っても、父なる神様がイエス様の完全な実りによって、信じる者を受け入れてくださいます。神様は私たちがイエス様に頼って生きるように導いてくださいます。毎日、そして私たちの最期まで、私たちの内にとどまってくださるイエス様に期待し、ぶどうの木なるイエス様にとどまりましょう。